祇園精舎の鐘の音
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、
盛者必衰の ことわりをことわりをあらわす
平家物語は、日本を代表する抒情詩で、琵琶法師が読み上げた。 日本の文学は平安時代から、仏教思想の影響を受けた多くの文学作品が生まれている。同じ頃、西行が仏教的無常観を短歌につづり、江戸時代に芭蕉の俳句になり、世界的に高く評価された。
平家物語は、日本を代表する抒情詩で、琵琶法師が読み上げた。 日本の文学は平安時代から、仏教思想の影響を受けた多くの文学作品が生まれている。同じ頃、西行が仏教的無常観を短歌につづり、江戸時代に芭蕉の俳句になり、世界的に高く評価された。
旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る
Sicken on a journey,
My dreams go wondering round
Withered field.
Sicken on a journey,
My dreams go wondering round
Withered field.
芭蕉は、禅宗特に臨済禅の思想から、高みを目指した句を作った。それは英語やその他の言語に翻訳され、世界に広がった。
此の道や行く人なしに秋の暮
Along this road
Goes no one,
This autumn eve.
此の道や行く人なしに秋の暮
Along this road
Goes no one,
This autumn eve.
人々は言葉を話し、文章を書いて、物事を伝え、言語によって世界を組み立て、秩序づけ、時間と空間の中に意味ある世界をつくった。感情は歌や絵画や詩で表現された。詩から、字数を少なくした短歌へ、さらに極限まで言葉を縮めることによって俳句が生まれた。31文字から17文字にした時、その文字と空白が、共鳴し、鐘を鳴らしたように、部分が全体と響きあう悟りの世界になる。文字は圧縮され、論理ではなく、心の奥深いところにある、意識を超越したもの、禅の公案になる。説明的な和歌にくらべて、さらに圧縮した俳句の文字がある時、単なる諧謔から特異点で一変する。
古池や蛙飛びこむ水のおと
古池や蛙飛びこむ水のおと
ルイス カーンが、「空間とは、自己の身体を包み、四方に広がっているものでである。それに限定を与えるものが、建築である。」とした。さらにこの空間を縮め、神聖な禅的な世界にしたのが千利休の茶の湯だった。
プライスは、俳句は全東洋文化の精華である。俳句は禅の視点から理解すべきものである。言葉では述べることができない不立文字であり、禅を体現したものと捉えた。
空間を極小まで縮めた茶室と同様に言葉を極小まで縮めたものが俳句であり、禅であるとした。これが、アメリカの作家サリンジャーなどの カウンターカルチャーに影響を与えた。
雲の峰幾つ崩れて月の山
静かさや岩にしみいる蝉の声
芭蕉
静かさや湖水の底の雲の峰
一茶
小林一茶は1763年信州に生まれる。15才になり江戸に奉公に出され、20代にして葛飾派3代目素丸の執筆となる。27才の時江戸を離れて、東北の旅に出る。30才になり、足掛け6年四国九州など西国の旅に出て、「寛政三年紀行」を世に送り出す。
青梅に手をかけて寝る蛙かな
かたつぶりそろそろ登れ富士の山
一茶
動物が蛙やかたつむりあるいは、虫や草木が人となり、感じとり、宇宙をみる。
俳句と禅と大乗仏教の授業をしている、シーモア(サリンジャー)の愛唱した俳句が、かたつぶりそろそろ登れ富士の山だった。
ゆうぜんとして山を見る蛙かな
むきむきに蛙のいとこはとこかな
秋の夜やせうじの穴が笛を吹く
秋の夜やせうじの穴が笛を吹く
雷のごろつく中を行 々子
松尾芭蕉は禅の思想、臨済禅の影響を受け、一方小林一茶は親鸞の教えを信じていた。
また、芭蕉が武士の出であったのに対して、一茶は農民出身。一茶はあらゆる人々の中に仏性を見、蛙や虫だけでなく、ありとあらゆる生き物に、雛のさえずりのように、さえずり、うたわせた。
宝暦から天明にかけて、江戸の文化は栄え、俳諧師も多く、武士、農民、商人の階級を超えた文化の世界がつくられた。1806年(文化3年)一茶45才の時、寛政異学の禁が出された。儒教のうちの朱子学を正統として、陽明学や古文辞学は異端とされ、幕府の教育では、禁止され、農民は都市から生まれた土地に帰農させられた。その後この朱子学の影響で、士農工商以外の定職のない人々、文化を担う高等遊民は、肩身の狭い世界になりつつあった。
宝暦から天明にかけて、江戸の文化は栄え、俳諧師も多く、武士、農民、商人の階級を超えた文化の世界がつくられた。1806年(文化3年)一茶45才の時、寛政異学の禁が出された。儒教のうちの朱子学を正統として、陽明学や古文辞学は異端とされ、幕府の教育では、禁止され、農民は都市から生まれた土地に帰農させられた。その後この朱子学の影響で、士農工商以外の定職のない人々、文化を担う高等遊民は、肩身の狭い世界になりつつあった。
1814年(文化11年)52才で菊と結婚。3男1女をもうけるも幼くして亡くなる。
名月をとってくれろとなく子かな
文政元年以後、江戸から信州柏原に定住する。
1818年(文政2年)に「おらが春」をまとめた。これは一茶の死後出版された。
目出度さも 中くらい也おらが春
這へ笑へ二つになるぞけさからは
阿弥陀如来の信仰を深め 其身を如来の御前に投げ出して 地獄なりとも極楽なりとも あなた様の御はからひ次第 あそばせくださりませと御頼み申すばかり也
阿弥陀如来の信仰を深め 其身を如来の御前に投げ出して 地獄なりとも極楽なりとも あなた様の御はからひ次第 あそばせくださりませと御頼み申すばかり也
ともかくもあなた任せのとしの暮
おらが春の一茶は、覚醒者の高みからでなく、平凡な人、親鸞の他力本願の信者として、妻帯し生活する一人の生活者として、信濃の柏原で暮らした。若い時の荒凡夫であった一茶は52才で結婚し、妻子と死に別れ61才で一人の暮らしに戻った。
春立つや愚の上に又愚にかへる
その後再婚し、1827年(文政10年)65才の時、柏原の大火で家を焼失、その土蔵で死亡。
やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ
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