2013/05/26

登れ,泳げ、走れ




 少年時代から、夢の中で,私は巨大な北面を見てきた。眠れない夜には、
私はあの数々の山腹の峡谷を調べあげ東側の氷壁で浸食された鋭い尾根をはい登り、あらゆる行動を企て,あらゆる手掛かりを予見した。
                             F6 峰登頂
 80才にして、三浦雄一郎がエベレスト登頂に成功した。15年前65才の時体重は増え、筋力は低下し発病寸前の体になっていた。この時点で心のギアを入れ替え、再起のためにエベレスト登頂をめざしてトレーニングを開始した。70才で初登頂に成功し,75才で2度目の登頂に成功した。

 日本人は長寿になり,1950年代100才を超えるのは150人から200人ほどでまれなことでした。昨年2012年にはこの100才以上の人口が2万6000人近くになり、健康寿命も確実にのびています。

 つい最近まで、人類は人生50年の世界に生きていた。人類の歴史をさかのぼり病気や怪我にわれわれの祖先は対応してきたのかをシャレド ダイアモンドの著書「昨日までの世界」で描いている。現存する文明化していない部族の調査から、文明化していない環境での死亡の原因は寄生虫やその他の感染症、人と人の暴力行為、そして事故によるものをあげている。たとえばパラグアイのアチェ族では、事故による死傷の原因の一番目が毒蛇によるもので、次はジャガー、落雷、迷子が続き樹木からの転落、虫さされや傷の化膿,焼死や溺死によるものが死亡の原因としてあげられている。

 これらが文明化によって克服され、とりわけ衛生的な環境と抗生剤による細菌の感染の治療によって多くの病気は死に至る病ではなくなった。それにかわって,十分な食料と座っての生活があらたに高血圧や糖尿病、脂質の増加をもたらし、血管の硬化動脈硬化から心筋梗塞や脳梗塞、じん臓病にかかり病の床にふせる人が多くなった。
 これを防ぐためには、チンパンジーと人類がわかれた600万年前遺伝子に組み込まれた声に耳をかたむける必要がでてきた。それは、毎日活動し、動き回り、食べるものはほどほどにすること。

 とくに食物は何をどれだけ摂るかが重要になってくる。チンパンジーは雑食で、主な食べ物は果実や木の実,花や昆虫など、時にサルやイノシシ、小型の牛の仲間の肉を食べている。人類も最も近い種の動物であるチンパンジーと同じように雑食で、農耕社会になり定住し食料が安定して手に入る1万1000年以上前、狩りと採取の社会では、食べ物が手にはいらず、空腹をかかえ、時には飢餓になる環境に適応して、からだがつくられています。飢餓には耐えられるように適応してきたものの、飽食は想定されて体が出来ていないため、食べ過ぎから病気になる人が多くなりました。


  この便利で豊かな社会になり、病気にならないために、さらなる健康をめざして人々は歩き,走り、泳ぐようになった。最近では若い人に限らず、何才になっても、人々はドーバー海峡やダーダネルス海峡を泳いで渡り、寒い湖や河あるいは海に飛び込み、登山だけでなく水泳もまたは新たな冒険や挑戦の手段となった。

 69才でダーダネルス海峡を泳いで渡ったリン シェールは著書 Swim why we love the water のなかで、水泳の歴史を書いている。

 水泳はエジプトの古代文明の人々にとっては生活の一部であり、東サハラの「泳ぐ人の洞窟」の壁画にすでに河で水泳する人々が描かれている。ギリシアやローマの時代から水泳はあたりまえで、ことわざに「無知な人とは,文字も読めなければ,泳ぐことも出来ないひとである。」 
 中世にはいると、水泳は行われなくなり、ルネッサンス期に復活した。平泳ぎしかなかったヨーロッパにアメリカ大陸の先住民の泳ぎからクロールがもたらされた。19世紀には海水浴がブームとなり、屋内にもプールがつくられるようになった。アメリカでは大統領になったJFケネディーは腰痛を治すためにホワイト ハウスのプールで泳いだ。そして、20世紀のアメリカでは多くの家庭では個人用のプールを自宅につくるようになった。
 
 ピアニストのアンドリュー マクマホンは病気を克服して、swimの曲をつくった。

 泳げ
 つらいときにも、とにかく泳げ
 世界中が見ているよ
 今までがんばってきたのは
 ここで挫折するためじゃない
 そう,泳げ
 沈んじゃだめだ
 ただ地平線を見つけるんだ
 きっと、きみが思っているほど遠くない

現在、健康のため、あるいは人生に挑戦するため登り、泳ぎ、走り,歩く人がふえてきています。
 



2013/03/24

ニュータウン構想



 アメリカは第二次世界大戦に勝利し、つかの間の平和に安堵していたものの、すぐに朝鮮戦争が勃発し冷戦体制に入った。アメリカはソ連に勝つために、だれもが豊かな生活を享受できる国のイメージを打ち出した。

 近くの店には豊かな食料が手に入るスーパーマーケットやコンビーニエンス ストアが出来,日本でのダイエーやセブン イレブンのビジネスモデルとなった。 豊かな生活こそ民主主義国アメリカの理想であり武器であり、ソ連に勝つ戦略で、市民は豊かな生活の享受者となった。それらは、テレビのホームドラマをとおして世界中に発信された。

 アメリカでも戦争直後は、一般には小さな住宅、うさぎ小屋であった。住宅の工業化が一部で製品化されはじめ、その後工場での部品生産がすすみ、ツーバイフォーによる大規模郊外住宅地が大量に供給され、その後、さまざまな工夫と改良により、建物の工業化,大型化が進められた。

 1950年の後半になるとしだいに大量生産の、画一化された建物から、消費者の好みによって、様々なデザインの一戸建て住宅に変わっていった。この住居がその後の日本のお手本となったもので、郊外に庭つき一戸建ての住宅に住み、ここから都心の職場に通い、子供達は、野球やテニスを楽しみ、家の中は最新の家庭電化製品のある豊かな生活。この憧れの実現のために、人々は努力した。アメリカでは1960年代にこの「偉大な社会」は実現した。

 日本では60年安保のあと、池田内閣が所得倍増計画を打ち出した。豊かな生活を求め、アメリカの後を追うことになった。その基盤となる住居、マイホームは家制度と無縁の自由な空間としての郊外住宅や都心のマンションが理想となり、全国に建てられることになった。 
 
 1970年代になると、日本列島改造が全国で始まり、日本にもこの工場製造方式の住宅も造られるようになり、鉄道や道路の沿線上に立てる田園都市構想がニュータウン構想へと発展してきた。戦後の機能主義的建築は、味気ない公団住宅風の画一化をもたらし、それに対してニュータウンは個性的な街造りが復活した時代でした。神戸においても西神ニュータウンの基本構想がこの時期につくられました。西神ニュータウンは1972年(昭和47年)から造成工事が始まり、1981年(昭和56年)には住宅建設が開始され、その中にタウンハウスの構想があり、これは実行されました。建物を長屋のように連棟にして、敷地の一部を共有の庭にしたものです。しかしその後一戸建ての希望が増え、一戸建てのタウンハウスに変わっていきます。

 この頃のに本の家族構成は夫婦と子供たちの核家族で、親類との付き合いや隣近所とのつきあいは少なくして、より個人の自由になる空間が好まれた結果で、個人のプライバシーを重視するものが嗜好されてきました。
 いずれにしても,従来の日本の都市や街にみられるごちゃごちゃした混乱は避けられ、豊かな緑と広告や自動販売機が見られない空間は住む人にとっては大いなる財産で、もし手本にしたアメリカの住宅のようにクモの巣ののような電柱や電線が地中に埋設されたならもっとよかったと今更ながら残念な気がします。

 80年代、株と土地は投機の対象となり、土地神話が生まれ土地は必ず値上がりするものという熱狂にささえられ、高額となった土地は毎年値上がりし、人々は住居を求め郊外へ郊外へと向かっていくことになります。

 
 戦後日本はアメリカン ウェイ オブ ライフを目ざし、経済もまたアメリカ型資本主義を目ざし経済大国になりました。このジャパニーズ ドリームは血縁と近隣の関係を少なくし、職場に帰属意識をもち、安定した修身雇用、年功賃金の社会が確立し経済成長をもたらした。しかし、21世紀にはいり規格されより大型でより大量でより高速の製造業はさらに安価な国々との競争に負け始めさらに高齢化し人口は減少し始めました。

 日本は画一化された拡大成長社会から,多様な生産や省資源を実現する成熟社会に舵を切り替え、変化しなければならなくなりました。


 

2013/03/02

キューポラのある街と戦後民主主義


 
キューポラのある街」は1962年(昭和37年)早船ちよ原作の日活映画で吉永小百合を一躍有名にした。鋳物工場の建ち並ぶ戦後の街の労働者たちの生活や北朝鮮へ帰国する友達などとの交流、貧しいながらもけなげに生きる市井の人々を描いた。
 工場での労働者たちと勉学をめざすジュンのひたむきな向上心、楽園である北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への帰国、それらすべてが戦後の民主主義的価値観を色濃く反映し画面に現れている作品でした。吉永小百合は共演した浜田光夫とその後も石坂洋次郎原作の「青い山脈」「草を刈る娘」「光る海」など多くの青春映画でコンビを組んでヒット作を残している。

  当時の日活は戦後民主主義の代表的作家石坂洋次郎の作品を次々と映画化した。彼の作品は政治の背景に戦前の旧い家制度、家族関係や男女関係があり、戦後この家制度から開放され、個人は自由になった。個人は率直な発言をし、行動することで、社会の抑圧や、家族の重圧をたち切ることが民主主義であるとした。

 「太陽の季節」や「狂った果実」の石原裕次郎もまた戦後新しい価値観を担ったヒーローで、どちらも石原慎太郎の脚本であった。裕次郎もまた石坂作品に数多く出演している。その主演作は以外と多く「乳母車」、石坂洋次郎が石原裕次郎をイメージして書いた「陽のあたる坂道」、「若い川の流れ」そして吉永小百合と共演した「若い人」などがあった。
 「あいつと私」の中の60年安保闘争の場面で、「自分は政治オンチだが、しかし新安保の議会での通し方は癪にさわるからな。それだけのことでもデモ隊に参加する資格があるさ」といって、デモに加わるシーンはその時代の雰囲気をあらわしている。

 この60年安保闘争を理論的に主導したのが丸山真男で、戦後民主主義の騎手、リーダーであった。1946年(昭和21年)『世界』に発表された「超国家主義の論理と心理」で昭和日本のファシズム体制を解体し分析した。

 「天皇制は中心が中空で万民が中心から同心円状に支配される。自由な主体意識が欠如し、行動の基準がより上級の者によって規定される。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次移譲していくことによって全体のバランスが維持される体系である。
 市民生活や軍隊生活において圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆がひとたび優越的地位に立つとき、爆発的衝動に駆り立てられる。」と戦前の軍国主義下の心理を解明した。
 
 その後、岩波新書から「日本の思想」を出版。日本思想における神道の役割について「神道はいわばたてにのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めて来た。この無限抱擁性、と思想的雑居性が特徴である。」とした。

 明治憲法については、伊藤博文らはキリスト教に変わるものとしてその中に、国体という名の非宗教的宗教をつくりだした。

 天皇制における無責任の体系では、「大権中心主義をとりながら、元老重臣など超憲法的存在の媒介によらないでは国家意志が一元化されないような、決断主体を明確化することを避け、もちつもたれつの曖昧な行為連関を好む行動様式がめいめいに作用している。「輔弼」とはつまるところ、統治の唯一の正当性の源泉である天皇の意志を推し量ると同時に天皇への助言を通じてその意志に内容を与えることにほかならない。さきにのべた無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいて巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。」

 このように昭和日本の戦争にいたる国家のシステムを分析し、「敗戦は、日本軍国主義に終止符が打たれ、自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。」と宣言し、戦後、60年安保闘争までを日本を代表する知識人として主導した。

 戦前の国体思想、家制度から解放され、個人の自由な考えや行動が至上の価値であった、希望に満ちた輝ける一時期が戦後民主主義の時代でした。

2013/02/11

中国人留学生魯迅と太宰治


 戦時下の太宰治の長編小説「惜別」は、魯迅の小説「藤野先生」を題材にして書かれたもので、1945年(昭和20年)大東亜共同宣言の独立親和を目的に情報局と日本文学報国会が推薦する作品を募集し、それに応募した小説です

  太宰治はその作品の意図について以下のように述べている。
 明治35年、当時22才の周樹人が、日本国において医学を修め、もって疾病者の瀰漫せる彼の祖国を明るく再建せむとの理想に燃え、清国留学生として,横浜についた、というところから書きはじめるつもりであります。清潔感、中国においては全然見受けられないこの日本の清潔感はいったい,どこから来ているのであろうか。彼は日本の家庭の奥に、その美しさの淵源がひそんでいるのではなかろうかとかんがえはじめます。あるいははまた,彼の国においてはまったく見受けられない単純な清い信仰を、日本人がすべて例外なく持っているらしいことにも気がつきます。
 魯迅の晩年の文学論には、作者は興味を持てませんので,後年の魯迅のことにはいっさい触れず、ただ純情多感の若い1清国留学生としての「周さん」を描くつもりであります。

 魯迅はこの小説の舞台となった東北大学医学部を中退し、その後、中国に帰国した。
 太宰の興味を持てませんとした小説や文学は有名な「阿Q正伝」や「狂人日記」、「故郷」などが、1918年(大正7年)に出版された『吶喊』の中に収められている。1920年代になると 生命の泥は地に捨てられ、喬木を生まず、ただ野草を生む。の題辞ではじまる散文詩『野草』を、朝露を帯びた花を手折るのであれば色も香ももっとよいはずだが,私にはそれができないから題をとった『朝花夕拾』。その中の一編に「藤野先生」がある。
 1930年代には抗日文芸家として左翼作家連盟に関与し多くの文芸評論集を出している。毛沢東は彼には奴隷根性やへつらいの態度がいささかもない,中国文化革命の主将,偉大な文学者,偉大な思想家、偉大な革命家、最も認識が正確、最も勇敢、最も決然としている、最も忠実、最も情熱を持っていると絶賛した。毛沢東が硬骨の人と魯迅を讃えたのは、1940年(昭和15年)「新民主主義の政治と新民主主義の文化」の講演会であった。


ぼろぼろの高い壁にそって、やわらかい埃を踏みしめながら私は道を行く。

無為と沈黙だけで乞食をするのか
少なくとも虚無は得られるだろう。
そよ風がふいて、あたりは一面の埃だ。ほかにも何人か、
めいめいに道を行く。
埃、埃

 中国の動乱期に時代と格闘し寂寞と虚無をとおして文学の可能性を示した詩や,小説を書き、政治に関与した啓蒙的な数々の論評や多くの翻訳を残し、現在でも中国国語の教科書に最も多くのせられている。
 

 作者の太宰治は1930年代昭和の初期私小説「晩年」を発表した。幾度かの自己破壊の精神的危機を乗り越えて戦時には、リアルな私小説は、もうとうぶん書きたくなくなりました。フィクションの明るい題材のみ選ぶつもりです。として1939年(昭和14年)に「富嶽百景」「姥捨」「女生徒」を 翌1940年(昭和15年)「思ひで」「走れメロス」1943年(昭和18年)に「右大臣実朝」、翌年には「津軽」を発表して有名作家の一人となった。戦争の激化とともに翌年の戦争末期に応募した「惜別」は戦後になって出版された。

 魯迅が日本留学時、日露戦争で日本の勝利を目撃し、明治維新は蘭学の科学ではなく国学の精神による。日本人の国体思想、天皇への忠義が国民すべてにあることを知り、医学救国の道ではなく自国民の教化のためにはまず文学による精神の啓発が第一と考えるようになった。また仲良くなった10才の子供の慰問文の国体の精神に感心し、儒教やキリスト教についての考えを語っている。太宰作品のなかで宗教や政治をとりあげたまれな作品となった。
 それらの文学表現、言葉が考証から想像した魯迅の考えなのか、あるいは主人公に仮託した太宰のものか、あるいは時代思潮の代弁なのか、反語なのか、この小説の意図ははっきりしない。

  戦後は非政治的小説「斜陽」が単行本として発売され、1948年(昭和23年)には初期の 道化の華に似た私小説「人間失格」を書き掲載予定であった「グッドバイ」を最後にその年入水自殺し私小説作家として一生を終えた。
 

2013/01/28

日本の面影 小泉 八雲






 宍道湖の夕日は美しい。

 日本で見る落日は、熱帯で見るそれとは違う.日本の陽光は夢のように穏やかで、そのなかには極彩色は見られない。はるか彼方の湖水の一番深い辺りは、言葉にできないほどやさしいスミレ色に染まり、松林の影に覆われる小島のシルエットが、その柔らかで甘美な色彩の海に浮かんでいるように見える。

 ラフカディオ ハーンは1890年(明治23年)アメリカから横浜につき、汽車に乗り神戸を通り、そこから4日かけて松江に到着した。
 松江の師範学校の英語教師として赴任。日本人の武家の娘、せつと結婚、翌年には武家屋敷に居を構え、明治の近代化によって消えゆく日本の面影を書き残した。
 この松江時代の「知られぬ日本の面影」は日本で出版した最初の作品集で 1894年(明治27年)ボストンとニューヨークで同時に発売された。日本の江戸時代から続く庶民の心の内の生活、日本人の宗教、思考様式、民間信仰、とりわけ仏教から派生した考え方めずらしい迷信をえがいた。そこには身分制度の元に貧困にあえぐ農民や庶民ではない、美徳を実践し、汚れない生活、信仰の儀礼において、キリスト教徒を遥かにしのいている日本人の姿を見出した。

 遊ぶ子供たちの童歌、柏手の音、楽しげな風の吹く橋の上の下駄の音。あるいは、日本海に沿って人力車で旅した時の、日本の自然の美しさを驚嘆の思いで描いている。
 「水田は小さな青田が、蛇のように曲がりくねったあぜにくぎられながら、いくつもいくつも並んで続いている。左手に青くうねる海の波、右手には青田の緑の波がひたすら続く、どの小さな漁村でも盆踊りがあり、盆明けにはいっせいに精霊流しの船が河にながされる。」

 
 お気に入りの日本庭園では、3つの日本庭園の作庭と蓮池の美しさ、庭の生き物 蛙、蛍、蝉,蝶、蜻蛉そして多くの鳥たちに囲まれた生活を描き、草も木も,また岩も石も、まさに一切涅槃に入るべしを奉じている宗教が生み出した芸術であると語っている。

 1904年(明治37年)には地方に伝わる古くからの布団の話、子捨ての伝説を聞き、これをもとにした文学作品集「怪談」を世に出した。「雪女」では、固く口止めされていた話をした途端、寒い雪の中、美しい女の姿が消えさるはかない物語りであり、仏教世界と平家物語を素材に描いた有名な「耳なし芳一」などがある。

 小泉八雲最後の文化人類学知見を集大成した「神国日本解明の一試論」は
彼の死後1ヶ月たった1904年(明治37年)10月に出版された。

 ハーンを魅了した日本人、どこにも、誰にも、見られる上品さ、微笑を見せながらもの静かしている群集、辛抱強く、働いているさま、惨めさも、またこせこせしたところも見られない姿。これを支える心性を文化人類学的方法で分析した。

 「神道は祖先崇拝から生まれる。死者に対する崇拝ならびに生者に対する義務感、両親にささげる子供の愛情,子供に対する親の愛情、夫婦相互の義務,養子、養女が家族全体にはたす義務,戸主に対する使用人の義務、扶養家族に対する一家の主のつとめ。日本の倫理体系はこの家の宗教から出ている。
 まだなお遠い昔の祭祀は全国土に残り、家族の掟、共同の生活地区の掟、江戸時代の旧藩の掟などで、これらは人々の生活の行動を支配している。」

 
 「自由競争のない社会が、あらゆる職業に見られ,人力車は力強い若者は決して,年老いた車夫を追いぬいたりしないし、建築の請負い,庭師の仕事あらゆる分野において仲間で組織を作り,単に個人だけの利益のためにおこなわれる競争を禁じている。あらゆる職種にわたってもうけられる不文律は特別の許可なくして、仲間を出し抜こうとしてはならないというものである。」

 神道の源流にさかのぼり分析し、神道は家の宗教,地域の氏神としての宗教で、さらに国家としての宗教があり、この神道の倫理、慣習への無条件な尊守、世間の圧力の下に人々は生活を送っていること。
 またその後に大陸より伝流した仏教の極楽浄土,焦熱と氷寒地獄や輪廻転成の思想や、仏教芸術がもたらされ、より世界をうまく解釈し,神道と共存した。これが日本文化の古層であり底流として庶民の生活の規範となっている。
 
 日本を理解し、世界に紹介したハーンは54才でこの世を去り、日本で今でも読み継がれている多くの文学作品、紀行文、論評を遺している。

2013/01/14

都市の思想


 Nature does not know how beautiful the sunset is.
自然は夕日のいかに美しいかを知らない。         ルイス カーン



 20世紀はル コルビジェが「偉大な時代がはじまった。」「自動車は走るための機械である。飛行機は、飛ぶための機械である。住居は住むための機械である。」といって、この時代精神を表現し、モダニズム理論を先導した。そして工業技術が発展し,世界の各地で都市に人々は集まり、建築は造形芸術として多大な影響力をもつようになった。
 ニューヨークなどの大都市にLess is more.の思想で、コンクリートとガラスの巨大建築を林立させたミースらは革新的技術を用いた時代の先端をいく巨大ビルを設計し、都市設計の中心となった。そして、東京など世界の多くの都市がよく似た高層ビルを林立させた。

 一方、ロシアの都市モスクワ市は典型的な旧い時代の歴史的建物を数多く残している。その中心にある要塞跡のクレムリンの赤の広場からは、聖ワシリー聖堂などの多くのロシア正教会の建物やスパースカヤ塔などの多くの尖塔がみられ、さらに国立クレムリン宮殿や武器庫、レーニン廟も要塞のなかに建てられています。これらの建物はかつて巨大な建物は宗教のための教会であり、権力者の要塞であり、宮殿であった歴史を物語っている。

  ソ連時代になると1947年、スターリンが世界の模範的となる首都をつくる計画を構想し,モスクワの7つの丘に7つの巨大建築を建て、地下鉄をめぐらせ,住居を造り新たな都市建設を試みた。建築はイデオロギー的で政治的な問題だとして、銀行の建物に多くみられたコリント式円柱を用い、クレムリンの城壁を借用してモスクワ大学など、壮大、巨大な建造物を建てた。その建築哲学は科学的、社会的文脈で語られた。
 モスクワ大学は高さ235mで尖塔の先には稲穂と星がつけられ、ロシアの伝統様式と古典様式に従って建てられたもので、他のホテルやアパートなどあわせて7つの巨大な建造物はスターリン様式と呼ばれ共通の構造を持っている。



 これらの宗教的建築、近代主義建築や社会主義建築と対極の思想のもとに建てられ建築が20世紀にあった。

 リチャードギア主演の アメリカ映画「心のままに 」は1983年の作品で、舞台となったのがソーク生物学研究所研究棟。明るい中庭から、光り輝く太平洋が広がり、まばゆいばかりのカルフォルニアの陽光がコンクリートの壁面にあたり、晴れた日には陽に映える床に光りと影の美しい模様を描き出す。これがルイス カーンを一躍有名にした建物で、その後インド経営大学の煉瓦つくりのアーチを用いた建築を設計し、キンベル美術館を建て、やがてバングラディシュの首都ダッカの広大な敷地に国会議事堂,最高裁判所、宿舎、学校、スタジアム、大使館、住宅、市場を建てる都市計画がかれの構想のもとに実現された。

 スターリンはモスクワの都市計画をたて,最初はルコルビジェにも依頼し,それは実現されることなく終わり、また カーンによる西パキスタンのイスラマバードの都市計画も実現しなかった。壮大な都市計画が現実のものとなったのはバングラディッシュの首都ダッカの国会議事堂を中心とする都市計画で、現在もその首都の建築群は20世紀を代表する建築として評価されている。
 これらの建物は洪水から守れるように池や湖をまわりに造りそれを盛り土とし、国会議事堂の巨大な建物の入り口にモスクを配置し、構造とは光によるデザインのことであるとして、光りを巧みに制御し光の陰影によって空間に表情を与え、機能的に美しく建設した。そしてこの都市計画全体を彼の哲学に基づいて建設していった。

 その考えは architecture comes from the making of a room. という建築は内から決まるとする概念から出発し、建築をつくるとは、空間を限定することであり、空間を限定することによって、人間と人間の関係を規定することである。住まいは、ルーム部屋であり、そのまわりにアーキテクチャー建築がある。そしてさらにその外側に、街がつくられ都市とな
る。

A city should be a place

where a little boy walking through its streets can sense what he some day would like to be.

 建築を元初から組み立て、思考し設計した。これは初期の住宅計画、フィラデルフィア都市計画の時代から個人住宅設計そして新しい首都の建設計画までかわることのない哲学で、 ルイス カーンの作品群は戦後の豊かなアメリカ精神の結晶ともいえる。


2013/01/04

 三島由紀夫 死への誘惑 その1



三島由紀夫と自刃

 三島由紀夫は1972年(昭和47年)1125日、市ヶ谷の自衛隊の駐屯地のバルコニーに立ち、ビラを配り演説をした。
『今こそ我々は生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。我々の愛する歴史と伝統の国日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬやつはいないのか。もしいれば、今からでもともに起ち、ともに死のう。』

 自衛隊員の野次と怒号の中、天皇陛下万歳を三唱して部屋に戻り、森田必勝とともに切腹した。

 三島由紀夫は戦後いち早く、常識を破る芸術至上主義の作家として売り出し、特異な行動する作家として注目された。しかし政治の舞台の常規を逸した行動は人々の理解を超えるものであった。 同じ年の228日には浅間山荘事件で赤軍派が逮捕され、機動隊員など3名の死者を出し、多くの仲間の死亡が明らかにされ過激な政治の季節は終わりをむかえた。

 大正の末期に生まれた三島由紀夫は本名平岡公威、エキセントリックで貴族趣味の病みがちな祖母のもとで,過保護に育てられた。

 戦前1941年(昭和16年)16才で「花ざかりの森」を文芸文化に連載し、平安時代から祖先のそれぞれの時代の異なった物語を洗練された古典的文体で描き、恐怖と憧れの心理を繊細な感受性で表現し当時の日本浪漫派に絶賛される。

 戦後1949年(昭和24年)「仮面の告白」で当時の日本社会の常識を打ち破り、精神分析的手法で自己分析し危険な美を告白し流行作家としてデビュウした。 そして,「ともすると私の心が死と夜と血潮へと向かってゆくのをさまたげることはできなかった。」と告白している。この暗闇の世界から、太陽の下での物語「潮騒」や、実在する事件を題材とした「金閣寺」などで広く人気を集め,映画化され流行作家になっていった。小説に飽き足らず肉体を改造し、映画に出演し、演劇を脚本し、映画もつくり小説以外のさまざまな芸術の世界で話題を巻き起こし、奇抜で危険な作家を演じつつあった。その後、行動はしだいに政治にも及ぶこととなった。

 1959年(昭和34年)鏡子の家で、右翼思想の人物を登場させ、自分が右翼集団に参加しているのは思想ではなく、死の陶酔だと想像するものとに触れたいという個人的な欲望からだと告白している。

 翌年1960年(昭和35年)に短編「憂国」を執筆。2 .26事件を題材に死を至福の物語として切腹の場面を延々と描写した。これをもとに5年後に映画化し、最初にフランスで公開された。この作品のなかの残虐描写と天皇崇拝、死への願望が描かれ、時代とともに政治化してゆくその後の三島由紀夫の行動、美学の原点となっている。

 思想的に天皇制擁護と愛国心を表に出した作品は1966年(昭和41年 )の「英霊の声」で『戦後日本の精神的退廃の原因は天皇の人間宣言であり、神風特攻隊の死は無意味になり、彼らの英霊が嘆き悲しむ。』として独自の天皇制復帰論を書き上げた。

 最後の大作となる「豊穣の海」では、第一部 春の雪、第二部 奔馬、第三部
暁の寺、第四部 天人五衰の4部構成になっていて、明治から現代までの六十年間の日本を舞台に各編の主人公が輪廻転生し登場する。この最後の長編作品の物語は美しい文体と三島的精神主義とともにやはり主人公の最後や神風連の描写は殉教する若者、切腹の美学があった。初期の作品から恐怖は憧れであり,美は危険な美、醜悪な美もあり、生の充実は死にあるとした思想が底流にあった。

 三島由紀夫にとって、死へのあこがれ、至上の美としての死があり、社会のためには天皇崇拝が必要であり、さらに自分の物語の実現のためには相手を必要とした。その相手が共産主義で政治行動の規範「反革命宣言」を発表し共産主義に反対し日本の美の伝統を体現すると宣言した。
 この時代の現実に即さない宣言は、幼い時に満たされなかった心の中の願望なのか、盾の会をつくり、自衛隊に入隊し、訓練を受け、日本は左翼に乗っ取られ危うくなる、これに対して我々は生命をかけ楯となり日本を守る覚悟を語り、全共闘に対話をいどみ、最後には切腹を実行にうつし自らの物語を完結させた。




 参考 ジェニフェール ルシュール著 三島 由紀夫