2018/01/08

ダダイスト中原中也


 

 「まことに人生、一瞬の夢、ゴム風船の、美しさかな。」

   「さらば東京 おお わが青春」

 ダダイズムとは第一次世界大戦中の1910年代にヨーロッパやアメリカで起きた芸術運動である。1916年2月チューリッヒでトリスタン ツアラによってはじめられた。
 それは人間の理性を否定し、解体し、意志的、意識的に作られた芸術を全否定した。そして芸術作品は意味のない詩とか意味のない絵、そして構成された写真を作成しダダイズムとして登場した。

 その後、意識を否定し理性を否定したために意識的に作品は作ってはいけないということからその頃流行したフロイトやユングの無意識の世界に目をつけダダイストの一部が無意識世界の美意識を表現することでシュールリアリズムを作り出した。

 高橋清吉が1920年(大正9年)短編小説「万朝報」の新享楽主義の最新芸術と言う記事で、「文字の組み方が、同じページの中に縦に組まれたり横に組まれたり甚だしきに至っては斜めにくまれたりして居て」の一文に触発され日本におけるダダイストを宣言する。そして 1923年(大正12年)ダダイスト新吉を発表する。
 
DADAは一切を断言し否定する。
無限とか無とか、それはタバコとかコシマキとか単語とかと同音に響く。
想像に湧く一切のものは実在するのである。
一切の過去は納豆の未来に包含されている。
人間の及ばない想像を、石や鰯の頭に依って想像し得ると,扚子も猫も想像する。

 そして「皿」で

        皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿 
                          倦怠 額に蚯蚓這ふ情熱

の視覚的詩をのせる。

 序文で、佐藤春夫は「気質として彼は理想家であった。理想を見失った理想家であった。前世紀のデカダンが美を食ったのに対して、高橋は真実を 人間にはどうしてもつかみ切れない真実を貪り耽けって 、そしてその結果めちゃくちゃになっている。」

 このダダイスト新吉の詩は、同時代の中原中也たち若い詩人に大きな影響を与えた。そして、アナーキスチックな同人詩「赤と黒」などを産み出し、日本のアヴァンギャルド詩の先駆者となった。しかし、それらの虚無的破壊的ダダイズムは長続きせず、高橋新吉は仏教的諦観に、中原中也の詩はアナーキズムから郷愁に変わり、前衛芸術は、短い間日本中で流行し、あっというまに消えていった。

ウハキはハミガキ
ウハバミはウロコ
太陽が落ちて
太陽の世界が始まった
テッポーは戸袋
ヒョータンはキンチャク
太陽が上がって
夜の世界が始まった

 中原中也は明治1907年(明治40年)生まれる。中学時代のダダイスト中也は1927年(昭和2年)高橋新吉を訪れている。
 やがて奇妙な三角関係の小林秀雄達の住むフランス象徴派詩人の影響圏にはいり、ダダと象徴詩を融合した新しき詩人として、近代都市モダーン都市東京を歌う。その後しだいに、春の日の黄昏れから月光の支配する世界の詩人、悲しい詩人へと変わっていく。
 中也は「生活者」に幾時代かがありまして 茶色い戦争がありましたで有名な「サーカス」を発表。1929年(昭和4年)大恐慌のはじまる年であった。小林秀雄の様々なる意匠はその年改造に掲載され,ランボーの地獄の季節を翻訳し出版する。中原中也は1934年(昭和9年)28才の時「山羊の歌」を出版し,その中にサーカスや汚れちまった悲しみになどを収録。
 汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 
汚れっちまった悲しみに今日も風さえ吹きすぎる
 汚れっちまった悲しみは たとえば狐のかわごろも 
汚れっちまった悲しみは 小雪のかかってちぢこまる
 汚れっちまった悲しみは

 なにのぞむなくねがふなく
汚れっちまった悲しみは 懈怠のうちに死を夢む
 汚れっちまった悲しみに いたいたしくも怖気づき
汚れっちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる
 1930年(昭和5年)「測量船」を世に出した三好達治とともに昭和初期の抒情詩の代表詩人になる。その後、中原賞を受賞した立原道造「ののちのおもひに」もまた美しき日本抒情をうたった。しかし三者はまったく異質の詩だった。
 三好達治は整った美しい詩情を表現し、中也はダダイズムで自己を解体し、実世界の放蕩と修羅場を経験しそれを表出した。三好達治はまったく異なる,中原中也の傷ついた魂のさけびとを評価することはなかった。

 思へば遠く来たもんだ 十二の冬のあの夕べ 港の空に鳴り響いた 
汽笛の湯気は 今いずこ
 雲の間に月はいて それな汽笛を耳にすると しょう然として身をすくめ 
月は時空にいた
 それから何年経ったことか 汽笛の湯気を茫然と 眼で追ひかなしくなっていた 
あの頃の俺はいまいずこ
 今では女房子供持ち、思へば遠く来たもんだ 此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど
                             頑是ない歌
  長谷川泰子と別れ、結婚し2人の男子が誕生した。長男とは死別し、中原中也は
1937年(昭和12年)「在りし日の歌」をのこして30才で他界した。

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