20世紀、急性の伝染病の制圧は,近代国家共通の課題で、第一次大戦後は、これに加えて民族衛生という考えが、アメリカやヨーロッパで広がり始めた。日本でも健康であることは国家のためであり、民族のためであると考えが強くなり、統制主義の強まるなかで、厚生省が設立され、予防局、衛生局での公衆衛生行政だけでなく、体力局をつくり、国民の体力の向上をめざした。そして1938年昭和13年に厚生省は内務省から独立した。体力局、衛生局、予防局、社会局、労働局と臨時軍事援護局、それに外局として保険院が設置された。
厚生省にとって、公衆衛生のモデルは、内務省から受け継いだ、家父長的伝統にもとずく、戦前からの伝染病対策が、
主な目的でした。,この目的を達成したのが、戦争中で、当時の医師のほぼ大半は大日本医師会の統制下におかれ、
また,主だった病院も昭和17年1942に設立された、日本医療団に統合された。
戦後も、この発想のもとで、治療よりも予防や検診に重点をおき、国や地方自治体の定めた医療計画にもとずいて,公的
病院や、保健所を中心に医療が提供される形態を理想と考えた。
1945年占領軍の1員としてサムス准将が来日。1952年までの7年間の占領時代,アメリカをモデルに多くの医療改革を断行
している。
アメリカ医学の導入、当時の日本医事新報の記事に、“ペニシリン,ストレプトマイシン等を尖兵として,
光輝燦然たるアメリカ医学が出現した。日本の医学者の新しい任務はアメリカ医学を分解し、
摂取することにある。”と記された。
そして、医薬分業制度を導入し、薬価の差益にたよらない医療技術料を高く評価しようとした。
1940年代アメリカで行われた医療政策をならって,800から1000ベッドの病院を国や州が建設し、
病院の周りにクリニックを配置し、ドクターズ フィーとして医師技術料を評価するというものであった.
これに対して、国内の医師会を中心に反対が強く、一部修正され、法案は出来たものの当時ほとんど実行されなかった。
さらに、警察や区役所がもっていた衛生行政を保険所に移し,機能を拡張した。当時の日本の公衆衛生は中世的であり、
世界から30年遅れている、として以前の衛生警察から、保健婦を中心にした新しいモデル保健所を作り全国にひろめた。
感染症には、DDTや発疹チフスのワクチンを取り寄せ,種痘をおこない、災害時には大量の消毒用クレゾールや
サルファチアゾール,抗生剤を本国から取り寄せ防疫を行った。そして、なつかしい脱脂粉乳を使った給食をはじめ、
子供の栄養失調を改善した。
1981年昭和56年老人保健法案で老人医療費に一部負担をもうけ,それと同時に検診の対象を40歳以上の国民
全員に拡大する処置が盛り込まれた。がん検診もその一部として行われ、そして,平成20年2008年4月からは、
特定健康診査、特定保険指導がはじまります。
健康日本21とともに、厚生省的公衆衛生路線が実行にうつされます。
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