2022/01/14

ニュージーランド 氷河スキーと環境


  ニュージーランドの南島には、3000メートルを超える高い山々がそびえ、氷河がある。タスマン氷河は最も大きく氷河をスキーで滑降し、青く輝く氷の洞窟が見られ、北島には樹齢1000年を超えるニュージーランドの固有の樹木カウリの巨大な木々が保護され残っている。

 かつてニュージーランドには哺乳類がいない鳥類の王国であった。大陸から隔絶した環境で動物と植物の生命圏がつくられていたため、キーウイという飛べない鳥も生存できた。8世紀頃に、太平洋の島々ポリネシアからマオリ族が木造船で、ニュージーランドにたどり着くまでは哺乳類と同じように、人類は生息しない世界が続いていた。マオリ族は原生林を開墾して、タロイモ、サツマイモなどを育てて定住していった。狩猟生活から、しだいにイモ類の栽培の農耕生活を始め、カウリなど原生林を使い、木造の大きな集会場を作り、木造の住居に暮らし始めた。


 その後、18世紀頃から、ヨーロッパから人々が移住し、1840年にイギリスがこの島を植民地とし数千人が住み始め、6年後にイギリス人は9000人を超えるようになった。19世紀の後半、ヨーロッパ特にイギリスから木造船、3本マストの帆船に乗ってさらに多くの人々が移住し、原生林を切り倒し、そして焼き払ってマオリ族と同じように木製の住居を作り住むようになった。


 

 19世紀の後半、鉄と石炭の時代が始まり、世界に広がっていった。木炭に代わり、石炭を燃料とした製鉄によって、硬い鉄、鋼鉄ができた。この鋼鉄で大砲をつくり、鉄の建物をつくり、そして橋も、船も鉄製になり、1889年には超高層の建物、エッフェル塔が建てられた。 19世紀の半ばに石灰石と粘土をまぜあわせ1400度以上で加熱し、その塊をすりつぶした粉末セメントこれに砂を入れ混ぜるとコンクリートになる。木や石にかわってコンクリートができ、その硬く可塑性に富んだ性質故に鉄筋コンクリートが大きな建造物主役となる。


 ニュージーランドでも都市には鉄とコンクリートの建物が林立し始め、19世紀後半になると、徒歩か馬と馬車から移動手段としての鉄道が原生林を切り開き、都市をつなぎ、次第に島全体に蒸気機関車が走り始めた。そして馬車に代わってガソリンを燃料とする車が1900年に初めて登場した。現在は飛行機が都市間の主要な移動手段となっている。 


 産業革命以降の生活の進歩は、あまりに急速で、原生林は破壊され鳥類は生息できなくなり、人とともに哺乳類も島に住み始め、今では人口より多いひつじが住んでいる。この急速な自然の破壊を目の当たりにして、その後自然は保護され回復してきた。動物や植物も国外からの持ち込みを規制し島の生態系を守るようになった。そして電力は水力や地熱、潮力が主力で現在も原子力発電はなく,風力や太陽光を含めると80%が自然をエネルギー源として使っている。


 島国ニュージーランドは、近代化の便利さと破壊力の大きさ、地球の未来のための自然の回復のわかりやすい一つのモデルとなる。太平洋を隔て大陸から遠く離れていることと、 国土の広さの割には、人口は500万人と少ないことが幸いし、現代生活をしつつ自然は破壊を免れ保たれている。




 地球規模で見れば、地球上の人口は増え、ますます多くの物を消費するようになった。過去200年でエネルギー消費だけで20倍に増えそれによる二酸化炭素の上昇は未来を危うくし始めた。地球上の森林の伐採により、種の絶滅は毎年4万種になり、地球環境をを変化させ気候変動をもたらしている。


 現在温室ガスの出る量は地球全体で年間510億トンになる。鋼鉄とセメントの製造で出る温暖化ガスは10%を占めている。そのほかのプラスチック製造など製造によるものを含めると製造業全体で合計31%になる。大量に生産された製品は、安価になり大量に消費され世界に広がっていく。より良い電化製品を求めより良い住まいを目指して、最初は先進国やがてBRICSと呼ばれる中国やインドなどがこの隊列に加わって、世界中で経済が発展し、都市には高層の建物が建てられ、21世紀に入ってからも世界では東京都の都市一個分が毎月新たに建てられている。


 温室ガス排出は発電のためのエネルギーが次に多く27%になる。この3分の2は石油、石炭、天然ガスが占めている。 その次が食用の動物や植物で全体の19%で、放牧のために原生林が犠牲になり、世界的規模では牛のゲップと豚の糞からの量が温暖化の主役になっている。車や船、飛行機などの移動する乗り物は排出量が16%で、乗用車はその半分くらいである。そして冷蔵庫やエアコンで7%をしめる。これらは全て便利で豊かな生活を保障するもので、すぐにこれらはやめられない。


 世界中の暮らしを産業革命以前まで戻すことがでいない以上、環境と経済のバランスや各国の発展の様子を見て解決する必要があるものの各国の考えは様々で、国家主権が絡まりこれを解決するのはかなり難しい。地球環境を守るため、1992年環境と開発に関するリオデジャネイロ宣言が出され、地球環境の保護は大切なことはわかっていても実行までには至らなかった。京都議定書、パリ協定と国際会議は開かれ、経済との折り合いをつけるために、排出の削減や、様々な排出量取引の仕組みがつくられた。昨年COP26で2050年までに世界の二酸化炭素排出をゼロにし、熱帯降雨林の伐採をゼロにする目標が決まった。


 このまま地球環境の劣化が止めれないと、氷河は溶け、気候変動による食料や資源の取り合いで世界は混乱に陥る。様々な手段で今の経済成長を保ちながら環境を保護するには製造、発電、農業、車などの移動手段、住まいあらゆる分野で人々の意識の変化と技術開発が重要になるとの共通の認識になりつつある。


 かつて日本列島も、江戸時代は着物を仕立てなおし、端切れを使い、最後はぞうきんにして使うのは当たり前のリサイクル、リユース文化でした。建物も当然天然の木材と土と石と紙で造られ再利用されていました。19世紀末のエッフェル塔から始まった鉄塔は東京タワーとして日本にも建てられ、20世紀のガラスとコンクリートの近代建築は古都の玄関京都駅にも採用されました。21世紀、東京オリンピックの会場新国立競技場に木の庇の隈研吾氏の設計が採用されたように今後は、環境に負荷をかける巨大建築の時代は終わりグリーンな省エネルギーの建物が建て始められるかもしれません。 昨年アップルは将来全ての製品と容器の包装を100%再生可能なリサイクル材か再生可能な素材にすると発表しました。

2021/12/06

神の国、民の国


 240段の石段を上った山の頂の一番奥の高いところ、家康を讃えて建立された全ての社殿を背後から見下ろすかのごとく、大きな石積みの上に青銅の壺がのる簡素な墓があり、そこに家康の遺骸が眠っているのである。    

                    イサベラバード 「日本奥地紀行 日光東照宮」


 国を支配する権力者は様々な型で国を統治し、歴史的に多くの宗教国家や王国、独裁国家が生まれた。その権力を保ち存続させるためには、その正統性を人々に認められる必要があった。古くは王権神授説で、神に与えられた権力であるとして支配者は権力の正統性を語った。


 日本では、古代は天皇が国を治め、鎌倉時代になって初めて武士が権力を握る。鎌倉幕府が武士の源頼朝によって、開かれ、権力が武士の手に渡った、それに対して後鳥羽上皇が政権奪還を目指して天皇のもとに権力を戻そうとして敗北し、隠岐島に流された。この承久の変の後、武士が権力を完全に握り朝廷は儀式や官位を与える権威の象徴のみになった。


 その鎌倉幕府も、後醍醐天皇に敗れ幕を閉じ、建武の新政と言われる天皇制が復活する。この建武の新政はうまくいかず、新たな天皇をたて、自らは征夷大将軍となった足利尊氏が室町幕府を開く。これが北朝で、一方北朝方の天皇、上皇、と三種の神器共々吉野に撤退した天皇が正統性を主張し南朝の政権をつくり、天皇の並立する南北朝時代となった。


 足利尊氏と対立した南朝の北畠親房は、歴史書「神皇正統記」を書き、南朝の正統性を神道の思想で編纂し残した。日本の国の成立は天照大神が天孫降臨するとき与えた神勅から始まり、後村上天皇の時代までの天皇の万世一系の血統が続く系譜を書き記し、三種の神器、鏡、玉、剣を正直、慈悲、智恵に対応させ、これが正当に受け渡されることが正統の根拠であるとした。さらに、現実の統治には民の安定こそ重要で、初期の鎌倉幕府を支持し、承久の変を不義とした。神の意志は民の安心、仁政安民にありとして、神道でも儒教と同じように統治者の仁を求めた。


 室町幕府は三代目の足利義満の時、権力の証を皇室では満足せず、明の皇帝から国王と称されることを求めた。しかし、その後も権力は日本全土には及ばず、応仁の乱になる。権力と権威は空洞化し、日本全国に群雄が割拠し、戦国時代に突入した。近畿地方と中部の中心を支配した織田信長は室町幕府の将軍義昭を擁立し全国の支配に近ずいた。その後、義昭を追放し自らが武士の頂点に立ち、権力を握り、天皇からの官位を辞した。信長は天皇や将軍の伝統的権威を否定した。自らが統一した日本の皇帝になることを望んだように思われる。しかし、その望みは実現せず、信長は全国制覇の途中で暗殺され、それを引き継いで秀吉が日本を統一した。


  秀吉は天皇から関白の称号を得て、朝鮮出兵以後は太閤の称号を得た。農民からついに天皇と並び立つ地位を獲得し、「自分が権力に登るとは、まさに奇跡的なことで、自分自身の力によるものではなく、日本、中国そして遥か西のアジア諸地域をも支配する特別の使命のため天が選んだため」と天道の思想を用いて自らを描き、さらに「わが国は神国である。神は心であり、心は全てを包んでいる。どんな現象も神なくしては存在しない。神なくしては、霊も道もありえない。神は生長の美しき時も衰退の悪しき時も増減しない。そして陰陽不測である。それゆえに万物の根源である。それはインドでは仏法、中国では儒道、日本では神道と呼ばれている。神道を知ればすなわち仏法と儒道を知る。」と語り、死後遺言で、彼をまつる神社を建てることとした。これが「豊国大明神」で神道をもとに秀吉を神格化した。この秀吉を祀る神社はその後各地に建てられた。



 政権を握った家康は「天下は天下のための天下なり」として儒教の天道思想で支配の正統性を語り、大阪城を落城させ、豊臣家を滅ぼした二ヶ月後「武家諸法度」と「禁中並びに公家諸法度」を公布し、家光の時旗本や御家人に対して「諸士法度」を交付して外様大名から旗本御家人庶民を将軍お権力の下に置いた。そして皇室は国政には関与しない体制とした。


 家光の時代になると鎌倉、室町の将軍たちとは全く異質の方法で徳川の権威を高めた。家康を神祖化するため、1934年日光の家康の社を豪華な廟に立て直し、徳川家康が「神君」と称されるようにした。日光の家康を祀った東照宮を建て、東照大権現とした。正直、知恵と共に慈悲が神聖な徳である。これらは万物の根元であり、日本の三つのシンボルの根底によこたわる理であるとして天道をもとにした「東照宮御遺訓」を残した。


 日本の有史以来政治の中心の天皇、都の京都が日本のイデオロギー空間の中心であった。この空間を家康から3代目の家光の時代に、権力の中心に将軍家、都を江戸、家康を祀る東照宮を日光に再配置し江戸幕府も新たなイデオロギーつくり、天皇を国政から遠ざけ、日本を支配し、天下泰平の世をつくりだした。

 

  

 1868年、徳川慶慶は薩摩と長州を中心にした反幕府軍に敗れ、政権を明治天皇に奉還。薩長連合軍はこの時14才の天皇を中心にした政府をつくり年号を明治とした。ここに再び政治の中心に皇室をおく神武以来の王政復古がなされ、それを動かす機構に西欧の中央集権制が採用された。


 権力は長期の武士の政権から、天皇へと再び移った。若い天皇が京都から、東京へ向かう途中、伊勢に立ち寄り、伊勢の内宮に参り天照大御神を拝んだ。各藩は土地や民を国に奉還し、国はこれを新しく県に再編し、武士階級はなくなり、四民平等として、中央政府の軍をつくり、国家の体制を整えていった。

 当時西欧から急速に、新しい思想が国内に流入した。明治憲法を作るにあたり、日本ではこれまでの宗教が国民全体の機軸となるほどの確固たるものはなく、江戸時代の儒教は日常生活の徳目としてのみ残り、仏教もまたその宗教的な影響力はそれほど強固ではなかった。明治憲法では新しい国家体制の機軸とすべきは皇室あるのみとして、天皇制を機軸として1899年明治憲法が制定された。

 国王とは異なる、立憲主義をとり、そこには信教の自由が認められ、天皇の機能を行使するのに、3大臣が輔弼(助言)をするように定め、大権行為は天皇のではなく大臣が最終責任を負うものとした。そのほかに元老も輔弼の役割を果たし、軍事の統帥権については、陸軍参謀総長や海軍軍令部長が輔弼の役割をになった。 


 よく年1890年に教育勅語が発布された。この中で神話、天皇、国家は結びついた。

「朕思うに、わが国は天皇の祖先がつくり、徳をもって国を治め、臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげてきた教育の基づくところもまた実にここにある。」から始まり、儒教の徳目を定め儒教道徳と神道の混合した神話による国家、神の国日本の教育の目標を定めた。そして、一旦急あれば義勇を持って公に奉ずることとした。


 明治維新の後、明治初期の新しい思想の中に自由、民権の思想があり次第に反政府の運動として力を持ってきた。国論は分裂して、国内は流動化しつつあった。時の政府は伊東博文を中心にして、憲法を制定し、教育勅語を発令し、神話教育を進め天皇制の国に作り上げられていった。


 天皇を神格化して現人神となり、日本書紀は神話であったのが、次第に歴史的事実となり、誰も批判できなくなった。そして神道は国家神道となる。


 第二次世界大戦の敗北により、日本は国民が主権者となり象徴天皇制に変わり、平和を求めれば戦争はおこらないものであり、経済のみを重視する価値観が広がり、宗教なき世界になっていった。


2021/11/13

2021/11/11

西行 ブルーノタウトと伊勢

  


その神域の気高さは、すべての人々が思わず拝伏されられてしまう程だ。アクロポリスに世界の建築家が詣でるように、伊勢神宮は建築家の巡礼の最終的到達地点になるだろう。


                               ブルーノ タウト


 伊勢は温暖の地にあり 古くからの鬱蒼たる杉や檜などの針葉樹と楠や榊など広葉樹が混在し、古代からの生態系が残っている。伊勢神宮はその木立の中に多くの素木の神殿が建てられ構築されている。


 伊勢神宮本殿は直線的木材を用い、茅葺の屋根と校倉の積層材で作られ、デザインは渡来建築を模した仏教寺院とは異なる、日本の独自の建築様式であった。しかし明治の初めには西欧の建築を標準としていたため、伊勢神宮は原始的南洋風の建物として、それほど評価はされていなかった。1933年ブルーノタウトが日本を訪れ、カツラとともにイセを発見した。「伊勢神宮は木材をもって最高の醇化に達した本物の日本の独創的な建築である。」と語り、神殿とそれを囲む森そしてその建築の考え方を高く評価した。

 

 「古代の日本人は、その象徴を自然の中に求めていった。石や木や水のなかに精神の象徴を求め、その神像をみたのである。こうした自然観は、いまなお日本人の精神構造の核心に伝わり残されているところのものである。」

 「こうした象徴が、一つのフオームに昇華した時、伊勢が生まれたのである。伊勢フォームの完成は、同時に日本神話の完成でもあった。と同時に、それは日本民族の形成がほぼ完了する時期でもあった。伊勢のフォームを創造した古代人のたくましい構想力の背後には、民族形成のエネルギーがそれを支えていたのである。この伊勢フォームは日本民族の原質がふくまれている。」

 丹下健三は「日本建築の原型ー伊勢」の中でその建築のデザインはその表層的な形ではなく、その形式が造られるフォームが大切であると述べ伊勢神宮の日本固有の自然から生まれた過程を探ることは日本文化の根底に触れることであろう。と述べている。


 7世紀末から8世紀前半のこの時代に日本独自の文化、土着の文化、ナショナリズムの文化が始まった。建築様式のイセもこのナショナリズムによって基本型はデザインされた。


 伊勢神宮は690年の第一回の遷宮から20年に一回遷宮を繰り返し、現在にも続いている。この初源への回帰によって、形ではなく時代を超えて持続する、文化の構造をつくった。まるで生物が子孫を残すように、茅葺の屋根を葺き替え、木の柱を新たに建てて、同じ形が反復されることによって伊勢神宮のアイデンティティーが保たれ、石造のパルテノンと同じ永続性を獲得した。


    榊葉に心をかけむ木綿垂(ゆふし)でて思へば神も仏なりけり  西行


 神道は儒教や仏教が伝来する以前の日本固有の信仰と言われるが、儒教の経典を基にした治世あるいは倫理としての人の道を教えるものでもなく、世界を理解し人々を救済する仏教のような世界宗教でもなかった。神道はマツリで神々に供物を捧げ、ノリトを申し、お祓いを行う、素朴な自然宗教に基く祭祀の儀式に過ぎなかった。


 平安時代に、儀式のみの神道が仏教と結びつき、神が仏法により悟りを開いて菩薩になる思想が生まれ、鎌倉時代からしだいに神は仏と強く結びつく。西行は1180年(治承4年)63歳の時に高野山を出て、伊勢に移り住んだ。伊勢神宮を訪れ、思へば神も仏なりけりとうたの中で詠んだ。。伊勢神宮はもともと我が国の神である天照をまつるものであったが、実は天照大神は大日如来が人々の救済のため、神という仮の姿で権現したもので、神と仏が一体となったものと理解していた。


 鎌倉時代になると伊勢神道は、渡會氏により教義として確立され、神学が体系化された。

 伊勢外宮の神である豊受大神は、止由気宮(とゆけのみや)儀式帳(804)によると、天照は垂仁帝の御代に伊勢の五十鈴の河上に鎮座されたが、雄略帝の御夢にあらわれて「自分はタカマガハラで静かに坐してはいるが、たったひとりのだけでいるのは何かと不便である。食糧さえ充分でない。そこで丹波国のマナヰにいる食物のカミであるトユケ(豊受)大神を自分の近くに連れてきてほしいと」頼まれこのカミを招いて壮大な社殿をつくり外宮とした。内宮の神である天照に太陽神であるオホヒメノムチの習合した神を祀る、内宮より神格が低かった。


 それを神官の渡會氏は、日本書紀の神代之巻を神典として外宮の神、豊受神を「日本書紀」の天御中主神(あめのみなかぬし)国常立尊と同じとみなし大元神とした。「書紀」では国常立尊が原初神であり、天御中主神(あめのみなかぬし)が天地初発の時に生まれた神である。これらの神々によって国が造られ、天照大神は神世七代ののちにあらわれる。こうして国生み、国つくりの神々により日本は生まれた。そして皇室の統治の由来を日本国の形成と結びつけて日本を神国とした神道の体系伊勢神道が生まれた。


 その神道の中心徳目として、清浄の心「正直」が加わった。すなわちまわりの利害ではなく、純粋に心のうちから生まれるものを大切な倫理項目とした。そして正直のシンボルを三種の神器の鏡に求めた。この動機の純粋性を重視する思想はその後、日本の倫理観の中心になった。

 このようにして神国日本の中で伊勢神宮はその頂点に位置し、全国の神社をその下に系列化した。宮廷や公家、武士の一部のものであった伊勢神道は鎌倉時代から次第に日本中に広まり、江戸時代にはお伊勢参りという集団参拝が全国で行われるようになった。


 神道は時代とともに仏教に変わって儒教の宇宙哲学である天道思想と神道の道が一致するとされ、江戸時代には神儒一致の儒家神道が一般的になる。そして本居宣長などの国学では、儒教とも離れ、日本の道に純化されていく。

 明治維新の後、政府は神社神道と皇室神道を結びつけ国家神道とし、日本の国教として推進した。第二次世界大戦の敗戦によりこれは解体され、天皇は象徴天皇となり、伊勢神宮は信仰の自由のもと国家の庇護はなくなった。

 古くからの大木の樹々に囲まれた神社は、穢れを祓い、清浄の心を取り戻し、願いをかなえる祈願の場所となり、伊勢神宮は日本建築の単純さ素朴さの象徴であり、いまも遷宮が行われている。


 深く入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風       西行

2021/10/17

SF 黄金時代  安部公房と小松左京

 高度に発達した科学は魔法と区別がつかない     A C クラーク


 戦前からの科学小説(サイエンス フィクション)について「従来科学小説が生れながら、ついに文学上の伝統をこしらえ得なかったのは、全く悲劇と言えましょう。日本が明治時代の革命的進歩精神を徐々に固定化し、ついに世界の国際的文化から落伍した。そして科学小説が単なる少年読物に堕してしまった。」 

 その反省から、SF専門誌「星雲」が1954年(昭和29年)発行された。その中で米ソ科学小説傑作集にハインラインの「地球の山々は緑」やS アレフレイヨーフの「試射場の秘密」などが翻訳され、やがて宇宙旅行が行われ、人造人間は人類に奉仕する日がやってくる世界を小説で創造する、その近未来を描いた専門誌から戦後日本のSF小説はスタートした。 その後多くの海外SF小説が翻訳され、1957年(昭和32年)になると早川書房から、ジャック フィニィーの「盗まれた街」やカート シオドマクの「ドノヴァンの脳髄」が日本で出版された。



 1957年(昭和34年)世界で最初の人工衛星スプートニク1号がソ連で打ち上げられ、1961年(昭和36年)にはガガーリン少佐の乗った有人宇宙飛行が成功した。



 ちょうどその頃1959年(昭和34年)12月に日本で初の本格的SF雑誌、「SFマガジン」創刊号が出版された。ブラッドベリの「7年に一度の夏」やA Cクラーク「太陽系最後の日」の海外の翻訳小説とともに糸川英夫の「宇宙ロケット」が掲載された。多くの若い人々に今まで知らなかった新しい輝きに満ちた世界を描いた雑誌は熱気を持って支持され、古いタイプの怪奇小説や科学小説に飽き足りない小説家たちの興味を刺激した。

当時は翻訳ミステリーの全盛期でもあり、エラリークイーンズ ミステリーマガジンやヒチコックマガジンも出版されていた。


 糸川英夫は日本のロケットの父と呼ばれ、予算のない日本で、ペンシルロケットと呼ばれた超小型ロケットから、次第にカッパ型のロケットまで日本もロケット開発に参加し、性能は次第に進化していき世界の先進技術に追いついていった。



 1960年(昭和35年)11月号の「SFマガジン」に第一回SFコンテストの募集が掲載され、愛読者であった小松左京も応募した。「地には平和を」で本土決戦を戦ったかもしれない世界と戦後の平和な家族のピクニックの世界を対比させた物語が選外の努力賞であったが受賞し、選考委員であった安部公房氏が高く評価した。入選作はなく、「下級アイデアマン」で眉村卓が「時間砲」で豊田有恒が佳作となった。


 このSFコンテストの選者安部公房は、1951年(昭和26年)「壁 S カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞していた。主人公の男が、壁を吸収し、先に彼が吸収しておいた無人の荒野で新たな壁を成長させ、最後には彼の全身が一枚の壁そのものに変形する物語で、小説『壁」の第二部「バベルの塔の狸」では奇妙な動物が現れ僕の影をくわえて逃げ去る、そして透明人間になってこの奇妙な動物、とらぬ狸に連れられバベルの塔に向かう物語、そして第3部赤い繭に続く3部作を発表した。作品の中の人間は植物や無機物などの物自体に変形し、そのことで自由を得て、また変形するまったく自由なイメージの世界を小説にした。


 1959年(昭和34年)には長編SF作品「第4間氷期」を単行本として出版した。自ら判断するAI機械に死んだ平凡な男の記憶を再生させることから物語は始まる。やがて、胎児ブローカーの存在が明らかになり、氷河期が終わり世界の海面が急上昇し始める。やがて日本も沈没し、日本列島は山だらけの小島がポツンポツンと残るだけの世界になる。それに備えて、秘密裏に海底植民地開発を計画し、胎児を集め人工的に進化の過程を変更して、水中生活できる水棲人間を生産する世界を描く。AIによる未来予想、35億年の進化の過程を人間の手で恣意的に変えていいのかといった生命倫理の問題、地球環境の大変化を小説化した。


 そして安部公房は60年代SF文学について「現実というものは、本能的に追求すれば、怪談的となり、知的に探求すればSF的になるものであって、日常をそのままなぞったような自然主義、特に私小説的方法では現実の本質は捉えられない」と語り、SF小説は「古典文学の大胆で多様な空想を引き継いでおり、仮説を持ち込むことでむしろ日常から安定の仮面を剥ぎ取り現実に新たな光を当てるもの」と語った。

 1962年「砂の女」を発表、砂は不毛で絶えず流動し、一切を拒絶する、自分自身が砂になり、同化することによって男は脱出する必要もなく、まったく自由になることを発見する。この小説は映画化され、翻訳され世界で高い評価を受けた。その後も「他人の顔」「箱男」など次々と世に出した。



 1960年代はSF黄金時代で多くの小説家が、このSF的な小説を試みている。1962年に三島由紀夫も平凡な家庭の家族がある日突然それぞれ宇宙人であることを悟り、人類と地球を」救う物語「美しい星」を書いている。またテレビアニメの世界では、SF的ロボット「エイトマン」「鉄腕アトム」「鉄人28号」が放映されていた。



 1970年の大阪万博が開かれ、未来学ブームが起こった。アメリカ館ではアポロ計画の成果「月の石」が展示され、インド館では原子炉の模型が展示され、万博会場に関西電力の美浜原発から送電し原子力発電の未来がアピールされた。多くのSF作家も各企業の企画に参加し、ロボット館や、海底都市の構想を担った。この大阪万博に参加した小松左京の提案した「開け行く無限の未来に目をはせつつ  」の理念から「人類の進歩と調和」がテーマとなった。



 当時日本のSFを主導していたのが小松左京で、1964年(昭和39年)鉄を食べるアパッチ族が現れ、やがて日本を破滅させる物語「日本アパッチ族」を光文社のカッパ ノベルスから出版した。同じ年、南極だけに人類は生き残り、地球上の人物が滅亡する「復活の日」を刊行した。当時米ソ対立の時代を背景に、南極の越冬が話題になり、ワクチンの効かないインフルエンザの流行を素材にしたSF作品だった。1965年に「果てしなき流れの果てに」の連載を開始。大阪万博の少し前に未来学はブームになりつつあり、人間はなぜ未来を考えるかという未来感の起源を人間の歴史から仏教の「輪廻史観」ゾロアスター教、からユダヤ教キリスト教、イスラム教に見られる「終末史観」そしてダーウインの「進化史観」をさかのぼり未来観の未来を「未来の思想」で文明史としてまとめた。


 1973年には小松左京の「日本沈没」が映画化され、話題を呼び、お正月映画として空前の観客を動員しベストセラー作家の地位を確立した。 1978年アメリカ映画、未知との遭遇、そして1977年にはスターウオーズの第1作が始まった。スターウオーズシリーズは宇宙を舞台にした、時空を超えた世界の、大掛かりな活劇で世界中の人々を虜にした。SFはその後、家族で楽しめるSFファンタジーが主流となっていく。


 1960年代後半から1970年代にかけて文学は力を持ち、人生や社会の指標であった。しかし、1970年代政治の季節は終わり、文学の世界でも全体小説と呼ばれるような大きな物語は終りを迎えた。そして日本の若者の価値観も、変わりつつあった。日本のテレビの番組では努力、根性ものは漫画でも流行遅れとなり、若者世代ではまじめは美徳ではなくなり、小説や漫画の世界はオタク化の時代がはじまった。


 若者の世界は外へ向うより、排他的になり、内に向かう。皆がヒーローと認める共通の主人公の物語より、特殊な分野、ホラーやSF作品、怪奇小説、あらゆる分野のマイナーで特殊な世界に興味を持ち、それにのめり込み、全生活をかける若者「おたく族」が生まれた。SF小説は90年代にはかつての栄光は失い、氷河期を迎え、一部の愛好家の世界のみで生き残るマイナーなジャンルのマニア小説となっていった。

 

 現在科学は高度に発達し、気候変動、人工知能、人体改造などかつてのSF(サイエンス フィクション)物語は創作ではなく現実(ノンフィクション)となってきた。





2021/09/26

江戸の文芸と明治の文学

落葉 

 

 秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに、うら悲し。

 鐘のおとに、胸ふたぎ、色かへて、涙ぐむ、過ぎし日の おもひでに。

 げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな。


                       ヴェルレーヌ 「落葉」 上田敏 訳


 江戸時代の文学の典型は、儒教的な教訓と、人の世の人情や滑稽さを描いたもので、近代以前の儒教の影響が色濃く反映していた。曲亭馬琴の南総里見八犬伝や、式亭三馬の浮世風呂、十返舎一九の東海道中膝栗毛は日本庶民の愛読書となった。それより前の田沼意次の時代には、1788年に、恋川春町は「悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶひいきのえぞおし)」を黄表紙で水滸伝のように、蝦夷地(北海道)を舞台にロシア、中国、日本人の活劇小説を世に出し、平賀源内は「風流志道軒」で主人公の浅之進が仙人にもらった羽扇を手にして、「大人国」、「小人嶋」、「長脚国」そしてボルネオ、アルメニア、天竺、阿蘭陀さらに「愚医国」「いかさま国」などを巡り、荒唐無稽の異国遍歴の物語を出版した。

 上田秋成も、物語とはひとしく「そらごと」「作り物語」である。作者の心の中の憤りを書きだし、それを出来るだけ現代の世相にはばかって戯曲化し露骨に表現しないように、過去の時代の事実なき筋に託したり、たわいない滑稽に紛らわせる。これが小説であるとした。また江戸時代の小説では、「支那(中国)や日本の小説だと、災厄が四方に迫り、進退全く窮まるにに際し、之を救ふ者は神仏の加護にあらずんば、必ず狐狸妖怪の助力であった。」



 明治になり、西欧近代に出会うと、明治3年は早くも「西洋道中膝栗毛」が仮名垣魯文によって書かれた。弥次郎兵衛と北八がロンドンの万国博覧会見学に行くの途中の騒動物語であった。

 明治11年(1878年)「八十日間世界一周」や「月世界旅行」が翻訳された。その中で、資本主義の国フランスらしく、クラブの中の賭けから世界一周の物語が始まり、月を目指す砲台作りには資金集めが重要だった。しかし物語のクライマックス、窮地に陥った時主人公を救うのは、神や仏や妖怪ではなく、合理的精神であり、資本力のある人の経済であった。

 二葉亭四迷はツルゲーネフの翻訳「あひびき」で江戸の文芸から別れ、新たな言文一致の斬新な文章で当時の青年たちに熱狂的に受け入れられ、ドイツ留学をした森鴎外の翻訳詩集「於母影」、恋愛劇「即興詩人」は西欧への憧れを日本の若者に広げていった。


 坪内逍遥は小説神髄で「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」として近代小説は江戸時代の八犬伝など、儒教的な勧善懲悪を批判し、真の近代小説であるためにはあるがままの人の情、煩悩などの心の内面を表現するのが文学であるとした。こうして江戸時代の戯作文芸からヨーロッパの自立した個人の内面や社会を描く西欧的小説の時代が始まった。



 明治時代に近代日本文学が生まれたのは、西欧の小説が近代国家の文化とともに取り入れられたことによる。当時のイギリス、フランス、ドイツ、ロシアは経済的にも豊かで、軍事的にも強大でそれを支える国民の文化は豊穣であった。とりわけフランスは明治維新の時、第二帝政期で、世紀末の第三共和国が、第一次大戦を迎えるまで、ベル エポック期と呼ばれ、ヨーロッパ文化の中心で、世界の憧れの都市であった。


 その時代のフランスの文化の香りを詩とともに日本に移入したのが上田敏であった。1905年(明治38年)上田敏の「海潮音」が翻訳刊行された。此の詩集やボードレールの詩集「悪の華」など19世紀末の象徴詩を翻訳した。当時のフランス象徴詩は対象を暗示し神秘性を語ることが象徴詩の目的で、この心情を読む人の心に起こさせるものであった。

 フランス文学を正確に理解し、それにとらわれず日本語の詩として表現した上田敏は日本の和歌から、新しい言葉の響き、海の向こうのフランス語とその精神を日本語の詩として創造した。そして明星の誌上に「英米の近世文学」の中でバイロンの詩やチャールズ ディケンズの小説などを紹介している。

 上田敏は東京帝国大学でラフカディオ ハーンのもとで学び、英語やフランス語をよく知っていて、外国語で完全に思考し表現できる学生と高く評価されていた。翻訳こそ日本を一等国に押し上げる原動力であり、国力としての経済、産業技術だけでなく、文化こそその国の豊かさ、国力の源泉であると考えていた上田は、20世紀初頭の日本について、「維新前後の混乱期にあって古典を学んでおらず、先行世代に比べ基礎的教養がない。また現在の若者も、短期間での専門家養成を目指す教育の弊害として教養教育を欠いており、文科を志願する者の他には、学生は精神上の修養といふ事を全く怠って居る。」


 海潮音はフランス象徴詩を文語で訳し、原詩の叙情を、日本の古語の優美さを、その詩で創作した。のちの詩人北原白秋は「私がサツフォの断章を知り、ショパンを知り、近代白耳義の若い詩人たちを知り、仏蘭西の高踏派、象徴派の諸種の詩風を知り、世紀末の頽唐した諸官能と神経との交響曲を知り得たのは全く博士のお陰であった。」と語っている。


 夏目漱石も西欧の文学が何かわからなくてロンドンの留学に向かった。イギリスの歴史と文化の奥深い教養から生まれる、シェイクスピアなどの小説の背景をなしている人間の洞察や人間存在を描くことを学んだ。留学時イギリスのケンジントン博物館、ヴィクトリアアンドアルパート博物館、ナショナルギャラリーなどを訪れている。多くのイギリスの芸術に触れ、それらの芸術は技巧ではなく自己の思想なり、価値観の表現であることを発見する。そして多くの小説に取り入れた。晩年には「天に則り私を去るとよむ。天は自然である。自然に従って、私、すなわち主観や技巧を去って、文章はあくまでも自然たれ」とする則天去私の考えに至る。こうして純文学は明治時代のヨーロッパの芸術の影響のもとに日本にもたらされ、トルストイの「戦争と平和」やスタンダールの「赤と黒」などの全体小説が目標であり基準となった。そして明治の文豪森鴎外や夏目漱石が生まれた。


 一方、SF作品である、ジューン ベルヌが明治時代の初期に翻訳された。アフリカや北極、そして世界から月世界や海底に物語は広がり、展開する。これは、冒険の舞台が空間的に広がった新たな活劇として好評を博した。坪内逍遥は、それらの未来小説を「ヴェルヌの主眼とする所は学術の進歩を示すににあり、有形の社会の星霜の変化をしたる様を示すにあり、故に真成の小説の如くにあながち妙想を写さんとはせず外部の現象を写し得ればそれにて十分に満足したる者にて 云はば変則の小説にしていわゆる哲学の同胞にはあらで理学の解釈例証に過ぎざるものなり 」と批判的であった。




 坪内逍遥の言う通り、SF小説は時間軸と空間軸をどんどん広げ、思考実験としての世界を荒唐無稽ではない起こりうる現実としての科学的物語で、メインストーリーはその科学的正確性と同時にアイデアの斬新さや意外性が重要視される。それは推理小説や冒険小説についても同様で、人間の能力のうち主に前頭葉の働きである理学、知的ゲームに主眼が置かれる。これらのエンターテイメントに近い通俗小説、娯楽のための読み物は江戸時代の黄表紙の時代からあった。明治時代の小説家にとって本当の小説はリアリティや哲学性をもった純文学、純粋小説であり、通俗小説とは明らかに質の違うものであった。