2011/05/04

チェルノブイリ


 1986年4月26日ソ連のチェルノブイリ原発4号炉で爆発事故発生。

 ゴルバチョフ政権下にあったソ連では、その30分後、ゲンナジー ベルドフ将軍が現地に到着。ただちに消火活動を開始するとともに、近隣の警官、民兵を動員して原子炉の施設を封鎖して、交通を遮断し,立ち入り禁止区域をもうけた。翌日原子炉に近いプリピャチ市の住民4万5000人が全員1000台以上のバスを連ねて避難。10キロメートル以内に住む住民は全員この区域の外に避難した。その後避難対象区域が30キロまでひろげられ合計13万5000人が他の場所に移住させられ、さらに,1万9000頭以上の家畜の移動も軍用トラックでおこなわれた。


 これらは、当初国内にも海外にも公表されることはなかった。事故の2日後スウエーデンでセシウム134が異常値を示し,世界中で報道された.モスクワ放送がこの事故をはじめて簡単に報道したのはチェルノブイリ事故から2日後の4月28日の夕方で、その後5月6日になって,重大な原子炉事故がおこったことが発表された。

 8月になって,ウイーンで国際原子力機関(IAEA)の会議が開かれその席で詳細な事故の報告がなされた。チェルノブイリには4基の原子炉があり、そのうち4号基が爆発をおこし大量の放射性物質が空中に放出され、それが風向きによって遠くの地上に落下した。原子炉の火災を鎮火させるのに12日かかり,ヘリコプターによる鉛、粘土、ホウ素,砂が大量に投下され、放射能漏れを防ぐのに5月初旬までかかった。


 また原子炉の水槽の水を排泄するための作業、炉心の下にコンクリート製の厚板と窒素冷却系の設置,そしてコンクリート30万トンを使った石棺造りがなされた。さらに汚染水が近くのドニエプル河排出されるのを防ぐためにコンクリート製の防御壁がつくられた。


 この原子炉の事故によって、一瞬にして,現在のウクライナ、ベラルーシロシアの一部の広範な大地が高濃度放射性物質に汚染され居住不能地域となった。そして,ソ連の科学力と国家の権威は傷つき,連邦解体の一因にもなった。


 チェルノブイリの原子力発電所の事故によって、約1万8000人の人々が入院、そのうち203人が放射線による骨髄不全のための骨髄移植などの包括的医療を必要とする障害をおこしていた。重篤な放射線疾患で治療をうけた203人のうち、生存者は174人で、死亡者は29人であった、爆発直後の死亡者がその他に2人いるので、直接の被曝による死亡者の合計は31人に達した。

 大量の放射線の被曝はいかなる治療でも救命できない一方、以前考えられていたよりはるかに多量の放射線に被爆しても人間が生存できることもわかった。



 この直接の被曝の他に、体内被曝による長期的影響が放射線にはある。生物は進化の過程でこの原子核反応の結果出来る物質の存在を想定していないため、臭覚,色覚、味覚などの5感で感知できないものは認識できません。そのため、たとえ放射線に汚染された食物の摂取、とりわけ牛乳などを飲んでもまったく自覚症状はありません。


 その結果、後になって明らかなことは、こどもたちが放射線ヨードをかなりの量摂取し、5年から10年以上たってから、甲状腺がんが多発したことです。これに関してはベラルーシの国立甲状腺がんセンターで5年間にわたり甲状腺がん治療に当たった当時の信州大学の外科医菅野ドクターの詳細な報告があります。



 2003年から2005年にかけ国際原子力機関や世界保健機構などが集まってチェルノブイリフォーラムが行われ、この事故による死者は合計数千人であったと報告しています。長期的健康被害についてはいまだ十分解明されているとはいえません。

 参考 :岩波新書 チェルノブイリ 著者R.P.ゲイル


 

0 件のコメント: