2021/05/04

 トルシエ監督のいた時代


九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす


                             正岡子規

  戦後、遊びやスポーツは野球がすべて、広場では、キャッチボールを手製の松の実を布団のワタで包んで、それに糸を巻いたボールを使い、手製のグローブでしていた。プロ野球は毎日テレビで中継され、高校野球は毎年憧れの舞台をつくっていた。野球アニメ巨人の星は1968年にテレビでも放送が始まった。

 1983年キャプテン翼がスポーツ根性路線とは全く違った、明るいスポーツアニメとして人気になった。1993年Jリーグが誕生し、1998年ワールドカップフランス大会に出場。その頃野球に変わって公園ではサッカー少年が主役になってきた。スポーツも人々の好みは、ずーと続くことはなく、流行は変動する。高度経済成長時代のスポーツの王者野球が、国際化し世界標準を目指すサッカーに主役を交代した時期がやってきた。 

 

 1998年43歳のフィリップ トルシエが日本代表監督となる。フランスのサッカー選手から、コーチになり、9年間アフリカで過ごし、アフリカナイジェリア、ブルキナファソ、南アフリカで監督をして、その才能を発揮していた。

 トルシエは革命を起こした。今までの日本サッカーの当たり前のことをことごとく変えていった。チームを本当に国際化し、プロ化することを徹底する指導で、オリンピック代表選手やユースの選手を育て、2002年のワールドカップにのぞむ準備を始めた。

 まず20歳以下のユースの選手をワールドユースの開催されるナイジェリアの試合の前にブルキナファソに連れて行きそこで合宿した。アフリカの、ワニが生きた鶏を食べ、40度を超す暑さの中、埃まみれの冷房の効かないバスが道路を走るところに着いた。「彼らをあえて遠出させたのは、彼らの生活圏の枠を壊さなくてはいけないと考えてからだ。日本人は海外旅行をしているのではなく、どこに行くにも日本を持ち歩いている。だから、いつも食べ慣れているもの以外を食べさせなくてはいけない。自分の部屋以外でも寝られることを、教えなくてはいけない。精神性と社会性をともなった男にならなくてはいけないからだ。」年功序列ではなく、能力さえあれば若い人でも抜擢され、高給を手に入れられるシステムを作り、国際標準に近ずけた。

 当時サッカー協会は、2年で彼を解雇し、ベンゲルなどの有名な監督を高額で雇うことを考えた。結局トルシエ監督が日本の文化や伝統、性格を理解することを条件に監督を続行することを認めた。

 高度な技術を習得するために、今までテストによる選手の評価自体がなかった日本で、選手たちに様々なテストを受けさせた。目的は、その選手たちが戦術やゲームの展開を理解しチームでオーケストラをつくることであった。その中心選手にイタリアセリエAで活躍していた中田英寿がいた。世界の一流選手となり世界を舞台に活躍するパイオニアで、ペルージャから、ローマそしてワールドカップの年にはパルマに所属していた。そして戦術は、ディフェンダーを3人にする、3バックを試みた。その一翼を担った、もう一人の中田選手、トルシエ監督の申し子中田浩二選手がいた。

 トルシエ監督のもと、2000年のシドニーオリンピックで健闘し、同じ年の10月サウジアラビアを破って、アジア大会で優勝した。しだいに日本でのサッカーの熱気は高まり、その期待を受けて、2002年ワールドカップが日本と韓国で開催された。日本は初戦でベルギーと引き分け、第二戦でロシアを破り、第3戦でチュニジアに勝ちベスト16に進む。次のトルコ戦で敗れ熱狂のワールドカップは幕を閉じた。トルシエ監督の後、ジーコが監督に就任した。


 やがて時代は国際化から、グローバル化に変わる。国際化とは、国は国でその間の障害や垣根が低くなり、世界は標準化される。一方グローバル化は、20世紀末から、21世紀にかけて、国とは別の単一のプラットフォームが情報通信革命とともに起きた時代。金融とコンピューター産業を中心とするグローバル経済がアメリカで始まる。


 スポーツも野球が再び脚光をあび、国内からグローバル化したアメリカメジャーリーグで野茂選手が活躍する。1990年仰木監督率いる近鉄に入団し、数々の記録を塗り替える。しかし、監督の交代や日本のプロ野球システムに合わなくなり、1995年メジャーリーグロサンゼルス ドジャースに入団、新人王を獲得しその後もメジャーリーグの代表投手として数々の記録を残した。 当時、日本はサッカーと同様に野球も国際化とは程遠い世界に住んでいた。日本は日本の野球でありメジャーリーグは別の世界であった。


 多くの人はジャパンアズナンバーワンの夢が破れても、日本の成長には国内的(ドメスティック)でなく国際化(グロバリゼーション)が必要と言われても、多くの人には関係のないことで、本当のところ理解不能で、国際化とは世界的に通用する人材となることと漠然と考えていた。むしろグロバリゼーションコンプレックスから、国際化には反感さえ抱いていた。


 先駆者野茂英雄の大活躍に続いて、イチロー選手が2001年やはり仰木監督の率いるオリックスからメジャーリーグのマリナーズに入団し、一年目から大活躍し新人王とMVPを獲得した。当時日本のテレビニュースのスポーツコーナーではまずアメリカメジャーリーグのイチローや野茂のことが取り上げられ、日本のプロ野球は一面を飾ることがなくなった。


 2001年この年小泉内閣が発足し、郵政改革などの改革を進める。2006年6月ジーコ監督率いるサッカー日本代表チームはドイツのワールドカップで、一勝もできずに敗退。2006年9月第一次安倍内閣が発足。


 日本のサッカーは、トルシエ監督のいた時代に国際標準に向けて、前進した。野球もメジャーでの活躍を目指して多くの才能がアメリカに渡った。そしてテニスやゴルフも世界のトップを争うようになった。


 2020年にパンデミックとなった新型コロナで日本はスポーツ以外の分野で、世界の先進の国ではなくいつの間にか世界に取り残されたことが誰の目にも明らかになった。医療研究で先頭の国と思っていたワクチンの開発競争では、アメリカやヨーロッパ、中国やロシアあるいは生産拠点となったインドにも遅れ、接種も世界の後塵を拝している。世界に冠たる医療制度のつもりが、コロナの重症患者に対応できず、デジタル化もまた世界の標準から置いてけぼり。そして、国の借金ばかり増えた。


 スポーツ界で世界標準に追いつき世界で競争するためには、世界を知り、体験し変化する必要があった。そして結果の見えるスポーツの世界では、サッカーや野球、ゴルフやテニス、バスケットなど多くの種目で日本の選手が活躍するようになってきた。

 変化をするためには努力が必要であり、あつれきを生む。反対に逆らって改革を推し進めるよりは、嵐の過ぎ去るのを待って、困難な物事を先送りすれば、社会は変化しないでもしばらくは平穏に過ぎて行く。そのため国内の多くの分野で日本社会はあまり変化することなく過ごしてきた。しかし、激変する世界では、日本にいれば今のままでも安心安全の国でいられる時代はもう終わるのかもしれません。


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