2016/12/16

巴里のアメリカ人 フィッツジェラルドとヘミングウエイ


ギャツビーは緑の灯火を信じていた。
年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。
それはあのとき我々の手からすり抜けていった。
でもまだ大丈夫。
明日はもっと速く走ろう。
両腕をもっと先まで差し出そう。
   そうすればある晴れた朝に----
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。
流れに立ち向かうボートのように、
絶え間なく過去へと押し戻されながら。

  グレート ギャツビー 村上 春樹 訳

                スコット フィッツジェラルド

 フィツジェラルドは1896年アメリカの北部ミネソタ州セントポール生まれる。1917年プリンストン大学を中退して陸軍に入隊。第一次大戦は猛威を振るったインフルエンザのためヨーロッパに渡らず、南部アラバマ州のモンゴメリーで駐屯しゼルダと会う。

 1920年「楽園のこちら側」で若き時代の作家としてみとめられ、新鮮な表現で、生まれた街を舞台にした「氷の宮殿」などの多くの短篇を創作する。
 同じ年「古い窓の敷居に腕を載せ、その上に顎を載せ、眠そうな目で砂ぼこりのチラチラ光る路上を眺めていた。」南部生まれのセルダと結婚した。

 第一次大戦後のアメリカも、以前あったヴィクトリア時代のモラルは変貌し、怒ったそして新しいタイプの若者が生まれた。   この狂乱のニューヨークにセルダとともに住み、小説そのままの生活を送り、時代の代弁者、時代の申し子にフィッツジェラルドはなる。
 
 フラッパーが生まれ、自らの作品で描いた「ジャズエイジ」の新しい世代が姿を現し、「ニューヨークは世界の誕生を思わせるような虹色の輝きに溢れていた.
「我々にとってのニューヨークはていどの差こそあれ、酒びたりのどんちゃん騒ぎの街であった。生活を立て直さねばという決心もロング アイランドに戻るまでのこと、戻ってしまえば全てはもとの木阿弥という有様だった。」

 1924年長女スコッティーをつれて3人でフランスにわたり「グレート ギャッツビー」を書き上げ出版する。この作品がいまでもアメリカの教科書にものる20世紀最大のアメリカ文学作品となる。
 ニューヨークの東、ロングアイランドを舞台にして大金持ちのギャツピーが、暑い夏の日、自宅で夜な夜な豪華なパーティーを開き、オーケストラが演奏されジャッズがうたわれ、舞台では演劇がそしてダンスとお酒の盛大な騒ぎが繰り広げられる。パーティーの主催者ギャツビーが何者であり何のために人々を招き主催するのか謎であった。
 隣の住人ニック キャラウエイによって語りすすめられるギャツビーの人生。ギャツビーの過去はしだいに明らかになり、デージーと再会し、そして夏の終わりのプールで悲しい結末を迎える。

  第一次大戦後のフランスは文化の中心として世界中から人々を惹きつけた。 世界から小説家など多くの芸術家が集まり毎日が祝祭日の生活を楽しんでいた。そして日本からも多くの画家、小説家の卵や財閥家族などの金持ちがパリの生活を楽しんだ。パリにわたったアメリカ人も芸術のインスピレーションを得て多くの作品を描いた。

 「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮す事ができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。」

 1925年パリでフィッツジェラルドは最初の短編集「われらの時代」をだしたばかりの若いヘミングウェイと知り会い意気投合している。
 フィッツジェラルドはヘミングウェイの才能を認め、「日はまた昇る」のアドバイスをしたり、出版社を紹介したりした。そして「アーネストは雄牛で僕は蝶だ。蝶は美しい しかし雄牛は存在する。」と彼の才能を讃えている。

一方ヘミングウエイはフィッツジェラルドのあまりに繊細でアルコールにおぼれるパリでの様子と、通俗的と思える物語の中に、人間の奥深いこころの底を浮かび上がらせる小説について、後の「移動祝祭日」のなかで描いている。

 「彼の才能は蝶の羽の鱗粉があやなす模様のように自然だった。
ある時期まで、彼は蝶と同じようにそのことを理解しておらず、模様が払いおとされたり、損なわれたりしても、気づかなかった。
のちに彼は傷ついた羽根とその構造を意識し、深く考えるようになったが、もはや飛翔への愛が失われていたがゆえに、飛ぶことはできなかった。
残されたのは、いともたやすく飛ぶことができた頃の思い出だけだった。」

 
 その後、ボルチモア郊外にこもり書き上げたのが、セルダとの生活を小説化した「夜はやさし」で新たなフィッツジェラルドの長編小説であった。
 アメリカ人富裕階級の世界を、精神科医ディック ダイバーと患者であり後に結婚するニコルとのフランス生活、若い女優ローズマリーと出会い、心の葛藤をえがいた。
 セルダの病気や自らのアルコール中毒、17才の女優との関係を作品にしたもので、1934年出版。実際セルダは精神に変調をきたし1930年スイスで療養生活にはいり、アメリカに帰国してからも、入退院を繰り返した。

 2人の小説家としての立場はしだいに逆転しフィッツジェラルドはかつての栄光をとりもどそうと焦燥感をつのらせ、一方ヘミングウエイはしだいに認められ「武器よさらば」などで小説家として成功者となる。 彼は「夜はやさし」の書評の中で、わんぱくなガキが軟弱だが才能のある少年、フィッツジェラルドにたいして、あざ笑うような優越感をいだいていたと書き記している。

 小説のような生活を送り、自らの実生活を小説化する作家フィツジャラルドはアルコールに溺れ、若すぎる晩年はハリウッドで劇作家として、かつての華やかさとは遠い生活を送った。映画「風とともに去りぬ」のスカレーット オハラの台詞をつくったり、ハリウッドの世界を小説にした。その後、セルダとも離れ、未完の小説「ラスト タイクーン」を残して44才の若さで死亡した。


 2人の活躍した時代、フランスで生活をした小説家も多かった。国内では芥川龍之介、中野重治、横光利一などが活躍し彼らの小説はヨーロッパの文化の大きな影響をうけていた。しかしアメリカ文学はほとんど日本には紹介されず、フィッツジェラルドやヘミングウエーの小説の影響力はみられていない。
 かれらの小説が反知性主義的な文体あるいは、通俗小説的な文学であったためか、あるいはよき翻訳者に巡り合わなかったためか、また生活様式の差なのか。
 彼らロストジェネレイションの文学が日本に受け入れられたのは第二次大戦後で、フィッツジェラルドは現在再評価されている。





2016/11/20

地震 小松左京の日本沈没


 
 大地震ふること侍りき その様世の常ならず 山崩れて川を埋み海傾きて陸地を浸せり 土裂けて水湧き上がり巌割れて谷に転び入り渚漕ぐ船は波に漂ひ道行く駒は足の立処を惑はせり

                           方丈記   鴨 長明

 1973年ベストセラーになった小説「日本沈没」は、SF作家小松左京の作品で、後に映画化された。  日本列島の成り立ちと地球の動きをもとにした近未来の物語で、日本列島で地殻の変動から、大地震がおき、津波,火山の噴火をともない次第にすべてが沈みはじめ、ついには、海に没してしまう。日本人は大脱出により世界にちらばっていった。その時の日本人の活躍、日本文明消滅の様子を衝撃的に描いた。
 このSF仕立ての日本人の物語は、プレートテクニークスという地球物理学の新しい理論をとりいれた。日本列島沈没の発想は近未来におこりうる現実を描きだしたものとして受け入れられ、空前のヒット作となった。


  小松左京は日本を代表するSF作家で、1961年「地に平和を」で活動を開始し、 1960年から1980年にかけて多くの作品をだした。地球温暖化や環境汚染、様々な病源体やウイルス、宇宙旅行や惑星移住などを素材にして、過去と未来、そして地上から彼方の宇宙を舞台にした多くの想像力ゆたかな思考の実験、フィクションを構想した。
 アーサーC クラークをおもわせる物体Oが日本を支配する短編小説「物体O」、日本の未来や過去を漂流する物語や近未来小説「果てしなき流れの果てに」「復活の日」あるいは2つの並行する歴史や江戸時代へのタイム スリップしたり、中国を舞台にした地殻変動小説「東海の島」などを発表し、SF黄金時代をつくりだした。「はみだし生物学」では自己増殖型機械についてかたり、コンピューター社会生態学を構想している。


 「日本沈没」では、一人の地震学者がプレート理論を使って地殻の変動を観察し、日本が沈没することを予知した。このプレート理論を最初に唱えたのはドイツの科学者アルフレッド ウェーゲナーで、1915年に発表された「大陸と海洋の起源」で、海によって数千キロメートル隔てられた大陸で同じ太古の生物の化石を発見し、アフリカ大陸とアメリカ大陸はその形から、太古の昔すべての大陸は1つにまとまっていたとの説を発表した。
 長い間荒唐無稽の説として忘れ去られていたものが、地球内部のマントルの運動により地殻は動いているとわかり、人々が認めるようになったのが1960年代で、現在ではこの大陸移動説は定説になっている。

 プレート理論により陸地は移動し、地球表面の固い岩の層が、動き、沈み込み、変形をうけ、また陸側のプレートも引っ張り込まれ変形し、ある時この変形に耐えられなくなって一気に跳ね上がり地震をおこす。かつて日本列島はユーラシア大陸の一部で、それがひきはがされ、西日本と東日本は二つの島になって離れていた。それがさらに数百万年の時代をへて、太平洋側にしだいに動き、合体し現在の日本列島ができた。また地殻変動により地震はおき火山が噴火し、そのとき津波が発生することがわかってきた。いまでも日本列島は少しずつ動き、震動をくり返している。

 日本ではプレート境界型の東海大地震を想定して、その予知に予算も人材も法律もシフトして対応した。その後おおくの死者をだした阪神淡路大震災がおこった。活断層のずれによるマグニチュード7.3の地震だった。小松左京も「大震災95」でこの想定外の大都市圏直下型活断層地震についてルポルタージュを書いている。

 活断層というのは、約260万年前以後に大地に断層によるずれがおきたものを示す。その断層は過去からそれにそって地面が動き、何度も地震をくり返す場所で、陸側のプレートがひずみ、このひずみがある時裂けやすい地層、活断層にそってずれて地震をおこす。プレート境界型地震とはことなった地面の比較的浅い地面の裂け目であり、甚大な被害は比較的狭い範囲にとどまり、日本全国で2000以上ある。

 境界型地震も太平洋プレート(フィリッピンプレートを含む)の西のはしでは、アリューシャン列島、日本列島、琉球諸島、台湾、インドネシアからニュージーランドにかけて多発している。東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9の巨大地震でやはり想定外の規模と場所でおこった。

 寺田寅彦は小説の中で述べている。「日本は地震津波台風のごとき西欧文明諸国の多くの国々にも全然ないとはいわれないまでも、頻繁にわが国のように激甚な災禍を及ぼすことははなはだまれであると言ってよい。」

 この自然による災害は日本の国民性に影響をおよぼしている。「数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。」

 自然を征服しようとする野心を生じたことがかえって災害を大きくした。「文明が進んでますます天然の猛威による災害がその激烈の程度を増すと言う事実がある。文明が進むほど災害よる損害の程度も増加する傾向があると言うことを自覚して、普段からその防衛策を講じなければならない。それができていないのは、それは極めて稀にしか起こらないで、ちょうど人間が前車の転覆を忘れたころにそろそろ後者を引き出すようになるからであろう。天災は忘れた頃にやってくる。

 「昔は過去の経験から地震や台風に耐えた場所でのみ集落を保存し、時の試練に耐えたような建築物のみを墨守をしてきた。」として、日本のような地震国では津波のこない場所に住み、耐震家屋や地震にたえる都市の必要性を主張している。

 さらに台風の襲来の予知に対しては太平洋上や、日本海上あるいは大陸にも観測網をひろげるように提言している。現在台風の予知は気象衛星の活躍によりかなり正確にできるようになった。しかし地震の予知はなかなか難しく、原因としてのプレート理論は分かっても未知の活断層があらわれたりして、実際おこる地震の予知は今のところできていない。


2016/10/16

スターウオーズと2001年宇宙の旅


 宇宙空間を題材にしたSF映画「2001年宇宙の旅」はその後のSF宇宙映画に大きな影響を与えた。人間が作り出したロボットが逆に人間を支配するという発想は神秘的で不可思議な未来の不安を先取りするものだった。その哲学的、詩的作品のなかに、はるかかなたの惑星をめざす宇宙船の巨大な姿と美しい映像は、後の世界の目標となる作品で1968年に登場した。原作はアーサー   C  クラークでスタンリー キューブリックが監督し製作した。



 スターウオーズは1977年5月28日アメリカで公開された。
 チュニジアの砂漠で撮影された荒涼とした世界や、最初に帝国のスター デストロイヤーがレイヤ姫の船を追いかけ響き渡る轟音とともに巨大なエンジンの船がスクリーンを横切るシ−ンではじまる壮大な宇宙での物語。その宇宙の映像や戦闘の新しさで当時の人々を映画の新世界に引き込んだ。
  
 スターウオーズは、古代ローマ時代の帝政と共和国の歴史をモデルにした騎士と姫を主役とした騎士道物語で、宇宙を舞台に壮大な善と悪の戦いをくりひろげる。フォースと剣、ロボット.巨大な戦闘機、破壊兵器それらを武器にして西部劇を演じている。そして彼等主役たち翻訳ロボット C-3PO 万能修理ロボット R2-D2、ル−ク、レイア姫、ハンソロとチューバッカは世界中で最も有名な人物、キャラクターになった。

 この作品は神話的物語の序章で、二作目の帝国の逆襲では氷の惑星ホスの最初の場面はノルウエーの氷河の上、吹雪の中で撮影され、帝国軍の4足歩行の戦闘ロボットがスノースピーターと戦う場面が登場する。新しいキャラクターのヨーダは、操作される人形だった。

 第3作目ジェダイの帰還は1983年に公開された。コンピュータ−グラフィック映像を使わない時代の視覚光学的効果、登場するロボットや異生物など想像力に富んだ創造物が活躍する。宇宙を舞台にしたスペース ファンタジー、アメリカの神話物語スターウォーズの初期三部作は時代を変える映画だった。

 この作品のできた1960年から1980年に想像上のロボットや宇宙飛行の世界は映像のなかでしか存在しなかった。彼らは映画の中では、機械に強い小型ロボットR2-D2にはケニーベーカーが、臆病な翻訳ロボットC3POはアンソニーダニエルズが演じていた。その後現在までの間に技術は急速に進歩をとげ、物語の中でしか存在しなかった機械が現実の世界に登場するようになってきた。
 

 現在、イチゴ摘みの機械ができ,雑草取りの機械も既にできている。販売の仕事や自動運転の車ももうすぐ実用化の段階で,会計や税務の計算や弁護士の書類を書く仕事も自動化が現実のものになってきた。
 さらに、労働機械は工場や家庭でなくてはならないものになり、さらにそれらは警察ロボットだけではなくアメリカのネヴァダ州からコントロールされた戦闘機はアフガニスタンのアルカイダ攻撃に使われている。

 ソフトバンクから発売された人型ロボットのペッパーは自ら搭載するビデオカメラで相手の表情を読み取り、マイクを使って会話をする。そしてこれらのデーターをインターネット経由でデーターセンターに送られる。このセンサーは多くの家庭におかれれば多くの情報を集める端末となる。

 アマゾンやGoogleは現代における2001年宇宙の旅に出てくるHALと同じような人工知能になりつつある。情報端末からあらゆる種類のデーターが蓄積され人工頭脳がそれを分析する。人間と交渉したり人間を評価したり、その人の興味をもつ事や関心を記録している。それを使って人工頭脳で分析し集団としての人間行動をコントロールする影響力は徐々に人間の手から機械の手に移りつつある。この人間とシステムでの競争で、速度でも情報を手に入れる手段にしても、次に人が何をほしがるのかといった知識でもすべて機械の予想が人間を上まわっている。

 2001年宇宙の旅の人類の夜明けのシーンが暗示するように、人間が進化し、誕生し、長い年月をかけて自然と適応して進化した結果頭脳も発達し文明をうみだした。  一方HALは人によってつくりだされ、感情、愛情は生存にとって必要なものではない。倫理に反する行動も、合理的であれば実行する。このマシーンの暴走は映画の予言どおり人の命を平気にうばったり、戦争兵器の主流になるのか、あるいは人間の役にたつロボットにとどまるのか、SFの世界は今や現実の問題になりつつある。
 



                   


2016/09/25

昭和時代の庶民作家 林芙美子



 林芙美子は旅行、放浪を題材にして多くの作品をうみだし、満州事変から日中戦争(支那事変)、対米戦にいたる庶民の眼でみた昭和時代の記録になっている。
 
 1928年(昭和3年)尾道から東京に上京した生活を描いた放浪記の連載を始め、昭和恐慌時代の日本の流行作家となる。
  その後も、多くの旅行をしている。満州事変の2年前、満州から中国にかけての旅行を1月にわたりする。
 そして、私はハルピンが好きと書いた「ハルピンのお散歩」を1930年(昭和5年)に出している。当時ハルピンのあたりの人口は51万人、1895年ロシア帝国はこの地に東洋のモスクワの建設を目指し巨額の費用をかけて街を作った。
 その約10分の1が白系ロシア人であり、そしてユダヤ系住民、アメリカ人、イギリス人ドイツ人も多く住み異国情緒漂う町でもあった。そこで、国内にはない、広軌の列車に乗り、紅茶を飲み、初めての洋服を買い、「世界大旅行にでかけているような愉しい気持ちでした。」とうきうきした気分で、はじめての海外旅行を楽しんだ。

 日本は、1931年(昭和6年)満州事変を起こし、満州国を建国した。満州国の創設を企てた軍の考えは対ソ連の緩衝地帯としての国を作り上げそれを日本のコントロール下に置くことにあった。

 同じ年1931年(昭和6年)27才の時、シベリア鉄道を使って一人で巴里に向う。金子光晴たちの貧乏生活に勇気つけられたのか、権威や地位、社会的地位すべてからはなれた生活を送った林芙美子もまた底辺に近い人々の目線を持っていた。フランスで自炊し、着物を着て歩きまわる生活を半年にわたり続け「西伯亜の三等列車」「下駄で歩いた巴里」「巴里の小遣い帳」を出版。

 1932年(昭和7年)ロンドンの支那人コミンテルンでは、上海市街戦に対する反日デモを見、その後にマルクスの墓をおとずれる。 同年5月パリから日本への帰国 6月には帰国途中の上海で魯迅にあった。

 その後も国外の旅を続け、中国には第1次上海事変直後 日中戦争(支那事変)後の第二次上海事変、南京陥落直後の四回訪れている。

 
 1937年(昭和12年)日本政府は言論取り締まり強化の方針を発表した。そして12月には人民戦線事件で自由主義者も獄につないで発言を封じる。

 同年7月7日の日中戦争(支那事変)の勃発。直後の12月南京陥落、毎日新聞の特派員として上海から南京にむかった。その記事が上海一番乗りとして読者の注目を集め、さらに翌1938年(昭和13年)9月の漢口攻撃戦に作家として兵隊たちと一緒に従軍し漢口一番乗りをはたした。

 この年には国家総動員法が制定された。

 多くの国民は戦争を支持し、林芙美子は「国の宣伝下手は日本の益をゆがめられてしまう、民間から偉いジャアナリストを選んで宣伝省と云うのでも造ったらどんなもんだろう。」と提言し、それに応えて、日本政府は全文壇を揺り動かした文人の従軍ペン部隊をつくった。この内閣情報部派遣のペン部隊に選ばれるのは一流作家の証となり,北原白秋はその中に大衆作家の多く詩人の少ないことを問題にしたほどで、選考にもれた人は悔しがった。
 首相官邸で発表された作家は合計23名でそれぞれ陸軍と海軍に分かれ、その中で林芙美子は、陸軍に選ばれた唯一の女性作家となった。 


  1938年(昭和13年)9月国民党政府は南京陥落の後、漢口に首都を移していた。その首都を攻めるために日本軍が30万人を動員し国民党軍との戦いに臨んだ。
 林芙美子のあくなき情熱は危険もおそれない冒険心を生み出し、漢口攻略戦の従軍作家として、揚子江に沿って漢口まで朝日新聞の報道部隊とトラックに乗り兵士たちと一緒に行動し漢口一番乗りをはたした。その戦場のルポルタージュ「戦線」は戦場の自然そして日常としての戦いを感情をこめ、臨場感あふれる筆で書き上げ、当時の日本の国内の人々、読者を引きつけ、圧倒的支持を得た。

 「銃声や砲声を聞き最初は寝ることができなかったものが次第に慣れてきた。そして敵兵の死体を見ても恐怖を抱かず何の感傷もわかないどうした事なのだろうか、その気持ちを不審に思ってた」と記している。

 今まで戦場は遠いものであり想像でしかなかった。それが現場のルポルタージュで、現在の報道映像と同じ程度に鮮明に描き出して、当時の庶民の感情そのものの記録を書き送った。

「私は兵隊が好きだ。
空想も感情もそっと秘めて、
砲火に華と砕けて逝く。」


                              
 愛国は時代の風潮であり、 庶民作家は事変とともに一躍ときの人となる。朝日新聞や中央公論発行の「戦線」や「北岸部隊」はベストセラーとなり、林芙美子は全国の講演会で従軍を語り、流行歌や演劇にもなった。
「この時代と共に、私は逞しく素朴に進んでゆきたいと思っています。」

 1940年(昭和15年)満州国への一人旅「凍れる大地」を朝日新聞の後援でルボルタージュの記事を発表した。林文子の書いた満州は10年前と比べて暗いものであった。「ハルピンのお散歩」で描いた満州は林文子のにとって憧れの外地であった。その後、日本は、満州国を独立させ、国策のために多くの子供を含め貧農業の人々を各都道府県に割り当てて半ば強制的に満州に送り込んだ。

  「日本の現状を非常に案じて,何かしら重苦しいものが始終頭の中を去来している。」

 そして「青少年義勇軍にも行ってみたが今は何も言いたくない」とその後も義勇軍については何も語らず過ごした。
 





 1942年(昭和42年)南方派遣でマレー ジャワ ボルネオ島半年間の旅行をする。当時日本の占領下、比較的安定した時期で戦闘はなく,南方初だよりなどの数編の報告を雑誌に発表した。以降、敗戦までは疎開して、寡作になった。

  時代の意見に反対することは難しく時代の流れに乗るのは容易い。情報が制限された時、みようとしないものは見えないのもので、努力して見ようとして初めて形に現れる事実もある。林文子の考えの枠組みの中には、中国の世界はどこにもない。なぜ反日になるのかは想像もしていない。マルクスは貧乏人の味方だったし、お国の為に戦っている兵隊さんは偉い、そして戦場にともに生きる馬たちをいとおしく思う。

 嵐のように去った戦争では、死んだ人が一番可哀想と思い,戦後も不運な運命のひとびとの物語を書き続けた。

2016/08/17

漫画「同棲時代」



上村一夫のいた時代 漫画「同棲時代」

ふたりは いつも
傷つけあって くらした
それが ふたりの
愛のかたちだと 信じた


 東京オリンピックが開催されたのは,1964年、日本は高度経済成長期にはいる。この時代に青春期をおくった世代は人口の最も多い世代で、アメリカでもベビーブーマーと呼ばれ,第二次大戦後から、ケネディー政権のときに生まれた世代。中国では、文化大革命の時、教育機関は閉鎖され地方に下放された世代にあたる。

 日本のこの世代は敗戦により、新しくできた日本国憲法のもと、戦後民主主義の教育をうけて育った。天皇の主権がおわり、象徴天皇となり、男女の平等と、人権尊重、平和主義の憲法のもとでうまれ育った初めての世代が青年になる頃が1960年代の後半、ちょうど日本の高度成長期がはじまる時だった。老人人口は少なく、若者の多い時代でもあった。

 1960年代後半は、若者たちの叛乱、あるいはプロテストの波が世界中に波及しアメリカやヨーロッパそして日本でベトナム反戦運動や、学園紛争が起り,中国では国内を大混乱になる文化大革命が始まった時代の転換期であった。

  日本では、1970年代になると理念や理想を掲げた政治の季節は収束にむかい、2年後の1972年7月に田中角栄首相となり、今太閤とよばれ、野人、電算機つきブルドーザーとよばれ、国民の圧倒的支持を得た。

 田中内閣の日本列島改造は経済の発展が第一、新しい国の発展のため大都市集中から、日本全国に豊かさをいきわたらせるための大構造改革であった。
 これは全国に25万人の都市を作ってそれを新幹線と高速道路網で結ぶと言う土木事業を中心にした国土開発計画であった。人々の考えも理想主義より現実主義になっていった。

 当時の金日成の言葉
 「この一年間に、日本人民の闘争もたいへん力強くくりひろげられました。日本人民の闘争が強まったために佐藤反動政府は追い出され、田中政府がこれにかわりました。これは日本人民の闘争の結果だといえます。われわれは日本人民の闘争を高く評価し、それを全面的に支持します。」 

 田中内閣もう一つの成果は同じ年の日中国交回復で、中国政府から2頭のジャイアントパンダ,カンカンとランランが日本に送られてきた、当時中国は,文化大革命のまっただ中、毛沢東と周恩来の時代。いまからみれば国内的には大混乱の時代だった。

 近隣の国が、政治的生活を強いられている中,日本人の関心は世界の大きな枠を決める政治の世界とは離れた身の回りの豊かさを求める時代にかわった。
 1970年代になると若者達にとって大きな物語より、傘がないことが重要となった。 そして,アメリカでも同じころ政治の季節が終わり、若者たちは,内向きの世界を求めた。それは、「私の時代」とよばれ、アメリカ人たちもまた純粋に個人的な関心に向けて後退した。

 若者の文化は音楽文化ではプロテストソングがおわりをむかえ,「神田川」が流行し、吉田たくろうがかがやいた時代が始まる。 出版の世界では、ストーリーや内容で小説との差のなくなった漫画文化をささえた第一世代でもあった。   少年少女漫画やウオルト ディズニーとは違う漫画、大人の世代を対象とした劇画が登場した。カムイ外伝が話題となり、1968年には今でも続くゴルゴ13がはじまった。時代は漫画が,文化の一部として定着し、かつての詩人や小説家の予備軍,人材が自己の表現手段として、フォークソングや漫画に動きはじめた。




 1972年3月2日号から漫画アクションに上村一夫の「同棲時代」の連載がはじまる。カムイ外伝は教条主義的すぎるし、ゴルゴ13はあまりに007のジェイムス ボンド的で、時代はそれらの借り物ではない日本の日常、ふるい情の世界を日本のその時代のありふれた日常生活を切り出した作品をもとめた。 やがて,その漫画はテレビドラマになり、映画になり、流行歌になり時代の象徴になった。上村一夫はその一瞬の輝きの後夭折した。日本文化の潮流が変わる最初の時代は終わり、その後ガロやゴルゴ13は30年以上も続き、ドラえもんやドラゴンボールは多くの国で読まれ、漫画は市民権を得て、日本文化の象徴にまでなった。




 












 



2016/07/24

反骨の詩人 金子 光晴


詩人 金子 光晴

 金子光晴は1895年(明治28年)に生まれる。
半年あまりのヨーロッパ旅行の後、1922年(大正11年)「こがね蟲」を出版し、象徴派の詩人として、出発する。

 其夜、少年は秘符の如く、美しい巴旦杏の少女を胸にいだく。
 少年の焔の頰は桜桃の如くうららかであった。
 少年のはじらいの息は紅貝の如くかがようた。


 大正時代には一見国力が充実してみえる自由な時代があった。日清、日露戦争に勝ち、第一次大戦には戦勝国になり、「自由に人間の真実やヒューマニズムについて検討し,世をあげてそれを支持するようにみえながら、それが新しい伝統として根ずかなかったのは、明治以来の絶望的な地盤がそれを拒否するからである。」  「この大正時代は、ひげが君臨しひげが威張った時代明治。ひげのいばっていた時代はひげの乃木将軍とともに終わり、珍しく軍と官憲の弱腰の時代」大正時代がはじまる。

 その時代の後半1923年(大正12年)関東大震災がおこり、「大正人のきれいな、うわっつらがひんめくられて昔ながらの日本人が先方からまっていたとばかりにのさばり出てきた。」そして「狂乱な日本人とそれを利用して日本の軍部がのし上がる。」
 
 1928年(昭和3年)から1934年(昭和9年)あしかけ5年におよぶ東南アジアからパリにかけての放浪の旅に出る。長崎から上海にわたり、イギリス領シンガポール、マレー半島、蘭領ジャワ、スマトラを中心に東南アジアで2年間放浪しパリに到着する。パリでは、生活のためあらゆる仕事をした。

 そのパリでも満州事変以降、日本人は白眼で見られ、5年ぶりの日本帰国の時寄港したペナン、シンガポールでは、侵略帝国主義打倒の旗を立てた女たちが、本国の軍への献金募集で大声をたてていた。 このパリや東南アジアの反日のデモや騒擾とは反対に、帰国したときの母国について「日本の港についてからのこの平静さは、いったいどういうことなのだろう。」といぶかりしだいに日が経つにつれ、この平静さは「これは、軍のうごきの、民衆につたわる微妙な反応である。」ことがわかる。

 1936年(昭和11年)中国各地を回る。翌1937年(昭和12年)日支事変の起った直後、中国や南洋旅行中に書いた詩、鮫の醜悪さやおっとせいの凡庸を描写し、それらを象徴させた詩集「鮫」を発表。

 だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、
 拝礼している奴らの群衆のなかで、
 侮蔑しきったそぶりで、
 ただひとり、
 反対むいてすましているやつ。
 おいら。
 おっとせいのきらひなおっとせい。
 だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
 ただ
「むかうむきになってる おっとせい。」

また日中の戦争をえがいて

 天が、青っぱなをすする。
 戦争がある。
 だが、双眼鏡にうつるのものは、鈍痛のやうにくらりとひかる
 揚子江の水。
 そればかりだ。

 うらがなしいあさがたのガスのなかから、
 軍艦どものいん気な筒ぐちが、
「支那」のよこはらをじっとみる。

 その年のくれに日支事変後の天津と北京を訪れる。翌年1938年(昭和13年)帰国し「洪水」「落下傘」を発表。一部の未発表の詩とあわせて昭和23年に詩集落下傘におさめられた。いずれも反軍、反戦の色彩の強いもので、当時雑誌社が発表を見送ったものもある。
 続いて、1940年(昭和15年)最初の紀行文「マレー蘭印紀行」を発表。珊瑚礁、南の海の夜の悲しい性格、ニッパ椰子や森林の静寂、文明のない、さびしい明るさ、熱帯の湿気と繁茂し圧倒する植物など自然の生命力、その自然のなかに生活を営むヨーロッパ人非植民地のベンガル人、マレー人、華僑、そして日本人、混血児さまざまな人間を描く。

 
  遠い海峡の潮の音。
  かへらないためにとびたつ
  戦闘機。

                           「あけがたの歌」

 遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。
君達のせいじゃない。僕のせいでは勿論ない。
 みんな寂しさがなせるわざなんだ。
寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しに
あって、旗のなびく方へ、
母や妻をふりすててまで出発したのだ。

                            「寂しさの歌」

 戦後になり詩集「落下傘」「蛾」「女たちのへのエレジー」「鬼の児の唄」「人間の悲劇」などをつぎつきと刊行。おおくの作家が軍礼賛になだれをうった時代からかわらぬ視点で反戦、反権威、女たちの詩集を創作し発表し,戦後の人々にうけいれられ、支持された。


 ゆられ、ゆられ
 もまれもまれて
 そのうちに、僕は
 こんなに透きとほってきた。


 心なんてきたならしいものは

 あるもんかい。いまごろまで。
 はらわたもろとも
 波がさらっていった。
                           「くらげの唄」


1965年(昭和40年)「絶望の精神史」を70才になり発表。

 近代日本の明治維新以来100年の国の歩み、日本人と異邦人(エトランゼ)になった自分自身の精神の歴史を、日露戦争のあったころからの自身の体験を直接の見聞にもとずいて描き出した。
 なぜその時代の人々が昭和のイデオロギーに次々と染まっていったのか分析し、日本の精神風景を自伝的に語った。
 それは、とりもなおさず孤独に反軍、反骨の生活をつらぬき通した自分のこころの内を、大正、昭和の時代を、皮膚感覚を通しての社会、風俗を描くことだった。
 明治維新以来の日本の近代化にたいする絶望のすすめを書いたのは、ちょうど日本が高度成長期のはじめの明るい時代だった。

 晩年には,反骨の詩人、ヨーロッパ、アジアの旅人として、時代の語り部として多くの詩集や紀行文、評論文を残した。孫娘の詩「若葉のうた」も70才過ぎてから出版した。

へそ出しの「若葉」を抱いて
ぶらんこにのる。
僕らは 出発する。
人生はいつでも出発だ。
若い日のその実感を 僕は
ひさしくわすれていたものだ。



 さうだ。この人生には
勇気といふものもあったのだっけ。
若い日 僕もそれをもっていた。

2016/07/03

妻をめとらば  与謝野 鉄幹の旅


与謝野 鉄幹 妻 晶子

 妻をめとらば才たけて  みめうるわしくなさけあり 

 鉄幹は若き日、韓半島に3度渡る。1895年(明治28年)日清戦争のおわりのころ教官として渡韓し、閔妃事件により退韓させられるも無罪となりふたたび渡韓する。朝鮮の激動する社会の実感を、壮士風の感情で唱いあげ「東西南北」で発表した。旧来の軟弱、優美、もののあわれを主調としたものから、勇壮、快活にして心の真情を吐露するものに脱皮しなければならないとして、漢語と和語を融合させる、虎剣派とよばれる新しい歌をつくった。

 世をおもふ、心はひとつ。太刀なでて、泣く友もあり、笑む友もあり。

 1900年(明治33年)明星を創刊。2回目の結婚相手の林滝野の資金によるもので、フランスのアールヌ−ヴォー様式のミュシャの絵の模写を表紙に取入れ、西欧風の新しい装丁で、明治30年代の流行をつくり出す。  
 創刊号には藤村の千曲川旅情の歌の原型である旅情が掲載され、そしてフランス象徴詩の上田 敏のヴェルレーヌなどの訳詩が登場した。西欧文学の憧れを日本に運び、この時代の文芸の主導者の地位に与謝野鉄幹はついた。

 やがて、滝野とわかれ、明星の誌面に女流歌人の歌をのせ、多くのスターを,時代のヒロインを生みだした。山川登美子とともに菫と星との言葉をちりばめ、その主役であった晶子と出会い明星の2号に歌をのせる。崇高で激烈な情熱をうたう明星は一世を風靡した。

 鉄幹はその後晶子と三度目の結婚をする。そして、鉄幹婦人となった与謝野 晶子の「みだれ髪」を世に出した。22才の時であった。明治の古くさい道徳観をすて、短歌で感情を情熱を表現し、日本中にセンセイションを巻き起こした。

 われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子


 1905年(明治38年)、日露戦争でロシアを破る。日露戦争後の時代になり、しだいに流行は変化し、1908年(明治41年)明星は廃刊。
 妻となった晶子は次々と短歌をだし、随筆を書いて一家を支えた、妻の活躍をまじかで見つつ、鉄幹は終わった人、時代おくれといわれ、鬱屈した日々を送ることになる。

 しよざいなさ動物園の木の柵に面いだしたる駱駝ならねど

 この心の寂寞、荒廃の気分を変えるため、晶子やまわりの人々の援助で1911年(明治44年)横浜からフランスに旅立つ。その時代をいきいきと伝えている旅行記「巴里より」を出版した。

 途中上海に寄港し、辛亥革命に遭遇し「黄色の革命旗が掲げられている。しかし、革命軍の影響は少ない、東京での騒ぎのほうがよほど大きい。実力をいへば西南戦争における鹿児島の私学校の生徒のごとき者が各地で騒ぎ立てているにすぎない。」と書き、また、シンガポールに寄港し、多くの「からゆきさん」を目の当たりにし、日本の恥として、取り締まる意見のある中,与謝野寛は「内地において売れ口のない女をどしどし輸出向けとして海外に出すのは国益である」と主張した記事を新聞の掲載用に書き送っている。

 約半年の後、晶子は5人の子供をあずけ、鉄幹をおいかけ、一人でシベリア鉄道を乗り継いで、巴里にむかう。そして2人でルノアールやモネの絵を見、そして直接ロダンやレニエに会いにいっている。

 わが泣けば露西亜少女来て肩なでぬ アリヨリ号の白き船室

 ああ皐月仏蘭西の野は火の色す 君もコクリコわれもコクリコ

                            与謝野 晶子

 帰国後、1914年(大正3年)第一次世界大戦勃発の年、政治家を目ざし京都で立候補するも落選し、ふたたび短歌と編集者の仕事に戻る。
 時代は大正に入り、国民所得は倍増し、文化の大衆化が進む。1921年(大正10年)から昭和2年にかけて第二次明星を出版、高村光太郎、堀口大学の詩をのせ、自らの旅の歌を多くのせる。
 当時、日本の国内では、都会の近代的で自由な生活文化があらわれ、文化の大衆化が進むと同時に、1917年(大正7年)の米騒動記事に対して朝日新聞は弾圧をうけ、その後新聞編集の中立性を宣言し、多くのマスコミは権力批判を避け,センセーショナリズムの記事にはしる。世論は人々は見たい記事にしか関心がなくなり、しだいに昭和イデオロギーに染まっていく。 



 昭和の初期、晶子と2人の満蒙旅行記をだす。

いろいろの異国の煙草まさぐりて恋する日にも似る甘さかな

 そのときの与謝野晶子の日記に張作霖爆殺事件に遭遇したときの描写がある。「奉天に著く」で「大和ホテルの宿泊の日、新聞を見ると大元帥の張作霖がいよいよ北京を退き、今日天津をたって京奉鉄道で奉天へ帰るということである。」
 「翌朝、へんな音が幽かに聞こえた。 意外な事変を告げられた。満鉄京奉両線の交差するガアドの下で、京奉線の汽車が四台まで爆破され、張作霖と共に黒龍江省督軍の呉氏もたおれ、其他にも支那官人と婦人の死者が多い様子だと」1928年(昭和3年)6月4日午前5時23分のことだった。

「私たちは初めて今先のへんな爆音の正体を知ったと共に、厭な或る直感が私達の心を曇らせたので思はず共に眉を顰めた。」
 さらに「奉天の五日」で「我々日本人に対して容易ならぬ恐ろしい事を云っている。久しく此地にいる私達にとって、こんなに支那人の感情の急激に悪化した事は例がありません」
そして「日支人間の重苦しい或る不安の気分を交ぜて感ぜねばならなかった。」

 第一次世界大戦後1920年代は、つかの間の平和と安定軍縮の時代であった。1928年(昭和3年)、この日本の陸軍の謀略を境として、日本の対中国、対英米の立場は困難になり、国際的孤立を深めることになる。事件後、清朝崩壊後の軍閥割拠から、蒋介石による中国統一がなされ、奉天にも国民党の青天白日旗が翻ることになる。

 

 与謝野鉄幹は、若い日から、晩年になるまで多くの旅をし、それを記録し、その自然と心情を短歌に托した。日清戦争時の国士風短歌から,心情を率直に表現する短歌の革新を行い、おおくの詩人を発掘しそだて、妻晶子の才能を讃え、晩年にはふたたび爆弾三勇士の歌などの国粋主義短歌を残しこの世を去る。