2018/01/08

ダダイスト中原中也


 

 「まことに人生、一瞬の夢、ゴム風船の、美しさかな。」

   「さらば東京 おお わが青春」

 ダダイズムとは第一次世界大戦中の1910年代にヨーロッパやアメリカで起きた芸術運動である。1916年2月チューリッヒでトリスタン ツアラによってはじめられた。
 それは人間の理性を否定し、解体し、意志的、意識的に作られた芸術を全否定した。そして芸術作品は意味のない詩とか意味のない絵、そして構成された写真を作成しダダイズムとして登場した。

 その後、意識を否定し理性を否定したために意識的に作品は作ってはいけないということからその頃流行したフロイトやユングの無意識の世界に目をつけダダイストの一部が無意識世界の美意識を表現することでシュールリアリズムを作り出した。

 高橋清吉が1920年(大正9年)短編小説「万朝報」の新享楽主義の最新芸術と言う記事で、「文字の組み方が、同じページの中に縦に組まれたり横に組まれたり甚だしきに至っては斜めにくまれたりして居て」の一文に触発され日本におけるダダイストを宣言する。そして 1923年(大正12年)ダダイスト新吉を発表する。
 
DADAは一切を断言し否定する。
無限とか無とか、それはタバコとかコシマキとか単語とかと同音に響く。
想像に湧く一切のものは実在するのである。
一切の過去は納豆の未来に包含されている。
人間の及ばない想像を、石や鰯の頭に依って想像し得ると,扚子も猫も想像する。

 そして「皿」で

        皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿 
                          倦怠 額に蚯蚓這ふ情熱

の視覚的詩をのせる。

 序文で、佐藤春夫は「気質として彼は理想家であった。理想を見失った理想家であった。前世紀のデカダンが美を食ったのに対して、高橋は真実を 人間にはどうしてもつかみ切れない真実を貪り耽けって 、そしてその結果めちゃくちゃになっている。」

 このダダイスト新吉の詩は、同時代の中原中也たち若い詩人に大きな影響を与えた。そして、アナーキスチックな同人詩「赤と黒」などを産み出し、日本のアヴァンギャルド詩の先駆者となった。しかし、それらの虚無的破壊的ダダイズムは長続きせず、高橋新吉は仏教的諦観に、中原中也の詩はアナーキズムから郷愁に変わり、前衛芸術は、短い間日本中で流行し、あっというまに消えていった。

ウハキはハミガキ
ウハバミはウロコ
太陽が落ちて
太陽の世界が始まった
テッポーは戸袋
ヒョータンはキンチャク
太陽が上がって
夜の世界が始まった

 中原中也は明治1907年(明治40年)生まれる。中学時代のダダイスト中也は1927年(昭和2年)高橋新吉を訪れている。
 やがて奇妙な三角関係の小林秀雄達の住むフランス象徴派詩人の影響圏にはいり、ダダと象徴詩を融合した新しき詩人として、近代都市モダーン都市東京を歌う。その後しだいに、春の日の黄昏れから月光の支配する世界の詩人、悲しい詩人へと変わっていく。
 中也は「生活者」に幾時代かがありまして 茶色い戦争がありましたで有名な「サーカス」を発表。1929年(昭和4年)大恐慌のはじまる年であった。小林秀雄の様々なる意匠はその年改造に掲載され,ランボーの地獄の季節を翻訳し出版する。中原中也は1934年(昭和9年)28才の時「山羊の歌」を出版し,その中にサーカスや汚れちまった悲しみになどを収録。
 汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 
汚れっちまった悲しみに今日も風さえ吹きすぎる
 汚れっちまった悲しみは たとえば狐のかわごろも 
汚れっちまった悲しみは 小雪のかかってちぢこまる
 汚れっちまった悲しみは

 なにのぞむなくねがふなく
汚れっちまった悲しみは 懈怠のうちに死を夢む
 汚れっちまった悲しみに いたいたしくも怖気づき
汚れっちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる
 1930年(昭和5年)「測量船」を世に出した三好達治とともに昭和初期の抒情詩の代表詩人になる。その後、中原賞を受賞した立原道造「ののちのおもひに」もまた美しき日本抒情をうたった。しかし三者はまったく異質の詩だった。
 三好達治は整った美しい詩情を表現し、中也はダダイズムで自己を解体し、実世界の放蕩と修羅場を経験しそれを表出した。三好達治はまったく異なる,中原中也の傷ついた魂のさけびとを評価することはなかった。

 思へば遠く来たもんだ 十二の冬のあの夕べ 港の空に鳴り響いた 
汽笛の湯気は 今いずこ
 雲の間に月はいて それな汽笛を耳にすると しょう然として身をすくめ 
月は時空にいた
 それから何年経ったことか 汽笛の湯気を茫然と 眼で追ひかなしくなっていた 
あの頃の俺はいまいずこ
 今では女房子供持ち、思へば遠く来たもんだ 此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど
                             頑是ない歌
  長谷川泰子と別れ、結婚し2人の男子が誕生した。長男とは死別し、中原中也は
1937年(昭和12年)「在りし日の歌」をのこして30才で他界した。

2017/12/24

20世紀高血圧症と心臓病の歴史




  今から100年前ヨーロッパではふとっちょの赤ら顔は血圧が高く早死にすると言われていました。しかしそれは知性のある人々には信じられていませんでした。この時代噂を信じていたのは街角のおしゃべり好きと生命保険会社だけでした。高血圧が脳卒中をひきおこし、心不全や心筋梗塞の原因になることがわかるのはずーと後のことです。

 1896年イタリアのリバーロッチが聴診器による血圧の測定法を発明しました。今とほとんど同じように腕にカフを巻いて圧を加え徐々にその圧を抜いていって最初の音を最高血圧、音が消える時を最低血圧とする血圧測定という新しい技術を確立し、人びとの血圧を測る事ができるようになりました。
 しかしその当時、血圧がどんな意味を持つのかどんな治療したらいいのか不明で、1900年から1930年の間に高血圧の疫学に興味を示したのは保険会社だけでした。彼等はせっせと血圧や腹囲をはかり、血圧の高い人やお腹の大きい肥満の人は長生きできないとして保険の等級をきめていました。

 第二次大戦中の1945年、時の大統領フランクリン ルーズベルトが250mmHg以上の高血圧が原因の脳卒中で死亡。 1949年には循環器疾患により死亡する人がアメリカにおける死亡原因の半分を占めるようになりました。そして 1950年代のアメリカにおいて3人の男性のうち1人が60歳に達する前に循環器の病気で亡くなることが明らかになりました。
 そのため合衆国の公衆衛生局支援のもと1949年にフラミンガムと言う街で28000人の住民に対して20年間にわたる虚血性心疾患疾患の発生の調査が始められました。

 フラミンガム研究と言われ、20年ののち1960年代にこの研究の結果が論文で発表され、高血圧、高コレステロール、喫煙が心臓病の3大危険因子であることをあきらかにし、コンピューターが導入され解析され新たな疫学調査の始まりとなりました。こうして1つの原因が1つの病気を作るとした19世紀のコッホの時代から、多くの原因による病気の発症と言う20世紀疫学の新しい時代がはじまりました。
 

 この研究の結果は、カロリーや塩分、脂肪の取りすぎが肥満と運動不足、タバコとともに心臓血管の病気を起こすこと、特に高血圧は治療しない人はより多くの脳卒中、脳内出血を起こし、腎臓の病気をおこし、大動脈瘤の解離を起こすことを証明しました。 そしてかつて高血圧は多くの症状示す悪性の病気と考えられていたものが、実は長期間無症状で遺伝的素因に生活習慣が変わって次第に症状を表してくるものだとわかってきました。

 フラミング研究は初期の心電図や胸部レントゲンにくわえ医療の技術の進歩により超音波エコーが導入され、心臓の肥大がリスク因子になる心不全のメカニズム明らかにされ、さらに1980年代後半から遺伝子レヴェルの危険因子の解析がすすめられ、フラミンガム研究も新たな領域に踏み込み現在も研究が続けられています。日本でもアメリカの国立衛生研究所の資金提供をうけ九州の久山町で心血管疾患の疫学調査が続けられています。

 フラミング研究により喫煙、高血圧、コレステロールの心臓病の三大危険因子が明らかになり、1960年代には喫煙をなくす運動が展開され、1970年代には高血圧をターゲットに、そして1980年代にはコレステロールと戦う運動がすすめられました。

 高血圧の薬は最初は利尿剤そしてその後様々な降圧剤で現在がつくられ今ではどんなタイプの高血圧もコントロールが可能となりました。20世紀のはじめは高血圧による脳出血の死亡者が世界中で多く、とりわけ日本においてその数は先進国のなかでとびぬけていて、1965年脳卒中死亡率が世界第一位になってしまった。その後日本においても20世紀の後半には脳出血の患者はしだいに減少し、生活習慣の改善や治療の進歩によって高血圧がコントロールされコレステロールの低下が狭心症や心筋梗塞の人を減らし、その後の長寿社会をもたらす大きな要因となっています。




 今世紀になり、動脈硬化の治療も急速に進歩し ,高血圧、脂質、血糖は運動習慣やくすりによりコントロール可能になり、狭心症や心筋梗塞、頸動脈狭窄、脳動脈病変の多くは救命できるようになってきました。
 特に血管内のカテーテルの治療は、狭くなった動脈をひろげもとにもどす方法です。心臓の栄養血管である冠動脈または足の動脈そして脳の動脈いずれも広げ、ステントと言う網目状の金属を入れ血流を保つ技術で、いまも進化を続けています。
 さらに大動脈がふくれ(大動脈瘤)て破裂するのを防ぐため人工の血管に置き換える手段も胸からお腹までどこでもできるようになりました。
 さらにカテーテルによる不整脈治療が進歩し、心臓の弁の病気も血管内の治療で治る時代になってきました。TAVIと呼ばれる機械で傷ついた大動脈の弁を手術することなく血管の中から取り替えることもできるようになりました。
 今後、さらなる機器や技術の進歩によって血管の病気は脳であれ心臓であれ、その他の部位でも血管のなかからあらゆる治療が出来るようのなる時代がきています。

 

2017/11/29

歴史はくりかえすか。石原莞爾とスチーブン バノン


 大国主義の魅惑と小国主義の不人気

「最終戦争論」を唱えた石原莞爾は陸軍シナ通のホープであった。

 大正時代にドイツ留学し、そこで欧米の軍事哲学を学び、そして自らの理論世界最終戦争論を作り上げた。
 「今や人間の歴史の一番大きな変動期というものがきているのです、
世界は見方によって4つの大きな集団になりつつあり、ソビエトの団りとヨーロッパの団りとアメリカの団りとそうして東亜の団りとです。
戦の目的は主義の争いとなる。東亜の覇者日本と西欧の覇者アメリカは、最終戦争によって支配の争奪を行う。」時期は「フランス革命から欧州戦争まで明確に百二十五年である。この周期から、欧州戦争のはじめから次の最終戦争の時期までは結論として五十年内外と判断するのである。」と構想した。この空想のような理論はやがて実行にうつされることになる。
   
 石原莞爾は満州事変を立案し,きたるべき世界大戦にそなえ、満州国を日本、中国とは独立した満州人の国をつくると唱えそれを実行した。
 日本の満州事変後、反対派は抹殺され,国際連盟からの脱退は国民の大きな支持をうけ、日中事変から太平洋戦争に突入する。後に満州の構想や日中戦争不拡大で東條秀樹と対立し石原莞爾は1938年左遷される。大国主義路線は本人の手をはなれ、政策的にはあいいれない実務家東條内閣の下で実行された。

 現在この世界最終戦争論に似た歴史周期説をトランプ政権の理論的支柱であるスチーブン バノンが唱えている。
 2010年に製作されたジェネレーション ゼロで「アメリカの歴史は80年のサイクルで周期的に世界大戦のような大変化が起きている、歴史はくり返す、アメリカ独立戦争、南北戦争、第二次大戦そして現在第4の分岐点のなかにあり、次の戦争はせまってきている、戦争は避けられない。」と黙
「アメリカの歴史は四つの節目 高揚、覚醒、分解、危機20年ごとに巡りこの危機は若者の台頭で脱する」という80年単位の循環的歴史観に立つ黙示録的信奉を語り、
「白人のキリスト教文明が有色人種の上にあるのはその価値観と信仰のゆえであり人種や宗教の混じるのは人間を堕落させる。」クリスチャン文明を非クリスチャン文明の上に置いた上 、世界を「白人圏と非白人圏、キリスト教圏と非キリスト教圏と4つに分け,白人クリスチャンが世界を制覇する。」と主張。その思想はヨーロッパの排外主義、国家主義の思想と結びつき、さらには反左翼、反中国の姿勢を打ち出している。

 これはモスクワ大学教授アレクサンドルドウーギンのネオ ユーラシア主義に通ずる。「西ユーロッパから東のウラジオストックまでユーラシア大陸はロシア正教という神に選ばれた人びとに約束された土地である」というもので、西ヨーロッパのナショナリズム運動とも連動している。
 この思想家バノンの主張は極右のウエッブメディア「ブライト バード ニュース」を通してかなり多くのアメリカ市民に支持されていた。今回の大統領選挙でトランプ陣営の選挙対策本部の最高責任者となり、アメリカのエスタブリッシュメント、主流派に反対し,グローバリズムに反対し多様性に反対する人びとに支持され、そしてトランプ大統領を勝利に導いた。一時は国家安全保障会議の常任メンバーになった。

 1921年(大正10年)東洋経済新報の社説で石橋湛山は大日本主義は無価値であり、帝国主義政策をとらず小日本主義に撤するべきと主張した。

「我が国の総ての禍根は、しばしば述ぶるが如く、小欲の囚われていることだ。志の小さいことだ。」といって植民地や満州の保有に反対し、
「もしその資本がないならば,いかに世界が経済的に自由であっても、またいかに広大なる領土を我有しても、我々は、そこに事業をおこせない。ほとんど何の役にも立たぬのである。」「資本は牡丹餅で、土地は重箱だ。入れる牡丹餅がなくて、重箱だけを集むるは愚であろう。牡丹餅さえ沢山出来れば、重箱は燐家から、喜んで貸してくれよう。」
 そして当時の日本の貿易額は米国が最大で台湾、朝鮮、満州などの合計額よりも多く、ついでインドやイギリスが貿易相手として重要でありこれらの国との貿易をさかんにし、まず国内の資本を豊かにして、日本の経済的自立をはかるべきと主張した。

 また1931年(昭和6年)満蒙問題貫徹の根本的方針で「日本と中国をもとの親睦に戻すためには何が必要か、わが国がこれを解決するためには満蒙における日本の権益を保持する方針を取る限り到底目的は達成できない。それは清朝末期の政治的崩壊の時期を今日見誤って、中華民国が今や日本の幕末と同じように新中国の建設に邁進していることを忘れてはいけない。」
 中国の反日行動によって、日本の満蒙政策は硬化し、また日本の満蒙政策によって中国の反日運動は硬化したとして対中国とりわけ蒋介石の中華民国政府との融和を説いた。

 しかし,現実の世界では、この国際協調主義は支持されず,不人気になって、大国主義の主張が支持された。経済が混乱して生活がおびやかされる時、社会が不安定になり希望が見いだせなくなる時、これらの変動期、人びとは感情、情念で物事を判断し非合理的な戦争に突入していった。



 



 
 

2017/10/29

孫悟空かフランケンシュタインか


 遺伝子の編集


 体外受精は母体の卵巣から卵子を採取してそれに体の外にある精子を使って試験管、シャーレの中で受精し再度子宮内に戻し、そして子供をつくる方法です。これはケンブリッジ大学のロバートエドワーズ教授と婦人科のパトリックステップトー医師が12年にわたる研究の末完成させたもので、1978年イギリスのルイーズ ブラウンさんが世界で始めて体外受精によって誕生した。当時は「試験管ベイビー」とよばれてマスコミに報道され有名になった。

 日本では1983年にこの体外受精に初めて成功し子供が生まれた。その後しだいにその数は増え、現在では一年で体外受精で約2万人が日本で生まれ、今日までに世界中で700万人の体外受精による子供が誕生している。最初のころ、宗教的には自然に逆らうとして反対の意見もあったものの、現在では世界中で確立された出生の方法となって認められている。

 1996年クローン羊ドリーがイギリスで生まれた。哺乳類では不可能と思われていた羊の子供が遺伝子操作の結果、成熟した乳腺の細胞の核を使ってできた。まるで孫悟空と同じで、この技術を使えば拒絶反応のない臓器提供のためのクローン人間の作成も可能となった。2001年日本でクローン人間造りは関連の技術を含め法律で禁止された。

 体外受精から40年後の現在、医療技術は長足の進歩を遂げた。病気の治療に使う遺伝子組み換えは急速に進んでいる。動物の胚細胞にクリスパーという技術をつかって簡単にDNAの配列を切って,再編集すると遺伝子組み換えの生物ができる。まさに高校生でもフランケンシュタインを生み出せる技術が開発された。
 そして白血病の治療は病態によっては遺伝子治療が可能になり、肺の細胞を変え、のう胞性線維症や鎌状赤血球症、筋ジストロフィー治療の試みが成功している。1つの遺伝子が原因でおこる遺伝病はかなり治療可能となってきた。


 さらに世界中で自閉症の猿やパーキンソン病の豚がつくられそれを用いた医学の研究が始まっている。実験室でヒヒに移植した豚の心臓がすでに2年以上生きている。それとおなじように遺伝子の組み換えによる人への移植可能な臓器を持つ豚の作成がほぼ技術的にはできるようになった。
 さらにジュラシックパークのように恐竜を誕生させる技術、 地球上で絶滅したマンモスを象の遺伝子を使ってよみがえさせる実験が行われている。
 そして2015年中国では警察犬や軍事犬として使える筋肉隆々とした犬が造り出された。そしてやはり中国では人の生殖細胞のゲノムを変える(デザイナー ベイビーを生みだす)実験が既に行われている。フランケンシュタインではない理想の人をくみ変え技術でつくり出せる時代になった。

 この技術の進歩は希望なのか悪夢なのか、今後遺伝子の変更の技術に対して目が離せなくなっている。人工授精が以前、少子化に対する対策として勧められたこともあった。しかし少子化は経済と社会の問題であり人工授精は家族の問題であった。さらに進んだ現在の遺伝子の操作、編集はたんなる技術の問題ではなく今後のおおきな社会的問題となってきた。

 
 


2017/09/26

人生100年時代 メタボとフレイル












 「人間50年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり」と歌った織田信長の時代寿命は 50才位だった。それが現代になり、急速に伸び、今や人生100年時代になってきた。今では日本で100才以上は約3万人となり今後世界中で100才以上はあたりまえとなりつつある。20年後、日本は超高令社会がさらに進み、もはや65才から74才は高令者とは言えなくなり75才から90才までを高令者、90才以上を超高令者と考えざるをえなくなってきた。

  感染症は抗生剤と衛生環境の改善、栄養の向上によって激減し、かつて死亡原因の多くを占めていた心臓死、心筋梗塞あるいは脳卒中、脳梗塞や脳出血も激減した。それは食事運動療法などの動脈硬化に対する対策進んだためであり、くすりの治療も進歩した。さらに大きな要因として、世界中で禁煙運動がおこりその結果喫煙は激減し、健康向上に大きく関与している。

 ありあまる食べ物と座って動くこと少なくなった生活が高血圧や糖尿病、脂質代謝の異常をもたらし、血管の硬化動脈硬化から心臓病や脳梗塞、糖尿病やじん臓病にかかる人が多くなった。メタボリックシンドロームの状態は今まで血圧、脂質代謝、糖尿病など別々に考えられていたものが一連の動脈硬化を促進させ血管を早くから老化させる原因として重要とわかってきた。これらが少しずつでも異常になると相乗効果で動脈を硬化させ健康をそこなうとして使われ始めた。 
 この生活習慣による動脈硬化性の病気減少させる健康活動をさらに推進しようとして 2008年(平成20年)厚生労働省がメタボリックシンドロームの検診を40才から74才の人を対象に開始した。メタボはこれによって日本全国に知れ渡ることになった

 

 2014年5月に日本老年医学会からフレイルと言う呼び名が提唱された。 75才以上になると年齢とともに栄養過剰ではなく栄養と運動の不足が年とともに影響し、フレイル(虚弱)から身体機能障害におちいる。高令社会になった日本ではこのフレイル(虚弱)を防ぎ健康寿命を伸ばすのが今後の課題となる。今後人口増加が見込まれる75歳以上の後期高齢者の多くはフレイルと言う中間的段階を経て徐々に要介護状態に陥ると考えられている。

 このあたらしいフレイルという状態は、医学的には、年令による体力と持久力の低下や生理機能の減退によって特徴づけられた多因子による症候群で自立機能喪失や支援の脆弱性が増した状態をいう。

具体的には体重の減少、疲労しやすい、筋力の低下、歩行速度の低下、活動力の低下
  
上の5つが症状として重要で、ものそのうち3つあればフレイル、1つか2つあればフレイル予備軍と定義される。この中心に筋肉減少性(サルコペニア)がある。すなわち筋肉が年令とともに減ってその為に筋力の減少し身体能力の低下をきたす状態を言う。

 人間の身体は発生学的に皮膚や脳神経系の外胚葉、食べて消化する内胚葉、心血管系骨や筋肉を型つくる中胚葉がある。
 フレイルはこのうち中胚葉起源の経年変化、老化現象が主な原因でおこってくる。それに、骨の老化である骨粗しょう症や軟骨の老化による変形性関節症などがくわわる。さらに、進化した社会のなかの生き物である人間では、まわりの人との生活やこころの状態が加わる。最終的には生命や生活を支える食物は何をどれだけ摂るかが重要になってくる。

 楽観的な見方では、現在生まれている子供たちの半分が100才以上まで生きると予想されている。今後バイオテクノロジーの進歩、人工知能やロボットの進歩が健康寿命をさらに伸ばし、人生100年時代になりつつあり、それにむけて年金や医療、介護、そして社会も変わらなければいけない時代がやってきた。

2017/08/29

ドイツロマン主義の美 (意志の勝利、オリンピア)




 「閉ざされ、人々が近づくことの難しいサンタ マリアの谷に、ユンタの伝説が生き続けている。静かな夕べに、ふだんは寡黙な山の農夫たちが、青い光の物語を語る。その光は、はるかな昔に消え失せた。
 だが今日もなお、月の光がほのかに輝きを放つ晩には、美しきユンタの秘密が孤独な登山者をモンテ クリスタルの絶壁へと誘う。」

              レニ リーフェンシュタール監督 「青の光」

 明治政府は近代国家をつくり,国の形を作るため西欧とりわけ近代国家として勃興したドイツを手本にした。明治時代ドイツオーストリアに合計552人の留学生を送り出し、イギリスへはその半分の253人、アメリカやフランスはさらに少ない留学先だった。 初期は医学,軍事の研究が主であったが、のちに近代国家ドイツ文化を総合的に日本に移植した。彼等は帰国すると文部省、陸軍省、内務省、司法省、大蔵省の要職につき明治政府を動かす。 その代表が森鴎外で1884年から4年間陸軍省から衛生制度および軍陣衛生学研究のためドイツに留学し、のち陸軍軍医長になる。

 ドイツは第一次大戦で敗北した。その後再び力を得たドイツにおいて、神秘主義とロマン主義は国民の意識を覚醒するための有効な手段となった。このドイツ民族主義であるロマン主義は思考や論理の世界よりも内なる感情や情動に忠実であろうとし、大地と森林,自然を崇拝した。世俗からはなれ放浪する遍歴学生を模した自然への回帰、ワンダーフォーゲルの運動が盛んになってきた。
 レニ リーフェンシュタール監督の「青の光」は1932年(昭和7年)神秘的な水晶の山を舞台に、自然への憧憬、崇高さを求めるドイツロマン主義的伝説を映画化して熱狂的に支持された。

 1934年(昭和9年)レニ リーフェンシュタール監督の「意志の勝利」が上演された。ワーグナーの曲にのってヒットラーが登場し、人びとの姿、パレード、集会が写され編集された。古都ニュルンベルグで開催されたナチス党大会の4日間は青の光と共通する、斬新なアングルのショットをかさねる方法で芸術化された記録映画となった。そしてドイツで国家映画賞を、パリ万国博覧会の映画祭で金賞を受賞した。

 1936年(昭和11年)8月1日オリンピック開会式がグリュネヴァルトのメインスタジアムで開かれた。そこに49カ国3980人の選手が世界中から集まり行進した。日本選手は179人女子17人であった。
 このベルリンオリンピックの取材に日本から、各新聞社の特派員として横光利一や西条八十、武者小路実篤らの有名作家が競って日本に記事を送っていた。そしてラジオの実況放送がされた。
 横光利一はオリンピックの取材のためパリ経由で訪れたベルリンの街について「どこもかしこもこれほど掃除の行き届いた町は無い、人間の心もこのように清潔になれば戦争するより希望はなくなるのかもしれない。」とナチス政権下の清潔の国ドイツの弱者排除の予感を日記に記し、それと比較して雑然たる東京でのオリンピック開催を心配していた。そして新聞報道やラジオ放送の前畑がんばれの実況中継で日本でもベルリンオリンピックは人びとの関心を高めた。
 
 
 レニ リーフェンシュタール監督の映画「オリンピア」は1938年(昭和13年)に公開された。
 第一部の民族の祭典は古代におけるギリシャ思想を賛美して始まる。まずカメラはギリシャの遺跡の間を移動する。そしてギリシャ神話に由来する彫刻群にうつり、ギリシャ神殿の映像、その後に円盤投げをする男性の彫刻から人間に移行する。これはギリシャの神々の魂が現代のスポーツに再現され、10種競技の有名選手フーバーは動く彫刻となった。
 膨大な記録を編集し直し、第2部の美の祭典とともに自然と大地と美しい肉体を持った人々の躍動、より美しいもの、より力強いものより健全なものをたたえた映像を作り上げた。当然、無秩序、混沌,弱さや醜さは画面のなかには見つけることはできない。

 日本では日中戦争中、同盟国ドイツの秀作映画として20名の宣伝部員をつけて宣伝され公演された。日本もこの大会で活躍し、第一位のドイツ、第二位アメリカそしてハンガリーやイタリアなどに次いで7番めの金メダル獲得国となった。
 棒高跳びでは西田大江選手が銀と銅を分け合い、マラソンでは孫選手が優勝し、地面にうつる選手の影、音楽のリズムにあわせひた走る映像となって記録された。

 当時日本でも外国映画は多くの映画館で上演されていた。このベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」は日本中で絶賛され、ひとびとをドイツびいきにした。同時期のジョンウエン主演のアメリカ映画「駅馬車」はその影響であまり話題にならなかったほどだった。

 ドイツはヒットラーが新たな枠組みで古い価値を突き崩す勢力としてヨーロッパを席巻した。 日本国内では反米英、親ドイツの国民の声、陸軍の方針がしだいに力を持ち、山本五十六など海軍の反対派を押し切って、1940年(昭和15年)日独伊三国軍事同盟を締結。東京での開催予定のオリンピックは中止された。

 1945年(昭和20年)ドイツは敗戦。戦後レニは連合国軍に「意志の勝利」と「オリンピア」がナチスのプロパガンダ映画であったとして逮捕拘束されるも起訴はされなかった。

 戦後、1962年(昭和36年)アフリカのスーダンの中央部に住むヌバ族と10年にわたり生活を共にし彼等を撮影した。1973年(昭和48年)「ヌバ」写真集を世界で出版する。大地の鼓動と自然のなかの褐色の美しい肉体と装飾をほどこした生命あふれる姿を映像にし、世界各国でセンセーションを巻き起こした。
 レニ リーフェンシュタールはドイツロマン主義の憧憬と神秘的映像、水晶山の少女、ギリシャの大地と均整のとれた肉体の映像、アフリカの大地と躍動するヌバ族の魅力、これら自然と人間を映像化し、20世紀を代表する映像美の表現者となった。       終生変わることのなかった自然の美と肉体の美の表現者レニは、晩年にはスキューバーダイビングをして海中の美をとらえた「水中の驚異」を88才の時発表している。

2017/08/06

斉藤茂吉と宗吉(北杜夫)



斉藤茂吉と宗吉(北杜夫)

 明治時代 斉藤紀一は精神科の医師としてドイツに留学し一代で大病院,青山脳病院を築きあげた。帝国議会の代議員にもなり、同郷の蔵王の近くの出身であった斉藤茂吉を養子として迎えた。

 正岡子規をうけつぐ根岸短歌会から派生したアララギが創刊され、斉藤茂吉はこのアララギに1913年(大正2年)赤光を発表。写生主義を唱え大正時代から昭和初期に万葉風の短歌を数多く残した。「死にたまふ母」など仏教的無常観を底流にした日本古来からのこころを唱い日本短歌を主導した。芥川龍之介はこの連作された短歌は物語性をもった短歌で小説に近い文学となったと高く評価している。

星のいる夜空のもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり

 斉藤茂吉の奥さんとなる輝子は養父紀一の次女であった。進取の精神に富んだ華やかな舞台がよく似合う女性で、猛女とよばれたモダンガールだった。
 1914年(大正3年)13歳年下のその輝子と結婚した。茂吉32歳の時だった。

をさな妻こころに持ちてあり経れば赤小蜻蛉の飛ぶもかなしき

 茂吉は、 長崎医学専門学校教授をつとめ、1921年(大正10年)横浜を出港し、敗戦後のウィーンに到着した。1922年(大正11年)このウイーンの神経学研究所で5人の日本人の留学生とともに研究をし「麻痺性痴呆者の脳カルテ」の論文を書き上げた。 その後1923年(大正12年)から1925年(大正14年)までミュンヘンのクレッぺリンのもとで研究生活を始めた。

 精神医学の登場する以前、精神病患者は狂人として、施設に隔離されていた。19世紀のすえに精神病は脳の病気であるわかり、このクレッペリンによりようやく早発生痴呆すなわち精神分裂病(現在の統合失調症)は他の精神疾患から区別され分類された。そして、躁うつ病も彼によってはじめて定義されるようになった。その脳の病理と病気との因果関係の研究が当時最も重要視されていた。

 帰国後主治医として薬の処方を行った芥川龍之介の死、アララギ派詩人島木赤彦の死にあう。さらに青山脳病院が火災で消失、その院長になり病院再建を行い、アララギ派短歌を担うことになった。

 1933年(昭和8年)銀座のダンスホールで有閑マダムらが遊びを繰り返していて警視庁により検挙された、その中に青山病院長夫人の斉藤輝子がいた。大正時代のモダンガール輝子は昭和に入り有閑マダムとよばれ、ダンスホール事件で非国民となった。このために一時2人は別居する。

 その偉大な父親斎藤茂吉の次男斉藤宗吉は東北大学在学中、「幽霊」を北杜夫のペンネームで1953年(昭和28年)文芸首都に投稿し、それを自費出版した。

  「人はなぜ追憶を語るのだろうか。
 どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みの中なかに姿を失うように見える 。」
「人はそんな反芻をまったく無意識に続けながらなぜかふと目ざめることがある。」  
「わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気ずいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持ちがするのだろうか。」
 
 「あかるく華やかな洋間で、硝子器のかちあう音、けだるい甘美な旋律。幼い日に家をでていった母親や死にわかれた姉の一言、ママの幽霊。そして本棚一杯の父親の書斎。そして原っぱと墓場。」 
 青年期にむかうころ、「ふりそそぐ盛夏のひかりの下、むせるような植物の匂いと、媚びにあふれた虻の羽音、底のしれぬ大地のぬくもり。アルプスをのぞむ大自然のまどろみのなかで、珍しい昆虫や蝶と出会った幼い心の恍惚を感じた。」
 幼年期におし隠され無意識世界にひそんでいた過去の記憶をたぐり、子供時代の内的世界をみずみずしく描いた。

 精神医学は20世紀になりフロイトが人間にはふだん意識している世界の奥に広大な無意識世界があることを発見した。 ユングは無意識を個人無意識と集合無意識にわけた この集合無意識は人類の祖先からの神話であるとした。この無意識の世界、忘れてしまった記憶や抑圧された記憶、それを明らかにする精神分析が治療法として登場した。

 1958年(昭和33年)水産庁の漁業調査船でマグロ漁をしながら6か月におよぶアフリカ、ヨーロッパの船旅を船医として経験し「ドクトルまんぼう航海記」を1960年(昭和35年)に出版し、肩の力の抜けたユーモアと軽いエッセイ風の文章でベストセラー作家となった。

 ナチス政権による断種法、遺伝病子孫防止法が1933年(昭和8年)ドイツに制定された。精神病の遺伝子を持つ人々を健全な社会を作るために抹殺するという法律ができそれを実行する根拠となった。ドイツを舞台に、ナチス政権の精神病患者に対するあつかいとそれに対して苦闘する精神科医の心を分析的に描いた物語「夜と霧の隅で」は1960年(昭和35年)の芥川賞受賞作品となった。

 当時の精神病治療は電気ショック療法、インスリン注射法やロボトミーが主流で、ほとんど有効な治療法がなかった。薬物治療が可能になったのは戦後のことだった。1950年代になってからクロルプロマジンができ、抗うつ剤イミグラミンなどは1958年(昭和33年)にはじめて合成された。現在では薬物療法と精神療法が治療法として確立している。 

 1964年(昭和39年)には、「楡家の人々」で明治以来の有産階級の世界、精神科医3代の斉藤家の歴史を題材にした長編小説を、そして翌年にはカラコルム遠征隊に加わり、それを題材とした「白きたおやかな峰」などの作品を世に送り出した。

 北杜夫の母輝子は斉藤茂吉の晩年、再び同居し死をみとる。茂吉の死後は持ち前の進取の精神を失うことなく、世界中を旅する旅行家として有名で80才を過ぎてもの南極旅行などに出かけ、生涯で地球上100カ国以上を訪れている。
 一方北杜夫はそううつ病にかかり、それを題材にした小説や父親斎藤茂吉の生涯を後年書き上げた。小説やエッセイは「船乗りくぷくぷの冒険」に見られるように現実が小説で小説が現実の入り組んだ世界をあるいはコミカルにあるいは重々しく書き続けた。