見つけだすことができたんだ。
何をだい?永遠さ。
それは、太陽と
いっしょになった海なんだ。 ランボー
詩は、人を、エロティシズムのそれぞれの形態と同じ地点へ、つまり個々明瞭に分離している事物の区別がなくなる所へ、事物たちが融合する所へ、導く。詩は私たちを永遠へ導く。死へ導く。死を介して連続性へ導く。詩は永遠なのだ。それは太陽といっしょになった海なのである。
16才で書き上げた「花ざかりの森」で、三島は先祖の物語を語る。
最終章は昔憧れていた海が見える庭を前にして、「まろうどはふとふりむいて、風にゆれさわぐ樫の高みが、さーと退いてゆく際いに、眩ゆくのぞかれるまっ白な空をながめた。なぜともしれぬいらだたしい不安に胸がせまって、「死」に隣り合わせのようにまろうどは感じたかもしれない。生がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐ととなりあわせに。・・・・・・」
三島由紀夫の最後の作品豊饒の海の最終章もまた、寂寞を極めた何もない虚無の庭で物語を終わらせる。
「花ざかりの森」の、両親と祖先の生命が、川のように流れ、命とその生まれ変わりの連続性の幻影を見る物語で、祖母が現れその中に、姿を借りた母親自身を見る。豊穣の海でも生まれ変わり、姿を変え流転する主人公の中に、姿を変えた自分自身の幻影、分身を見る。
さらに「花ざかりの森」その三で、平安時代の、殿上人と別れた祖先の女性が男とともに彼の生まれ故郷に逃れ、そこで初めて憧れの海を知る。そして「殺される一歩手前、殺されると意識しながらおちいるあのふしぎな恍惚、ああした恍惚のなかに女はいた」と死への誘惑とも言える気持ちを描いた。初期の短編「花ざかりの森」に描かれた死への憧れや美意識、海への憧れや恐れ。それらに対する感覚の旋律は表現や構成の稚さにかかわらず最後の「豊穣の海」まで続いていた。
17歳の時の軽玉子と衣通姫(かるのみこととそとおりひめ)は愛と陶酔の極致で経験される死への願望を描いた作品であった。18歳の時、当時足利義尚の気持ちで、日々を過ごしたと語っていた三島由紀夫は、研ぎ澄まされた感覚から生れる感情を、こころの揺らぎを、室町時代を舞台に、「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」を書き上げた。
「室町幕府廿五代の将軍足利義鳥を殺害。百合や牡丹をゑがいた裲襠を着た女たちを大ぜい並べた上に将軍は豪然と横になって朱塗りの煙管で阿片をふかしてゐる。彼は睡さうに南蛮渡来の五色の玻璃でできた大鈴を鳴らす。・・・・ 殺人者は知るのである。殺されることによつてしか殺人者は完成されぬ、と。そしてこの将軍は決して殺人者の余裔ではない。」
1949年(昭和24年)、24才の時仮面の告白を刊行。戦後、抑圧から解放され表現の自由を得ると、フランス小説の心理学的、分析的手法を使い、世間をしのぶ同性愛者の心理を描き、戦前の価値観を破壊し、世間的議論を巻き起こした。「わたしは完全な告白の虚構、フィクションを創ろうと考えた。しかし、あの小説では感覚的真実と一知半解とが、いたるところで結びついてる。」と語った作者に対して、当時の日本の文学世界では虚構ではなく、私小説的真実の告白と受け取られた。そして、賛同者には新たな文学の登場として絶賛された。しかしその表現や感覚は、常識的感覚と感情を持った人にとっては不可思議なものだった。
その後も青の時代、鏡子の家、金閣寺、宴のあとなどの同時代の事件を題材にした小説を発表した。小説や演劇作品の中で、自らの生い立ちの心理を分析し、芸術家と航海者である行動家との対比で憧れやその心理を描いた小説で古典的美の世界を完成しつつあった。 そして、多くの小説は翻訳され、海外でも評価される。
様々な時代を舞台にした古典主義芸術作品を演劇や舞台で発表し、映画にも出演し流行の芸術家となっていく。自らの心の奥から湧き上がる感覚や感情を物語に託して、言葉の織りなす虚構で、表現しようと努力した。しかし、内的なリアリティとは結びつかない、自らの内的体験が十分表現出来ない、そのもどかしさから剣道やボディービルや肉体的鍛錬にのめり込む。
1960年(昭和35年)35才の時バタイユと遭遇する。その中に今まで求めていた世界、決して表現できなかった同じの感覚を持った人、同類の人のみが知る美、エロチシズム、死というものを明快に分析し論理化した書物を知った。
バタイユは、人間のもつ暴力的欲望とその禁止を人間性の根元までたどって、哲学的考察を加えた。宗教的に禁止され、呪われた部分となった死や、暴力、性と芸術および神聖さの解明をした。
「エロティシズムとは死におけるまでの生への称揚である。」の序文ではじまるバタイユの論文は、「エロチシズムの体験とは、力(フォルス)の湧出に身をまかせ、人間内部の力が人間の一体性を破って死の危機、死の一歩手前のところまで来て、自己の個体の破れを部分的ながら生きる。聖なる者は人の感覚の中でしか存在しない、恐怖と喜悦の感情をともなった情動的な意識である。」
「エロティシズムから聖性への移行には多くの意味があります。それは呪われた者、排除されたものから、幸いな者、祝福されたものへの移行です。」と語る。
三島由紀夫はバタイユの作品に感動し、魅了され1960年(昭和35年)4月に書評を書いている。
「つまり絶対者の秩序の中にしかエロチシズムは見い出されない、という思想なんです。ヨーロッパなら、カトリシズムの世界にしかエロチシズムは存在しないんです。そこには厳格な戒律があって、そのオキテを破れば罪になる。罪を犯した者は、いやでも神に直面せざるを得ない。エロチシズムというのは、そういう過程をたどって裏側から神に達することなんです。」
同じ年1960年(昭和35年)の12月、35才の時至上の肉体的悦楽と至上の肉体的苦痛が、同一の原理の下に統括され、それによって自刃は、そのまま戦場における名誉の戦死に等しい至誠つながる軍人行為となる物語、「憂国」を中央公論に発表した。「物語自体は単なる二 二六事件外伝であるが、ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると云ってよい。」と著者は小説の意図を語っている。
その後急速に政治化し、天皇を神格化し、自らの世界を体現したプライベートアーミーをつくり、1972年(昭和47年)11月25日に自刃した。
現実と虚構の距離感。心の奥からわき起こる感情と感覚の一般の常識的な人との微妙なずれ。合理的判断では、宗教も武士道も陽明学も社会情勢も理解できた上で、情念の過剰が理性でコントロールできなくなり、現実が実体(リアリティー)でなく虚構(フィクション)が実体となる感覚は、万人に理解されるものではなかった。
