2020/12/31

デジタル化するグレート・ゲーム 

  ペリー艦隊は日本に来航し、お土産として電信機を持参。この電信機でモールス信号を使って情報を送った。徳川時代このバテレンの妖術に驚いた日本では、明治時代に必死に全国に電線を敷いて有線電話を日本中に広げた、そして電信設備を充実した。そして、世界の列強に追いつき、一等国をめざした。



 当時グレート ゲームと呼ばれる中央アジアの覇権の争いが起こっていた。ユーラシア大陸から南下するロシアに対するインドを支配するイギリスの情報による戦いで、イギリスはアフガニスタンでロシアと衝突した。極東では清国の弱体化に乗じて、満州での覇権を握り、日英同盟を結んだ日本が1904年ロシアと戦う日露戦争が起こった。

  日本は、ウラジオストックを目指したロシアのバルチック艦隊がどこを通るかを必死に探索。そのとき信濃丸がこれを発見し、「敵艦隊ミユ」と直ちに連合艦隊の旗艦三笠に打電した。「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の暗号文は海底ケーブルと無線を使った。日本は、情報戦を駆使し、ロシアバルチック艦隊を撃破した。




 第二次大戦当時は、暗号化された外交電報が用いられていた。日米の開戦の時、日本の外務省の本省から、ワシントンの日本大使館打たれた暗号電報は、真珠湾攻撃30分前に米国国務省に通告する予定が、攻撃開始1時間後になった。その後も、日本の海軍はアメリカの情報局に暗号が解明され、連合艦隊司令長官の山本五十六の乗った偵察機がブーゲンビリア島の上空で撃墜された。情報通信は無線と有線が時代とともに進歩して国の命運を決める技術になった。


 戦後は1950年代電話にも使える、海底ケーブルが実用化され、1963年11月23日アメリカから初めてのテレビ中継が実現し、その最初の放送がジョン F ケネディー暗殺のニュースだった。その衛星通信が登場し国際情報の伝達の主役になった。1980年代の末になると光海底ケーブルが実用化された。 この光ケーブルが改良され、大量の情報が、時間のズレなく送れるようになった。そして通信衛星に代わって情報伝達の主役になった。


 たったひとつのコンピューターネットワークの出現によって長い歴史を持つ複数の産業がわずか1世代のうちに永遠に姿を消したこれほどの規模の大変革がこれほどのスピードで産業に起きた例は滅多にない。


 1988年アメリカで商業用のインターネットが始まると、瞬く間に世界中に広がり、新たな時代が始まった。2010年ネットワーク端末が世界人口125億を超えて普及し、今年には500億台を超える。これは人と人の間だけでなく、機械と機械の間の通信が増大する。さらにこの頃から、新興国でのインターネットと携帯電話の普及は急速で、先進諸国が電信電話網を作り上げた100年を飛び越えて、2030年には人類のほぼ全部がこれを手に入れることになる。


 このデジタル化の進歩は始め、楽観的により豊かで、透明性の高い社会が訪れると信じられていた。現実に、音楽も、アニメや映画そして漫画もiPhoneなどの端末で、無限のお気に入りの作品を楽しむことができるようになった。


 しかし、世界にこの情報革命が行き渡ると、権威主義国家により急速なデジタル化が進み、エンターテイメントは自由に楽しめても、インターネットによる言論の自由は高まり、透明度の高い社会ができることはなかった。インターネットと自由とは関係ないことがやがて明らかになってきた。逆に、中国などでは人々は国家に情報を提供し、国家が自由を管理することによって、利便性と安全性が高まり、治安は高まり、経済は成長する、幸福な監視社会を実現しつつある。


 今回の新型コロナ感染に対する対応も、感染者の発見隔離、医療情報の一元化、あるいは給付金の確実で迅速な配布などで、個人の自由重視の体制では不可能な、より効率的な社会を作り出してより効果的に感染を制御している。


 通信は情報を伝達するとともに、その傍受による情報入手が国家的規模で行われている。最初から伝達と傍受は伴って進歩した。第二次世界大戦後直ぐに通信情報網が、アメリカ主導でつくられた。それにイギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドが加わり秘密情報を共有するファイブ アイズが出来上がる。通信情報網を整備したものが情報を管理し、通信を傍受できるからで、これに日本も加わるべきか問題になっている。。一方、中国も一帯一路構想で、衛星による情報の共有、光ファイバーを共同で作り、国際通信のレベルを向上させ、情報のシルクロード、情報ハイウエーを作る構想を進めユーラシアの国々を自らの情報管理化に取り込もうとしている。さらにこの光海底ケーブルは太平洋の諸島国家にも広げられ、アメリカなどと対立している。



 

  インターネットは便利であるが、もうひとつの弱点がある。サイバー攻撃を受け、通信機能の麻痺や、情報が取られるが、その攻撃した相手がなかなか特定できないことにある。今年12月にアメリカの政府機関や企業を狙った大規模サイバー攻撃が、ロシアによって行われたことが発表された。明らかにされないサイバー空間における戦いは、情報技術の進歩とともにあらゆるルートで展開され、民主主義国の選挙にも大きな影響を与えるようになっている。


 この30年世界はデジタル化の奔流の中にいて、誰もそこから逃れることができない時代になった。この技術は生活を豊かにし、情報に誰もが接することができ社会が透明性を高める一方、

個人の秘密、生活が漏れ出し、管理される危険と裏腹で、先進国と新興国の差をなくし、人々の生活、社会を変え、国家のあり方を変え、経済だけでなく政治の構造までもかえるようなグレート ゲームになってきた。


2020/11/13

死への誘惑 その3 三島由紀夫とバタイユ

 見つけだすことができたんだ。

何をだい?永遠さ。

それは、太陽と


いっしょになった海なんだ。                   ランボー


 詩は、人を、エロティシズムのそれぞれの形態と同じ地点へ、つまり個々明瞭に分離している事物の区別がなくなる所へ、事物たちが融合する所へ、導く。詩は私たちを永遠へ導く。死へ導く。死を介して連続性へ導く。詩は永遠なのだ。それは太陽といっしょになった海なのである。


 16才で書き上げた「花ざかりの森」で、三島は先祖の物語を語る。

最終章は昔憧れていた海が見える庭を前にして、「まろうどはふとふりむいて、風にゆれさわぐ樫の高みが、さーと退いてゆく際いに、眩ゆくのぞかれるまっ白な空をながめた。なぜともしれぬいらだたしい不安に胸がせまって、「死」に隣り合わせのようにまろうどは感じたかもしれない。生がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐ととなりあわせに。・・・・・・」

 三島由紀夫の最後の作品豊饒の海の最終章もまた、寂寞を極めた何もない虚無の庭で物語を終わらせる。

「花ざかりの森」の、両親と祖先の生命が、川のように流れ、命とその生まれ変わりの連続性の幻影を見る物語で、祖母が現れその中に、姿を借りた母親自身を見る。豊穣の海でも生まれ変わり、姿を変え流転する主人公の中に、姿を変えた自分自身の幻影、分身を見る。

 さらに「花ざかりの森」その三で、平安時代の、殿上人と別れた祖先の女性が男とともに彼の生まれ故郷に逃れ、そこで初めて憧れの海を知る。そして「殺される一歩手前、殺されると意識しながらおちいるあのふしぎな恍惚、ああした恍惚のなかに女はいた」と死への誘惑とも言える気持ちを描いた。初期の短編「花ざかりの森」に描かれた死への憧れや美意識、海への憧れや恐れ。それらに対する感覚の旋律は表現や構成の稚さにかかわらず最後の「豊穣の海」まで続いていた。


 

 17歳の時の軽玉子と衣通姫(かるのみこととそとおりひめ)は愛と陶酔の極致で経験される死への願望を描いた作品であった。18歳の時、当時足利義尚の気持ちで、日々を過ごしたと語っていた三島由紀夫は、研ぎ澄まされた感覚から生れる感情を、こころの揺らぎを、室町時代を舞台に、「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」を書き上げた。

「室町幕府廿五代の将軍足利義鳥を殺害。百合や牡丹をゑがいた裲襠を着た女たちを大ぜい並べた上に将軍は豪然と横になって朱塗りの煙管で阿片をふかしてゐる。彼は睡さうに南蛮渡来の五色の玻璃でできた大鈴を鳴らす。・・・・ 殺人者は知るのである。殺されることによつてしか殺人者は完成されぬ、と。そしてこの将軍は決して殺人者の余裔ではない。」



 1949年(昭和24年)、24才の時仮面の告白を刊行。戦後、抑圧から解放され表現の自由を得ると、フランス小説の心理学的、分析的手法を使い、世間をしのぶ同性愛者の心理を描き、戦前の価値観を破壊し、世間的議論を巻き起こした。「わたしは完全な告白の虚構、フィクションを創ろうと考えた。しかし、あの小説では感覚的真実と一知半解とが、いたるところで結びついてる。」と語った作者に対して、当時の日本の文学世界では虚構ではなく、私小説的真実の告白と受け取られた。そして、賛同者には新たな文学の登場として絶賛された。しかしその表現や感覚は、常識的感覚と感情を持った人にとっては不可思議なものだった。

 その後も青の時代、鏡子の家、金閣寺、宴のあとなどの同時代の事件を題材にした小説を発表した。小説や演劇作品の中で、自らの生い立ちの心理を分析し、芸術家と航海者である行動家との対比で憧れやその心理を描いた小説で古典的美の世界を完成しつつあった。 そして、多くの小説は翻訳され、海外でも評価される。 

 様々な時代を舞台にした古典主義芸術作品を演劇や舞台で発表し、映画にも出演し流行の芸術家となっていく。自らの心の奥から湧き上がる感覚や感情を物語に託して、言葉の織りなす虚構で、表現しようと努力した。しかし、内的なリアリティとは結びつかない、自らの内的体験が十分表現出来ない、そのもどかしさから剣道やボディービルや肉体的鍛錬にのめり込む。


 1960年(昭和35年)35才の時バタイユと遭遇する。その中に今まで求めていた世界、決して表現できなかった同じの感覚を持った人、同類の人のみが知る美、エロチシズム、死というものを明快に分析し論理化した書物を知った。 

 バタイユは、人間のもつ暴力的欲望とその禁止を人間性の根元までたどって、哲学的考察を加えた。宗教的に禁止され、呪われた部分となった死や、暴力、性と芸術および神聖さの解明をした。

 「エロティシズムとは死におけるまでの生への称揚である。」の序文ではじまるバタイユの論文は、「エロチシズムの体験とは、力(フォルス)の湧出に身をまかせ、人間内部の力が人間の一体性を破って死の危機、死の一歩手前のところまで来て、自己の個体の破れを部分的ながら生きる。聖なる者は人の感覚の中でしか存在しない、恐怖と喜悦の感情をともなった情動的な意識である。」

 「エロティシズムから聖性への移行には多くの意味があります。それは呪われた者、排除されたものから、幸いな者、祝福されたものへの移行です。」と語る。 


 三島由紀夫はバタイユの作品に感動し、魅了され1960年(昭和35年)4月に書評を書いている。

「つまり絶対者の秩序の中にしかエロチシズムは見い出されない、という思想なんです。ヨーロッパなら、カトリシズムの世界にしかエロチシズムは存在しないんです。そこには厳格な戒律があって、そのオキテを破れば罪になる。罪を犯した者は、いやでも神に直面せざるを得ない。エロチシズムというのは、そういう過程をたどって裏側から神に達することなんです。」


 同じ年1960年(昭和35年)の12月、35才の時至上の肉体的悦楽と至上の肉体的苦痛が、同一の原理の下に統括され、それによって自刃は、そのまま戦場における名誉の戦死に等しい至誠つながる軍人行為となる物語、「憂国」を中央公論に発表した。「物語自体は単なる二 二六事件外伝であるが、ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると云ってよい。」と著者は小説の意図を語っている。

 その後急速に政治化し、天皇を神格化し、自らの世界を体現したプライベートアーミーをつくり、1972年(昭和47年)11月25日に自刃した。



 現実と虚構の距離感。心の奥からわき起こる感情と感覚の一般の常識的な人との微妙なずれ。合理的判断では、宗教も武士道も陽明学も社会情勢も理解できた上で、情念の過剰が理性でコントロールできなくなり、現実が実体(リアリティー)でなく虚構(フィクション)が実体となる感覚は、万人に理解されるものではなかった。

2020/10/01

20世紀ハイドロカーボン エイジ

石油の世紀

コークスのおこり火のうへに、

シンガポールが載っかている。

ひび入った焼石、蹴爪の椰子。ヒンズー キリン族。馬来人。南洋産支那人。それら、

人間のからだの焦げる凄愴な臭火。

合歓木の花と青空。

荷船(トンカン)。

檳榔の血を吐く   赤い眩迷。



                             鮫 金子光晴



 1859年、アメリカペンシルベニアで油田が見つかり、石油は瞬く間に灯油に使われ、車の燃料になり、国の命運を決めるエネルギー源となった。1914年アメリカは全世界の65%の石油を生産していた、ヨーロッパでは、ルーマニアそしてロシアのバクー(現在のアゼルバイジャン)の油田が多くの生産を行なっていた。 チャーチルは海軍大臣に任命されてすぐにイギリス海軍艦隊の燃料を伝統的な石炭から石油に転換した。それは、その後20世紀が石油の世紀になる象徴的な出来事だった。


 この年に勃発した第一次世界大戦は、イギリスとフランスが勝利し、石油の枯渇によってドイツは敗北した。 ドイツ帝国は鉄と石炭でドイツの優越を誇示していたが、われわれが石油で優越していることを充分考慮しなかった。のちになり、第一次大戦の勝利は石油によってもたらされたとフランスの上院議員は語っている。



 大戦後、アメリカの繁栄は車社会をもたらした。国内全土にガソリンスタンドは林立し、そして交通機関は、瞬く間に車に取って代わられた。アメリカの自動車台数は1916年から1918年にかけて倍増し、黄金の20年代がアメリカに訪れ、人々は旅行に出かけ、外食しキャンプを楽しんだ、その新しい車を使った生活様式は、世界に広がっていった。やがて石油を燃料とした船舶や航空機の技術は進歩し、エネルギー源として欠くことのできないものとなり、生活を豊かにしていった。1930年代にテキサスに大油田が発見され、アメリカは世界で突出したエネルギー大国になった。


 世界は経済の繁栄と国力の増加のため、さらに石油を求めることになる。かつてトルコの支配下にあったアラブ諸国は独立に向かった、そしてペルシャとメソポタミア、いわゆる中東の石油採掘が爆発的に進展する。 その地には膨大な石油の埋蔵地域であり、ヨーロッパ各国は中東石油の支配に向かった。ペルシャの石油はイギリスが支配し、アラブの石油は蘭領東インド(インドネシア)の石油を開発したロイヤル ダッチ シェル、イギリスのアングロ ペルシャ 、フランスそしてアメリカが協定を結び中東油田の利権を確保した。

 

 第二次大戦では極東でもヨーロッパでも石油は戦争の行方と結果を決める中心的役割を果たした。ヒットラーのソ連への進行は、コーカサスの油田の確保が目的であった。日中戦争の泥沼化の中、昭和15年アメリカは石油を禁輸した。日本は油田がなく、アメリカの石油禁輸により石油が手に入らなくなり資源確保のため南方に進出を図り、アメリカ、イギリス、オランダと衝突した。

 「爪哇(ジャワ)には、モジョパイト王朝以来の様々な文化の遺跡、旧跡の紹介すべきもの、王宮の輪奐の賞すべきものがたくさんある。馬来には猶、ポルトガルの由緒ふかい港マラッカや、回教寺、極楽寺、みるべきものが皆無ではない。スマトラにいたっては、そういったものが、とりたててなに一つない。ただ森がある。森をひたした大きな湖水がある。人間を知らない原始林に全てがつずいている。それだけである。」

 金子光晴の描いた何もないスマトラ島にも豊富な石油があり、オランダの石油会社(ロイヤル ダッチ シェル)が開発し、後に日本もこのスマトラ中部で新たな油田を掘り当てた。さらにマレーには豊かなゴム林もあった。


 日本は、1941年に宣戦布告しアメリカの太平洋艦隊の南方への派遣を阻止するために真珠湾を攻撃し、南方に戦線を広げた。マレーシアを南下し、シンガポールを陥落させ、当時オランダの支配していたインドネシアに侵攻し油田を占領した。日本が戦艦や航空機を動かすにはインドネシアの石油は必要不可欠で、この石油を日本に運ぶことが日本の生命線であった。そのためシンガポール、マラヤ、インドネシアを支配下に置いて物資の確保を狙った。


 しかしその後、石油を輸送する商船はすぐにアメリカ潜水艦などに遮断され、補給路は断たれた。国内には石油が瞬く間になくなった。戦争前に出された総力戦研究所のシミュレーションしたとおり、石油の枯渇から必ず敗北すると報告されていた戦争を当時の日本は始めてしまった。


 1940年頃アメリカは世界の石油生産の63%を占め、中東はわずか5%に過ぎなかった。1944年油田の開発には懐疑的であったイラン、イラク、サウジ、クウェート、バーレーン、カタールの各地の油田調査がデコテイヤーによって行われ、第2次大戦後、「世界の石油生産の重心がメキシコ湾とカリブ海から中東のペルシャ湾に今後は移動する。」と報告した。そして第2次大戦で疲弊したヨーロッパに、石炭に代わるエネルギー源の石油が中東から輸入されることになり、1951年にはアメリカからの輸入に変わり、中東石油の割合は80%にのぼった。 第二次大戦後 アメリカはアラムコとサウジアラビアのイブン サウドとトルーマンが協定を交わし中東の石油確保に向かった。



 やがて、アメリカも石油の輸出国から、輸入国に転じ、ヨーロッパに続いて、アジアの国々も石油の輸入を始めた。石油を消費する車は世界中で爆発的に増え、航空機も世界中の空を飛びかうことになり、安価で便利な石油製品は世界中にあふれるようになった。20世紀の繁栄は石油によってもたらされた。そして石油をめぐる争奪戦はその後も続き、イランのパーレビ国王の失脚とイランの革命、イラクのクエート侵攻と湾岸戦争、そのイラクのフセイン政権崩壊を引き起こした。

 


 この20世紀の石油文明は、やがて副産物を生むことになる。石油を原料としたプラスチック製品も次々と生み出されて分解されることなく地球上に残り、海洋を汚染し、石油は燃焼され地球温暖化による世界の気候変動をもたらすことになってくる。20世紀の石油の時代(ハイドロ カーボン エイジ)は終わりを向かえつつあり、2019年には石油の消費量はピークを打った。次第に車のエネルギー源は電気に、その電力源も欧州と中国が先導し、アメリカも加わりより安価で高性能な風力や太陽光に急速に取って代わられる時代になった。


2020/09/01

芸術とアート 岡本太郎から村上隆

 岡本太郎と村上隆




 岡本太郎は1911年生まれる。一人で18才から29才にかけて1930年代のパリで暮らし、新しい芸術運動の抽象画からシュールレアリズムの画家として生活を始める。絵画の色をぬったり、形にこだわったりする、その美をつくる芸術とは何か、人間とは何かといったその根源を求めて、ソルボンヌ大学で哲学を学び、やがて民族学に出会う。


 民俗学では、世界中のあらゆる地域から集められてくる人々のつくったもの、そこに見られる想像を超えた人間の生き方の多様性、人間の全体、いのちの根源からふき出した世界に魅了された。古代からの人間の生み出したものの中に、絵とか芸術などという分化された価値観を根底からひっくり返す、現代先進社会の虚飾の虚しさを超えた宇宙的存在感に出会った。


 人類学では人間存在の善と悪、美と醜、生と死のなまな実態を知り、人間を理解する民俗学に強烈に惹きつけられ、人間とそれを生み出す芸術とはなにかをパリ大学で学んだ。その頃14才年上のバタイユと出会い、その思想に共鳴し、彼の主催する秘密結社アセファルに加わる。岡本太郎は後年この若き日を、「情熱の塊のような彼との交わりはパリ時代の最も充実した思い出」と語っている。


 ジョルジュ バタイユは人間の本性を古代文化の中に見出した。アステカの神話では「神々の犠牲で動き出した太陽が大地を照らし、太陽が存在し、機能するために心臓と血を持つ人々を食べる、その太陽が輝き続けるために人間もまた生贄を捧げ続けなければならない」と信じていた。そのためのピラミッドをつくり、その祭壇ではその神話により、戦争で捕らえた捕虜の生贄が火の中に投げ込まれた。


 アステカ文明では富を蓄え、その富は非生産的活動、生贄などの儀式、部族間の戦争、モニュメントの建造などが行われ、その富を使い尽くすことが権力者、国王に求められた。そこでは、人間が生きてゆくために大切なものを滅ぼし、蕩尽し、その瞬間、聖なるものが意識の前に現れると考え、宗教としての儀式が荘厳に行われていた。


  バタイユは人間存在の根源から、経済学を組み立て、呪われた部分として発表した。その中で、浪費あるいは奢侈について、地球の生命は太陽のエネルギーに依存し、植物が生まれ、それを食べる草食動物が生まれ、さらにそれを食べる肉食動物が生まれた。それらの生き物には、自然界の三種の奢侈である食べること、死そして有性生殖が組み込まれている。 そして、動物から人間への過程で、人間は労働を通して動物から区別する、そして労働と死と性の活動に禁止という名の制約を課した。「人間は労働しながら、自分が死ぬだろうということを理解しながら、恥じらいのない性活動から恥じらいを知った性活動へと移行しながら動物性を脱した。」


 禁止とそれを破る活動、呪われた部分は、労働においては、 経済合理性に合わない遊び、蕩尽、祭儀そして死においては供犠、性においてはエロス。この禁止と侵害の交錯する世界から生まれる神聖、恍惚は人間の本性であり、芸術や経済活動もまたその上に成り立つとした。


 岡本太郎は、1940年日本に帰国し、初年兵として戦場におくられる。戦後、1949年と50年非合理的な情熱と合理的な構想が合体した前衛的絵画作品「重工業」「森の掟」を発表する。

 西欧文明の源、ギリシャ、ローマと対峙したケルト文明はいまではほとんど消え去り、その思いではアイルランドに見られる。無限に旋回し、流れ、くぐり抜けていく紐組紋が輪廻や永劫回帰の呪術的信仰から生まれたケルト芸術として残っている。これと同じように 日本文化と呼ばれる秩序だった、繊弱で、平たく、こじんまりした弥生的王朝的な芸術に対して、奔放な流動性を持った、生命感を持った形態の縄文芸術の中に、自らの根源に相通ずるものを発見した。

 1950年から60年代、西欧的近代主義と日本的伝統主義両方とも蹴とばして、新しい芸術をつくる活動、絵画から彫刻、グラフィクデザインや家具、建築そして出版や講演で時代を動かす活動を開始した。銀座の空にヘリコプターで絵を描き、飛行船絵を書いて飛ばす映像の演出も試みた。



「生産と蓄積が善の世界で、ある時それが逆転して猛烈な消費が生きがいとして行われる。祭りだ。この時人間は日常の卑小な枠を超えて、絶対、つまり宇宙と結びつく。私は万国博をそのような意味での祭にすべきだと思っている。」その芸術を実現したのが1970年大阪の万国博覧会で、お祭り広場に縄文的黄金マスクの「太陽の塔」を残した。



 


 芸術は商品ではない、芸術とは全人間的に生きることであるとして、ヨーロッパで近代の芸術は生み出された。一方、1960年代アメリカで、個人の好みと企業の利益をエネルギーにした、高級文化と俗物、安っぽさ、キッチュの通俗文化の境界をなくしたポップアートと呼ばれる芸術が現れた。芸術の中心がパリからニューヨークに移り、アンディー ウオルホールは毛沢東やマリリンモンロー、キャンベルのスープ缶を画面に並べて、芸術作品にした。毛沢東とマリリン モンローはは同じ芸術テーマであり、政治も歴史もない象徴として切り取られ画面に貼り付けられた。


 「お金を作るのは技術だし、働くのも技術だし、うまくいっている商売は一番最高の芸術だ。」として、芸術も文化も商品になり、経済的活動にしてしまう。全ての価値が消費する人のお金の評価に還元される資本主義の国アメリカでは、アートギャラリーはスーパーマーケットと同じであり、美術館もテーマパークと同じになった。そしてその高踏的芸術を消失させ、絵画のマーケットは世界中に広がっていく。


 1962年生まれの村上隆は、日本画から出発し、DOB君をデビューさせ、アメリカのグローバルな美術界でローカルなフィギュアを創り認められる。

 資本主義経済を徹底させることでアートとして成功する構造が、アメリカを中心にした西欧社会の構造ができた。そして1990年代から2000年にかけて現代芸術はブームに乗った作品は、驚くべき値段で売れていった。「人間の欲望は抽象的な部分だけでなく、大きい熱病のようなものが本当に渦巻いています。リアルな欲望の元に生まれた金(マネー)というものは実戦でしか観察できない。その意味においてわれわれアーティストは金(マネー)の実態探しに付き合わされてしまっている冒険家なわけです。」


 ベルリンの壁がなくなり、絵画や美術館など芸術の世界にロシアや東欧、中国やオイルマネーを持った国々が利益と社会的地位の上昇を狙ってアドヴァイサーを雇って最良のものを手に入れる競争に参加した。さらに北京オリンピックの北京国家体育場の、鳥の巣のデザインしたアイ ウエイウエイなど中国では多くのエリートが芸術家を目指し、ビジネスを理解し、西欧式アートに進出した。

 

 日本人画家で孤軍奮闘していた村上隆は、2010年にカタールのスポンサーでベルサイユ宮殿で個展を開催した。その後も仏教の世界、五百羅漢を大画面で現代によみがえらせ、ドラえもんを題材にした作品を創り出し、芸術をスーパーフラット化して様々なインパクトのある世界を生み出している。


 日本もバブル期に世界の美術品を買い集め、日本画家の絵も国内で高額で買い求められた。その崩壊後、美術も世界経済、新自由主義的資本主義とは距離を置き、海外への目線は閉じて、国内の内向きの風潮にあわせて弱気(ナイーブ)になり前衛的(アヴァンギャルド)精神は消えてしまった。


2020/08/14

巨大建築の魅惑 ザハ ハディド


   鳥の羽毛の美しさはその生物の持っている生まれつきののもので、、孔雀は多彩色の羽根でそれを美しいと見る雌を誘惑し、種を永続させようとしている。鳥や昆虫にとって色彩は生存に必要なデザインであり、形や大きさも適応により決まってくる。30メートル越す巨大な恐竜にはそれに対応する植物や環境があり、様々な色彩をまとい、その大きさにあった構造の体を持っている。美しく、強ければ敵や競争相手の雄に勝ち子孫を多く残す。しかし、大き過ぎても華やか過ぎても、環境に適応できないと生物は滅ぶ。


 人はその美意識から美しい言葉をつづり、美しい音楽をつくり、美しい色彩の絵を描いた。人は言葉以前に未分化な神秘の感動を持っていた。人は古代から呪術を信じ、神を崇拝し、ユートピアを求めた。その精神を現実世界で形にした巨大な宗教的建造物をつくった。  建築は最初は環境から身を守るもの、そして神に祈り、祖先を葬う宗教的記念の意味合いの記念物として始まり、その後、キリスト教では教会や大聖堂が建てられ、イスラム教のモスク、仏教では大伽藍や仏像が建てられた。


 富が蓄積し権力が集中すると、貴族や権力者は、それを誇示するために多くの財を投じて無駄使い的消費を行うことで、自己の優越性を示した。そして足利義満は金閣寺建て、ルードヴィッヒ二世はバイエルン城を、ルイ14世はベルサイユ宮殿を建て、そこで生活した。建築の美は富に支えられ、権力の象徴となった。


 近代になり社会は、物を生産し保存することと、人間の命の再生産、維持の二つの主要な活動領域を持つ合理的で功利的社会を作り上げた。消費行動も、これに見あったもので、禁欲的で過剰であってはならない社会規範のもとにあった。


 20世紀になると、鉄やガラスコンクリートを素材とした建築が可能となった。この近代(モダーン)主義の建築は、今までの公共建築の古典的様式を否定したフランス人ル コルビジェの装飾を排した「家は住むための機械である」で始まる。バウハウス運動の中心のグロピウスは「あらゆる造形芸術が目指すべき目標は建築にある」としてワイマール時代の芸術運動の中心になり、やがてドイツを追われたミース ファンデルローエはアメリカに亡命し、単純で合理的で機能的なビルを建てた。この高層ビルはアメリカの都市から世界に広まっていった。その後継者ミノル ヤマサキの設計で、ニュヨークのワールドレイドセンタービルが1972年に建てられた。


 同じ年の7月、ミノル ヤマサキ設計のブルーイットアイーゴ住宅団地がダイナマイトで破壊された。セントルイスのこの住宅の治安悪化による破壊は、古い様式ではなく単純で機能的なモダニズム(近代)建築の終わりを象徴する出来事だった。

 その後はポストモダニズムと呼ばれる建築、芸術としての建築と商業建築の境はなくなり、ラスベガスの建築もまた立派な建築になり、そして装飾性も復活した。さらに、新しい技術(テクノロジー)によって純粋に新しい形態を実現する脱構築主義と呼ばれる建築が世界中にあらわれる。


 第二次世界大戦ののちソ連の社会主義陣営にアメリカの消費社会が主導する西側陣営が勝利をおさめたつつあった。 1960年代、アメリカでは生産や工業化を重視する時代からしだいに、脱工業化の消費社会に変わりつつあった。ソ連の社会主義計画経済による工業化に対して、アメリカの豊かさは消費生活の豊かさで、コカコーラを飲み、スーパーマーケットには商品があふれ、人々は消費する生活を楽しんだ。

 

 この消費社会が日本で始まるころ、1964年に東京オリンピックが開催され、1970年(昭和45年)に大阪万博が開かれた。このころの日本の新しい建物、住宅団地はモダニズム(近代)的日本建築で、都会のオフィスビルも終戦から復興に向かう60年代は、このモダン主義の流れを受け継いでいた。

 その代表が1964年の東京オリンピックの会場となった国立代々木競技場で、丹下健三氏設計の日本的モダニズムの先端建築であった。6年後の大阪万国博覧会では岡本太郎の芸術は爆発し、丹下健三設計の「お祭り広場」の近代的な大屋根を、縄文的モダーンでベラボーな70メートルの巨大な太陽の塔がその屋根をぶち抜いた。今は大屋根は消え、太陽の塔が残っている。日本の建築は、今でもモダニズムの建造物が、主に建てられている。いわゆる脱構築主義と言われる建物は少なく、フランク ゲーリーのかわいい鯉の像はあってもスペイン ビルバオのグッゲンハイム美術館のようなの巨大建物は見ることができない。



  この1970年代に始まった豊かさを求める大衆消費社会では、豪華な美術館や博物館そして新しい都市の建設、ブランドの商品あるいは絵画などに芸術的価値が求められ、過剰な消費を世界にもたらす。アメリカ、日本そしてヨーロッパやアジアの5ドラゴンと呼ばれる西側民主主義国では、人びとは旅行をし、車に乗り、化粧品、ブランド ファッションが飛ぶように売れ、新しい建築も流行の建築家のデザインで世界中に広まっていった。

 欲望には際限がなく、消費は、どこまでも拡大していった。その後、オイルマネーと呼ばれるお金を手に入れた産油国のお金もちは、砂漠の中に巨大な都市や、巨大な建築を流行の建築家に設計を依頼し建造した。ベルリンの壁がなくなり、中国がこの消費社会に参入し、豊かになった。中国やその他の国では、経済力と政治的権威が合わさって、その象徴として、斬新な建築が、膨大な資金を使って次々と建てられた。

 その中で最も突出した才能が時代に共鳴した建築家がザハ ハディドで、斬新で壮大な彼女の作品は、大衆消費社会の波に乗って、技術の進歩とあいまって、21世紀の代表建築になった。


 ザハ ハディドは1950年に、イラクのバグダットに生まれる。 1972年イギリスの建築専門大学に学び、1980年代からヨーロッパを中心に建築や都市設計を行い、初めはヨーロッパ、イギリスのトラファルガー広場の再開発、ベルリンの都市設計やヴィトラシ社消防署、そしてアメリカやアジアに活躍の場を広げ、1980年代香港の都市設計「ザ ピーク」で壮大な都市構想を設計した。

 20世紀末から21世紀にかけて、台中の美術館、カタールのドーハにイスラム美術館など、世界中の美術館から設計依頼が殺到し、潤沢なオイルマネーに支えられ、中東のサウジアラビアの地下鉄駅 EUAアブダビのシェイク ザイード橋、ドバイのオペラハウスなどが建てられた。その後、アゼルバイジャンのバクーにはヘイダル アリエフ文化センターがその魅惑的なデザインと機能の組み合わせで絶賛された。中国では上海や北京のビルだけでなく2019年9月に一億人の利用する、ハディド設計の新たな北京大興国際空港ができ、最新の情報機械を完備した空港として開港した。 

 一方、日本でもこのザハ ハディトの設計で2020年東京オリンピックの新国立競技場のデザインが、最初のコンペで選ばれ、実現の予定であった。しかし、財政的理由か、周りの環境を突破するデザインのためか、最終的には日本に作られることはなかった。実現したのは木の庇のより日本的建物だった。


2020/07/26

不機嫌な時代の書 吉田兼好の徒然草



 此頃都ニハヤル物    
 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
 召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
 生頸 還俗 自由(まま)出家
 俄大名 迷者
 安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
 本領ハナルヽ訴訟人 
 文書入タル細葛(ほそつづら)
 追従(ついしょう)、讒人(ざんにん)、禅律僧 
 下克上スル成出者(なりづもの)


                  京都二条河原落書    建武元年(1334年)8月


 後醍醐天皇は1288年に生まれ、1318年天皇となる。その当時南宋で儒教から、
人間、社会、宇宙を「理と気」からなるとした、壮大な学問体系の朱子学が生まれた。それが大陸より日本にも移入され盛んになった。
 新しい物好きの後醍醐天皇は、この朱子学を学び、政治に用い、家柄に関係なく有能な人材を側近に取り立てた。そして真言密教の一派、立川流の信奉者でもあった。この密教の呪術を自ら行い、密教の僧の演出で、宮廷でも無礼講が開かれ、地位を問わない人々の集まる場を作った。それが、やがて反幕府の人のつながりを作り、その後の茶寄り合いや連歌の席の流行を作る。
 茶寄り合いでは、会所に人が集まると、まずくずきり、酒、そうめん、そしてお茶が出され、それを味わい、小休憩をして庭を散策した後、茶会が開かれる。その茶会の席には、仏画が飾られ、周りには、唐絵、障子のふすまにも唐絵が、唐風の花びんには生け花と、唐風の香炉に香がたかれ、お茶の種類を当てる闘茶が行われる。そして夜になるとお酒を呑んで舞管弦の演奏を耳にして、歌いの宴が延々と続く。

 後醍醐天皇は、朱子学の名分論をよりどころに1324年の正中の変、1331年の元弘の変と呼ばれる倒幕運動を起こすも、鎌倉幕府に敗れ、隠岐の島に流される。1333年後醍醐天皇は、再び起ち、あやしき民、武装商人の名和長年によって伯耆国の船上山に戻る。そして、楠木正成など各地の武将が倒幕に加わり、足利尊氏もまたこれに呼応し決起する。そして同年6月鎌倉幕府は崩壊し、建武の新政が開始される。

 

  この天皇親政では、後醍醐天皇のいない時代の公厳天皇の即位を認めず、その時の任じた官位も無効とした。そして天皇がすべての政治を行い、訴訟を決める体制を開始した。中国の王朝にならって権力の一極集中を進めたものの実行する機関が機能せず、身内の追従や近臣の内奏で朝令暮改がはなはだしかった。

 この天皇親政の試みは二条河原の落書など、痛烈な諷刺の対象となった。官軍への恩賞乱発に伴う成り上がり貴族や、にわか大名が現われ、鎌倉時代を支えた坂東武士の誇り、道理の意識が低下し、京の都の風俗の退廃も起こり、御家人世界の秩序の崩壊から、下克上の始まりとなる。

 建武の親政下の腐敗や堕落は、足利政権に引き継がれていった。 足利尊氏は後醍醐天皇から鎮守府将軍に任命されるも、建武の新政権の混乱の後、後醍醐天皇に反旗を翻し、室町幕府を樹立した。
 その政治の立て直しに鎌倉幕府と同じような「建武式目」を定め、君と臣はそれぞれの名分にもとるふるまいをしてはいけない、君臣の分際を守るべきとした。また風俗の乱れや、奢侈に対して、「倹約をおこなはるべき事」の規定で「近日婆娑羅(バサラ)と号して、専ら過差を好み、綾羅錦繍、精好銀剣、風流服飾、目を驚かさざるはなし。頗る物狂と謂ふべきか。」としてこの風潮を押しとどめようとした。

 しかし、足利幕府が茶寄り合いや連歌会を禁止したにも関わらず、婆娑羅(バサラ)の世界は各地に広がっていった。一方足利政権の中枢もまた、三代将軍義満になると、王朝趣味につかり、武士としての権力を王朝的儀礼で権威づけ、宮廷の人材を臣下にし、花の御所室町殿をつくり、金閣寺を権威の象徴とした。そして、異国の大陸から多くの装飾の品を手に入れ、自らは明の皇帝に臣属し日本国王と名乗った。しかし鎌倉時代の武家政治の道理による支配が消え去り、政治は時の将軍の好みの人事やえこひいき、汚職、賄賂の横行などにより幕府の統治能力は低下し権力はしだいに弱体化し、その権威は回復しなかった。

 天皇が南朝と北朝に並立して皇室の権威は失墜し、室町幕府の権威の正統性も定かではなくなり、社会の安定に必要な伝統的権威が失われ、社会的規範が崩れてくると、各地にエゴイズムが噴出した。中央に対して地方の守護大名は朝廷の祭り事や伝統的権威を無視し嘲笑的対応をとっていった。そこには道義や道理はなく、宗教心も倫理も関係のない、その場の力関係で人々は行動を決めた。

 庶民もまた、農業を捨て系図を買い、侍身分を手に入れ、あるいは身分の分からない足軽となって守護などの抗争の兵士になり、まさに下克上の始まりになった。やがて応仁の乱に突入し戦国時代にいたる群雄割拠、むき出しの実力闘争の時代になって行く。


 吉田兼好は後醍醐天皇より5年早い1283年に生まれる。そして北条政権が倒れ、後醍醐天皇の建武新政権の樹立とそのあわただしい没落の後に徒然草は描かれた。仏も神道も朝儀礼節もない、不機嫌な時代、社会的無規範時代の人々の生活や世相、自らの想いをつづった。

 五十八段で「勢ある人の貪欲多きに似るべからず」第百六十五段では「顕密(顕教や密教)の僧、すべて我が俗にあらずして人に交われる、見ぐるし。」と後醍醐天皇やその密教に対しての苦い思いを書きつづり、 後醍醐天皇の側近、日野資朝の学問に秀でた秀才の冷徹な振る舞いも批判的に描いている。

 百五十二段で西大寺の静然上人を西園寺内大臣が「あな尊の気色や」と尊敬の念を込めて見ていたのを「年のよりたるに候ふ」といって後日、老いたむく犬を送り届けた物語。百五十四段で雨の東寺の雨宿りの時体の不自由な人の集まりを見て、「もっとも愛するに足れり」と見ていたが、やがて家に帰り、鉢植えの曲がりくねった木を引き抜いた話を逸話を、さもありぬべきことなりと。
 また、第十段で、多くの工(たくみ)の、心をつくしてみがきたて、唐の大和の、めずらしく、えならぬ調度をどもを並べおき、前裁の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。と輸入した品々や豪華なものを並べたりする奢侈や、人工的な庭つくりは好まなかった。第十八段では、「人は、己れをつつましやかにして、奢りを退けて、材を持たず、世を貪らざらんぞ、いみじかるべき。」として絢爛華美な物狂の生活感覚を嫌った。
  また第七段で、「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。」
 「ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさまし。」と述べている。


自然を愛し、風流を尊び、もののあわれを知り、
高貴な人に憧れ、儚い世の中、無常を受け入れ、
仏に仕え、この世に執着しない、生きかたをした。
平静の心を保ち、書に親しみ、世相を描き、
その思いを綴って、残された文が徒然草だった。

2020/06/01

日本的美意識と庭


 一面の芝の庭が裏山を背景にして烈しい夏の日に輝いている。
芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏庭へみちびく枝折戸も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。

 
 昭和の庭園は、「豊饒の海」の場面に描かれたように、背景の裏山、庭石、楓そして青々とした芝に象徴される広々とした開放的な庭になった。 明治時代に、小川治兵衛が芝生を日本の庭園に取り入れ、大名屋敷のよく剪定された名木の庭から、山縣有朋などの政治家や実業家の岩崎小彌太たちが望んだ近代的な庭園に変わっていった。
 その特徴は、庭に琵琶湖から導いた水を引いて、多くの石や岩を使って滝や池を作り、その前の解放された空間は、芝が多く用いられた。植栽は赤松やモミジ、そして京都の山々が借景となっている。この無鄰菴庭園に似た庭が昭和の時代に入っても標準になる。苔むす環境でない、明るく、広い庭園には手入れされた芝と、庭石、そして刈り込まれたツツジやサツキ、楓が植え込まれている。


 「見渡せば春日の野辺に霞立ち 咲きにほへるは桜花かも」

 万葉の時代、野山にはヤマザクラが自生していた。 奈良時代には、仏教とともに隋や唐の文化が流入し、そして珍しい植物も日本に輸入された。今までの日本には自生していなかった梅やヤナギが大陸から渡来し、流行した。

 7世紀の推古天皇の時代にはすでに庭園が貴族の生活にはふつうに見られるようになった。広大な自然を取り込んで、限られた空間にそれを再構成することが行われ、庭は、仏教の極楽浄土を表現したものだった。石を組んで人工的な水の流れを作り、緑の樹木を配置して、鳥のさえずる空間を造形した。 その庭に植えられた植物には桃、梅や柳があった。 当時、土氏 百村の「梅の花咲きたる苑の青柳を かずらにしつつ遊び暮らさな」と梅を詠んだものは多く、この新しい園芸品種が流行していたことがわかる。

 平安時代になると貴族によって、古代からの浄土教寺院の世俗化ともいえる阿弥陀堂の前庭に池や島をつくる、寝殿造りの庭園が広まった。部屋から見渡す庭には春や秋の草花を植え、その中にある人工の河の上に船を浮かべ、歌を詠んで楽しみ、夜には、月明かりの淡い光の下で集まり、自然を楽しむ、自然主義の庭だった。
 平安時代の後期に書かれた「作庭記」は、石をたてん事まづ大旨をこころうべき也、から始まり、生得の山水を学ぶとして、ともかく人の作るものより、自然の姿、風景が優っているので、庭石もなるだけ自然らしく石を組み立てるべきである。池岸、池底、流路には石を敷きつめ、築山し、滝をつくり、樹木を組み合わせる。全体の構成は、風情をめぐらし、おもしろきことが大切と記している。

 鎌倉時代から室町時代にかけて、再び大陸の影響で禅の文化が日本にもたらされた。庭には常緑樹のシイ、イヌツゲ、シャクナゲ、カシ、ヒイラギ、マキなど平安の庭には見られない種類の木々が使われるようになった。

 室町時代に雪舟は中国の明に渡り、南宋画を学び、それを日本の山水画にした。この水墨画はいろいろな自然の中の、本質的なものを象徴的に単純に表現する。 当時京都は応仁の乱で混乱し、山口に移った雪舟は医光寺の住職となり、庭造りにもその才を発揮し、今に残る庭園をつくった。陽光の下に、水と植物と岩を使って、芸術としての庭を作る。原生の林で出来た裏山を借景として、岩を組んで枯れ滝をつくり、浮き石を配置した池庭をつくり、池のまわりに低潅木のツツジやカエデを植え込んで、山水画を描くように、庭を造った。
 応仁の乱の後、時の将軍、足利義政は現代にも続く、住まいや華道の源流、東山文化を作った。築庭に情熱を注ぎ、禅宗の影響のもと、日本古来からの美意識と共鳴し、日本の風土に合ったものとして完成したのが銀閣寺とその庭園で、東山丘陵を背景にした、煌びやかな色彩を使わない幽玄の美を完成した。


 この時代に、新たに自然を狭い空間に圧縮して、象徴化する枯山水が造られた。白い砂の上に様々な大きさの15個の岩を配置した龍安寺の石庭、さらに大徳寺の大仙院につながる、禅から生み出された、現在の抽象画のような庭が完成した。最初の枯山水は作庭記にも記載されている、それが山水画や禅の思想の影響のもとに、禅の庭の名で呼ばれる枯山水として発展した。

 その後江戸時代にかけて様々な形の枯山水の庭が造られる。銀閣寺の向月台もまた江戸時代に、東山からのぼる月を待ち、杉の木の向こうから次第に浮かぶ月の光の下で、輝く銀の砂の庭として完成された。 将軍毛利家の家老桂運平忠晴によって造られた月の桂の庭もまた、岩の上に岩を重ね、その砂に月が光る、そこに団子と小豆がゆを供え、月待ちの行事の舞台となる。
 西行の月すむ空へのあこがれ、足利義政の東山文化のかたぶく空の影をしぞ思う心、それを庭で造形し、夜空の下の月の輝く世界と共鳴する、静寂の空間を生みだした。
 そこには華麗で秩序だったベルサイユ宮殿やアルハンブラの庭、あるいは日本のきらびやかな金閣寺の庭には無い、それとは対極の侘びの美を見いだし、現世の限りない権力への執着や富への欲望を断ち、色彩を抑え、無常観をたたえた庭となった。

 戦国時代になると、茶道を極めた千利休が露地に庭をつくった。それは、樫の葉の散りつもる、奥山寺の道にたとえ、露地に落ち葉が積もっているのが重要で、そのまま掃かぬが巧者なりとし、また庭木には花のある木を嫌い、カシ、シイ、ユズリハなどの照葉樹林系の常緑樹とその二次林の落葉樹であるカエデ、マユミ、ヤマウルシなどが良いと、「茶の湯六宗匠伝記」で述べている。
 自然のままの、木々と石を配置した露地草庵と呼ばれる茶庭と極小の茶室の世界、無彩色の楽茶碗や万代屋釜を使い、茶杓も自作した美意識に徹した世界を生みだした。千利休によって、わびとさびの日本文化が完成し、日本中に広まっていった。

 日本的庭は、日本の美意識に合ったもの、一切の無駄を排し、色彩を抑え、自然のままの石やシンプルな植生を組み合わせた築山、枯山水、露地の庭になった。その様式が、庶民の庭にも採り入れられ、昭和の時代まで続いた。

  「おほくの工の心をつくしてみがきたて、唐の、大和の、めずらしく、えならぬ(素晴らしい)調度どもならべおき、前栽の草木まで心のままならず(あるがままで無く)作りなせるは、見る目もくるしく、いとわびし」 
   
                          徒然草      吉田 兼好