2013/03/02

キューポラのある街と戦後民主主義


 
キューポラのある街」は1962年(昭和37年)早船ちよ原作の日活映画で吉永小百合を一躍有名にした。鋳物工場の建ち並ぶ戦後の街の労働者たちの生活や北朝鮮へ帰国する友達などとの交流、貧しいながらもけなげに生きる市井の人々を描いた。
 工場での労働者たちと勉学をめざすジュンのひたむきな向上心、楽園である北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への帰国、それらすべてが戦後の民主主義的価値観を色濃く反映し画面に現れている作品でした。吉永小百合は共演した浜田光夫とその後も石坂洋次郎原作の「青い山脈」「草を刈る娘」「光る海」など多くの青春映画でコンビを組んでヒット作を残している。

  当時の日活は戦後民主主義の代表的作家石坂洋次郎の作品を次々と映画化した。彼の作品は政治の背景に戦前の旧い家制度、家族関係や男女関係があり、戦後この家制度から開放され、個人は自由になった。個人は率直な発言をし、行動することで、社会の抑圧や、家族の重圧をたち切ることが民主主義であるとした。

 「太陽の季節」や「狂った果実」の石原裕次郎もまた戦後新しい価値観を担ったヒーローで、どちらも石原慎太郎の脚本であった。裕次郎もまた石坂作品に数多く出演している。その主演作は以外と多く「乳母車」、石坂洋次郎が石原裕次郎をイメージして書いた「陽のあたる坂道」、「若い川の流れ」そして吉永小百合と共演した「若い人」などがあった。
 「あいつと私」の中の60年安保闘争の場面で、「自分は政治オンチだが、しかし新安保の議会での通し方は癪にさわるからな。それだけのことでもデモ隊に参加する資格があるさ」といって、デモに加わるシーンはその時代の雰囲気をあらわしている。

 この60年安保闘争を理論的に主導したのが丸山真男で、戦後民主主義の騎手、リーダーであった。1946年(昭和21年)『世界』に発表された「超国家主義の論理と心理」で昭和日本のファシズム体制を解体し分析した。

 「天皇制は中心が中空で万民が中心から同心円状に支配される。自由な主体意識が欠如し、行動の基準がより上級の者によって規定される。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次移譲していくことによって全体のバランスが維持される体系である。
 市民生活や軍隊生活において圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆がひとたび優越的地位に立つとき、爆発的衝動に駆り立てられる。」と戦前の軍国主義下の心理を解明した。
 
 その後、岩波新書から「日本の思想」を出版。日本思想における神道の役割について「神道はいわばたてにのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めて来た。この無限抱擁性、と思想的雑居性が特徴である。」とした。

 明治憲法については、伊藤博文らはキリスト教に変わるものとしてその中に、国体という名の非宗教的宗教をつくりだした。

 天皇制における無責任の体系では、「大権中心主義をとりながら、元老重臣など超憲法的存在の媒介によらないでは国家意志が一元化されないような、決断主体を明確化することを避け、もちつもたれつの曖昧な行為連関を好む行動様式がめいめいに作用している。「輔弼」とはつまるところ、統治の唯一の正当性の源泉である天皇の意志を推し量ると同時に天皇への助言を通じてその意志に内容を与えることにほかならない。さきにのべた無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいて巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。」

 このように昭和日本の戦争にいたる国家のシステムを分析し、「敗戦は、日本軍国主義に終止符が打たれ、自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。」と宣言し、戦後、60年安保闘争までを日本を代表する知識人として主導した。

 戦前の国体思想、家制度から解放され、個人の自由な考えや行動が至上の価値であった、希望に満ちた輝ける一時期が戦後民主主義の時代でした。

2013/02/11

中国人留学生魯迅と太宰治


 戦時下の太宰治の長編小説「惜別」は、魯迅の小説「藤野先生」を題材にして書かれたもので、1945年(昭和20年)大東亜共同宣言の独立親和を目的に情報局と日本文学報国会が推薦する作品を募集し、それに応募した小説です

  太宰治はその作品の意図について以下のように述べている。
 明治35年、当時22才の周樹人が、日本国において医学を修め、もって疾病者の瀰漫せる彼の祖国を明るく再建せむとの理想に燃え、清国留学生として,横浜についた、というところから書きはじめるつもりであります。清潔感、中国においては全然見受けられないこの日本の清潔感はいったい,どこから来ているのであろうか。彼は日本の家庭の奥に、その美しさの淵源がひそんでいるのではなかろうかとかんがえはじめます。あるいははまた,彼の国においてはまったく見受けられない単純な清い信仰を、日本人がすべて例外なく持っているらしいことにも気がつきます。
 魯迅の晩年の文学論には、作者は興味を持てませんので,後年の魯迅のことにはいっさい触れず、ただ純情多感の若い1清国留学生としての「周さん」を描くつもりであります。

 魯迅はこの小説の舞台となった東北大学医学部を中退し、その後、中国に帰国した。
 太宰の興味を持てませんとした小説や文学は有名な「阿Q正伝」や「狂人日記」、「故郷」などが、1918年(大正7年)に出版された『吶喊』の中に収められている。1920年代になると 生命の泥は地に捨てられ、喬木を生まず、ただ野草を生む。の題辞ではじまる散文詩『野草』を、朝露を帯びた花を手折るのであれば色も香ももっとよいはずだが,私にはそれができないから題をとった『朝花夕拾』。その中の一編に「藤野先生」がある。
 1930年代には抗日文芸家として左翼作家連盟に関与し多くの文芸評論集を出している。毛沢東は彼には奴隷根性やへつらいの態度がいささかもない,中国文化革命の主将,偉大な文学者,偉大な思想家、偉大な革命家、最も認識が正確、最も勇敢、最も決然としている、最も忠実、最も情熱を持っていると絶賛した。毛沢東が硬骨の人と魯迅を讃えたのは、1940年(昭和15年)「新民主主義の政治と新民主主義の文化」の講演会であった。


ぼろぼろの高い壁にそって、やわらかい埃を踏みしめながら私は道を行く。

無為と沈黙だけで乞食をするのか
少なくとも虚無は得られるだろう。
そよ風がふいて、あたりは一面の埃だ。ほかにも何人か、
めいめいに道を行く。
埃、埃

 中国の動乱期に時代と格闘し寂寞と虚無をとおして文学の可能性を示した詩や,小説を書き、政治に関与した啓蒙的な数々の論評や多くの翻訳を残し、現在でも中国国語の教科書に最も多くのせられている。
 

 作者の太宰治は1930年代昭和の初期私小説「晩年」を発表した。幾度かの自己破壊の精神的危機を乗り越えて戦時には、リアルな私小説は、もうとうぶん書きたくなくなりました。フィクションの明るい題材のみ選ぶつもりです。として1939年(昭和14年)に「富嶽百景」「姥捨」「女生徒」を 翌1940年(昭和15年)「思ひで」「走れメロス」1943年(昭和18年)に「右大臣実朝」、翌年には「津軽」を発表して有名作家の一人となった。戦争の激化とともに翌年の戦争末期に応募した「惜別」は戦後になって出版された。

 魯迅が日本留学時、日露戦争で日本の勝利を目撃し、明治維新は蘭学の科学ではなく国学の精神による。日本人の国体思想、天皇への忠義が国民すべてにあることを知り、医学救国の道ではなく自国民の教化のためにはまず文学による精神の啓発が第一と考えるようになった。また仲良くなった10才の子供の慰問文の国体の精神に感心し、儒教やキリスト教についての考えを語っている。太宰作品のなかで宗教や政治をとりあげたまれな作品となった。
 それらの文学表現、言葉が考証から想像した魯迅の考えなのか、あるいは主人公に仮託した太宰のものか、あるいは時代思潮の代弁なのか、反語なのか、この小説の意図ははっきりしない。

  戦後は非政治的小説「斜陽」が単行本として発売され、1948年(昭和23年)には初期の 道化の華に似た私小説「人間失格」を書き掲載予定であった「グッドバイ」を最後にその年入水自殺し私小説作家として一生を終えた。
 

2013/01/28

日本の面影 小泉 八雲






 宍道湖の夕日は美しい。

 日本で見る落日は、熱帯で見るそれとは違う.日本の陽光は夢のように穏やかで、そのなかには極彩色は見られない。はるか彼方の湖水の一番深い辺りは、言葉にできないほどやさしいスミレ色に染まり、松林の影に覆われる小島のシルエットが、その柔らかで甘美な色彩の海に浮かんでいるように見える。

 ラフカディオ ハーンは1890年(明治23年)アメリカから横浜につき、汽車に乗り神戸を通り、そこから4日かけて松江に到着した。
 松江の師範学校の英語教師として赴任。日本人の武家の娘、せつと結婚、翌年には武家屋敷に居を構え、明治の近代化によって消えゆく日本の面影を書き残した。
 この松江時代の「知られぬ日本の面影」は日本で出版した最初の作品集で 1894年(明治27年)ボストンとニューヨークで同時に発売された。日本の江戸時代から続く庶民の心の内の生活、日本人の宗教、思考様式、民間信仰、とりわけ仏教から派生した考え方めずらしい迷信をえがいた。そこには身分制度の元に貧困にあえぐ農民や庶民ではない、美徳を実践し、汚れない生活、信仰の儀礼において、キリスト教徒を遥かにしのいている日本人の姿を見出した。

 遊ぶ子供たちの童歌、柏手の音、楽しげな風の吹く橋の上の下駄の音。あるいは、日本海に沿って人力車で旅した時の、日本の自然の美しさを驚嘆の思いで描いている。
 「水田は小さな青田が、蛇のように曲がりくねったあぜにくぎられながら、いくつもいくつも並んで続いている。左手に青くうねる海の波、右手には青田の緑の波がひたすら続く、どの小さな漁村でも盆踊りがあり、盆明けにはいっせいに精霊流しの船が河にながされる。」

 
 お気に入りの日本庭園では、3つの日本庭園の作庭と蓮池の美しさ、庭の生き物 蛙、蛍、蝉,蝶、蜻蛉そして多くの鳥たちに囲まれた生活を描き、草も木も,また岩も石も、まさに一切涅槃に入るべしを奉じている宗教が生み出した芸術であると語っている。

 1904年(明治37年)には地方に伝わる古くからの布団の話、子捨ての伝説を聞き、これをもとにした文学作品集「怪談」を世に出した。「雪女」では、固く口止めされていた話をした途端、寒い雪の中、美しい女の姿が消えさるはかない物語りであり、仏教世界と平家物語を素材に描いた有名な「耳なし芳一」などがある。

 小泉八雲最後の文化人類学知見を集大成した「神国日本解明の一試論」は
彼の死後1ヶ月たった1904年(明治37年)10月に出版された。

 ハーンを魅了した日本人、どこにも、誰にも、見られる上品さ、微笑を見せながらもの静かしている群集、辛抱強く、働いているさま、惨めさも、またこせこせしたところも見られない姿。これを支える心性を文化人類学的方法で分析した。

 「神道は祖先崇拝から生まれる。死者に対する崇拝ならびに生者に対する義務感、両親にささげる子供の愛情,子供に対する親の愛情、夫婦相互の義務,養子、養女が家族全体にはたす義務,戸主に対する使用人の義務、扶養家族に対する一家の主のつとめ。日本の倫理体系はこの家の宗教から出ている。
 まだなお遠い昔の祭祀は全国土に残り、家族の掟、共同の生活地区の掟、江戸時代の旧藩の掟などで、これらは人々の生活の行動を支配している。」

 
 「自由競争のない社会が、あらゆる職業に見られ,人力車は力強い若者は決して,年老いた車夫を追いぬいたりしないし、建築の請負い,庭師の仕事あらゆる分野において仲間で組織を作り,単に個人だけの利益のためにおこなわれる競争を禁じている。あらゆる職種にわたってもうけられる不文律は特別の許可なくして、仲間を出し抜こうとしてはならないというものである。」

 神道の源流にさかのぼり分析し、神道は家の宗教,地域の氏神としての宗教で、さらに国家としての宗教があり、この神道の倫理、慣習への無条件な尊守、世間の圧力の下に人々は生活を送っていること。
 またその後に大陸より伝流した仏教の極楽浄土,焦熱と氷寒地獄や輪廻転成の思想や、仏教芸術がもたらされ、より世界をうまく解釈し,神道と共存した。これが日本文化の古層であり底流として庶民の生活の規範となっている。
 
 日本を理解し、世界に紹介したハーンは54才でこの世を去り、日本で今でも読み継がれている多くの文学作品、紀行文、論評を遺している。

2013/01/14

都市の思想


 Nature does not know how beautiful the sunset is.
自然は夕日のいかに美しいかを知らない。         ルイス カーン



 20世紀はル コルビジェが「偉大な時代がはじまった。」「自動車は走るための機械である。飛行機は、飛ぶための機械である。住居は住むための機械である。」といって、この時代精神を表現し、モダニズム理論を先導した。そして工業技術が発展し,世界の各地で都市に人々は集まり、建築は造形芸術として多大な影響力をもつようになった。
 ニューヨークなどの大都市にLess is more.の思想で、コンクリートとガラスの巨大建築を林立させたミースらは革新的技術を用いた時代の先端をいく巨大ビルを設計し、都市設計の中心となった。そして、東京など世界の多くの都市がよく似た高層ビルを林立させた。

 一方、ロシアの都市モスクワ市は典型的な旧い時代の歴史的建物を数多く残している。その中心にある要塞跡のクレムリンの赤の広場からは、聖ワシリー聖堂などの多くのロシア正教会の建物やスパースカヤ塔などの多くの尖塔がみられ、さらに国立クレムリン宮殿や武器庫、レーニン廟も要塞のなかに建てられています。これらの建物はかつて巨大な建物は宗教のための教会であり、権力者の要塞であり、宮殿であった歴史を物語っている。

  ソ連時代になると1947年、スターリンが世界の模範的となる首都をつくる計画を構想し,モスクワの7つの丘に7つの巨大建築を建て、地下鉄をめぐらせ,住居を造り新たな都市建設を試みた。建築はイデオロギー的で政治的な問題だとして、銀行の建物に多くみられたコリント式円柱を用い、クレムリンの城壁を借用してモスクワ大学など、壮大、巨大な建造物を建てた。その建築哲学は科学的、社会的文脈で語られた。
 モスクワ大学は高さ235mで尖塔の先には稲穂と星がつけられ、ロシアの伝統様式と古典様式に従って建てられたもので、他のホテルやアパートなどあわせて7つの巨大な建造物はスターリン様式と呼ばれ共通の構造を持っている。



 これらの宗教的建築、近代主義建築や社会主義建築と対極の思想のもとに建てられ建築が20世紀にあった。

 リチャードギア主演の アメリカ映画「心のままに 」は1983年の作品で、舞台となったのがソーク生物学研究所研究棟。明るい中庭から、光り輝く太平洋が広がり、まばゆいばかりのカルフォルニアの陽光がコンクリートの壁面にあたり、晴れた日には陽に映える床に光りと影の美しい模様を描き出す。これがルイス カーンを一躍有名にした建物で、その後インド経営大学の煉瓦つくりのアーチを用いた建築を設計し、キンベル美術館を建て、やがてバングラディシュの首都ダッカの広大な敷地に国会議事堂,最高裁判所、宿舎、学校、スタジアム、大使館、住宅、市場を建てる都市計画がかれの構想のもとに実現された。

 スターリンはモスクワの都市計画をたて,最初はルコルビジェにも依頼し,それは実現されることなく終わり、また カーンによる西パキスタンのイスラマバードの都市計画も実現しなかった。壮大な都市計画が現実のものとなったのはバングラディッシュの首都ダッカの国会議事堂を中心とする都市計画で、現在もその首都の建築群は20世紀を代表する建築として評価されている。
 これらの建物は洪水から守れるように池や湖をまわりに造りそれを盛り土とし、国会議事堂の巨大な建物の入り口にモスクを配置し、構造とは光によるデザインのことであるとして、光りを巧みに制御し光の陰影によって空間に表情を与え、機能的に美しく建設した。そしてこの都市計画全体を彼の哲学に基づいて建設していった。

 その考えは architecture comes from the making of a room. という建築は内から決まるとする概念から出発し、建築をつくるとは、空間を限定することであり、空間を限定することによって、人間と人間の関係を規定することである。住まいは、ルーム部屋であり、そのまわりにアーキテクチャー建築がある。そしてさらにその外側に、街がつくられ都市とな
る。

A city should be a place

where a little boy walking through its streets can sense what he some day would like to be.

 建築を元初から組み立て、思考し設計した。これは初期の住宅計画、フィラデルフィア都市計画の時代から個人住宅設計そして新しい首都の建設計画までかわることのない哲学で、 ルイス カーンの作品群は戦後の豊かなアメリカ精神の結晶ともいえる。


2013/01/04

 三島由紀夫 死への誘惑 その1



三島由紀夫と自刃

 三島由紀夫は1972年(昭和47年)1125日、市ヶ谷の自衛隊の駐屯地のバルコニーに立ち、ビラを配り演説をした。
『今こそ我々は生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。我々の愛する歴史と伝統の国日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬやつはいないのか。もしいれば、今からでもともに起ち、ともに死のう。』

 自衛隊員の野次と怒号の中、天皇陛下万歳を三唱して部屋に戻り、森田必勝とともに切腹した。

 三島由紀夫は戦後いち早く、常識を破る芸術至上主義の作家として売り出し、特異な行動する作家として注目された。しかし政治の舞台の常規を逸した行動は人々の理解を超えるものであった。 同じ年の228日には浅間山荘事件で赤軍派が逮捕され、機動隊員など3名の死者を出し、多くの仲間の死亡が明らかにされ過激な政治の季節は終わりをむかえた。

 大正の末期に生まれた三島由紀夫は本名平岡公威、エキセントリックで貴族趣味の病みがちな祖母のもとで,過保護に育てられた。

 戦前1941年(昭和16年)16才で「花ざかりの森」を文芸文化に連載し、平安時代から祖先のそれぞれの時代の異なった物語を洗練された古典的文体で描き、恐怖と憧れの心理を繊細な感受性で表現し当時の日本浪漫派に絶賛される。

 戦後1949年(昭和24年)「仮面の告白」で当時の日本社会の常識を打ち破り、精神分析的手法で自己分析し危険な美を告白し流行作家としてデビュウした。 そして,「ともすると私の心が死と夜と血潮へと向かってゆくのをさまたげることはできなかった。」と告白している。この暗闇の世界から、太陽の下での物語「潮騒」や、実在する事件を題材とした「金閣寺」などで広く人気を集め,映画化され流行作家になっていった。小説に飽き足らず肉体を改造し、映画に出演し、演劇を脚本し、映画もつくり小説以外のさまざまな芸術の世界で話題を巻き起こし、奇抜で危険な作家を演じつつあった。その後、行動はしだいに政治にも及ぶこととなった。

 1959年(昭和34年)鏡子の家で、右翼思想の人物を登場させ、自分が右翼集団に参加しているのは思想ではなく、死の陶酔だと想像するものとに触れたいという個人的な欲望からだと告白している。

 翌年1960年(昭和35年)に短編「憂国」を執筆。2 .26事件を題材に死を至福の物語として切腹の場面を延々と描写した。これをもとに5年後に映画化し、最初にフランスで公開された。この作品のなかの残虐描写と天皇崇拝、死への願望が描かれ、時代とともに政治化してゆくその後の三島由紀夫の行動、美学の原点となっている。

 思想的に天皇制擁護と愛国心を表に出した作品は1966年(昭和41年 )の「英霊の声」で『戦後日本の精神的退廃の原因は天皇の人間宣言であり、神風特攻隊の死は無意味になり、彼らの英霊が嘆き悲しむ。』として独自の天皇制復帰論を書き上げた。

 最後の大作となる「豊穣の海」では、第一部 春の雪、第二部 奔馬、第三部
暁の寺、第四部 天人五衰の4部構成になっていて、明治から現代までの六十年間の日本を舞台に各編の主人公が輪廻転生し登場する。この最後の長編作品の物語は美しい文体と三島的精神主義とともにやはり主人公の最後や神風連の描写は殉教する若者、切腹の美学があった。初期の作品から恐怖は憧れであり,美は危険な美、醜悪な美もあり、生の充実は死にあるとした思想が底流にあった。

 三島由紀夫にとって、死へのあこがれ、至上の美としての死があり、社会のためには天皇崇拝が必要であり、さらに自分の物語の実現のためには相手を必要とした。その相手が共産主義で政治行動の規範「反革命宣言」を発表し共産主義に反対し日本の美の伝統を体現すると宣言した。
 この時代の現実に即さない宣言は、幼い時に満たされなかった心の中の願望なのか、盾の会をつくり、自衛隊に入隊し、訓練を受け、日本は左翼に乗っ取られ危うくなる、これに対して我々は生命をかけ楯となり日本を守る覚悟を語り、全共闘に対話をいどみ、最後には切腹を実行にうつし自らの物語を完結させた。




 参考 ジェニフェール ルシュール著 三島 由紀夫

 



 
 
 

2012/10/07

ロバート キャパとレオナール フジタ




戦場のカメラマンと戦場の画家

 戦場のカメラマン ロバート キャパは1913(大正2年)にエンドレ エルネー フリードマンとしてハンガリーのブタペストに生まれる。ヨーロッパ大陸がドイツやイタリアの枢軸国に支配され、ハンガリー生まれのユダヤ人であるキャパは、1933年(昭和8年)パリに亡命する。
 パリからカメラマンして、スペイン内戦でフランコ将軍の独裁政権打倒を目指す共和国軍と生活をともにし、多くの戦闘場面と戦場の民衆をカメラで描いた。戦争の激情、民衆の恐怖をカメラでとらえ、写真で人間の本質、悲しみ、明るさの生々しい真実を一枚の写真に描き出すことに成功した。その後は第二次大戦のノルマンディー上陸作戦、パリ解放などを写しフォトジャーナルの創始者として世界中に知られる戦場のカメラマンになった。

 
 パリにキャパの亡命したころパリのモンパルナスは芸術家たちの楽園で、ピカソやモジリアニといった画家ヘミングウェイやフィッツジェラルドの小説家などの芸術家が多く集まり、エコール ド パリとよばれ、さらにドイツなど東欧からの亡命者達で才気あふれる若者たちの聖地であり、また日本人画家、小説家達も多くパリに住みつき、若い才能を開花させ、競い合っていました。その中で最も有名な画家が藤田嗣治でした。1925年にはフランスで最高のレジョン・ドヌール勲章を授与され、夜の仮装舞踏会でもおどけもの藤田としても名をはせ誰ひとりとして名を知らないもののない時代の寵児でした。

 キャパの亡命した同じ1933年(昭和8年)藤田は日本に戻り、日本の地方の街や村を描き、1937年(昭和12年)海外に宣伝のための「子供の日本」というドキュメンタリー映画で四国の田舎の日本の情景を描いた作品を作成した。
 翌年1938年(昭和13年)藤田は、海軍の委嘱画家として、中国漢口に従軍し、「征戦従軍三十三日」の従軍記や「漢口突入の光景」などの戦争絵画を完成しています。これは政府が国民の戦意高揚、宣伝のために動員したもので、菊池寛、吉屋信子、久米正雄などの作家や、藤島武二などの画家などの文化人総勢100名以上が参加している大規模な宣伝部隊でした。

  亡命後写真家を目ざしモンパルナスで貧しい生活を送っていたアンドレーフリードマンはアメリカ人風のロバート キャパという名前にかえ人民戦線の報道カメラマンになり、ここから新しいフォトジャーナリストが誕生する。1936年(昭和11年)フランコ政権と戦う世界各地から駆けつけた義勇軍と生活をともにし、地下鉄駅に逃げ込んだ人々や大学都市の建物に立てこもり戦う義勇兵を映し出し戦場をフォトストーリーとして発表し、写真で物語を描き出した人物としてパリ、ニューヨーク、ロンドン、モスクワそしてバルセロナで出版され世界の注目をあびることとなった。

 1938年(昭和13年),キャパはヨリス イヴェンスと中国に出かけた。これは日本に対抗し戦う蒋介石陣営の側にアメリカ世論を動かそうとするライフ社との契約にもとづくものであった。
 蒋介石の率いる国民党は南京から首都を漢口に移していた。その首都が日本軍に空襲される場面を映像に残し、国民党が日本軍の進撃を食い止めるために、黄河の堤防を破壊し何百万人もの農民達が被害を受けた様子も撮影した。
これらの写真はアメリカのライフに掲載されただけでなく、フランスのルガールも「漢口は中国のマドリードになるであろう。」とタイトルをつけ数十ページにわたって特集し出版した。キャパは9か月の中国滞在のあとフランスに帰国しふたたびスペイン内戦の戦場に向かった。

 1939年(昭和14年)一時フランスに戻った藤田嗣治は,猫などの絵を発表したものの,ドイツ軍のパリ占領により翌年には再び日本に帰ることとなった。ノモンハン事件を題材とした「哈ル哈河畔の戦闘」や、「十二月八日の真珠湾」攻撃を発表した後、藤田が最高の傑作とした「アッツ島玉砕」を描いた。 これは戦意高揚などとはほど遠い英霊の声を聞き兵士たちの鎮魂の画であり、「サイパン島同胞忠節を全うす」は犠牲者たちの魂の救済を描いた宗教画に近いもので、人々がその絵の前で涙するのも戦争画をこえた絵画の力かもしれません。
  彼は敗戦後アメリカに渡りふたたびパリにもどり、洗礼をうけ,キリスト受難の宗教絵画や子供たちを描き、永住し日本の地に戻ることはなかった。

 キャパはしばらくアメリカで永住権をとって,母親や兄弟と暮らしたのち,アメリカ従軍カメラマンとして、北アフリカ戦線から、シシリア島上陸作戦に同行し多くの写真をとって出版した。1944年(昭和19年)ノルマンディー上陸作戦の有名な写真はライフのカメラマンとして撮影したもので、そのネガはアメリカ戦時情報局の宣伝機関に委ねられ、軍部などの検閲のあと、同盟国の新聞雑誌や映画に映像を無償で提供していった。そして、アメリカ軍とともにパリの解放の歓喜の写真を多く残し、まさにパリへの凱旋記録となった。

 戦後は、スタインベックとソ連の農民や労働者を撮影しニューヨーク ヘラルドトリビューン社から発表するもスターリン政権下のソ連からはハイエナと言われ,アメリカ共和党からはスターリンの擁護者と非難された。

 
 第二次大戦後フランスは再びベトナム支配を試みた。1954年(昭和29年)5月フランス軍の支配するディエンビエンフーがベトナム軍に陥落しフランス兵捕虜は11000人以上にのぼった。この時の負傷兵はキャパのカメラにおさめられ世界に配信された。同月ロバートキャパはフランス軍に従軍しベトナム軍との戦闘に向かう途中、地雷で命を失うこととなった

2012/09/16

社会保障




 消費税の増税10%が2年後に実施されることが決まりました。一方、社会保障の改革は今後に先送りされました。

 現在日本の状況は国家予算90兆円の40パーセント、約36兆円(国税、地方税、国債費に一部を含む)が社会保障費で占められています。一方、収入である税は46兆円で、毎年44兆円は赤字国債でまかなわれています。この赤字を解消するには、22 パーセントの消費税の増税が必要になります。さらに、本年度までに累積している赤字は960 兆円になりもし50年で返済すれば10パーセント、100年返済で5パーセントの増税がさらに必要になります。両者の赤字を解消するだけで合計30パーセントの増税は必要になります。

 今後10年後に社会保障費の関連費用はどうなるのか。さまざまな試算がありますが、一つのモデルとして、2010年の社会保障関連費は約100兆円が10年後に1.5倍の150兆円になると試算されています。そのうち、保険料を60兆円とすると、現在47兆円の税金が投入されているものが、10年後には保険料を変えなければ税金として90兆円必要になります。

 社会保障費の内訳は、現在の時点で、年金53兆円、医療費40兆円、介護8兆円、福祉その他が13兆円です。この社会保障支出の金額は、高齢者の人数に比例しているため、現在65才以上の人口は約3000万人で20パーセント高齢者が増加すれば、2025年には3600万人を超えそれだけで、福祉関連費用は増加することになるわけです。

 先ず第一の年金は、支払い額の60パーセントは保険料でまかなわれ、この負担は世界水準からみてもかなり高い水準でこれ以上は負担を増やせません。
 次に医療費は自己負担額、保険料以外の公的資金が現在80.8パーセント使われています。2025年頃にはこれが59兆円と全社会保障費の50パーセントをしめる予定で、これをだれが支払い、税はどのように工面するかが問題となります。 
 最後に、2000年に始まった介護保険は50%が保険料、50%が税金でまかなわれていますが、これも高齢者の増加によって、ほぼ比例して増加します。



 社会保険がうまく機能しなくなった根本の原因は、高齢者世代、現役世代、未来世代それぞれの負担と給付の関係を曖昧にし、収めた税と社会保険料がどのように使われているか解りにくくして、結果的に赤字を未来に先送りし、現在の負担を少なくしていることに原因があります。10年以上前から、社会保障費増加は消費税などの税で補填する予定が、安易な借金である国債の発行に頼った結果です。

 現在既に年金を支払わない人が国民保険では増え、年金積立金の取り崩しがおこなわれています。さらに保険料の確保もむつかしくなってきています。これを清算するために、もし今払込まれた保険料を払い戻し、将来支払うべき金額をまとめて支払うと1000兆円の不足をきたし現実には清算も不可能になってしまっています。

 医療保健は、政管健保、組合健保、国保、共済組合に分かれていますが、国保などへの拠出金負担の増加で多くが赤字をかかえ、保険料の負担引き上げか、将来世代への負担先送りかが迫られています。
このままこれらの制度の根本的変更がなされなければ10年後に社会保障料が30パーセントを越す日がくるかもしれません。このように社会保障改革については何をどのように変えるか、きわめて複雑で誰もが明言を避けているのが現状です。

 先日2020年にプライマリーバランス(単年度の財政収支)を黒字化するという国際公約は達成不能であると政府財政試算であきらかにし、今後も毎年当分の間財政赤字をだし続けることを発表しました。現在の国の財政赤字960兆円がさらに増え続けるのは確実です。
 この、何兆円という金額はあまり身近な金額でないため想像がしにくい値ですが、戦前、予算にしめる軍事費のケースがあります。1920年代20%だった軍事費が満州事変のあと1931年にはじめて30%をこえて31.3%になり1937年に70%を超え、その後太平洋戦争突入後には、さらに増えて行きました。これは各種公債発行によるもので敗戦後のインフレで帳消しになりました。戦後は財政法第4条で赤字国債発行は禁止されています。