2022/11/06

欧州戦争 平和はいかに失われたか

 

大正3年に出版された雑誌欧州戦争実記である。




 日本の大正時代は、世界ではヨーロッパの戦争、第一次世界大戦の時代であった。日本は直接に参戦することはなく、欧州に輸出する軍需やその他の輸出で好景気にわいた。1914年(大正3年)に第一次世界大戦が始まり、総力戦がヨーロッパ全土に展開され、各国が兵器、物資の欠乏を訴え、日本は生産補給する立場に立った。国内各地に工場が続々と生まれ、経営者やそこで働く労働者が膨大な数になった。日本は4、5年で開発途上国から世界有数の工業国、資本主義国となり、給料は倍増し、物価も急上昇した。 そして「大正三年の夏の頃 波立ち騒ぐ大洋の 西の果てなるヨーロッパ 人の心も勇なり 」の歌が流行した。


 1900年(明治33年)ギルバートマレーが、どの国も「われわれこそ国家のなかの精粋であり、花である。そして、何よりも他を支配すべき資質を備えていると考えていた」と欧州の大国を書いている。


  1890年のドイツの人口は4900万人、その後大戦の前の1913年には6600万人に急速に増加した。強大な陸海軍を持ち、近代的工業力の充実、電気光学、化学の発展により巨大企業を育て、国力を高めていった。1850年代は取るに足りない領邦であったドイツの急速な台頭がヨーロッパ大陸の力関係を変えることになる。ドイツは大陸の中央に位置し西はフランス、東はロシアと国境を接していた。ビスマルクの時代にはドイツが領土的野心を持っていないことを周辺の大国とくにロシアとイギリスに納得させ、ヨーロッパの現状維持に努め、海外の領土拡張には熱意を示さなかった。

 20世紀に入ると、世界の列強は争って覇権を求めた。この拡張主義の時代にドイツは列強の力関係を覆すだけの財力と武力を手に入れた。陸軍だけでなく、海軍力も急速に充実させ、英国海軍に迫るドイツ海軍を作り上げてきた。 ウイルヘルム二世が政権につき、ビスマルクが退くと、帝国主義的拡張政策を推進した。1907年イギリスの外交官エア クロウは「ドイツの意図がどうであれ強力な海軍を持てば必ず覇権を追求する」と書いている。

 時の参謀総長シュリーフェンは対フランスの戦時戦略でベルギーを通ってフランスに侵攻するプランを策定し、モルトケがそれを引き継いだ。東部戦線での戦いの前に電撃作戦で西部で勝利し、その後に東部作戦を開始する戦略を立てていた。


 1910年、イギリスのジャーナリストノーマンエンジェルが「大いなる幻想」を出版。財政とか経済面で各国が依存しあい、戦争は今や実行不可能になったと論じて各国で話題になっていた。一方、同じ年ドイツのヘルン ハルディーの「来るべき戦争」が出版された。戦争を起こす権利、戦争を行う義務、世界制覇か没落かを論じた。そこでは戦争は生物学的に必要であり、生きるための闘争であり、国家には進歩かさもなくば衰退あるのみと主張した。ドイツ国民は、1870年以来武器と戦争こそドイツの偉大さのよってくる根源であるの主張に染まってきた。一方フランスでも失地回復の民族主義者愛国主義者の声が高まっていった。


 1914年(大正3年)以前のロシアは強力であると同時に弱体な国家であった。農業と個人消費は遅れ、社会の近代化が遅れていた。アレクサンドル三世の跡を継いだニコライ二世はお気に入りの臣下、道楽、気まぐれ、強情さに身をゆだね、政権はおびただしい数の秘密警察に占められていた。ニコライ二世の統治下で、不平不満は絶え間なく繰り返し、災害、虐殺、軍事的敗北、暴動が起こった。1908年から1914年に陸軍大臣を務めたのはラスプーチンと親交のあるスホムリノフ将軍で、銃剣こそが砲弾もかなわぬ至上のものという時代遅れの思想の持ち主で、後に権力の冒涜と怠慢で有罪となっている。このスホリノフと対立し力を持ったのがニコライ大公で2メートルコス長身で陸軍部内改革派の旗手で、日露戦争では騎兵監察長官を務めた生粋の軍人であった。来るべき対ドイツ戦争では指揮をとる計画であった。そしてオーストリア=ハンガリー帝国だけでなくドイツに対抗するためにフランスと同盟を結び財政援助を受け協調を深めていった。



 「バルカンのどこかで、途方もなくバカげたことが起これば、さし迫った戦争に火がつくだろう。」とビスマルクは予言した。

 1914年(大正3年)6月28日セルビアの国粋主義者がオーストリア皇位継承者フェルディナンド大公を暗殺。20世紀に次第に力を失い衰退の兆候を見せてきたハプスブルグ家のオーストリアハンガリー帝国の皇位継承者に対する、長年に渡りその支配のもと虐げられてきたセルビアの失地回復主義者による暗殺事件は、瞬く間に欧州全土を戦乱の渦に巻き込んだ。

 7月5日ドイツはオーストリアに対して、もしオーストリアがセルビアに制裁を加え、ロシアとの間に紛争が起きた場合は、オーストリアはドイツの誠意ある支援を期待してもよいと保証した。7月28日オーストリアはセルビアに宣戦布告。7月30日オーストリアとロシアは総動員令を発令。7月31日ドイツはロシアに対して最後通牒を発令。8月1日宣戦布告。8月3日にフランスに対して宣戦布告した。そしてのシュリーフェンプランどおりベルギーに侵入して、フランスに大規模攻撃をかけた。ロシアの士官も、ドイツのカイゼルもフランスやイギリスでも、木の葉が散るころには家にかえれるだろうと語っていた。こうして短期で解決するはずの欧州戦争は始まった。


 ドイツ帝国とオーストリア ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア帝国は同盟を結び、ロシア、フランス、イギリスは協商関係にあった。同盟の持つ意味はある紛争当事国が攻撃によって決定的打撃を受けても、あるいは戦争をつずける充分な資源を持たないことが明らかでも、その国は同盟国からの支援で戦争を継続できる。そのため欧州での戦争は誰もが望まない結果をもたらし、長期化し2000万人以上の死者を生みヨーロッパを崩壊に導いた。

 当時一般の短期戦予想に対して、モルトケは「今度の戦争は決戦では片ずけられない、国家総力戦になるであろう。そして我々は、国力が完全に衰退するまでは負けてしまわない。敵国を相手にして、長時間苦闘しなければならない、たとえドイツが勝ったとしても国民は徹底的に消耗してしまうであろう。」と予想した。イギリスのアスキス首相も1914年7月に「ハルマゲドンが近ずいている」と書き、フランスやロシアの将軍たちも絶滅戦争や文明の死滅を口にした。結局この対戦の結果、ロシア帝国、オーストリア ハンガリー帝国、ドイツ帝国は崩壊し1918年に終戦した。


 多くの政治家たちや軍人は長期戦の恐怖は感じていたものの、短期戦の期待とその計画に沿って戦争は進んでいった。20世紀最初の欧州における大戦はまさに多国間の相互作用によるもので、それぞれの国の皇帝、軍人、政治家や国民の政治文化の結果であり、その立場いた決定者の人間の本性にもとずく恐怖、傲慢、欲望、願望、理性的判断の織りなす結果であった。

 科学技術の急速に進歩した現在も、やはり変わることのない人間の心、世界の認識、妄想が国家の行動を支配している。

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