与謝野 鉄幹 妻 晶子
妻をめとらば才たけて みめうるわしくなさけあり
鉄幹は若き日、韓半島に3度渡る。1895年(明治28年)日清戦争のおわりのころ教官として渡韓し、閔妃事件により退韓させられるも無罪となりふたたび渡韓する。朝鮮の激動する社会の実感を、壮士風の感情で唱いあげ「東西南北」で発表した。旧来の軟弱、優美、もののあわれを主調としたものから、勇壮、快活にして心の真情を吐露するものに脱皮しなければならないとして、漢語と和語を融合させる、虎剣派とよばれる新しい歌をつくった。
世をおもふ、心はひとつ。太刀なでて、泣く友もあり、笑む友もあり。
1900年(明治33年)明星を創刊。2回目の結婚相手の林滝野の資金によるもので、フランスのアールヌ−ヴォー様式のミュシャの絵の模写を表紙に取入れ、西欧風の新しい装丁で、明治30年代の流行をつくり出す。
創刊号には藤村の千曲川旅情の歌の原型である旅情が掲載され、そしてフランス象徴詩の上田 敏のヴェルレーヌなどの訳詩が登場した。西欧文学の憧れを日本に運び、この時代の文芸の主導者の地位に与謝野鉄幹はついた。
やがて、滝野とわかれ、明星の誌面に女流歌人の歌をのせ、多くのスターを,時代のヒロインを生みだした。山川登美子とともに菫と星との言葉をちりばめ、その主役であった晶子と出会い明星の2号に歌をのせる。崇高で激烈な情熱をうたう明星は一世を風靡した。
鉄幹はその後晶子と三度目の結婚をする。そして、鉄幹婦人となった与謝野 晶子の「みだれ髪」を世に出した。22才の時であった。明治の古くさい道徳観をすて、短歌で感情を情熱を表現し、日本中にセンセイションを巻き起こした。
われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子
1905年(明治38年)、日露戦争でロシアを破る。日露戦争後の時代になり、しだいに流行は変化し、1908年(明治41年)明星は廃刊。
妻となった晶子は次々と短歌をだし、随筆を書いて一家を支えた、妻の活躍をまじかで見つつ、鉄幹は終わった人、時代おくれといわれ、鬱屈した日々を送ることになる。
しよざいなさ動物園の木の柵に面いだしたる駱駝ならねど
この心の寂寞、荒廃の気分を変えるため、晶子やまわりの人々の援助で1911年(明治44年)横浜からフランスに旅立つ。その時代をいきいきと伝えている旅行記「巴里より」を出版した。
途中上海に寄港し、辛亥革命に遭遇し「黄色の革命旗が掲げられている。しかし、革命軍の影響は少ない、東京での騒ぎのほうがよほど大きい。実力をいへば西南戦争における鹿児島の私学校の生徒のごとき者が各地で騒ぎ立てているにすぎない。」と書き、また、シンガポールに寄港し、多くの「からゆきさん」を目の当たりにし、日本の恥として、取り締まる意見のある中,与謝野寛は「内地において売れ口のない女をどしどし輸出向けとして海外に出すのは国益である」と主張した記事を新聞の掲載用に書き送っている。
約半年の後、晶子は5人の子供をあずけ、鉄幹をおいかけ、一人でシベリア鉄道を乗り継いで、巴里にむかう。そして2人でルノアールやモネの絵を見、そして直接ロダンやレニエに会いにいっている。
わが泣けば露西亜少女来て肩なでぬ アリヨリ号の白き船室
ああ皐月仏蘭西の野は火の色す 君もコクリコわれもコクリコ
与謝野 晶子
帰国後、1914年(大正3年)第一次世界大戦勃発の年、政治家を目ざし京都で立候補するも落選し、ふたたび短歌と編集者の仕事に戻る。
時代は大正に入り、国民所得は倍増し、文化の大衆化が進む。1921年(大正10年)から昭和2年にかけて第二次明星を出版、高村光太郎、堀口大学の詩をのせ、自らの旅の歌を多くのせる。
当時、日本の国内では、都会の近代的で自由な生活文化があらわれ、文化の大衆化が進むと同時に、1917年(大正7年)の米騒動記事に対して朝日新聞は弾圧をうけ、その後新聞編集の中立性を宣言し、多くのマスコミは権力批判を避け,センセーショナリズムの記事にはしる。世論は人々は見たい記事にしか関心がなくなり、しだいに昭和イデオロギーに染まっていく。
当時、日本の国内では、都会の近代的で自由な生活文化があらわれ、文化の大衆化が進むと同時に、1917年(大正7年)の米騒動記事に対して朝日新聞は弾圧をうけ、その後新聞編集の中立性を宣言し、多くのマスコミは権力批判を避け,センセーショナリズムの記事にはしる。世論は人々は見たい記事にしか関心がなくなり、しだいに昭和イデオロギーに染まっていく。
昭和の初期、晶子と2人の満蒙旅行記をだす。
いろいろの異国の煙草まさぐりて恋する日にも似る甘さかな
そのときの与謝野晶子の日記に張作霖爆殺事件に遭遇したときの描写がある。「奉天に著く」で「大和ホテルの宿泊の日、新聞を見ると大元帥の張作霖がいよいよ北京を退き、今日天津をたって京奉鉄道で奉天へ帰るということである。」
「翌朝、へんな音が幽かに聞こえた。 意外な事変を告げられた。満鉄京奉両線の交差するガアドの下で、京奉線の汽車が四台まで爆破され、張作霖と共に黒龍江省督軍の呉氏もたおれ、其他にも支那官人と婦人の死者が多い様子だと」1928年(昭和3年)6月4日午前5時23分のことだった。
「私たちは初めて今先のへんな爆音の正体を知ったと共に、厭な或る直感が私達の心を曇らせたので思はず共に眉を顰めた。」
さらに「奉天の五日」で「我々日本人に対して容易ならぬ恐ろしい事を云っている。久しく此地にいる私達にとって、こんなに支那人の感情の急激に悪化した事は例がありません」
さらに「奉天の五日」で「我々日本人に対して容易ならぬ恐ろしい事を云っている。久しく此地にいる私達にとって、こんなに支那人の感情の急激に悪化した事は例がありません」
そして「日支人間の重苦しい或る不安の気分を交ぜて感ぜねばならなかった。」
第一次世界大戦後1920年代は、つかの間の平和と安定軍縮の時代であった。1928年(昭和3年)、この日本の陸軍の謀略を境として、日本の対中国、対英米の立場は困難になり、国際的孤立を深めることになる。事件後、清朝崩壊後の軍閥割拠から、蒋介石による中国統一がなされ、奉天にも国民党の青天白日旗が翻ることになる。
第一次世界大戦後1920年代は、つかの間の平和と安定軍縮の時代であった。1928年(昭和3年)、この日本の陸軍の謀略を境として、日本の対中国、対英米の立場は困難になり、国際的孤立を深めることになる。事件後、清朝崩壊後の軍閥割拠から、蒋介石による中国統一がなされ、奉天にも国民党の青天白日旗が翻ることになる。
与謝野鉄幹は、若い日から、晩年になるまで多くの旅をし、それを記録し、その自然と心情を短歌に托した。日清戦争時の国士風短歌から,心情を率直に表現する短歌の革新を行い、おおくの詩人を発掘しそだて、妻晶子の才能を讃え、晩年にはふたたび爆弾三勇士の歌などの国粋主義短歌を残しこの世を去る。
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