2015/06/07

古田織部の忠誠と千利休の謀反


 美濃の国の輪中地帯は、豪雨に見舞われると水は堤防を超えて、田畑や住居にまで浸水する。それが稲作にとっては、豊かな実りをもたらすこととなる。
 西から揖斐川、長良川、木曽川の3つの河川に囲まれ,さらに西方には関ヶ原,長良川の中流には岐阜城がある。この濃尾平野の輪中地帯の北方、現在の本巣市に古田織部は生まれた。
 1543年(天文12年)古田家の家督を継ぎ山口城主として、戦国領主となる。1567年信長の美濃進駐のとき,織田家の家臣となり,播磨攻めなど各地を転戦し,武将として活躍する。

 一方、堺の商人の子として1522年(大永2年)に生まれた利休は堺を信長が直轄地して支配したときに,茶頭として雇われる。
  利休は茶の湯をとおして、新しい日本文化をつくり出すことになる。
 利休の美意識は自然に、さりげなく、素朴なものをよいとする。無駄を削ぎ、華美を排した、わびの空間、わびの思想であった。茶室を三畳や二畳半という狭小な空間にし、露地を通路ではなく,茶の道への空間とし、さらに茶の湯は禅なりとして、わび茶を完成させた。唐の品、宋の画などの中国文化を否定し、しだいに日本独自の茶道具や装飾品を尊重していくことになる。
 
 1582年(天正10年)本能寺の変で信長亡き後、秀吉につかえる。天下人となった秀吉の生活を利休の美意識によって助言する文化人になった。
 しだいにその地位は比類のないものとなり 『ないないの儀は利休。公儀の事は秀長』といわれるほどの側近中の側近として秀吉とともに日本を動かすことになった。 
 そして、文化の指南役にとどまらず政治に関しても多大な影響力を持ち、九州平定の際には、秀吉の手紙とともに利休の手紙も副書として出されていた。

 小田原攻めには,秀吉とともに従軍し、織部もまた関東に軍をすすめた。 この頃から、「赤は雑なる心なり,黒は古き心なり」として利休は黒茶碗を偏愛し、2人の間の美意識に微妙な違いを生じた。
 そして、秀吉の北条攻めのさい、「お耳にあたること申して、その罪に耳鼻をそがれ」と利休の20年来の弟子の山上宗二が秀吉に処罰されている。
 朝鮮出兵を前にして、2人の間には、政における考えもしだいに溝ができ、
1591年(天正19年)秀吉は利休に切腹を命じた。

 この時代、封建的忠誠心、主従の関係は絶対的で決して破ってはいけないものであった。この個人的忠誠心は「御恩に対する奉公」であり、忠臣は主人の非に対しては、命をかけて諫言するしか方法がなかった。利休は諌言し秀吉はこれを受け入れなかったと推測される。


 利休亡き後の茶の湯、茶室、庭園の文化は古田織部が引き継いだ。
 織部の茶の湯は「無一物の道理」といわれる道理、すなわち合理的である仕方が大切であるとした。
 また茶室は利休の2畳半からひろげ、採光様の窓を用い、茶室を草庵から書院に切り替えた。そして,禅的で,抑制的な茶道をより開放的なものにした。 形のいびつな茶器をつくり、この瀬戸(美濃)で焼いたひずみのある茶碗、幾何学模様、ハイフォン グリーンを使った緑の茶碗は「ひょうげもの」の綾部焼きとして有名になった。


 大坂夏の陣の前、織部家の家臣木村宗喜が京都を焼き払う計画を立て、家康の本陣を挟み撃ちにした襲う予定であった。この計画は未遂におわり、織部は1615年(慶長20年)自刃に追い込まれた。
 秀吉の死に際して、実父の古田重定は殉死した。織部は徳川秀忠の茶の指南役となり、関ヶ原の戦いでは石田光成には味方しなかった。しかし古田織部は豊臣家の滅亡をまえにして、父親と同様に秀吉にたいする忠誠心を全うしたのかもしれない。



2015/05/24

日本の旅 イサベラ バード



月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也

 1878年(明治11年)当時46才になるイサベラ バードはハワイの旅を終え、5月20日日本の横浜の港についた。関東のまちまち、東京の浅草などに滞在した後、土手道に沿って、絶え間なく続く村落を目にしながら関東平野横切り、6月10日に日光に向い、新潟から東北の日本海側に沿って北上する北海道の旅に出発した。

 6月13日日光に到着。

 「私たちは、今朝早く、小雨降る中を出発した。そして8マイル続く杉の並木の下の坂道をまっすぐ登っていった。
 草木はよく繁茂していた。これは暑くて湿気の多い夏の気候と、山岳地方に豊富な降雨量があることをうかがわせる。」

 日光の東照宮は日本的建築と庭園の廟で、明治時代の廃仏毀釈により、儀式や壮大な仏教設備は取り去られてしまった。
 徳川の時代より変化したといえ、陽明門のドラゴンヘッドや牡丹の透かし彫り、唐草模様に驚嘆し、「富と芸術が黄金と彩色で仙境をつくり出している。」又、家康の遺骸のある宝塔と青銅の鶴、蓮を生けた花瓶をみて、「外には雄大な大自然が偉大な将軍の墓を華麗な悲しみの中に包んでいる。」と異邦人の眼にうつる江戸時代そのままの日本を記した。

 1689年(元禄2年)の春5月16日(旧暦3月27日)松尾芭蕉は江戸深川を発って日光に向った。「奥の細道」の旅立ちで、5月19日に日光に到着した。
 江戸時代の人々にとって日光は、空海が二荒山から日光にこの地の名前を改めた場所であり、恩沢八荒にあふれ、四民安堵のすみか穏なり。猶、憚り多くて筆をさし置ぬ、場所であった。

 あらたうと 青葉若葉の日の光

 その後、イサベラ バードはキリスト教の伝道活動をみるために7月の始め、1週間以上にわたり新潟に滞在した。
  晴れた日のない梅雨の季節で、信濃川の河口にある、人口5万人の日本海側の開港地であり、各種の官公庁や学校がつくられ,英語学校には150人の生徒が通っていた。
 当時の新潟県は150万人が住み最も人口の多い県にあげられていた。米など多くの作物の生産地で、運河が物品の搬送に使われ,有数の地方都市として、清潔に整備されている新市街地を目にしている。

 松尾芭蕉は福島を通り仙台、酒田から、旧暦7月に新潟に到着した
 新潟の街にはあまり興味をしめさず、次の旅路である加賀の府金沢までの130里  (520km)に思いを馳せ、自然の風景を楽しんだ。7月6日に

 文月や 六日も常の夜には似ず と詠み、

 名句 荒海や 佐渡によこたふ天河   を残している。

 イサベラ バードの旅は新潟から山形、横手を通り秋田、青森をへて,北海道の函館に渡るコースをとった。
 その年は例年になく長く続く梅雨の年で、青森県の平川では一週間以上の長雨で増水した河の氾濫に遭遇した。
 「どの波も黄褐色の泡をふきながら   浪頭を立てていた 栗毛の馬のたてがみにも似て」と書かれたように、材木や樹木は押し流され、橋も橋台の根元が削られ、19あった橋のうち2つだけ残り、道路はほとんど全部流失した。その後、馬と人力車を乗り継いでようやく黒石にたどり着いた。青森まで22マイル半のきれいな街だった。
 当時のイサベラ バードの服装はアメリカ山岳服とウエリントン靴で、駄馬に乗っての旅が続いた。大雨のときには,蓑かさを使ってずぶぬれを免れた。

 梅雨の季節、芭蕉は仙台、松島から最上川を通って新潟に渡った。
 最上川は米沢を源流にし,山形を上流にする大河で、江戸時代、通行の難所として知られていた。旧暦の5月29日梅雨の頃、有名な

 五月雨を あつめて早し最上川

の句を残している。

 イサベラ バードの旅行した明治の初期より、さらに200年まえの元禄時代に生きた芭蕉にとって,西行、義経や戦国時代は歴史の断絶のない、直近の過去であった。その時代の近さを感じさせる俳句を残している。 

笈も太刀も 五月にかざれかみ幟

夏草や 兵どもが夢の跡

終宵 嵐に浪をはこばせて 月をたれたる 汐越の松  西行

 芭蕉の200年後に日本についたイギリス生まれのイサベラ バードはカナダ、アメリカ、オセアニア、ハワイの旅行に続いて今まで外国人の行ったことのない日本の地方を旅し「日本奥地紀行」を出版した。
 日本の歴史を背景にした時空の俳人芭蕉とは異なる眼、広い空間的視野で、同じ季節の日本を書き記している。江戸時代から変わることの少ない地方の子供たち、女性の風俗や習慣と自然が描きだされている。
 イサベラ バードはその後も中国、マレー半島、シナイ半島、チベット、ペルシャ、モロッコなどを旅しその観察眼は思い込みのない広い文化的素養をもって書かれ、出版された旅行記は世界中で読み継がれている。




2015/05/17

ニューサイエンス


    
                   

 1960年代アメリカは世界の富の50%以上が集中し、平均的な男性で彼らの祖父の2倍以上の収入があり,労働時間は3分の2程度で,終身雇用や年金を提供する企業に所属していた。この時代、豊かな物質文化、消費社会に対して,カリフォルニアから質素な生活を実践するヒッピーの文化、対抗文化が生まれた。そして,レイチェルカールソンが「沈黙の春」で残留性化学物質が自然界を汚染し、人体に蓄積される危険を警告した。

 1970年代にはいるとアメリカの経済は停滞期に入り、1974年には第1次のオイルショックがおこった。これに対して1980年代レーガン大統領の時代に2つの方法で解決がはかられた。
 企業の利益に結びつかないコストの削減を行なったこと。会社を買収して再生させる、構造の改革株主革命が起ったこと。このもとになる思想は、企業は従業員や社会に対して何の義務もおわない、企業は経営によって利益を増加させることが社会的責任であるするもので、株価を上げるための効率的な方法は大規模なレイオフによる経費削減であるとされた。こうして、会社人間の時代は終わりを迎えた。

 この時代、西欧社会に対する近代文明の批判としてアメリカではニューサイエンスが出現した。「1980年の始めにあたって、人類はかつてない世界的危機を向かえている。
 この危機は複雑で多面的で私たちの生活のあらゆる面に関係してくる。 物質と精神世界を分けたデカルトの世界観、すなわち世界は人間が造り出した機械のように部分に還元され、そして理解されるというのはまちがいで,世界における一切の存在は可変的で無常であるという東洋思想が物理の世界では現実に近いものであることが証明され、社会もまたデカルト的心身を2分するのではなく、有機的で全体的である、エコロジーアプローチが必要である。」という思想だった。この世界観の転換により世界は持続可能な社会に変化すると語られた。


 ベルリンの壁の崩壊により、1990年代以降、世界はアメリカの一極体制「市場経済と民主主義の時代」になった。さらに、IT革命によるオートメーション化と安価な人件費の地域に生産場所を求める、グローバル化から経済はさらに効率化し富を生み出した。

 21世紀にはいると市場は新しい金融テクノロジー使って住宅ローンを買い集め、それをまとめて債務担保証券を発行して、年金基金などに販売した。これがアメリカなどで住宅バブルをひきおこし、リーマンショックをもたらした。
 この恐慌を乗り切るため、アメリカは貨幣を増刷し中央銀行が国債を買い、経済を支えた。世界中で人生の目的は目先の物質的豊かさ、高収入となり、この近視眼的衝動が世界にまんえんした。
 人々は貧乏になることを恐れ、経済の成長なくして幸せはないと信じて、生産性のさらなる向上をめざし、さらなるエネルギーを消費し、膨大な物を買うよき消費者となった。

 現在、人々の消費が社会を豊かにし、経済を成長させ、GDPをふやし、国力を増強させる。この考えはほんとうに正しいのか、再び疑問視されるようになり始めた。1930年年代世界中の人口は20億人であった。今はその4倍以上になり日々増加している。海面が上昇し南の島々は水没の危機が迫り、アラル海は干上がり、世界中の氷河は消えつつあり、気候は荒々しくなった。地球上に生活する人々が豊かな生活を送るのに消費するエネルギーを地球は十分供給できるのか、豊かな環境は保全できるのか、あるいは多様な生物との共存が出来るのかといった地球環境の問題が人々の眼にみえる形で現れ解決をせまられる問題となりつつある。

 1972年のローマクラブの警告、成長の限界は、緑の革命で克服され、医療の進歩で人々の寿命は伸びカタストロフィーは回避された。 無限のクリーンエネルギーを生み出すはずの原子力は人々のコントロールー不能の放射能汚染をもたらし、熱エネルギーの消費が地球温暖化、気候の大変動をもたらしている。成長が永遠に続く経済成長至上主義にかわる経済学はないのか、地球温暖化を防ぐエネルギーの使い方はないのか、放射能に汚染されることのない今以上に住みやすい気候や環境は手に入るのか。今後の地球環境の未来は、現在の人々の選択に委ねられている。








2015/05/03

日本の大学教育


日本の教育

 明治政府は国立大学を設立にあたってアメリカやイギリスと異なり100%国の予算でまかなうシステムをつくり、学問の自由は、財政の制約のもとにおかれた。明治の初期にも、教育ファンドをつくる案や、文部省から独立した特別会計の案もだされた。しかしいずれの案も明治政府は取入れることなく文部省の権限のもとにおかれ、それが現在も続いている。

 そして、日本の高等教育は、各省庁が帝国大学の法学部卒業生を中心に人材を養成し中央の官庁や地方に行政官を送り、省庁の中に科学技術を取り込む技官制度を作った。頂点には5つの帝国大学、台湾,朝鮮の台北帝国大学,京城帝国大学さらに昭和に入り、大阪、名古屋の合計9帝国大学を作り旧制高等学校からの入学生が日本のエリ−トとして養成された。この旧制高校の割合は国民の1%以下であった。その他のコースとして,専門学校があった。さらに、教師のための師範学校、女子高等師範学校があった。

 第二次大戦後は、すべての高等教育を大学として一本化した。旧制高校は廃止され、大学に再編された。
 戦後初期は一部の人が大学進学し、多くの人は早くから職業につき、日本の高度経済成長を支えた。その後は昭和38年(1963年)大学入学12.1%に昭和40年(1965年)17%、昭和50年(1975年)には37.8%と増えさらに、その動きは加速し大学全入化の動きに乗って、現在50%以上の若者が大学に進学している。

 国立大学は約100校、私立大学は約500校におよび、多くの定員に満たない大学や、日本の最高といわれる大学も世界的には何の変哲もない大学となりつつある。
 日本の大学の特徴は、25才以上の割合が2%以下で,他の先進国とは大きくかけ離れていること。一斉入学,一斉就職が今でも大多数を占めていること。これは、戦後に一時期大学などの教育機関が不十分で,入社した若者を自前で教育し,終身雇用、年功序列が会社にとって合理的な時代があった。

 企業が世界競争を強いられる中、人材の流動性が高まり、実際は1980年代には会社共同体に取り込み会社で0から教育するシステムはコストにあわなくなっている。現在実社会と大学の関係がミスマッチをおこしていることが誰の眼にも明らかになり大学で何を学ぶかが再び問い直されることとなった。

  1980年以降、様々な教育改革が試みられた。大学における教養教育は形骸化しているとして,1991年には教養学部が解体された。専門教育も戦後の大学進学が例外的であった時代の研究者養成プログラムの延長で,研究もそれぞれの専門がたこ壷化していて何を学生に教えるのかがあいまいになり、勉強もきびしくなく、脱落することなく遊んで卒業できる。大学の教育の充実がいわれつつなかなか変革にはむすびついていない。そして,大学卒業だけでは国際的にはイニシアチブをとるのが不十分で大学院教育が必要とのかけ声で、多くの大学院がつくられ多くの博士が誕生した。2006年には博士過程卒業生の就職率が57%となり、就職難の時代となった。
 
 2004年4月から国立大学の法人化がはじまる。これは目的として大学間の競争を促し,競争的起業的な文化を生む目的であったが、実情はあまり大きな変革はなされていない。さらには国際的に通用するトップ30校に資金の配分を多くする構想も実行されている。

 一方入学試験についても、一点をあらそうセンター試験はよくないとして数年後に廃止され新たなアメリカ型の習熟度をはかる入試システムに変更される予定となった。しかし今の日本の中学,高校では受け身の受験のための勉強と長時間の部活という内向きのグループ活動に時間を費やされ,職業に就いて学んだり考えたりする時間はほとんどない。この高校卒業までの教育をどうするのか、大学入学後の教育をどうするのかはっきりとした目標がより重要だと思われる。

 大学では、現在実学の学部は受験倍率が増えているのは、目的が明確で、卒業後試験の関門があるため勉強せざるを得ない環境であることがおおきい。戦後の総合大学指向から再度、実践的職業訓練を目的とした大学と研究やアカデミズムの大学を別々に充実させることも必要な時かもしれません。

2014/12/31

明治維新、昭和維新と三島由紀夫の ナショナリズム













 西欧の世界支配がアジアに及んだとき、日本は明治維新で国内の革命を行い、産業技術の西欧化で対抗した。この明治維新を推進した薩長の尊王攘夷、王制復古は国学を源流とする。

 国学は賀茂真淵が万葉集を研究し万葉時代の和歌をよみがえらせ、本居宣長は古事記を検討し、儒教や仏教伝来以前の人々のことば,心を読み解き、からこころに対するやまとこころを発見した。
 「もろこしの古書、ひたすら教誡をのみこちたくいえるは、いとうるさし」として儒教精神を否定し、考え方、思考方法の儒教的なもの、からこころとは規範主義であり、一方、やまとこころは「うまれながらの真心、善くも悪しくも、生まれつきたるままの心をいふ。」おしつけではなく自分の心に従って内側からとらえるものであるとし、外来思想の輸入される以前の日本古来の自然のままのすなおなこころを見いだした。

 さらに宣長は日本の天皇統治ついて「皇国は天照大御神の授け賜へる皇統にして、天壌と無窮にしろしめす大御位に坐ば、君の私という事はなき事なり」とした。その後継者の平田篤胤はよりこの理論をファナティックに体系つけ尊王思想をとなえた、幕末の平田篤胤の一門は王制を復古し、古代のように天皇のもと祭政一致の国家を夢みた。

 この国学思想に「知行一致」死をも恐れぬ行動理論の日本的陽明学、後期水戸学の過激主義が相まって尊王攘夷のかけ声のもと、武力により明治維新は実現し、徳川幕府は滅びた。


  一方、再び国外からの圧力に直面した昭和時代に、昭和維新をかかげ国内の武力行動がひきおこされた。これらの理論は、天皇親政のもとの万民平等を実現することが理想で、天皇は特権階級、貴族的軍閥を排除する直接行動の変革の象徴となり、日本を混乱悪化させた側近を排除し、天皇と陛下の赤子としての国民による、国民のための国家を夢みた。

 1906年(明治39年)北一輝22才の時「国体および純正社会主義」を書き上げ自費出版する。この中で,『生きるとより死に至るまで脱する能わざる永続的飢餓の地獄は富豪の天国の隣にて存する』と書き天皇制の歴史と役割を分析し、平等社会すなわち純粋の社会主義を提唱する。
 
 清朝は1911年(明治44年)の辛亥革命で滅亡し、1912年(大正1年)中華民国が建国された。その革命に、北一輝は理論的支柱として参画し、国民党の最有力者宋教仁を通して中国革命を動かしていた。しかし、その盟友宗教仁が翌年暗殺される。

  その後、北は中国を去り日本に帰る決意をする。それは「十数年間に特に加速度的に腐敗堕落した本国をあのままにしておいては対世界策も対支那策も日本本国もあきらかに破滅であると見た。」その後、軍事クーデターの理論『国家改造案原理大綱』を1919年(大正8年)上海で書き上げた。

 この中で北一輝の中心理念は、アジアの独立、支那の保全を求めた大アジア主義であり、日本においては天皇のもと、国民が国家への忠誠を尽くす平等主義を構想し、私有財産の制限や土地の国有化をする明治維新に次ぐ第二の武力による革命、昭和維新が必要であるとした国家改造論であった。 

  1972年(昭和47年)三島由紀夫の自殺もまた、国家改造を夢想した。
 その実行のもとになる理論は陽明学にあった。陽明学は朱子学と同じ時期に日本に紹介され、中江藤樹などが広めた。朱子学の机上の論理と異なり、知行合一を主張し行動の学問であった。善もなく悪もないのが心の本体であり、その混沌からほとばしるものが真の善ある。純粋であるか否かが問題で、「至良知」とは天理が自然に発現したものであるとした。
 この中国における陽明学は日本において変質し、生死を超脱し変革を実行する、より精神主義的に変貌をとげ、実践の理論となった。また武士の理想は、君主の下、与えられた責任を果たすため、必要があれば命をかける覚悟でこれに臨み、私的利害にとらわれないことを理想とした。この極論が「葉隠れ」でやはり三島由紀夫の座右の書であった。

 天皇は国体であり、神勅を奉じて祭祀を司り、国軍の栄誉の源であるとして祭政一致の日本をつくる維新法案をつくった。そして行動にうつした。


 国粋主義の国学は明治維新の原動力となり、明治政府を樹立した。一方、同じ天皇の下での臣民国家の構想は昭和の時代、軍の暴走の象徴となり、クーデターの恐怖を植え付けて、鎮圧された。また経済的繁栄にむかう時代の三島由紀夫の檄文は時代を1世紀逆行させる復古主義のマヌカンととらえられた。

 
  
  

2014/08/16

ブルーノ タウトと日本の美


宇宙建築士 ブルーノ タウト

 ブルーノ タウトは昭和8年(1933年)から昭和11年(1936年)まで日本に滞在し、西欧建築家による日本美の再発見、芸術論、工芸品、住宅を残し現在に至るまで多大な影響力を与えた。

 日本の各地を旅行し、貧とさえいえるほどの簡素こそ日本美学の基礎であるとして茅葺きの農家、あるいは飛騨、白川郷の60度の急勾配の藁葺き屋根の古い民家、戦前各地にあった農村地帯の家々、簡素なそれらの農家に日本の建築の美しさを見いだした。 

  奈良をつつむ雰囲気に宿る魅力は、この都が日本仏教の初期を代表しているところにある。当時、日本人は自由清新な気宇をもってシナの思潮を摂取し、しかも豊かな創造力によってこれに改良を加えた。

 新薬師寺に赴いて、何よりもまずそこの門や塀、植え込みなどのもつえもいわれぬ自然的な美しさを仔細に眺めてみなければならぬ、すべて簡素な美しさである。それはあくまでも清新純雅であると述べている。

 そして桂離宮を「発見」した。
Katsura.hier bin ich quasi sein Entdecker.
 また、伊勢神宮をアクロポリスにも比類するとしてみなし、日本のまったく独自の文化の鍵であるとして絶賛した。

 タウトの建築論は日本における建築の様式を2つに分け、この伊勢神宮、白川郷から桂離宮につながる建築の系譜を本物(オーセンティック)と評価し、一方、日光東照宮は様式は中国の明、清の悪趣味の模倣でありいかもの(キッチュ)と呼んだ。

 タウトの最も好んだ建築芸術は大和文化に始まる、伊勢、桂の系譜で、大陸文化の日本的にしたもの、明治以降の欧米文化の影響したものより遥かに高く評価した。

 ブルーノ タウトは1880年ドイツのケー二ヒスベルグに生まれ、若き日々ドイツを席巻した工芸技術と芸術を結びつけるジャポニズムやアールヌーボーにつながる「青春様式」ユーゲントシュテールの時代に青春時代をすごした。
 ベルリンに建築事務所の拠点をつくり、鉄の記念塔(1913年)やガラスの家(1914年)で表現主義建築家として有名になった。

 ドイツは第一次世界大戦の敗北で、帝国が崩壊し、ワイマール共和国が成立。同時に芸術のための労働者評議会が結成され、労働者の為の建築を目ざして、タウトや、グロピウスなどが建築家の集まり〔ガラスの鍵〕をつくり、バウハウスがこの時期誕生。その後の装飾を排した普通の素材を用いたドイツモダニズム建築を主導した。
 タウトは建築家として、働く人々の住居の設計にかかわって多くの田園都市、住宅団地を建設した。そしてベルリン工科大学教授になる。 しかし、ナチスが政権をとると左翼主義者として、職を追われ、日本に亡命することとなる。

 戦前の日本に昭和8年から3年間滞在し、伊勢神宮から桂離宮につながる系譜を日本文化の精華とし、将軍的装飾主義とは対極の天皇芸術を賞賛した。そして、皇国史観の強まる日本で多くの共感を得た。ドイツでの工芸と芸術の融合運動を日本でもおこし高崎市で日本の自然素材である竹,和紙,漆器を用いた工芸品を指導し製作し,芸術運動をはじめた。しかし、総力戦にむかう日本ではその活動は広がらず、1936年(昭和11年)、近代化を推進するケマル アタチュルクのトルコに教授として招聘され、日本を去った。

 戦後、日本の近代化は、天然、自然の素材をを捨て去り、安価でキッチュなプラスチックとアルミとコンクリートを偏愛し、タウトの目にした昭和初期まで残っていた芸術的な木造建築は跡形もなくなった。今こそ、伝統素材を見直し,日本の美を再構築し、タウトの夢見た、工芸、絵画、建築の統合された、キチュではない本物のアーツ アンド クラフト運動が必要な時代といえる。









 

2014/07/02

流行作家 渡辺 淳一


 昭和35年(1960)6月山崎豊子の白い巨塔が連載小説で発表された。
旧帝国大学医学部教授の椅子をめぐる壮絶な権力争い。外科教授の手術能力の過信と、その治療をめぐって対立する2人の医師財前五郎と里見修二の生き方をドラマッチックに描き上げ、社会派小説として日本中で評判となった。
 昭和44年(1969年)「続白い巨塔」が単行本として出版された。小説は、「医療は神の祈りであることを忘れ、権力や名声などの白い巨塔の野望に破れた財前の魂を洗い浄め、鎮めるような荘厳ミサが、夜明けの清明澄な光の一つに溶け合って、里見の心を揺り動かした。里見の胸に初めて、財前の死を弔う心が強く深く湧き上がってきた。」で幕を閉じている。


 昭和42年(1967年)札幌医大で和田寿郎教授による、日本で初めての心臓移植手術が行われた。これを題材として、渡辺淳一氏は手術に対する批判的小説を発表した。日本におけるドイツを模範とした医局講座制は,依然として強固であった。和田教授はアメリカの医療を身につけ、アメリカで学んだ卓越した心臓手術の技術を駆使して、移植手術は成功した、しかし拒否反応の合併症のためその後患者は死亡。そして手術の適応と脳死判定をめぐり社会問題となった。ドイツ医療がアメリカ医療に変わりつつある時代であったが、教授の権力はいまだ絶大であった。

 当時札幌医大の講師であった渡辺淳一氏はこの経緯を「白い宴」でドキュメント風に描き、「ダブルハート」ではフィクションの世界で術者の野望、医局の人々、患者家族を描き北国の白い巨塔ともいえる短編小説を世に出した。野心家野津教授、主治医で心臓の摘出を担当する殿村医師のむなしさを通して、移植手術への懐疑を色濃く表現した内容となった。これを契機に渡辺淳一氏は札幌の大学をやめ、東京で小説家となる。和田寿郎教授もまた東京で心臓外科の教授として手術に邁進する。

 渡辺淳一氏は、それ以前から医療を題材に多くの小説を発表している。昭和40年(1965年)に「死化粧」、昭和42年(1967年)には「霙」で重症身体障害者の現実の世界と医療従事者、親や家族の微妙な心の動きを描き、後の「雪舞」や「神々の夕映え」につながる。霙では北国の季節の移ろいと、人間社会の不条理、人の心の複雑さを描いた。主人公の柏木に「5ヶ月の胎児なら町の病院で堂々と堕せるんだけども、7ヶ月の未熟児なら夜も寝ないでつききりで助けなければならない。変な話でしょう」と語らせ、「分裂病などどうせ治らないんだろ」と主人公の虚無感を吐露させ、現在の障害児の胎児診断につながる問題、消極的安楽死の問題、医療技術の進歩では解決できない複雑な感情と社会をテーマに小説化した。

 昭和45年(1970年)には「光と影」で直木賞を受賞、1980年代「遠き落日」や「長崎ロシア遊女館」でも吉川英治文学賞を受賞、流行作家となる。
 その後「ひとひらの雪」や日本経済新聞社の連載小説「失楽園」で時代の尖端を行く作家として、題材は医療から男と女の世界の小説家としての評価が定着し鈍感力の流行語も生みだした。現代の近松門左衛門や谷崎潤一郎を目ざし、川端康成の「眠れる美女」を超えるのが目標と語った。


 白い巨塔の話題になっている頃、田中角栄首相の1県1大学構想の下で新設された秋田大学に入学し、後に「ダイアモンドダスト」で芥川賞を受賞する医師、南木佳士氏がいる。その時代、いまだ医局講座制度は確固として残り,医学部のヒエラルキーは揺るぎないものであった。「冬への順応」の中で当時の受験生活と地方医大入学時の複雑な心境、その後の人生を私小説ふうに描き、また「医学生」の中で、地方の学生生活を主人公4人の姿を通して描いた。どちらも、実際の日常生活を淡々とした筆致で、私小説風のフィクションにしたものであった。
 そして、昭和56年(1981年)カンボジア国境のタイの難民キャンプでの経験を素材にした小説がある。当時日本は初めて海外での難民救援医療で、日本のチームは外科病棟を担当した。限られた医療資源で救急治療をするとき必要なトリアージの考えが当時はなく、地雷や銃創患者に対応していた。これらの異国での診療の日々をやはり淡々とルポルタージュ風に小説化した「長い影」などの作品がある。


 渡辺淳一小説のもつ,非日常的な鋭さとか、医療の根源的問題を取りあげることはなく、死と生の状況を日本の一地方の病院の日常として書き上げたのが「ダイアモンド ダスト」。ありふれた人々の生涯とその死の時にダイアモンドダストが舞って終わる物語で芥川賞を受賞した。
 
 小説は、社会の中の人間像を描いた、山崎豊子の作品にみられる、社会的小説。人間の思想や人の心の複雑さ、恐怖、不安あるいは心の成長といったことを主題としたもの、そして,楽しみとしての物語、娯楽小説などがある。
 渡辺淳一氏の初期の作品は、社会と人間、安楽死や生死にまつわる重いテーマを北国の風土とともに提示して、時代を先取りしていた。その後は、しだいに娯楽的流行作家の第一人者となる。南木作品は、娯楽とか社会問題とは無縁に医療を舞台にした小説を多く書いている。医療小説は生や死をあまりドラマッチックに描けば、虚構になる、社会問題が絡めば複雑になる。南木氏の作品は流行や波瀾万丈の人生や思想とは無関係のありふれた地方の日常の人々の生活を描き出した。そしてその文芸的純文学性に対して芥川賞を受賞した。