2015/09/21

明治維新の源流 島崎 藤村の夜明け前


  



  小諸なる古城のほとり

   雲白く遊子悲しむ

  緑なすはこべは萌えず
  若草も藉くによしなし
  しろがねのふすまの岡辺
  日に溶けて淡雪流る
                  島崎 藤村


 島崎藤村は20代に、若菜集などの詩集で、明治時代を代表する詩人となる。椰子の実や初恋はいまでも多くの人に知られている。その詩は、新しい近代的感覚を古典的な美文、品格のある古語で表現した。その後「破戒」で始めての小説を発表し、代表作の「家」や「春」を新聞の連載小説で社会とその中に生きる人間性、自己の生涯を物語として描き自然主義の作家として確固たる地位を築いた。その後、50歳代の昭和4年から7年の歳月をかけて、自身の父親の生きた時代、現実を素材にした生涯の大作「夜明け前」を執筆した。

 幕末から明治に日本が変動する様を、木曽の山中の旅籠屋での生活者、半蔵の眼を通し、その生涯の思いを描くことで浮かび上がらせた。誇張や思い入れのない穏やかな時代の流れを、京都と江戸の間の街道を行き交う人々からの伝え聞く話、馬籠の人々の会話によって、幕末から明治初期の30年の歴史を浮かび上がらせ、その意味を問いかけ、日本に残る歴史小説の代表作となった。

  「江戸の世は、徳川世襲の伝統を重んじ、どこまでも権威を権威として、それを子の前にも神聖なものとして、譲っていきたかった。しかし、時代は混沌とし、大義名分を正そうとした水戸の大日本史などにより、中世の否定から、しだいに帝を求め奉るようになってきた。」そして攘夷の名によって倒幕に向う尊王攘夷は力を増していった。

 まず先陣をきって水戸藩が倒幕の行動を起こした。初期の水戸学は、朱子学をもとにして、歴史を編纂し日本における天皇を正しく評価する作業を行った。後期には、徳川斉昭が尊王敬幕を唱え、その後、国体を主張する藤田東湖などが尊王攘夷を先導する思想となり、後期水戸学とよばれ過激化し、井伊直弼暗殺や安藤信正襲撃を実行した。

 そして、水戸藩士1000人以上の天狗党が倒幕のため、京都に向うも目的をはたせず加賀藩に降伏した。この天狗党の木曽路での姿は規律正しい人々であったことは、その後の幕府の多くの者に切腹を命ずる重い懲罰が逆に幕府を追いつめていくことを暗示している。 
 倒幕の急先鋒水戸藩は内紛から自壊し、かわって薩摩と長州が倒幕を主導した。そして徳川慶喜は大政を奉還し江戸時代は幕を閉じる。


 倒幕を主導した国学は加茂馬渕の万葉集研究から始まり、本居宣長の「あはれ 上つ代は人の心ひたぶるに直くぞありける」「もろこしの古書、ひたすら教誡をのみこちたくいえるは、いとうるさし」として儒教精神を否定した。この後継者が平田篤胤で、半蔵の信奉する平田学派は幕末武士階級以外の信奉者が多く、庄屋、本陣,問屋医者もしくは百姓町民に広がっていった。理想とする社会は、「建武の中興の昔に帰ることではない、神武の創業ににまで帰っていくことである」として、下々にある人々の心から起った運動に支えられ、600年来の武家政治を終らせ帝の国をつくった。

 人生をかけ、平田学を信奉した半蔵は、望み実現した帝の国、新政府のため、民人のために奔走する日々を送る。 しかし、理想は現実とはちがった、人々はいにしえの世よりも西洋の文物を取入れるのに急で、民人は新しい時代を歓迎せず、いくたの争う姿を目にするようになる。何かが違う、半蔵はしだいに深い心底からの違和感にさいなまれることになる。そして心の平衡を失いはじめる。

 そして民は喜ばず、国学は国を動かせぬ、辞世の句「慨世憂国の士をもって発狂の人となす。豈悲しからずや」を詠んで半蔵は亡くなる。

 半蔵の娘お粂にも、夢多く生真面目で、一途な気質が色濃くひきつがれていた。この気質は、平田学派と親和性が強く、多くの共鳴者、信奉者を生みだした。そして、「夜明け前」を発表した昭和になり、西欧化に対抗する国粋主義や国学が日本を動かし始めた。



2015/08/06

南総里見八犬伝 徳川時代の倫理


 徳川イデオロギー

 19世紀後期江戸時代の代表的小説 「南総里見八犬伝」は曲亭馬琴の生涯28年かけた長編小説で江戸庶民に大評判をはくした作品であった。 物語は「水滸伝」をならい、15世紀の足利時代南総の地を舞台に展開する。 伏姫の護身の数珠が飛び散り、この霊玉をもった八犬士が活躍するスペクタクル物語で、天守閣での決闘、立ち回り刑場破りなど、その後定番になる活劇の場面を創造した。この数珠玉をもつ八犬士の活躍する勧善懲悪、因果応報の物語の最後は、富山の山中で仙人になりめでたく終わる。

 八犬伝の世界は儒教的倫理をもとにして組み立てられている。儒教の7つの徳目、仁義礼智信は五行の徳であり孝、悌は家族の掟で、この 仁 義 礼 智 忠 信 孝 悌 の八つの霊玉をもつ八犬士がこの倫理を実践し活躍する98巻106冊の大長編読本であった。

 「南総里見八犬伝」は明治から、昭和にかけて読みつがれ正岡 子規も八犬伝の漢詩をのこしている。山田風太郎の「南総里見八犬伝」は馬琴の原作を題材にして、葛飾北斎との江戸での暮らし、娘との家族生活、十返舎一句や歌麿など当時の絵師や物語作家の生活など、文化文政時代の庶民生活を描いた場面、実と、戦国時代を舞台にした八犬伝の物語、虚を並列して小説にした。


  家康は、若い城主となったとき,一向一揆に苦しめられた。幕府を開いた時、この仏教による反乱を防ぐため、仏教を無力化した。また、幕府の存立を脅かすことを恐れ、キリスト教はキリシタン禁止令と鎖国により完全に排除した。

 こうして 徳川幕府は、国をおさめるため朱子学を主とした儒教を取入れ、文治政策をとった。各藩もこれにならって学問所で教学振興をはかった。そして寺子屋で読み書きが教えられ、それが庶民への儒教普及をうながした。

 江戸幕府として藩として統治の原理徳川イデオロギーの主流に朱子学はなるとともに、自然や、世間を見る世界像もまたこの朱子学により組み立てられた。そして、儒教は江戸庶民の世間常識のもととなった。

 明治の時代においても、家族の関係、世間の常識すなわち親に対する孝、夫婦男女の別、長幼の序、友達との交わりなどの倫理は江戸時代から続き、昭和の時代にも生き残ることとなった。しかし国を治める原理としての儒教は消滅した。



  江戸時代の国家統治の原理は儒教による修身斉家治国平天下であった。
「武家諸法度」で各大名を統治し、「禁中並公家法度」で朝廷を幕府の法の下において支配した。

 徳川の世も、時代とともに変わり、幕府の正統とした朱子学思想の見直しをせまる様々な思想が広まった。

 1758年朱子学を神道と結びつけた闇斎学を信奉する竹内式部が追放され、1766年には山県大弐が処刑された。彼らの主張は、尊王の思想とともに、倒幕思想を含んでいた。
これに対して、幕府は体制の立て直しをはかり1790年「寛政異学の禁」で朱子学を幕府の生学とした。それとともに湯島の昌平坂を幕府の学問所として公認した。
 
 知行合一を主張し行動を重視する陽明学の信奉者、大塩平八郎は大阪で1837年に乱をおこした。
 朱子学を背景に幕藩体制を立て直す水戸学がしだいに先鋭化し水戸浪士により、桜田門外の変がひきおこされた。
 さらに仁義礼譲孝悌忠信などはもろこしの聖人と呼ばれる人々がつくり、人間をしばりつけてしまったものであるとし、儒教をまっこうから否定する国学なども人々の間に広まってくる。幕末にはこれらの思想が王政復古、尊王攘夷の錦の御旗となり時代を動かすことになる。

 徳川イデオロギーは、未だにその実態や役割について議論され、明治から昭和にかけての影響についても結論はでていない。

 儒教の分派や国学は江戸時代にうまれ、時代とともに変化し、倒幕、明治維新の理論となってくる。さらに1890年(明治23年)明治憲法のもとでだされた教育勅語や1930年代の昭和時代の日本帝国の国策として持ち出された国体論や国体の明徴はこれらのイデオロギーを再構築したものであった。



2015/07/12

忠臣蔵時代の思想







寒月に 木を割る 寺の男かな         蕪村

 1703年に吉良上野介の家に、署名し討ち入りした47士の生き残り寺坂 吉右衞門のその後を詠んだもので、討ち入り後、故郷に帰り、その後83才の死ぬまで寺男として江戸に暮らした。

 赤穂浪士の討ち入りは、平和と安定の200年間に起きた唯一の政治的事件であった。身を捨てて主君への忠誠を果たした四十七士は、国民的英雄となった。これに対して荻生徂徠は「もし、私論をもって公論を害し、情のために法を二三にすれば天下の大法は権威を失う、法が権威を失えば民は拠るところがなくなる。何を以て治安を維持することができよう。」とした。 徳川幕府はこれをうけて四十七士に切腹を命じた。


 江戸時代の中期1700年代に入ると,初期の農業中心の経済から、しだいに商業活動が活発化して、文化も新たな転換点をむかえることになる。文学や学問にあたらしい潮流があらわれた。この中に、新思潮をつくり主導した荻生徂徠の古文辞派があった。

 戦国時代に戦国大名の統治の原理、主従関係のもとになる思想が儒教から取入れられた。徳川家康が天下を統一したとき、その政権の正当性を示すため儒教思想を用いた。「天下は天下のための天下なり」とし、将軍もまた,自然的規範、天道のもとに拘束されると考え、諸国の武将を自らの下に平定して支配の機構をつくりあげた。

 徳川時代は儒教思想とりわけ朱子学を統治原理の根幹とした。  朱子学は自然の法則と人間の規範、個人の道徳と社会の秩序を「理」の概念で統一的にとらえた。自然界に上下があるように人間社会にも上下、貴賎がある。個人の修身によって、家の秩序、和はたもたれ、君臣の義によって社会的、政治的秩序はたもたれる。これが自然の摂理とつながる。そして人々はそれぞれの分相応のくらしをすることによって国は治まる、という思想であった。


 この朱子学にたいして、荻生徂徠は、儒学の古典に帰ることを唱えた。
 そして、学問の基礎は古語、古義を正しくは把握することにありとして、中国の文献を正確に読み解き、聖人の聖とは作者であり、社会制度をつくった王たちを示す。道とは天地自然の道ではなく歴史上の事実であるとした。
 さらに、儒教は統治術であり、個人の道徳はべつもので、聖人への道は人々の心の善悪とは関係ないものである。文芸など個人的、私的分野を政治と別なものとしてあつかうこととした。
 このようにして、教条化した儒教を構築しなおし、古文辞学を打ち立てた。

 江戸時代の中期にはこの徂徠の思想が広く芸術界におよんでいった。この影響下に、蕪村が絵画、俳句の革新をおこない,俳画を生み出した。

 与謝蕪村は 1716年うまれる。芭蕉の跡をおって若い日々、東北の旅に出る。その後京都で居をかまえた。
 俳句においては、芭蕉没後低迷していた俳句を芭蕉の道に帰ることで立て直す。絵画では中国の古典を題材にした画を学び山水画で有名になる。その後、夜色桜台図など蕪村独自の新たな絵画を生み出し、池 大雅、丸山 応挙とともに絵画の新たな潮流を京都の地におこした。また、同じ年に生まれた伊藤若冲などと、自由奔放な画風を競うことになる。

 自然を季節をとぎすまされた五感で感じとり、凝集し、絵画であるいは俳句で表現した。やがて絵と句を融合した俳画をつくり、その日本独自の諧謔と情景、情感をあらわす作品をうみだした。代表作「奥の細道図屏風」では奥の細道の書と芭蕉を中心に多くの人物像をえがいた。安永の10年間にわたり同じ題材を10巻以上くりかえしえがいた。
 
釣り上げし 魲の巨口 玉や吐

さみだれや 大河を前に 家二軒

閻王の 口や牡丹を 吐かんとす

 などの絵画を俳句にしたような作品がある。蕪村の中では感じ取られた情景は同じで、表現がときには絵となりときには俳句となる。やがて両者の融合した俳画が生まれる必然があった。俳画では南画でみられる風景は描かず、詩や俳句の文字と人物を軽いタッチで軽妙に描き出した。

 日本の情景そのものの、春の海 終日のたり のたりかな
 なの花や 月は東に 日は西に などの膨大な俳句そして書、絵画、俳画をのこし 絵画と文学の体現者蕪村は68年の生涯を閉じた。

 








2015/06/07

古田織部の忠誠と千利休の謀反


 美濃の国の輪中地帯は、豪雨に見舞われると水は堤防を超えて、田畑や住居にまで浸水する。それが稲作にとっては、豊かな実りをもたらすこととなる。
 西から揖斐川、長良川、木曽川の3つの河川に囲まれ,さらに西方には関ヶ原,長良川の中流には岐阜城がある。この濃尾平野の輪中地帯の北方、現在の本巣市に古田織部は生まれた。
 1543年(天文12年)古田家の家督を継ぎ山口城主として、戦国領主となる。1567年信長の美濃進駐のとき,織田家の家臣となり,播磨攻めなど各地を転戦し,武将として活躍する。

 一方、堺の商人の子として1522年(大永2年)に生まれた利休は堺を信長が直轄地して支配したときに,茶頭として雇われる。
  利休は茶の湯をとおして、新しい日本文化をつくり出すことになる。
 利休の美意識は自然に、さりげなく、素朴なものをよいとする。無駄を削ぎ、華美を排した、わびの空間、わびの思想であった。茶室を三畳や二畳半という狭小な空間にし、露地を通路ではなく,茶の道への空間とし、さらに茶の湯は禅なりとして、わび茶を完成させた。唐の品、宋の画などの中国文化を否定し、しだいに日本独自の茶道具や装飾品を尊重していくことになる。
 
 1582年(天正10年)本能寺の変で信長亡き後、秀吉につかえる。天下人となった秀吉の生活を利休の美意識によって助言する文化人になった。
 しだいにその地位は比類のないものとなり 『ないないの儀は利休。公儀の事は秀長』といわれるほどの側近中の側近として秀吉とともに日本を動かすことになった。 
 そして、文化の指南役にとどまらず政治に関しても多大な影響力を持ち、九州平定の際には、秀吉の手紙とともに利休の手紙も副書として出されていた。

 小田原攻めには,秀吉とともに従軍し、織部もまた関東に軍をすすめた。 この頃から、「赤は雑なる心なり,黒は古き心なり」として利休は黒茶碗を偏愛し、2人の間の美意識に微妙な違いを生じた。
 そして、秀吉の北条攻めのさい、「お耳にあたること申して、その罪に耳鼻をそがれ」と利休の20年来の弟子の山上宗二が秀吉に処罰されている。
 朝鮮出兵を前にして、2人の間には、政における考えもしだいに溝ができ、
1591年(天正19年)秀吉は利休に切腹を命じた。

 この時代、封建的忠誠心、主従の関係は絶対的で決して破ってはいけないものであった。この個人的忠誠心は「御恩に対する奉公」であり、忠臣は主人の非に対しては、命をかけて諫言するしか方法がなかった。利休は諌言し秀吉はこれを受け入れなかったと推測される。


 利休亡き後の茶の湯、茶室、庭園の文化は古田織部が引き継いだ。
 織部の茶の湯は「無一物の道理」といわれる道理、すなわち合理的である仕方が大切であるとした。
 また茶室は利休の2畳半からひろげ、採光様の窓を用い、茶室を草庵から書院に切り替えた。そして,禅的で,抑制的な茶道をより開放的なものにした。 形のいびつな茶器をつくり、この瀬戸(美濃)で焼いたひずみのある茶碗、幾何学模様、ハイフォン グリーンを使った緑の茶碗は「ひょうげもの」の綾部焼きとして有名になった。


 大坂夏の陣の前、織部家の家臣木村宗喜が京都を焼き払う計画を立て、家康の本陣を挟み撃ちにした襲う予定であった。この計画は未遂におわり、織部は1615年(慶長20年)自刃に追い込まれた。
 秀吉の死に際して、実父の古田重定は殉死した。織部は徳川秀忠の茶の指南役となり、関ヶ原の戦いでは石田光成には味方しなかった。しかし古田織部は豊臣家の滅亡をまえにして、父親と同様に秀吉にたいする忠誠心を全うしたのかもしれない。



2015/05/24

日本の旅 イサベラ バード



月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也

 1878年(明治11年)当時46才になるイサベラ バードはハワイの旅を終え、5月20日日本の横浜の港についた。関東のまちまち、東京の浅草などに滞在した後、土手道に沿って、絶え間なく続く村落を目にしながら関東平野横切り、6月10日に日光に向い、新潟から東北の日本海側に沿って北上する北海道の旅に出発した。

 6月13日日光に到着。

 「私たちは、今朝早く、小雨降る中を出発した。そして8マイル続く杉の並木の下の坂道をまっすぐ登っていった。
 草木はよく繁茂していた。これは暑くて湿気の多い夏の気候と、山岳地方に豊富な降雨量があることをうかがわせる。」

 日光の東照宮は日本的建築と庭園の廟で、明治時代の廃仏毀釈により、儀式や壮大な仏教設備は取り去られてしまった。
 徳川の時代より変化したといえ、陽明門のドラゴンヘッドや牡丹の透かし彫り、唐草模様に驚嘆し、「富と芸術が黄金と彩色で仙境をつくり出している。」又、家康の遺骸のある宝塔と青銅の鶴、蓮を生けた花瓶をみて、「外には雄大な大自然が偉大な将軍の墓を華麗な悲しみの中に包んでいる。」と異邦人の眼にうつる江戸時代そのままの日本を記した。

 1689年(元禄2年)の春5月16日(旧暦3月27日)松尾芭蕉は江戸深川を発って日光に向った。「奥の細道」の旅立ちで、5月19日に日光に到着した。
 江戸時代の人々にとって日光は、空海が二荒山から日光にこの地の名前を改めた場所であり、恩沢八荒にあふれ、四民安堵のすみか穏なり。猶、憚り多くて筆をさし置ぬ、場所であった。

 あらたうと 青葉若葉の日の光

 その後、イサベラ バードはキリスト教の伝道活動をみるために7月の始め、1週間以上にわたり新潟に滞在した。
  晴れた日のない梅雨の季節で、信濃川の河口にある、人口5万人の日本海側の開港地であり、各種の官公庁や学校がつくられ,英語学校には150人の生徒が通っていた。
 当時の新潟県は150万人が住み最も人口の多い県にあげられていた。米など多くの作物の生産地で、運河が物品の搬送に使われ,有数の地方都市として、清潔に整備されている新市街地を目にしている。

 松尾芭蕉は福島を通り仙台、酒田から、旧暦7月に新潟に到着した
 新潟の街にはあまり興味をしめさず、次の旅路である加賀の府金沢までの130里  (520km)に思いを馳せ、自然の風景を楽しんだ。7月6日に

 文月や 六日も常の夜には似ず と詠み、

 名句 荒海や 佐渡によこたふ天河   を残している。

 イサベラ バードの旅は新潟から山形、横手を通り秋田、青森をへて,北海道の函館に渡るコースをとった。
 その年は例年になく長く続く梅雨の年で、青森県の平川では一週間以上の長雨で増水した河の氾濫に遭遇した。
 「どの波も黄褐色の泡をふきながら   浪頭を立てていた 栗毛の馬のたてがみにも似て」と書かれたように、材木や樹木は押し流され、橋も橋台の根元が削られ、19あった橋のうち2つだけ残り、道路はほとんど全部流失した。その後、馬と人力車を乗り継いでようやく黒石にたどり着いた。青森まで22マイル半のきれいな街だった。
 当時のイサベラ バードの服装はアメリカ山岳服とウエリントン靴で、駄馬に乗っての旅が続いた。大雨のときには,蓑かさを使ってずぶぬれを免れた。

 梅雨の季節、芭蕉は仙台、松島から最上川を通って新潟に渡った。
 最上川は米沢を源流にし,山形を上流にする大河で、江戸時代、通行の難所として知られていた。旧暦の5月29日梅雨の頃、有名な

 五月雨を あつめて早し最上川

の句を残している。

 イサベラ バードの旅行した明治の初期より、さらに200年まえの元禄時代に生きた芭蕉にとって,西行、義経や戦国時代は歴史の断絶のない、直近の過去であった。その時代の近さを感じさせる俳句を残している。 

笈も太刀も 五月にかざれかみ幟

夏草や 兵どもが夢の跡

終宵 嵐に浪をはこばせて 月をたれたる 汐越の松  西行

 芭蕉の200年後に日本についたイギリス生まれのイサベラ バードはカナダ、アメリカ、オセアニア、ハワイの旅行に続いて今まで外国人の行ったことのない日本の地方を旅し「日本奥地紀行」を出版した。
 日本の歴史を背景にした時空の俳人芭蕉とは異なる眼、広い空間的視野で、同じ季節の日本を書き記している。江戸時代から変わることの少ない地方の子供たち、女性の風俗や習慣と自然が描きだされている。
 イサベラ バードはその後も中国、マレー半島、シナイ半島、チベット、ペルシャ、モロッコなどを旅しその観察眼は思い込みのない広い文化的素養をもって書かれ、出版された旅行記は世界中で読み継がれている。




2015/05/17

ニューサイエンス


    
                   

 1960年代アメリカは世界の富の50%以上が集中し、平均的な男性で彼らの祖父の2倍以上の収入があり,労働時間は3分の2程度で,終身雇用や年金を提供する企業に所属していた。この時代、豊かな物質文化、消費社会に対して,カリフォルニアから質素な生活を実践するヒッピーの文化、対抗文化が生まれた。そして,レイチェルカールソンが「沈黙の春」で残留性化学物質が自然界を汚染し、人体に蓄積される危険を警告した。

 1970年代にはいるとアメリカの経済は停滞期に入り、1974年には第1次のオイルショックがおこった。これに対して1980年代レーガン大統領の時代に2つの方法で解決がはかられた。
 企業の利益に結びつかないコストの削減を行なったこと。会社を買収して再生させる、構造の改革株主革命が起ったこと。このもとになる思想は、企業は従業員や社会に対して何の義務もおわない、企業は経営によって利益を増加させることが社会的責任であるするもので、株価を上げるための効率的な方法は大規模なレイオフによる経費削減であるとされた。こうして、会社人間の時代は終わりを迎えた。

 この時代、西欧社会に対する近代文明の批判としてアメリカではニューサイエンスが出現した。「1980年の始めにあたって、人類はかつてない世界的危機を向かえている。
 この危機は複雑で多面的で私たちの生活のあらゆる面に関係してくる。 物質と精神世界を分けたデカルトの世界観、すなわち世界は人間が造り出した機械のように部分に還元され、そして理解されるというのはまちがいで,世界における一切の存在は可変的で無常であるという東洋思想が物理の世界では現実に近いものであることが証明され、社会もまたデカルト的心身を2分するのではなく、有機的で全体的である、エコロジーアプローチが必要である。」という思想だった。この世界観の転換により世界は持続可能な社会に変化すると語られた。


 ベルリンの壁の崩壊により、1990年代以降、世界はアメリカの一極体制「市場経済と民主主義の時代」になった。さらに、IT革命によるオートメーション化と安価な人件費の地域に生産場所を求める、グローバル化から経済はさらに効率化し富を生み出した。

 21世紀にはいると市場は新しい金融テクノロジー使って住宅ローンを買い集め、それをまとめて債務担保証券を発行して、年金基金などに販売した。これがアメリカなどで住宅バブルをひきおこし、リーマンショックをもたらした。
 この恐慌を乗り切るため、アメリカは貨幣を増刷し中央銀行が国債を買い、経済を支えた。世界中で人生の目的は目先の物質的豊かさ、高収入となり、この近視眼的衝動が世界にまんえんした。
 人々は貧乏になることを恐れ、経済の成長なくして幸せはないと信じて、生産性のさらなる向上をめざし、さらなるエネルギーを消費し、膨大な物を買うよき消費者となった。

 現在、人々の消費が社会を豊かにし、経済を成長させ、GDPをふやし、国力を増強させる。この考えはほんとうに正しいのか、再び疑問視されるようになり始めた。1930年年代世界中の人口は20億人であった。今はその4倍以上になり日々増加している。海面が上昇し南の島々は水没の危機が迫り、アラル海は干上がり、世界中の氷河は消えつつあり、気候は荒々しくなった。地球上に生活する人々が豊かな生活を送るのに消費するエネルギーを地球は十分供給できるのか、豊かな環境は保全できるのか、あるいは多様な生物との共存が出来るのかといった地球環境の問題が人々の眼にみえる形で現れ解決をせまられる問題となりつつある。

 1972年のローマクラブの警告、成長の限界は、緑の革命で克服され、医療の進歩で人々の寿命は伸びカタストロフィーは回避された。 無限のクリーンエネルギーを生み出すはずの原子力は人々のコントロールー不能の放射能汚染をもたらし、熱エネルギーの消費が地球温暖化、気候の大変動をもたらしている。成長が永遠に続く経済成長至上主義にかわる経済学はないのか、地球温暖化を防ぐエネルギーの使い方はないのか、放射能に汚染されることのない今以上に住みやすい気候や環境は手に入るのか。今後の地球環境の未来は、現在の人々の選択に委ねられている。








2015/05/03

日本の大学教育


日本の教育

 明治政府は国立大学を設立にあたってアメリカやイギリスと異なり100%国の予算でまかなうシステムをつくり、学問の自由は、財政の制約のもとにおかれた。明治の初期にも、教育ファンドをつくる案や、文部省から独立した特別会計の案もだされた。しかしいずれの案も明治政府は取入れることなく文部省の権限のもとにおかれ、それが現在も続いている。

 そして、日本の高等教育は、各省庁が帝国大学の法学部卒業生を中心に人材を養成し中央の官庁や地方に行政官を送り、省庁の中に科学技術を取り込む技官制度を作った。頂点には5つの帝国大学、台湾,朝鮮の台北帝国大学,京城帝国大学さらに昭和に入り、大阪、名古屋の合計9帝国大学を作り旧制高等学校からの入学生が日本のエリ−トとして養成された。この旧制高校の割合は国民の1%以下であった。その他のコースとして,専門学校があった。さらに、教師のための師範学校、女子高等師範学校があった。

 第二次大戦後は、すべての高等教育を大学として一本化した。旧制高校は廃止され、大学に再編された。
 戦後初期は一部の人が大学進学し、多くの人は早くから職業につき、日本の高度経済成長を支えた。その後は昭和38年(1963年)大学入学12.1%に昭和40年(1965年)17%、昭和50年(1975年)には37.8%と増えさらに、その動きは加速し大学全入化の動きに乗って、現在50%以上の若者が大学に進学している。

 国立大学は約100校、私立大学は約500校におよび、多くの定員に満たない大学や、日本の最高といわれる大学も世界的には何の変哲もない大学となりつつある。
 日本の大学の特徴は、25才以上の割合が2%以下で,他の先進国とは大きくかけ離れていること。一斉入学,一斉就職が今でも大多数を占めていること。これは、戦後に一時期大学などの教育機関が不十分で,入社した若者を自前で教育し,終身雇用、年功序列が会社にとって合理的な時代があった。

 企業が世界競争を強いられる中、人材の流動性が高まり、実際は1980年代には会社共同体に取り込み会社で0から教育するシステムはコストにあわなくなっている。現在実社会と大学の関係がミスマッチをおこしていることが誰の眼にも明らかになり大学で何を学ぶかが再び問い直されることとなった。

  1980年以降、様々な教育改革が試みられた。大学における教養教育は形骸化しているとして,1991年には教養学部が解体された。専門教育も戦後の大学進学が例外的であった時代の研究者養成プログラムの延長で,研究もそれぞれの専門がたこ壷化していて何を学生に教えるのかがあいまいになり、勉強もきびしくなく、脱落することなく遊んで卒業できる。大学の教育の充実がいわれつつなかなか変革にはむすびついていない。そして,大学卒業だけでは国際的にはイニシアチブをとるのが不十分で大学院教育が必要とのかけ声で、多くの大学院がつくられ多くの博士が誕生した。2006年には博士過程卒業生の就職率が57%となり、就職難の時代となった。
 
 2004年4月から国立大学の法人化がはじまる。これは目的として大学間の競争を促し,競争的起業的な文化を生む目的であったが、実情はあまり大きな変革はなされていない。さらには国際的に通用するトップ30校に資金の配分を多くする構想も実行されている。

 一方入学試験についても、一点をあらそうセンター試験はよくないとして数年後に廃止され新たなアメリカ型の習熟度をはかる入試システムに変更される予定となった。しかし今の日本の中学,高校では受け身の受験のための勉強と長時間の部活という内向きのグループ活動に時間を費やされ,職業に就いて学んだり考えたりする時間はほとんどない。この高校卒業までの教育をどうするのか、大学入学後の教育をどうするのかはっきりとした目標がより重要だと思われる。

 大学では、現在実学の学部は受験倍率が増えているのは、目的が明確で、卒業後試験の関門があるため勉強せざるを得ない環境であることがおおきい。戦後の総合大学指向から再度、実践的職業訓練を目的とした大学と研究やアカデミズムの大学を別々に充実させることも必要な時かもしれません。