GHQサムス准将の医療改革
終戦後の1945年(昭和20年)日本は極端な食料不足に陥っていた。日本の大都市で1月に餓死者が数10人、上野公園では1日に6人が飢えて死んでいると報道された。住むに家なく、着るに衣服なく、食うにコメなしとして、皇居前広場には食糧メーデーで大群衆が押しかけた。
終戦後の1945年(昭和20年)日本は極端な食料不足に陥っていた。日本の大都市で1月に餓死者が数10人、上野公園では1日に6人が飢えて死んでいると報道された。住むに家なく、着るに衣服なく、食うにコメなしとして、皇居前広場には食糧メーデーで大群衆が押しかけた。
当時日本には中学生504万人、小学生1351万人あわせて、2,000万人いた。しかし、日本の国内には食糧はなく、世界中でヨーロッパ、やアジアの国々も食糧難であった。GHQのサムスは学校給食は子供たちの成長を促し、伝染病への抵抗力をつけ、また子供から栄養の知識が伝わることによって大人にも体力がつくとの考えからアメリカでの牛乳に目をつけ、保存できない生の牛乳を、脱脂して粉乳としてアメリカから安く輸入する方法を考えた。さらにアジア救済連盟を通して、小麦などの食糧をアメリカから輸入して、給食に使うことが決定し、1946年(昭和21年)の11月に学校給食開始が決まった。その中には、米軍の保有していたトマトジュースなどの野菜、そして捕鯨を再開して鯨肉をたんんぱく源として給食に使った。1948年(昭和23年)には、600万人の子供達に給食が行き渡った。そして、コッペパン、脱脂粉乳、鯨肉の学校給食は戦後世代の共通の記憶となった。
日本政府は戦争中、世界に冠たる日本独自の医学を打ち立てようとして、1938年(昭和13年)厚生省をつくり、開業医中心の病院医療を公的医療機関を中心にするなど、政策の変更を図った。そして、全国に46校の医学専門学校をつくった。
戦後GHQのサムスは日本の医療制度に対して、大学医学部と医学専門学校の2種類が並存し、医専は教育の質が低く、研修するべき付属病院を持たない速成医師養成機関であるとみなした。また、世界的にみれば大学医学部も入学時の年令の低いこと、医学部教育期間の短いこと、資格試験のないこと、卒後研修のないことが問題にした。
この制度を改革するためにアメリカの制度をもとにして、改革案を提示した。医専は17校が廃校となり、29校が医学部となった。そして医学部は学士修了者のみメディカルスクールに入学する案が提案された。しかし、日本側の反対で、現在と同じ6年制になった。医師国家試験は1946年(昭和21年)から開始され、インターン(臨床研修制度)も取り入れられた。
戦争中、外国の医学雑誌は輸入されなくなった。この遅れてしまった医学の復興のため、戦後、3年間は医学のあゆみなどにアメリカ政府の許可で著作権を無視し、アメリカの医学報告の和訳が載せられた。そして1946年(昭和21年)には米軍病院の進んだ医療機器の展覧会を日本医師会館で開かれ、それをモデルに日本でも新しい医療器械が作られるようになった、
物資不足のためか、中世並みと言われた日本の病院改革も行われた。当時、ガーゼは消毒されず洗濯され、軍手で手術を行っていた。1947年(昭和22年)サムスは厚生省の附属機関として、国立東京第一病院の中で「病院管理学校」を開き、全国の病院長を集め、病院経営の教育をした。 そして戦後、日本の医学界はドイツ医学に代わってアメリカの医学を急速に取り入れることになった。
戦後、日本中で天然痘やコレラ、チフスが蔓延し、性病や結核も流行していた。これを撲滅するため水道の塩素消毒、DDT噴霧、ワクチン接種など様々な対応をした。そしてこれらの伝染病予防のため、公衆衛生を充実させることをサムスは提案した。それは日本国憲法の条文となった。
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」日本国憲法第3章第25条。
1946年(昭和21年)には、GHQは公娼廃止の覚え書きを日本政府に渡し、保健所機能の拡充強化に関する覚え書きが出された。そして東京都杉並区に新しい杉並モデル保健所を作った。腸チフスの予防注射をし、性病洗浄や結核の人工気胸手術もした。そしてこの仕事に参加した人たちの熱心な努力によって、全国の保健所は病気予防、公衆衛生の普及に大きな役割を果たした。
1945年(昭和20年)8月7日大本営発表「咋8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり。敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるもののごときも詳細は目下調査中なり。
第一次米国原爆災害調査団が来日。同年9月6日築地正男東京帝国大学外科学教授とともに広島に向かった。広島についで長崎も訪れ、三週間で帰国した。築地博士は10月の総合医学に、所謂原子爆弾傷に就て 特に医学の立場からの対策を掲載。9月下旬に第2次米国調査団が再びやってきた。日本政府も原子爆弾災害調査研究特別委員会を設け日米共同の医学調査を行う。それが「原子爆弾災害調査研究成績」にまとめられ、1946年(昭和21年)夏の総合医学に掲載された。
1946年(昭和21年)暮れ、米国原爆災害調査団の第3陣が来日した。これがのちのABCC(原爆障害調査委員会)になる。1947年(昭和27年)3月には「ABCC総合報告」がワシントンで発表された。そして4月には日本医学会総会で原子爆弾症臨床などの特別講演が行われた。
その後これらの医学報告は、次の戦争に備え、アメリカの法律で、軍事機密として、発表禁止になった。
1945年から1952年まで日本を支配したGHQは多くの日本の医学、医療を変え、現在の日本の医療システムの根幹を作り、現在まで続いている。
その占領軍支配が終わった後、日本医事新報は「マッカーサー元帥やサムス准将の如き冷厳な人物によって占領政策が推進せられたのは我々にとって実に不幸な廻り合わせであった」と記している。
0 件のコメント:
コメントを投稿