2021/03/28
草庵の暮らし 日本の住まい

人類は古代から、風雪を逃れ、食物を食べる住居を洞窟に、あるいは、穴をつくり生活をしていた。北アフリカの熱帯乾燥地帯には、家畜と共に生活する遊牧民ベトウィン族は移動式テントで暮し、モンゴルの草原地帯ではパオで暮らした。パオは木のやぐらと柱で屋根の骨組みをつくり、それにフェルトや毛皮で包んだドーム状の壁を作り、強風や寒さに耐える住まいとし、生活した。その土地の風を感じ、陽光を浴び、風雪などのその地の環境に適した空間をつくり、風土にあった住み方をした。
日本でも狩猟生活からやがて、農耕の社会になると土を掘り、その上に木材で屋根をつくり、寝たり、作業する生活空間を作った。その後南方の建物と同じように、床が地面より高くなった高床式の穀物の保管のための建物がつくられ、やがてこの高倉を住居にする人々が現れるようになる。
この高床式の住まいは、やがて平安時代の貴族の儀式や遊戯をする場所としてのための寝殿造りを生み出す。貴族、時の権力者はそこに畳を敷き、屏風を備え、寝台もつくった。15世紀武士が支配する室町時代には、主君の応接の間が必要となり、書物を読んだり書いたりするための書院がつくられた。これが和風の空間、和風建築の原型で、昭和の時代まで続いた。
17世紀江戸時代には、武家屋敷から庶民の家にもまた農家にも畳が普及し、農家も土地により気候により様々に変化し、また財力の豊かな、庄屋などは建物自体を誇示するようになった。一般の日本の農家は、中世ヨーロッパとよく似た家屋の構造になっている。土間にはうまやがあり、その土間には大きなカマドがある。居間や寝室はやや高い床にあり、部屋の中心の囲炉裏で、体を温めたり、濡れた衣服を乾かしたりする。その囲炉裏が家庭と家屋の中心点であった。そしてその煙は天井に登り、煙突はなくそのまま煙は屋根から抜けていく。戦前の日本の農家の家屋は日本の風土より生まれたもので、国土が温帯に位置するためか、古くからのヨーロッパの農家に非常に似かよっている。
しかし両者の違いも大きい。囲炉裏端では父親、母親、子供の場所が上座、下座で決まっている。そのしきたりは日本では、和室で座って食事をするときに家族の座る場所の決まりや、来客を招いた客座敷の、床の間の位置で上席、そして奥と手前と序列の決め方に受け継がれている。
そして、日本では土間から家に上がるのは当然履物を脱ぐ必要がある。これによる内と外の意識が西欧と全く異なる住み方の感覚になる。壁は木の柱と棟で骨組みを作り、そのあとに壁を作る。一方ヨーロッパでは石やレンガを積み上げて壁をつくる。 ひさしが陽を遮り、縁側が、雨風から、畳の間を守るため、ひさしを長くして、縁側をつくった。その奥の田の字型の畳の間、居間で寝て食事をし、座敷には床の間と書院があった。
それにしても、今より気候が寒冷な時代、草庵や農家の住宅、権力者の館に冷暖房もなく、囲炉裏の火や火鉢で暖をとる生活にも関わらず満足に暮らしをしていたのは、気候に比較的恵まれた地域である日本では多くの季節、屋外の生活でも快適に暮らしていた。地球の環境から生まれた人類は、その風土をつくる樹木、風あるいは陽光は快適なものと感じるためで、テントや草庵は快適な住まいとなる。しかし、暑すぎるあるいは寒すぎる季節や雨や風から守る役割も住まいには必要となる。この両方を備えた住む場所を、その土地で使える自然の素材を使って、冬や夏に備えた家を茅葺の屋根や、木の板の壁、障子、唐紙を使って生み出した。
明治維新以後洋風建築が日本に移入され、各地に、鹿鳴館や居留地風の建物が多く立てられ、椅子と机が生活の中に取り入れられ始めた。関東大震災で木造都市東京の建物は大部分が焼失し、そのあとに西洋と同じ、堅牢で重厚な不燃性の建物が多く建てられた。フランス風のロココ建築風など、外面の様式を技巧的に真似て造ったため、日本の風土に似つかわしくない建物もあった。
当時も一般の人々の生活する家は、地方だけでなく、都市の住宅も、漱石の住まいに見るようにほとんどが和風住宅の借家であり、風と陽光を遮断することの少ない自然を感じる住まいに、暮らしていた。椅子も机も家財道具ほとんどない庶民は、引っ越すときには畳や、建具も一緒に運んでいた。
19世紀にイギリスで田園都市構想が生まれ、20世紀になると郊外住宅というユートピア構想がアメリカで生まれ、現実のものとなった。当時、工業の発達した都市は工場の排気で不潔で、雑然として、危険ですらあった。仕事の場と暮しの場所を分けて、農村地帯を開発し、交通網を整備して、個人所有の庭付きの家を作り始めた。都市と農村地帯を結ぶ交通網が整備され、とりわけ高速道路で車を使えば、清潔で安全な住まいが個人の所有物となり職場に通勤できる。第一次世界大戦後、住宅不足を解消する必要に迫られたアメリカでは誰でもそれが手に入る、住宅ローン制度がつくられ、人々はこれにより郊外に芝生の庭つきの住宅を手にした。このシステムは、経済が発展し、豊かになればなるほど人々はより働き、より豊かになっていく経済発展の原動力となった。
日本も第二次大戦まで、ほとんどの住まいの形式は和式住宅であった。第二次大戦の戦火で都市の木造住宅は焼失し、職場も住居も廃墟になった。戦後住む場所の確保は切実な問題になった。1951年公営住宅の標準設計51Cが設計され、鉄筋コンクリートの構造で、戦前の寝る場所と食事の場所が同じ生活の家から、寝る場所とは別の、食事のできる台所ダイニングキッチンが作られた。これがその後の3DK、4DKと呼ばれる日本の建物の標準になった。この公団住宅の発想は学校や病院にも取り入れられた。次第にこの集合住宅は公団住宅から、マンションやタワーマンションへと進化していった。
アメリカと同じように1960年代から70年代にかけて各地に郊外のニュータウンが建てられた。この個人住宅も、食事をした部屋に布団を敷いて寝る、田型の間取りのなんでも間の代わりに、食事のできる広い台所と寝室が分かれ、独立した子供部屋が標準となる公団住宅の発想が取り入れられ、流行した。当時、親とは別に家を建て、子供達と住む核家族が多くなってきた。その頃、都市に若者は向かい、仕事について、家庭を持つと郊外の私鉄の沿線に沿って住むようにになる。和風の住宅は次第に地方に残される少数派に追いやられることになった。
工業化住宅生産が始まり、木材以外の新しい素材を使って、工場で素材を組み合わせ、組み立て、大量のユニットを作り、それを住宅地に運んで、クレーを使って家を組み立てた。また鉄道や高速道路も整備され車も普及した。この日本型住宅供給システムはバブル期に頂点を向かえ、経済の成長が止まるとうまくいかなくなった。すでに想定されていた子供達と核家族化した標準世帯は多数派ではなくなり、生活の形は色々で、住まい方は様々で、高齢化が進み、人口が急速に減ってきた。
今後の住まいはより現代的(モダーン)化し住まいも情報の館化し、都市全体の情報通信網の一部として、より便利で快適に進化していくのか、日本とその風土や伝統に立ち返り、木材を材料にした自然を取り入れた住まいの復活になるのか予想はできません。もしかしたら、自然を感じるモダーンな草庵に住むことが流行するかもしれません。
迢迢たる天外 去雲の影
籟籟たる風中 落葉の聲
忽ち見る 閑窓に虚白の上るを
東山に月出でて 半江明らかなり 夏目漱石
2021/02/12
山本栄蔵 良寛という生き方
霞たつ ながき春日に 飯乞ふと 里にいゆけば 里子ども いまは春べと
うち群れて み寺の門に 手毬つく 飯は乞はずて そが中に うちも交りぬ
その中に 一二三四五六七 汝はうたひ 吾はつき 吾はうたひ 汝はつき
つきてうたひて 霞たつ 永き春日を 暮らしつるかも
手毬つき
江戸時代徳川政権は古くからの共同体の上に、支配イデオロギーとしての儒教を用いた。
そして幕府の政権の下に、檀家制度で仏教寺院を支配した。その時代には、今の時代と全く別の、西欧の思想に影響される前、近代以前の、低地アジア、大陸に起源を持つ、仏教、儒教、老荘思想の世界があった。
良寛は1758年(宝暦8年)越後の出雲崎に生まれる。その地の名主、廻船問屋山本新左衛門の惣領で、少年時代の名は山本栄蔵、豊かな生活に恵まれる。出雲崎は日本海の各地を行き来して、瀬戸内から上方に物資を運ぶ北前船の寄港地であり、佐渡金山の陸上げ港として栄えていた。7才になり、漢学塾に通い、論語、四書五経を学び、文選、唐詩選を好んで読んだ。
家督を弟の由之に譲り、1780年22才の時、備中の曹洞宗の修行道場である円通寺に出家した。江戸時代、仏教のなかの禅宗は、臨済宗と曹洞宗そして江戸時代に新たに明から渡来した隠元の黄檗宗があった。この円通寺は、道元の曹洞宗でありながら、当時新興の隠元の影響を受け、坐禅とともに木魚をを叩き、鉦を鳴らしながら南無阿弥陀仏を唱える、自力と他力の混合した教義の寺であった。
少年時代は、経済が栄えた田沼時代で、豊かな生活を送った。円通寺に出家した頃には天明の大飢饉に日本中が見舞われ、その後、寛政の改革の時代になり人々は倹約をせまられた。越後では浄土宗を国教化する動きがあり、その中で良寛は故郷に戻り、道元の禅宗を信奉し続け、やがて隠者、世捨て人となって、1796年(寛政8年)故郷越後の国上山、五合庵の古い庵に住んだ。
少年 父を捨てて他国に走り
辛苦 虎を描いて 猫にもならず
人有りて若し箇中の意を問はば
只だ是れ従来の栄蔵生
この住まいは真言宗国上寺の万元上人の隠居屋として建てられた古い庵であった。杉林の中の小さな草庵で、夏は涼しく、冬は雪に埋まる。この住まいを借りて一人住まい、里に降りて托鉢に回る。この托鉢に大勢の子供たちが一緒になって遊ぶ。寺の住職でない僧侶として布施行を20年に渡り、この地で行った。そして詩歌や書は江戸や各地の国学者や儒者の目にとまり、多くの文化人がその草庵を尋ねるようになった。
生涯身を立つるに懶く
騰騰天真に任す
嚢中三升の米
炉辺一束の薪
誰か問はん迷悟の跡
何ぞ知らん名利の塵
夜雨草庵の裏
双脚等閑に伸ばす
1810年(文化7年)生家橘屋がつぶれる。
無能の生涯作す所なく
国上山嶺に此身を託す
他日交情如し相問わば
山田の僧都是れ同参
1812年(文化9年)詩集「草堂州貫華」歌集「ふるさと」を編集。
この宮のもりの木下に 子どもらと 遊ぶ春日に なりにけらしも
1816年(文化13年)59才の時、国上山の麓の乙子神社の草庵に移る。ここは村里に近く、子供たちがよく遊びにきていた。その神社の中の建物で、和歌や漢詩をつくり、書を書いた。 その評判を聞いて、長岡藩主 牧野 忠精がわざわざ乙子草庵を訪れて、長岡での仕官をすすめるも、「たくほどに風がもてくる落葉かな」の句を示し、ひとりで草庵暮らしを続けた。
そして69才になり、島崎の木村家に移り、貞心にであう。二人の間の歌集「はちすの露」を貞心が編集した。ここには良寛との出会い、臨終を迎えるまでの二人の唱和の歌60首が収められている。
君にかく あい見ることの 嬉しさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思ふ 貞心尼
夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに 良寛
やがて、この住まいは病身を介護してもらう場となり、晩年を過ごした。
良寛のうたの新しさは、その悲哀あるいは歓びの表現が、単なる花鳥風月を超え、あるいは生死を超えた禅の悟りや老荘思想からうまれたうたではあるものの、多くの一般の作とは異なる響きを持っている。
霞立つ 永き春日に 子どもらと 手毬つきつつ この日暮らしつ 春
風は清し 月はさやけし いざともに をどり明かさむ 老いの名残に 夏
秋もやや うら寂しくぞ なりにける 小笹に雨の 注ぐを聞けば 秋
淡雪の 中に立てたる 三千大千世界 またその中に 泡雪ぞ降る 冬
幼い頃から漢文を学び、四書五経の思想を身につけ、その後禅に目覚めた。それから後、長い托鉢生活の中から生まれた歌はもはや儒教でもない、禅の教えでもない、それを超えた日本の春夏秋冬、自然の中の生活から生まれた調べとなり、橘曙覧と共鳴する無心で素直なうたになる。そして晩年の貞心に看取られた病床のリアリズムは時代を超えた近代詩に近いものになる。
ぬばたまの 夜はすがらに くそまり明かし あからひく
昼は厠に 走りあへなくに
この夜らの いつか明けなむ この夜らの 明けはなれなば
をみな来て 尿をあらはむ こいまろび 明かしかねけり
ながきこの夜を
「眠れぬ夜」
うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ を最後に、74才でこの世を去る。
2021/01/26
雪恋 北越雪譜
天から降ってくるものに雨、雪、霰、霙、雹がある。露は「地気」が粒になったもの、
霜はそれがが凝結したもの、冷気の強弱によって形がちがう。地気は天に登ると雨や雪や霰や霙や雹になるが、「温気」を受けると水になる。水は地を作っているもので、つまるところ、元のところに戻るわけだ。
鈴木牧之の北越雪譜の初編の上は、科学書のような書き出しで始まる。そして、雪国南魚沼郡塩沢町では、旧暦の9月末には寒風肌を刺すごとくで、冬枯れの木々は葉を落とす。天空は重い雲におおおわれ、連日太陽を見ない。こうして長い冬の季節が始まる。この雪国の生活を、その地で生活した者でしか感じられない世界を、挿絵とともに世に書き送った。
次の章「雪の形」には様々な雪の形状を、顕微鏡を以って雪状を審(つまびらか)に視る図を載せている。
❄︎
「雪竿」では、越後国ではとりわけ雪が深く、越後国高田には雪竿といって、雪の深さを測る竿が城下の前の広場にある。1834年(天保5年)の冬には雪が一丈(約3メートル)の竿を超えていた。
1681年(天和元年)には大雪に町は埋まり、この下に高田ありの高札がたてられた。この地方の雪は、3メートルを超えることが度々ある。 豪雪の地高田の測候所が開設された大正12年から昭和47年までの50年間の記録では、年間降水量、降雪も含め、3037mmと尾鷲に次いで多く、12月から3月の冬に1700ミリになり札幌の5倍の降雪量になる。初雪の平均が11月28日、終わりの雪は4月6日、根雪は大体93日に及ぶ。記録にあるだけでも3メートルを超えるドカ雪は1665年から1885年までに12回を数え、その後も現在に至るまで、数年に一度は大雪になる。
「雪中の洪水」は、この雪ごもりの生活で、ときどき洪水に見舞われる話が記録されている。初雪の頃、雪の溶けた水が家に押し寄せ、家財をあまさず引っさらい、溺死者の出ることもある。また寒気の緩んだ彼岸ごろにも雪解けの洪水に見舞われる。
また、越後の七不思議に農家の石臼が燃え出る火が、300年あまり絶えず燃えつずけているとの記録があり、魚沼郡五日町にも、池から炎が燃えたっていた。その池のほとりに湯小屋を作り入浴の客を迎えて商売をした。地中には水脈と火脈があり、この火脈が集まって気息を発し、これに陽火を点ずると炎になる。牧之は持ち前の観察眼で「雪中の火」の中で、越後の地層から吹き出す石油を記録している。
牧水は初編の中で、この地の名産「越後縮」について、他国の人は越後一国の産物と思ふめれど、さにあらず、我住魚沼郡一郡にかぎれる産物也。魚沼郡の内にて縮をいだすこと一様ならず、村によりて出す品に定めあり。その原料になる植物、おは陸奥国会津、出羽国最上のものを使い、雪中に糸となし、雪中に織り、雪水にそそぎ、雪上にさらす、雪は縮の親といふべし。
世に知られた夏用の織物、越後縮は雪と人の合作であると述べている。その魚沼産の縮を織って晒して、市で売る。その市には京大坂や江戸の呉服屋が大勢集まり買い付けをする。そして越後からこの名産の布を持って江戸に行商にいく。
鈴木牧之は越後国魚沼郡塩沢に、1770年(名和7年)生まれる。1772年(安永1年)田沼意次が老中になると、江戸は、繁栄を謳歌し、人は諸国から集まり、文化は栄えた。 その江戸の戯作者の一番人気は、牧之より10才年上になる山東京伝で、黄表紙の「御存商売物」「江戸生艶気樺焼(うはきのかばやき)」のキャラクター、艶次郎を生み出し戯作者として憧れの的だった。
その頃、日本では文化の中心が上方からしだいに江戸に移り、山東京伝、山東京山、曲亭馬琴などの戯作者は絵付きの本を書き、京伝の経営するブランド店で紙煙草、扇子、薬を売り、その宣伝に歌麿が加わり、馬琴も黄表紙で店の宣伝をした。煙草のラベルは京伝が描き、包装紙も自作し、江戸中の庶民に引っ張りだことなった。やがてこの江戸のファッション、ブランドの文化は日本中に広がってゆく。これらの品物は読本、歌舞伎、浮世絵とともに、江戸庶民に支持され、町人文化の中心になった。
鈴木牧之は、田沼時代の終わり、1788年(天明8年)18才の時、江戸へ縮を持って上京する。牧之は高級織物の縮、80反を売る商売で、越後から賑やかな江戸の町にやってきた、商売のかたわら、江戸の町を歩き、江ノ島や鎌倉を訪れ「東遊紀行」を書き上げる。その後も仕事の傍、西遊記行、苗場山紀行などの作品を仕上げている。
その頃、人気戯作者、山東京伝に江戸で、出会う。 江戸の文化への憧れから、牧之30代の頃山東京伝に、北越雪譜の原稿を持ち込み「山東京伝著述、北越鈴木牧之校正」で出版してもらうべく相談した。しかし版元に断られる。47才の時滝沢馬琴に出版を託すも、うまくいかず、山東京伝のなくなった後1829年(文政12年)、弟の山東京山に「越後国雪物語」としてようやく出版を勧められる、その時、牧之はすでに59才になっていた。いく年か経ち1837年(天保8年)67才になって、ようやく若き日からの念願の「北越雪譜」初編が世に送り出された。
初編は上中下の3巻で、上、中巻で、雪にまつわる話、雪のなかの暮らし、熊やキツネなどの動物、雪国の生業を書き、下巻ではその地に生息する鮭と人々の暮らしを描いた。
第二編では、春夏秋冬の四冊四巻からなり、その巻の扉には、 越後塩沢 鈴木牧之 編撰 江戸 京山人百樹 増修と書かれ出版された。第一巻と二巻は雪国の生活、雪の正月、羽根つき、ソリやカンジキなどの雪中の道具や風習、四巻には猿に似た異獣などのを奇談も綴った。
北越雪譜 二編の一
雪国ではソリは古きからあり「初深雪(はつみゆき)降りにけらしなあらち山超(こし)の旅人(ソリ)橇にのるまで」と堀川百首に歌われている。冬の雪は凍らないので、沈んで引くことができず、ソリはもっぱら正月、二月、三月の雪が凍りついたときに用いる。
このソリが転用されたスキーが日本にもたらされたのは、日露戦争後、日本軍の視察に来たオーストリア ハンガリー帝国の軍人レルヒで、彼が新潟県の高田を訪れたことに始まる。 この豪雪の地で1911年 (明治44年)1月9日陸軍の師団長長岡外史が高田58連隊の専修将校13人にスキーを日本で初めて、習わせた。そのスキーはソリと似ていたため、日本の職人が青欅を削り、長い手製のスキー板を造った。陸軍の営庭でスキーを履き、滑降を学んだ軍隊の訓練に始まるスキーは、瞬く間に民間に広がり冬のスポーツとして普及した。
北越雪譜二編の四
苗場山は越後第一の高山である。頂に天然の苗田がある、そこから「苗場」の名がついた。塩沢からの登山を試みた。神楽岡からから松があるだけで、ほかの木はいっさいない。から松は強風のため背が伸びない。梢が雪や霜のため枯れている。背の低い茂みをつくっていた。そのなかを登り、ついで少し下った。そこはお花畑といって、山桜が咲きほこり、百合、桔梗、石竹などが、まるで人が植えたように群れて咲いていた。眺望がすばらしい。越後山々はもとより、浅間の煙、信濃の連山みな眼下に波濤す。千曲川は白き糸を引き、佐渡は青い盆石を置く。能登の洲崎は蛾眉をなし、越前の遠山は青黛を残せり。ここに目を拭いて扶桑第一の富士を視いだせり、そのさま雪の一握りを置くが如し。
この苗場は昭和の時代の、ホテルに直結して、最も人気の高いスキー場となり、80年代日本を代表するリゾート地となった。
北越雪譜二編の四
三、四月の雪
越後では冬は無論のこと、春になっても二月ごろまでは雨が降らない。雪が降るからだ。春も半ばになると、小雨がみまう日がある。そうなると晴天の日は当然のこと、雨でも風でも雪がしだいに消えていく。とはいえ家の北東にあたる乾の方の雪はなかなか消えない。山々の雪は里よりも消えるのが遅い。春の陽気にドッととけると水害を起す。
夏のはじめになってようやく冬下駄や藁沓を脱いで、草履やセッタになる。たこあげに走りまわる元気な声が聞こえる。
桃や桜が花盛り。雪がない。まさに別天地だ。
三編以降は構想のまま鈴木牧之は72才の時この世を去った。北越雪譜は雪国で暮らし、雪の中で生活した江戸時代の文人商人の、愛着を込めた科学的随筆であり、今でも、読み継がれている。
2020/12/31
デジタル化するグレート・ゲーム
ペリー艦隊は日本に来航し、お土産として電信機を持参。この電信機でモールス信号を使って情報を送った。徳川時代このバテレンの妖術に驚いた日本では、明治時代に必死に全国に電線を敷いて有線電話を日本中に広げた、そして電信設備を充実した。そして、世界の列強に追いつき、一等国をめざした。
当時グレート ゲームと呼ばれる中央アジアの覇権の争いが起こっていた。ユーラシア大陸から南下するロシアに対するインドを支配するイギリスの情報による戦いで、イギリスはアフガニスタンでロシアと衝突した。極東では清国の弱体化に乗じて、満州での覇権を握り、日英同盟を結んだ日本が1904年ロシアと戦う日露戦争が起こった。
日本は、ウラジオストックを目指したロシアのバルチック艦隊がどこを通るかを必死に探索。そのとき信濃丸がこれを発見し、「敵艦隊ミユ」と直ちに連合艦隊の旗艦三笠に打電した。「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の暗号文は海底ケーブルと無線を使った。日本は、情報戦を駆使し、ロシアバルチック艦隊を撃破した。
第二次大戦当時は、暗号化された外交電報が用いられていた。日米の開戦の時、日本の外務省の本省から、ワシントンの日本大使館打たれた暗号電報は、真珠湾攻撃30分前に米国国務省に通告する予定が、攻撃開始1時間後になった。その後も、日本の海軍はアメリカの情報局に暗号が解明され、連合艦隊司令長官の山本五十六の乗った偵察機がブーゲンビリア島の上空で撃墜された。情報通信は無線と有線が時代とともに進歩して国の命運を決める技術になった。
戦後は1950年代電話にも使える、海底ケーブルが実用化され、1963年11月23日アメリカから初めてのテレビ中継が実現し、その最初の放送がジョン F ケネディー暗殺のニュースだった。その衛星通信が登場し国際情報の伝達の主役になった。1980年代の末になると光海底ケーブルが実用化された。 この光ケーブルが改良され、大量の情報が、時間のズレなく送れるようになった。そして通信衛星に代わって情報伝達の主役になった。
たったひとつのコンピューターネットワークの出現によって長い歴史を持つ複数の産業がわずか1世代のうちに永遠に姿を消したこれほどの規模の大変革がこれほどのスピードで産業に起きた例は滅多にない。
1988年アメリカで商業用のインターネットが始まると、瞬く間に世界中に広がり、新たな時代が始まった。2010年ネットワーク端末が世界人口125億を超えて普及し、今年には500億台を超える。これは人と人の間だけでなく、機械と機械の間の通信が増大する。さらにこの頃から、新興国でのインターネットと携帯電話の普及は急速で、先進諸国が電信電話網を作り上げた100年を飛び越えて、2030年には人類のほぼ全部がこれを手に入れることになる。
このデジタル化の進歩は始め、楽観的により豊かで、透明性の高い社会が訪れると信じられていた。現実に、音楽も、アニメや映画そして漫画もiPhoneなどの端末で、無限のお気に入りの作品を楽しむことができるようになった。
しかし、世界にこの情報革命が行き渡ると、権威主義国家により急速なデジタル化が進み、エンターテイメントは自由に楽しめても、インターネットによる言論の自由は高まり、透明度の高い社会ができることはなかった。インターネットと自由とは関係ないことがやがて明らかになってきた。逆に、中国などでは人々は国家に情報を提供し、国家が自由を管理することによって、利便性と安全性が高まり、治安は高まり、経済は成長する、幸福な監視社会を実現しつつある。
今回の新型コロナ感染に対する対応も、感染者の発見隔離、医療情報の一元化、あるいは給付金の確実で迅速な配布などで、個人の自由重視の体制では不可能な、より効率的な社会を作り出してより効果的に感染を制御している。
通信は情報を伝達するとともに、その傍受による情報入手が国家的規模で行われている。最初から伝達と傍受は伴って進歩した。第二次世界大戦後直ぐに通信情報網が、アメリカ主導でつくられた。それにイギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドが加わり秘密情報を共有するファイブ アイズが出来上がる。通信情報網を整備したものが情報を管理し、通信を傍受できるからで、これに日本も加わるべきか問題になっている。。一方、中国も一帯一路構想で、衛星による情報の共有、光ファイバーを共同で作り、国際通信のレベルを向上させ、情報のシルクロード、情報ハイウエーを作る構想を進めユーラシアの国々を自らの情報管理化に取り込もうとしている。さらにこの光海底ケーブルは太平洋の諸島国家にも広げられ、アメリカなどと対立している。
インターネットは便利であるが、もうひとつの弱点がある。サイバー攻撃を受け、通信機能の麻痺や、情報が取られるが、その攻撃した相手がなかなか特定できないことにある。今年12月にアメリカの政府機関や企業を狙った大規模サイバー攻撃が、ロシアによって行われたことが発表された。明らかにされないサイバー空間における戦いは、情報技術の進歩とともにあらゆるルートで展開され、民主主義国の選挙にも大きな影響を与えるようになっている。
この30年世界はデジタル化の奔流の中にいて、誰もそこから逃れることができない時代になった。この技術は生活を豊かにし、情報に誰もが接することができ社会が透明性を高める一方、
個人の秘密、生活が漏れ出し、管理される危険と裏腹で、先進国と新興国の差をなくし、人々の生活、社会を変え、国家のあり方を変え、経済だけでなく政治の構造までもかえるようなグレート ゲームになってきた。
2020/11/13
死への誘惑 その3 三島由紀夫とバタイユ
見つけだすことができたんだ。
何をだい?永遠さ。
それは、太陽と
いっしょになった海なんだ。 ランボー
詩は、人を、エロティシズムのそれぞれの形態と同じ地点へ、つまり個々明瞭に分離している事物の区別がなくなる所へ、事物たちが融合する所へ、導く。詩は私たちを永遠へ導く。死へ導く。死を介して連続性へ導く。詩は永遠なのだ。それは太陽といっしょになった海なのである。
16才で書き上げた「花ざかりの森」で、三島は先祖の物語を語る。
最終章は昔憧れていた海が見える庭を前にして、「まろうどはふとふりむいて、風にゆれさわぐ樫の高みが、さーと退いてゆく際いに、眩ゆくのぞかれるまっ白な空をながめた。なぜともしれぬいらだたしい不安に胸がせまって、「死」に隣り合わせのようにまろうどは感じたかもしれない。生がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐ととなりあわせに。・・・・・・」
三島由紀夫の最後の作品豊饒の海の最終章もまた、寂寞を極めた何もない虚無の庭で物語を終わらせる。
「花ざかりの森」の、両親と祖先の生命が、川のように流れ、命とその生まれ変わりの連続性の幻影を見る物語で、祖母が現れその中に、姿を借りた母親自身を見る。豊穣の海でも生まれ変わり、姿を変え流転する主人公の中に、姿を変えた自分自身の幻影、分身を見る。
さらに「花ざかりの森」その三で、平安時代の、殿上人と別れた祖先の女性が男とともに彼の生まれ故郷に逃れ、そこで初めて憧れの海を知る。そして「殺される一歩手前、殺されると意識しながらおちいるあのふしぎな恍惚、ああした恍惚のなかに女はいた」と死への誘惑とも言える気持ちを描いた。初期の短編「花ざかりの森」に描かれた死への憧れや美意識、海への憧れや恐れ。それらに対する感覚の旋律は表現や構成の稚さにかかわらず最後の「豊穣の海」まで続いていた。
17歳の時の軽玉子と衣通姫(かるのみこととそとおりひめ)は愛と陶酔の極致で経験される死への願望を描いた作品であった。18歳の時、当時足利義尚の気持ちで、日々を過ごしたと語っていた三島由紀夫は、研ぎ澄まされた感覚から生れる感情を、こころの揺らぎを、室町時代を舞台に、「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」を書き上げた。
「室町幕府廿五代の将軍足利義鳥を殺害。百合や牡丹をゑがいた裲襠を着た女たちを大ぜい並べた上に将軍は豪然と横になって朱塗りの煙管で阿片をふかしてゐる。彼は睡さうに南蛮渡来の五色の玻璃でできた大鈴を鳴らす。・・・・ 殺人者は知るのである。殺されることによつてしか殺人者は完成されぬ、と。そしてこの将軍は決して殺人者の余裔ではない。」
1949年(昭和24年)、24才の時仮面の告白を刊行。戦後、抑圧から解放され表現の自由を得ると、フランス小説の心理学的、分析的手法を使い、世間をしのぶ同性愛者の心理を描き、戦前の価値観を破壊し、世間的議論を巻き起こした。「わたしは完全な告白の虚構、フィクションを創ろうと考えた。しかし、あの小説では感覚的真実と一知半解とが、いたるところで結びついてる。」と語った作者に対して、当時の日本の文学世界では虚構ではなく、私小説的真実の告白と受け取られた。そして、賛同者には新たな文学の登場として絶賛された。しかしその表現や感覚は、常識的感覚と感情を持った人にとっては不可思議なものだった。
その後も青の時代、鏡子の家、金閣寺、宴のあとなどの同時代の事件を題材にした小説を発表した。小説や演劇作品の中で、自らの生い立ちの心理を分析し、芸術家と航海者である行動家との対比で憧れやその心理を描いた小説で古典的美の世界を完成しつつあった。 そして、多くの小説は翻訳され、海外でも評価される。
様々な時代を舞台にした古典主義芸術作品を演劇や舞台で発表し、映画にも出演し流行の芸術家となっていく。自らの心の奥から湧き上がる感覚や感情を物語に託して、言葉の織りなす虚構で、表現しようと努力した。しかし、内的なリアリティとは結びつかない、自らの内的体験が十分表現出来ない、そのもどかしさから剣道やボディービルや肉体的鍛錬にのめり込む。
1960年(昭和35年)35才の時バタイユと遭遇する。その中に今まで求めていた世界、決して表現できなかった同じの感覚を持った人、同類の人のみが知る美、エロチシズム、死というものを明快に分析し論理化した書物を知った。
バタイユは、人間のもつ暴力的欲望とその禁止を人間性の根元までたどって、哲学的考察を加えた。宗教的に禁止され、呪われた部分となった死や、暴力、性と芸術および神聖さの解明をした。
「エロティシズムとは死におけるまでの生への称揚である。」の序文ではじまるバタイユの論文は、「エロチシズムの体験とは、力(フォルス)の湧出に身をまかせ、人間内部の力が人間の一体性を破って死の危機、死の一歩手前のところまで来て、自己の個体の破れを部分的ながら生きる。聖なる者は人の感覚の中でしか存在しない、恐怖と喜悦の感情をともなった情動的な意識である。」
「エロティシズムから聖性への移行には多くの意味があります。それは呪われた者、排除されたものから、幸いな者、祝福されたものへの移行です。」と語る。
三島由紀夫はバタイユの作品に感動し、魅了され1960年(昭和35年)4月に書評を書いている。
「つまり絶対者の秩序の中にしかエロチシズムは見い出されない、という思想なんです。ヨーロッパなら、カトリシズムの世界にしかエロチシズムは存在しないんです。そこには厳格な戒律があって、そのオキテを破れば罪になる。罪を犯した者は、いやでも神に直面せざるを得ない。エロチシズムというのは、そういう過程をたどって裏側から神に達することなんです。」
同じ年1960年(昭和35年)の12月、35才の時至上の肉体的悦楽と至上の肉体的苦痛が、同一の原理の下に統括され、それによって自刃は、そのまま戦場における名誉の戦死に等しい至誠つながる軍人行為となる物語、「憂国」を中央公論に発表した。「物語自体は単なる二 二六事件外伝であるが、ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると云ってよい。」と著者は小説の意図を語っている。
その後急速に政治化し、天皇を神格化し、自らの世界を体現したプライベートアーミーをつくり、1972年(昭和47年)11月25日に自刃した。
現実と虚構の距離感。心の奥からわき起こる感情と感覚の一般の常識的な人との微妙なずれ。合理的判断では、宗教も武士道も陽明学も社会情勢も理解できた上で、情念の過剰が理性でコントロールできなくなり、現実が実体(リアリティー)でなく虚構(フィクション)が実体となる感覚は、万人に理解されるものではなかった。
2020/10/01
20世紀ハイドロカーボン エイジ
石油の世紀
コークスのおこり火のうへに、
シンガポールが載っかている。
ひび入った焼石、蹴爪の椰子。ヒンズー キリン族。馬来人。南洋産支那人。それら、
人間のからだの焦げる凄愴な臭火。
合歓木の花と青空。
荷船(トンカン)。
檳榔の血を吐く 赤い眩迷。
鮫 金子光晴
1859年、アメリカペンシルベニアで油田が見つかり、石油は瞬く間に灯油に使われ、車の燃料になり、国の命運を決めるエネルギー源となった。1914年アメリカは全世界の65%の石油を生産していた、ヨーロッパでは、ルーマニアそしてロシアのバクー(現在のアゼルバイジャン)の油田が多くの生産を行なっていた。 チャーチルは海軍大臣に任命されてすぐにイギリス海軍艦隊の燃料を伝統的な石炭から石油に転換した。それは、その後20世紀が石油の世紀になる象徴的な出来事だった。
この年に勃発した第一次世界大戦は、イギリスとフランスが勝利し、石油の枯渇によってドイツは敗北した。 ドイツ帝国は鉄と石炭でドイツの優越を誇示していたが、われわれが石油で優越していることを充分考慮しなかった。のちになり、第一次大戦の勝利は石油によってもたらされたとフランスの上院議員は語っている。
大戦後、アメリカの繁栄は車社会をもたらした。国内全土にガソリンスタンドは林立し、そして交通機関は、瞬く間に車に取って代わられた。アメリカの自動車台数は1916年から1918年にかけて倍増し、黄金の20年代がアメリカに訪れ、人々は旅行に出かけ、外食しキャンプを楽しんだ、その新しい車を使った生活様式は、世界に広がっていった。やがて石油を燃料とした船舶や航空機の技術は進歩し、エネルギー源として欠くことのできないものとなり、生活を豊かにしていった。1930年代にテキサスに大油田が発見され、アメリカは世界で突出したエネルギー大国になった。
世界は経済の繁栄と国力の増加のため、さらに石油を求めることになる。かつてトルコの支配下にあったアラブ諸国は独立に向かった、そしてペルシャとメソポタミア、いわゆる中東の石油採掘が爆発的に進展する。 その地には膨大な石油の埋蔵地域であり、ヨーロッパ各国は中東石油の支配に向かった。ペルシャの石油はイギリスが支配し、アラブの石油は蘭領東インド(インドネシア)の石油を開発したロイヤル ダッチ シェル、イギリスのアングロ ペルシャ 、フランスそしてアメリカが協定を結び中東油田の利権を確保した。
第二次大戦では極東でもヨーロッパでも石油は戦争の行方と結果を決める中心的役割を果たした。ヒットラーのソ連への進行は、コーカサスの油田の確保が目的であった。日中戦争の泥沼化の中、昭和15年アメリカは石油を禁輸した。日本は油田がなく、アメリカの石油禁輸により石油が手に入らなくなり資源確保のため南方に進出を図り、アメリカ、イギリス、オランダと衝突した。
「爪哇(ジャワ)には、モジョパイト王朝以来の様々な文化の遺跡、旧跡の紹介すべきもの、王宮の輪奐の賞すべきものがたくさんある。馬来には猶、ポルトガルの由緒ふかい港マラッカや、回教寺、極楽寺、みるべきものが皆無ではない。スマトラにいたっては、そういったものが、とりたててなに一つない。ただ森がある。森をひたした大きな湖水がある。人間を知らない原始林に全てがつずいている。それだけである。」
金子光晴の描いた何もないスマトラ島にも豊富な石油があり、オランダの石油会社(ロイヤル ダッチ シェル)が開発し、後に日本もこのスマトラ中部で新たな油田を掘り当てた。さらにマレーには豊かなゴム林もあった。
日本は、1941年に宣戦布告しアメリカの太平洋艦隊の南方への派遣を阻止するために真珠湾を攻撃し、南方に戦線を広げた。マレーシアを南下し、シンガポールを陥落させ、当時オランダの支配していたインドネシアに侵攻し油田を占領した。日本が戦艦や航空機を動かすにはインドネシアの石油は必要不可欠で、この石油を日本に運ぶことが日本の生命線であった。そのためシンガポール、マラヤ、インドネシアを支配下に置いて物資の確保を狙った。
しかしその後、石油を輸送する商船はすぐにアメリカ潜水艦などに遮断され、補給路は断たれた。国内には石油が瞬く間になくなった。戦争前に出された総力戦研究所のシミュレーションしたとおり、石油の枯渇から必ず敗北すると報告されていた戦争を当時の日本は始めてしまった。
1940年頃アメリカは世界の石油生産の63%を占め、中東はわずか5%に過ぎなかった。1944年油田の開発には懐疑的であったイラン、イラク、サウジ、クウェート、バーレーン、カタールの各地の油田調査がデコテイヤーによって行われ、第2次大戦後、「世界の石油生産の重心がメキシコ湾とカリブ海から中東のペルシャ湾に今後は移動する。」と報告した。そして第2次大戦で疲弊したヨーロッパに、石炭に代わるエネルギー源の石油が中東から輸入されることになり、1951年にはアメリカからの輸入に変わり、中東石油の割合は80%にのぼった。 第二次大戦後 アメリカはアラムコとサウジアラビアのイブン サウドとトルーマンが協定を交わし中東の石油確保に向かった。
やがて、アメリカも石油の輸出国から、輸入国に転じ、ヨーロッパに続いて、アジアの国々も石油の輸入を始めた。石油を消費する車は世界中で爆発的に増え、航空機も世界中の空を飛びかうことになり、安価で便利な石油製品は世界中にあふれるようになった。20世紀の繁栄は石油によってもたらされた。そして石油をめぐる争奪戦はその後も続き、イランのパーレビ国王の失脚とイランの革命、イラクのクエート侵攻と湾岸戦争、そのイラクのフセイン政権崩壊を引き起こした。
この20世紀の石油文明は、やがて副産物を生むことになる。石油を原料としたプラスチック製品も次々と生み出されて分解されることなく地球上に残り、海洋を汚染し、石油は燃焼され地球温暖化による世界の気候変動をもたらすことになってくる。20世紀の石油の時代(ハイドロ カーボン エイジ)は終わりを向かえつつあり、2019年には石油の消費量はピークを打った。次第に車のエネルギー源は電気に、その電力源も欧州と中国が先導し、アメリカも加わりより安価で高性能な風力や太陽光に急速に取って代わられる時代になった。
