一方、農耕牧畜や砂漠地帯の宗教であるキリスト教は源流のユダヤ教とイスラム教ともに唯一の神をあがめる一神教であり、この思想のもとで都市文明を生み出しました。森の神であるフンババを殺害したギルガメッシュの伝説がこれを物語っています。砂漠の民であるかれらは攻撃性を持ち、自然と戦い、制服する環境から生まれた唯一の神を信じ巨大都市文明を創り出し世界にひろめていきました。
2012/07/01
一方、農耕牧畜や砂漠地帯の宗教であるキリスト教は源流のユダヤ教とイスラム教ともに唯一の神をあがめる一神教であり、この思想のもとで都市文明を生み出しました。森の神であるフンババを殺害したギルガメッシュの伝説がこれを物語っています。砂漠の民であるかれらは攻撃性を持ち、自然と戦い、制服する環境から生まれた唯一の神を信じ巨大都市文明を創り出し世界にひろめていきました。
2012/02/20
三好達治の世界
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかのあし音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ
三好達治は1900年(明治33年)生まれ。大阪陸軍地方幼年学校から、東京陸軍幼年学校にすすむ。当時、行動的日蓮主義者であり、西田 税らと幼年学校の二年のとき校内の軟派批判活動で、「文弱淫蕩の俗風己に台上をおかした。質実剛健の意気と正義と今や地に墜ちんとして居る。 休日にはカフェー浅草を彷徨して不純の気に我自ら浸り・・・国家の内外に思いを馳せよ、是くの如くんば大日本帝国滅亡の日思いの外に速く来らん。」と愛国の激文を書いた。
そして卒業後大陸雄飛の夢をいだいて、朝鮮半島の会寧で仕官候補生の生活を送った。この朝鮮半島生活の印象を「二つの異なる民族によって同時に一つの土地が占められことはできないかもしれない」記している。その後、1920年(大正9年)陸軍士官学校にすすむも、この士官学校を脱走し収監され退校処分となった。こうして軍人になる道は断たれた。
時代は日露戦争後の大正デモクラシーとよばれる一時期で、ロシア革命が起き、それに対して日本はシベリア出兵を行い、国内ではインフレから米騒動が全国に広がり、当時労働運動と社会主義運動が結びつき、共産党が結成された。一方国粋主義者たちは猶存社を結成し、安田財閥の安田善次郎暗殺事件がおこる。
軍人になることをやめた三好達治は、21才のとき第三高等学校に入学、そして、東大フランス文学科に進学。在学中の1930年(昭和5年)30才のとき測量船を刊行。 この中には、「春の岬」、「乳母車」、「雪」、「甃のうへ」などの有名な詩が含まれている。
その頃に、ヨーロッパの経済の破局とアメリカの恐慌の混乱の最中に満州事変がおこされる。国内では、資本家や政治家に対する暗殺が頻発し、1936年(昭和11年)陸軍皇道派の起こしたクーデター二 二六事件の煽動者として青春時代での同士であり盟友の西田 税が処刑される。
日中事変後は上海特派員として、「艸千里濱」「列外馬」などを収めた詩集「艸千里」を 1939年(昭和14年)に刊行。その後の日米開戦から敗戦まで、「一點鐘」、「花筐」などの詩とともに愛国的詩集「寒析」「干戈永言」「捷報いたる」などを発表し国民詩人としての地位を確立した。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
初期の静かな透明感有る叙情は萩原朔太郎のもとで学び、影響を受けさらに研ぎすまされていく。実生活ではその萩原朔太郎の妹と再婚し、三国でしばらく生活をおくった。しかし、美しく静かな詩の表現とは遠くかけ離れた激しさから、生活の破綻を来たした。
星冴え
山々か黝くたたずみ
聚落寂寞として
灯火暗く睡れるに
丁鼕とはるかに聲あり
今日の日の凛冽たる意志
「寒折」の中に初期の測量船の「雪」と同じ響きを感じる。フランス文学から得た西欧的知性と日本的叙情の融合した初期の作品から出発し、戦争中は愛国詩を描きそして大戦後の昭和21年には雑誌新潮の「なつかしい日本」で天皇の退位を主張した激文を発表した。
「私は先に陛下の御責任は身自ら陸海軍の大元帥陛下として、名ありてその実のなかりし疎粗慢の点にかかって存することを指摘したが、陛下の御責任は
・・・」
戦後「駱駝の瘤にまたがって」「百たびののち」でふたたび詩集を発表し文壇に復活した。
2012/01/29
高橋和己
2011/12/31
横山 大観
島根県安来市にある足立美術館は日本庭園で有名で、最高の日本庭園としてアメリカで評価されています。この庭園にある美術館は近代日本画が多く展示され、特に横山大観は初期の作品から、晩年まで約130点にのぼる膨大な数が集められています。
明治時代は徳川300年の鎖国が破られ、西欧の文明によって日本は文明開化し、亜細亜的な伝統と日本の文明にかわって欧米の社会システムをグローバルスタンダードとして受け入れることによって近代化した。一方、それに反発する国粋的ナショナリズムもおこった。
美術においても、日本画は古いものとされ,多くの水墨画、屏風絵、浮世絵などは海外に流失あるいは二足三文で売られていった。 これに対して、岡倉天心はフェノロサとともに日本の伝統的美術品である水墨画、仏像、陶磁器の復権とそれらを守る運動に奔走した。
1889年(明治22年)東京美術学校が設立され、日本画のみの学校で出発した。その後、黒田清輝を主任に招いて西洋画科が開設された。そして黒田清輝を中心にし、油絵による遠近法を用いた技法をフランスの印象派から学び.日本における西洋画を確立した。この西洋画がしだいに日本での主流となった。
岡倉天心は途中で東京美術学校の校長をやめざるを得なくなり、日本画の伝統をうけついだ美術を指導する日本美術院を起こした。そこで横山大観や菱田春草は学び、日本画の一潮流を形成して行った。
岡倉天心は東洋の理想で、「亜細亜は一つである。ニつの強力な文明、孔子の共同主義をもつ中国人と、ヴェーダの個人主義を持つインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔てているというのも、両者それぞれの特色を強調しようがためにすぎない。雪を頂く障壁といえども、すべてアジアの民族にとっての共通の思想遺産ともいうべき究極的なもの、普遍的なものに対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることは出来ない。」として西欧文明に対するアジアの文化の優位性を主張した。
西欧から学び近代化した日本はアジアの大国となっていった。 大正から昭和時代になると西欧デモクラシーに変わってしだいに日本全体が国際主義から国粋主義的になり、軍国化していった。そしてこの反西欧、反資本主義の波は、横山大観の日本の風土や自然、富士山や大海原、桜をえがいた絵画を国家と民族を象徴するものとし、ついには時代精神と共鳴し、彼を第二次大戦時国家の推薦する日本画の代表に押し上げた。
イタリアでは1922年(大正11年)ムッソリーニが、第一次大戦後社会主義思想による社会の混乱を非共産主義,反資本主義を掲げ大衆の支持を勝ち取り政権の座についた。1930年(昭和5年)横山大観は速水御舟らとそのムッソリーニに会うとともにローマで、1ヶ月の日本美術展を開催し16万人以上の入場者を記録した。
また、ドイツでは1933年(昭和8年)にヒトラーが政権につき、1939年(昭和14年)スペインではフランコ独裁政権が樹立された。ヨーロッパ大陸はこれらの独裁国家が大きな力を持ちはじめた。このドイツのヒットラー総統に横山大観の画「旭日霊峰」が、また中国の汪兆銘に「昇龍」が日本の芸術の成果として贈呈された。
この大アジア主義は昭和に入りアジアでの支配、資源獲得へと方向をかえ、大東亜共栄圏の構想となり、その理論的根拠としての近代の超克が語られた。それは、ヨーロッパの帝国主義的原理からなる近代主義、機械主義の世界秩序を転換させアジアはアジアとして新たな道義的秩序からなる世界へ変更させる世界観であった。
その後,真珠湾攻撃から日米は開戦にいたる。
横山大観は1943年(昭和18年)には大日本美術報国会の会長になり、多くの戦時中の絵画,戦争絵画を生み出した。そのうちの「海山十題」は日本主義の精華として国民の圧倒的支持をうけた。
現在、横山大観の絵画に対する評価は定まっていない。
参考 絵筆のナショナリズム 柴崎信三 著
2011/11/23
カンボジア
国際政治と小国の運命
カンボジアの気候は、雨季と乾期にわかれ11月から半年が乾期で,5月から10月までが雨期で、この雨期には毎日湿気と熱気で熱帯の熱さに包まれ,川は増水しトレンサップ湖はまんまんと水をためる。今回のタイ,カンボジアの洪水も雨季に大量に降った雨が,国土の広大な地域に洪水をもたらしたものです。
雨季には道路はぬかるみとなり,乾期にはラテライトの赤い土埃を舞い上げるカンボジアとタイの国境地帯では,一部の地域はジャングルを思わせる樹林が生い茂るが,ほとんどの地域は乾期にはまったく雨が降ってこないため,植物は落葉し,枯れるものも多く見られ、灌木の平地が連なる。
1979年この国境地帯の平地を追い詰められ、難民となった人々に混じってカンボジアのタイ国境近辺にポルポト政権指導部は居住地を確保した。また難民は100万人を超え国境を超えタイ領内にキャンプを作り、水、食糧、医療などの援助をタイ政府の管理のもとでうけいれた。日本からも1979年12月から1982年の12月まで医療チームがカンボジア難民の治療にあたった。
1930年頃のフランス植民地下のプノンペンは、支配者のフランス人の他ベトナム人、中国人、マレー人も多く生活をしていた。
第二次大戦後の1954年、シアヌーク国王のもとに,カンボジア王国をつくり独立した。1960年代前半にはカンボジアの黄金時代とよばれ、治安はよく平和は続いていた。ところが、ベトナム戦争の最中、1970年にアメリカに近いロンノルらが、シアヌークの海外滞在中にクーデターがおこし政権をとった。
その後1975年にベトナムのサイゴンが陥落、同じ年の4月にカンボジアでは,ポルポトらのクメールルージュがロンノル派の政権をうちやぶり政権についた。ポルポト政権は原始共産主義ともいえる極端な政策を実効し、都市から地方に人々を追い出し、農業に従事させた。現実を無視した極端な社会主義が全国土で実行され、カンボジアの経済も農業もすべてを破壊した。
クメールルージュほとんどが貧農出身の若者で構成され,教育程度も低く粗野で,実用的技能を持たない無能な支配者たちで、彼らの命令に従わないものは、逮捕や処刑が待っていた。
ポルポトの理想や思想は情念の奴隷となり自らの猜疑心から、党派闘争で内部の敵をつくり粛正をくり返していた。この猜疑心と恐怖の連鎖に歯止めはなかった。そして、国民に対しても、無謀な政策を実力で強制し、国土全体が強制労働キャンプと化し,700万人の人口のうち150万以上の人々が犠牲になった。
1977年以降ポルポト政権は民族主義的色彩を強めるとともに、ベトナムに戦争を仕掛け、そのため中国の力をたよった。これに対してベトナムで訓練をうけたヘン サムリンらカンボジア人グループはベトナム軍の支援のもとにポルポト政権下のカンボジア軍を打ち破り政権を樹立した。その結果、1979年1月にポルポト政権は崩壊し、追いつめられたポルポトらはタイ国境近くの山岳平地に撤退した。このとき多くの難民となったカンボジア人が国境地帯に居住した。
カンボジアのポルポト政権は中国に援助を求め、タイを通じて武器を手にいれた。さらに,中国はベトナムを撤退させる為、1979年2月、20万人以上の軍隊で中越国境を超え南下させ、北部の都市を占拠した。アメリカは、ベトナムが戦争の長期化で、軍事同盟をむすんだソ連が疲弊することを期待してこれを黙認した。タイもまた東南アジアにおけるベトナムの強大化をきらい、ポルポトを支えた。
国際政治に翻弄された小国カンボジアは1991年ようやくパリ協定が結ばれ戦乱に終止符をうった。
参考 ポルポト 著者 フィリップ ショート
2011/10/10
デジャヴュ
西欧の世界支配がアジアに及んだとき、日本は明治維新で国内の革命を行い、西欧技術を取り入れ対応し、一方中国の清朝は衰退し混乱し西欧の植民地とされつつあった。
この時期、中国では清朝末期で、多くの中国の反政府の人びとは東京に亡命し清朝打倒の『中国革命同盟会』を結成した。そして清朝は1911年(明治44年)の辛亥革命で滅亡し、孫文を中心として今から100年前、1912年(大正1年)中華民国が建国された。
日本と中国が協力し清朝を倒し、西欧に対抗するというアジア主義の夢は実現するかに見えたのは一瞬であった。日本は中国に権益を求め,中国は排日に向かった。すなわち、第一次大戦の翌年1915年(大正4年)大隈内閣のとき,袁世凱に対中21か条の要求を突きつけ,革命派を武力で押さえ,日本の権益を拡張しようとし、それに対してして中国国内で広範な西欧排日運動がおこる。
その頃、日本も大正デモクラシーと呼ばれる時代で、第一次大戦中に戦場とならず経済は急拡大し,国家規範は喪失し、いわゆる成金が多数生まれ,一方労働運動もさかんになっていた。
また政友会と民政党の2大政党制が普通選挙法のもとで行われていたものの、利益誘導の競い合いとなり腐敗政治が蔓延する結果となり、世論の政党排撃論が広がっていった。
その後の日本の経済は1920年には戦後恐慌をおこし、1923年(大正12年)関東大震災などでさらなる打撃をうけ、政府は多くの財政赤字をかかえ、インフレ的不況対策と為替相場の維持、介入というデフレ的対策とその場の応急対策におわれていた。
一方、アメリカの1920年代は最も幸福な時代と呼ばれ、土地の次に株式の天井知らずの上昇時代で国民すべてが投資家となった。 ヨーロッパでは、1925年までにハンガリー、ポーランド、ソ連がハイパーインフレをおこし経済は壊滅状態となった。
次の1930年代はアメリカの金融恐慌から世界大恐慌を来たし、世界同時不況となり、グローバル化した自由な経済活動と繁栄の時代から、一転し、国家による経済統制、アメリカやイギリスによる経済ブロックが形成され自由経済体制は崩壊した。1931年イギリスは金本位制度をやめ、猛烈にポンドを切り下げ、これに対抗してアメリカも金本位制度をやめ為替を切り下げた。そのためフランスは猛烈なデフレになりみまわれた。日本でも、不況が続き、政党内閣制、国際協調体制、国際金本位制ともに崩れ去った。
永井 荷風は日記に、「日本の現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚無きことの三事なり」と書き記しています。
指導的な国の不在が1930年代の世界恐慌につながった(キンドルバーガー)そし て,通貨下げ競争や貿易戦争が勃発し、資本の国家統制が行われ、社会と政治は混乱にみまわれた。 現在、世界はしだいにこの時代に似た様相を呈してきています。