2019/07/01

上皇の夢 実朝の歌





  昨日まで 花の散るをぞ惜しみこし 夢かうつつか夏も暮れにけり

                                  源実朝


 聖徳太子は律令制度をつくり、それを支える中心の思想に仏教をすえた。この世界の見方が定着し、社会を安定させ、日本社会はその世界観で動かされていた。そこにさらに日本古来の正直と道理を守る考えが加わって、日本は神と仏の加護の下で暮らす社会であった。
 平安時代も京の都の天皇を中心とした貴族が日本を統治した。彼らは仏教の世界を信仰して暮らしていた。平安末期になると律令制は綻びきたし 上皇による院政になって、仏教では末法思想が広がる。滅びつつある平安朝に権力を握ったのが後白河上皇でそれを武力で支えたのが平清盛であった。後白河上皇とその姻戚で、京武者となる平清盛が天下人として君臨した。清盛は後白河上皇の権威を借り、勅命絶対の思想のもとに、地位を極めた。

 遊びせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん

 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺がるれ

 後白河上皇は若き日々、当時のモダーンな、今様をうたいその世界に没頭した。
後白河上皇は、漢詩や和歌などの文芸にも秀で、音楽や儀礼に通じ、蹴鞠の達人であった。平清盛は、武家として初めて権大納言に昇進する。その後、上皇は平清盛とは敵対し、平家を滅亡させる。

 
 平家滅亡の後、鎌倉幕府を源頼朝が開き、後白河上皇の死後、征夷大将軍になる。朝廷は後白河上皇の孫の後鳥羽上皇が権力者となる。
 後鳥羽上皇は才能に恵まれていた。朝廷で和歌を主宰し、正当な王であることを示す「新古今和歌集」を編纂した。和歌だけでなく、琵琶をも演じ、武芸を得意とし、蹴鞠にも長けていた。日々、馬に乗って弓を引き、川をおよぎ、山で狩りをし、礼楽の思想によって朝廷の権威を高めた。

 源頼朝は実朝8歳の時亡くなると、その後鎌倉幕府は陰謀と暗殺の渦巻く世界になり、公武の対立、教団の勢力の増大そして、そのそれぞれが党派に別れ、抗争していた。その混乱の中、源実朝は三代目の将軍になる。
   
  大海の 磯もとどろによする波 われてくだけてさけて散るかも

 

 この頃になると武士がしだいに力をもちはじめ朝廷は力を失いつつあった。後鳥羽上皇は源実朝との良い関係を保ち、公武の合体を進め、子供のいない実朝が退位し、後見人になり、京の天皇家が幕府の後継将軍にする策を進めた。実朝は異例の速さで官位を昇進し、瞬く間に右大臣となった。
 名実共に若き指導者となった 源実朝は、鶴岡八幡宮の拝賀の夜、二代将軍頼家の遺児、甥の公暁に暗殺される。この暗殺は歴史を大きく変えることになった。幕府内は悲しみと動揺が広がり、主の死を哀傷し、翌日には百余人の御家人達が出家し、公暁の近親者は処罰され源氏の血族は滅亡した。

 出でて去なば 主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春を忘るな

 源頼朝が暗殺されると、京と鎌倉のあいだに確執が生まれ、 自らの力をたのむ後鳥羽上皇が執権北條義時を撃つ命を発する。それに対して関東の武士は反撃し、承久の乱が勃発する。

 この頃から、西欧中世の騎士道に似た武士道の源流が見られる。武器を持ち、自立した彼らにとって、最も大切なものは武人の誇りと主従の契りである。天皇に従うべきか、忠臣の道を選ぶかを問われた時、忠臣の道を選ぶ。そして有徳者こそ君主になるという思想で、天皇や上皇でも天道に反すれば統治者の資格を失うという思想であった。

 承久の乱では、後鳥羽上皇の北条義時追放の令に対して、関東武者は鎌倉の武家の棟梁のもとに集まり、三代将軍のご恩を忘れず、京に向かって軍を進めた。いかに天皇の命令が重いといっても、主従関係に従わないのは弓馬の道に反すると多くの武士は考えた。

 承久の乱で関ヶ原の戦いに匹敵する天下分目の戦いは、関ヶ原から東へ30キロほどの、木曽川西岸の地で行なわれた。当時の京都文化はこの地にも及び、今様の歌い手、傀儡子と言われた歌舞集団はここから、後白河院院のもとに召されていた。この木曽川の西岸、墨俣の地(現在の大垣市墨俣町)はかつて、木曽川、長良川、揖斐川や中小の河川が、洲股(墨俣)で合流し大河となり伊勢湾に合流していた、この地が渡川場で、源平の合戦以来、東西の境になる要衝であった。ここに上皇軍は陣を構え、1万9千人の軍勢で19万人の東軍を迎え撃った。西軍は山田 重忠の奮闘及ばず、海道大将軍 藤原 秀澄は墨俣の陣から2日で撤退した。その後京都の近くの瀬田川の戦いに勝った幕府軍、東軍は京の都に押し寄せ、京都市内の戦闘で承久の乱は幕を閉じた。


 聖徳太子の律令制と仏教に裏ずけられた権威の物語は綻び、消滅した。承久の乱の後、上皇は隠岐の島に流され、京の都の朝廷の世界が関東の武士の世界にとってかわられる。鎌倉幕府は、北条泰時が将軍職にはつかず、執権となり複数の指導者体制をとり、武士の精神を法律とした「関東御成敗式目」を定める。

 

 後鳥羽上皇は、現在の島根県の美保関から、船で隠岐の島の海士町に流された。この美保関から、天気の良い日には隠岐の島が見える。隠岐の島は一番大きな島後と島前と呼ばれるより本土に近い小島に別れる。上皇はこの島前と呼ばれる小島の海士町に少数の付き人とともに暮らし、和歌の世界に没頭し、「隠岐本新古今和歌集」などを編纂した。時々使者が京から訪れ、それを京の人々に届けた。その後京に復帰することなく隠岐で60歳の生涯を閉じた。

 我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き浪風 心して吹け

 文人であり侍であった右大臣実朝は暗殺され、和歌が残った。後鳥羽上皇の遠島により日本は武者の時代になり、明治維新まで続いた。




 * 承久の乱の戦場となった木曽川、墨俣川(現在の長良川)の西岸は壬申の乱以来幾たびも、東(坂東)と西(京)の勢力が激突し、戦場となった。壬申の乱では、671年大海人皇子(天武天皇)が自分の領地安八磨郡の地で、大友皇子軍を撃ち破った。墨俣町の不破神社にこの神社の神が娘に化身した大海人皇子を助けたとの伝説が残る。


 墨俣川の戦いは1181年(治承5年)平の清盛の5男、平重衡が総大将で東に向かい、この川を渡ってきた源義円(義経の兄)を倒した。1338年の青野ヶ原の戦いでは、後醍醐天皇の命を受け、北畠顕家が奥州から駆けつけ、室町幕府軍が、現在の大垣市赤坂町で激突した。


2019/06/09

脳の中の出来事


6月を綺麗な風が吹くことよ

                            正岡 子規

 100年前から、特定の音階の音を聞くと、特定の色を感じる人がいることは解っていた。フランスの詩人アルチュール ランボーは母音に色を感じた。同じように、数字を見て色彩を感じたり、味覚から他の感覚を感じ取り、匂いから情動と色彩と自然が呼び起こされる人もいた。 その後、200人に一人は、この共感の変化、共感覚がみられることがわかった。
 そもそも私たちが日常使う言葉には、複数の感覚にまたがる、共感的メタファーたとえば、派手な(うるさい)シャツを着ているとか、鋭い味といった表現がある。これは脳の中で音と味覚と色など視覚を感じる神経の配線がクロスためと考えられる。
 このクロス配線は芸術家、詩人や小説家にこの遺伝子が一般の人に比べて統計では約7倍に見られる。小説家には、脳の中で無関係に思える事柄を結びつける、メタファーを作る技能が秀でていることがわかる。詩人はこの感覚を研ぎ澄まし文字に表現し、俳句はその究極の形といえる。


 交感 

                           ボードレール 悪の華

自然は荘厳な寺院のようだ
列柱は厳かな言葉をおりなし
人は柱の間を静かに歩む
象徴の森をゆくが如くに

遠くから響き来るこだまのように
暗然として深い調和のなかに
夜の闇 昼の光のように果てしなく
五感のすべてが反響する

嬰児の肉のような鮮烈な匂い
オーボエのようにやさしく、草原のように青く
甘酸っぱく 豊かに勝ち誇った匂い

無限へと広がりゆく力をもって
こはく 麝香 安息香の匂いが
知性と感性の共感を奏でる

 人間はネアンデルタール人のいた頃から言葉を獲得した。それは共感覚と同じように聴覚と視覚の間にそなわったクロス活性があり、また手と口にもクロス活性がみられる。脳内で手の動きが舌、唇、口の動きにつながり、ものの形を認識する領域と聴覚がつながり、聴覚から視覚がいっしょに働いて、手招きをし、「アー、アー」と叫んでいたものからある日「ここに来い」という原始的言語が生まれる。
 そして、単純な動作や、ものの名前から、やがて言語は複雑なことがらを表現し、それを連ねて、ロゴス的表現が生まれ、論理を生み出す。
 そして言葉はあらゆるものの扉となった。言葉、単語から色彩を、音とひふの感覚を、そして過去の記憶を呼び起こす。6月の風は、その湿気と、綺麗な緑の、海岸の白南風につながる。
 つながりを持った言葉がたがいに響きあい、音はこだまし、香りをはなち、色彩をきらめかせる、それを受け取った言葉が音や香りや色を無限に広がらせる。やがて深い共通感覚の場所にも及び、部分が共鳴し、詩全体が象徴の森となる。




 人間の脳は本質的に、モデルを作る機械です。私たちはそれに基づいて行動するための有用な世界の仮想現実(バーチャル リアリティ)のシュミレーションをつくる必要がある。そのためにほかの人たちの心のモデルをつくらなくてはいけない。これは脳の中の前頭葉にあるミラーニューロンというと特別なニューロン群で、相手に対する共感力に関係する部位が働いている。人が顔を赤らめるのも、他者の心を理解するためで、人間だけが赤面する。これが障害を受け、他の人の行動の意味が理解できない子供達が、自閉症スペクトラムと呼ばれている。
 
 赤ちゃんは大人の行動を真似する。そして猿や小さい子供は大人の行動を真似する。例えばオランウータンは飼育係りの様子を観察していて、自分で錠を開けることができるようになる。真似をすることで学習していく、この模倣の能力が文化を作り出し、文化を伝えていく。人類は、およそ5万年から7万年前に火を使い、精巧な道具を使い、それを模倣し文化はたちまち伝搬し、さらに儀式や呪術、芸術、を生み出した。

  人は何に対して、愛着を感じ、情動を動かされるのか。病室の患者に、ラブラドールなどの愛玩犬で心の平静を保つ治療がなされています。この愛犬のなにが心を落ち着かせるのか、そのしぐさか、その手に感じるぬくもりか、温かさや毛ざわりか、動きなのか、あるいはその表情なのか。
 最近高齢者の好むロボットの研究で、実際の人間や動物の形をした嘘っぽい愛くるしさより、コロッとした球状の機械の組み合わせが生き物を感じさせることがわかってきた。これを理解するのに特異な脳の損傷によるカプグラ症候群が手がかりを与えてくれます。
 視覚と情動の関係が断たれた非常に稀な脳の障害がカプグラ症候群と呼ばれています。交通事故で頭に怪我をして、こん睡状態から治って、知力も会話もすべて回復して、自分の母親と会った時「この人は私の母とそっくりですが、母じゃありません。母のふりをしている偽物です。」という。電話で話しをしているときは母親として認めるのに、面として会っているときはそれが認められない。この原因は、視覚中枢と情動の中枢である扁桃体の配線が外傷によって切れてしまったために、視覚で母親は認めても、そのとき母を感じる情動が結びつかないためです。そこで、脳は一生懸命解釈しようとして母に似た偽物となる。同じように、形は似ていても情動を伴わない機械や生き物は決してペットとはならないし、アンドロイドは人類にはなれません。



 ライオンに襲われた探検家デイヴィット リビングストンの有名な話に、自分の腕が食いちぎられたのを見ても、痛みはおろか恐怖さえもまったく感じなかった話や、変な痛みの代表としてネルソン提督が切断された手が実在するよう感じると書いたファントムペイン。
 さらに現在でも治療にこまる、反射性の交感神経ジストロフィーと呼ばれていた(現在はCRPS、複合性局所疼痛症候群)持続する痛みがある。小さなけがである、虫刺され、打撲などがきっかけで、しだいに腕全体が腫れて、発赤が起こり、ついには動かすこともできなくなる。腕を動かそうとすると、動きを妨げる強い痛みが起こり、それが学習された痛みとして、麻痺にまで至る。これらは痛みは脳内の出来事で、その仕組みは次第に明らかにされ、治療も進んできました。
 さらに、脳梗塞などで障害された神経が再生や代替されることで、麻痺した手足が回復し、失語症も治る人が出てきました。それは神経そのものの再生をさせる医療によるもので、しだいに臨床に使われるようになってきました。そして言葉の起源や美を感じる脳の解明が、進化的な見方と相まってしだいに明らかにされています。


               参考 V.S.ラマチャンドラン 脳の中の幽霊、ふたたび
 

2019/05/26

猿の惑星、サピエンスの進化

 
 猿の惑星は、1968年公開された。チャールトン ヘストン演じる宇宙飛行士テイラー達は、宇宙船で帰還中、謎の惑星に不時着した。この惑星は進化した猿が支配し、言葉をしゃべり、英語で、しかも退化した人類は猿に支配されていた。テイラーは生き残った人間を探すために禁断の地を目指し、そこに廃墟となったニューヨークの残骸、自由の女神の像を発見する。

 続編ではこの猿の惑星の進化したチンパンジー、コーネリアスとジーラが地球に宇宙飛行士としてやってくる。1961年チンパンジーのハムがアメリカの宇宙船で宇宙飛行を行い、その3ヶ月後、ソ連のガガーリン少佐が軌道を回る宇宙飛行に初めて成功し、翌年にはチンパンジーがアメリカの宇宙船マーキュリー アトラス5号で地球軌道を初めて回った。

 1960年代は、アメリカとソ連の宇宙開発競争が華々しく展開された。先行したソ連の人工衛星による人類初の宇宙飛行はアメリカに衝撃を与え、月面着陸のアポロ計画につながる。何よりも当時、核戦争の脅威は現実のものであり、猿の惑星は、その核戦争が起こった後の、地球を描いていた。そこはお互いに争い、退化した人類は生き残るものの、支配するのは言葉を獲得した理性的猿の世界だった。人類は感情に支配されると、文明を滅亡させ、その後の世界は進化し英語を、言葉を獲得した、理性的な猿が支配する文明批判の物語だった。

 当時から、チンパンジーなどと人は遺伝的に似ていることはわかっていた、しかしその後人類が、言葉を獲得し、文化を作り、現在の社会を創り上げるまでの詳しい過程は謎だった。最新の遺伝子解析や発掘された遺跡の分析によって、その謎が急速に明らかにされてきた。

 誰もが、親と異なる7パーセントの突然変異の遺伝子をもっている。それによって、アフリカ熱帯雨林の類人猿、人科のゴリラやチンパンジーから、600万年前に別れ、進化し、深林からサバンナに出て、ホモ・サピエンスが生まれた。 森林の中で、適応した遺伝子は、森の匂いを嗅ぎ、森の恵みを食料として、進化してきた。現在の人の中にも、言語の生まれる以前の、感情や感覚は残され、他の人科の生き物と共通性が認められるもののその社会は彼ら遠い祖先とは全く別物となった。

 以前は森林の中で暮らし緑に囲まれた世界で感情と接触と目を合わせる小集団の間の世界であったものが、ゆっくり歩くのに適した二足脚歩行でアフリカから、ユーラシア大陸を移動し、その後、ネアンデルタール人やその他の原人と呼ばれる人々と遭遇する。そしてネアンデルタール人やデニソワ人などの古代人と交雑しつつ、世界中に広がっていった。現在でも今生きている人類の遺伝子には数パーセントの彼らの遺伝子が混じっている。これら20種のサピエンスのうち現在生き残っているのは人類、ホモ・サピエンス サピエンスだけである。

 人類は 森林の小集団から、大きな集団を作り力を合わせて外敵と戦い、厳しい環境も道具と火を使うことによって克服し生き残り、他のサピエンスは滅んだ。大きな集団の社会をつくるのには言葉が必要であった。人は集団が大きくなっても、言語によって意思を伝えることができ、意思の疎通をはかり社会を作った。

 言葉によって目の前にない状況を想像できるようになり、隠喩(メタファー)をつかって言葉からイメージを想像できるようになり、言葉によってそれを共有できるようになった。力強い相手は、猛獣のように凶暴である、あるいは嫌な相手にはキツネのようにずるい奴らと表現する。言葉によって異なるものを1つにまとめあげるだけでなく、比喩することで、感情を伴った認識のための区別をつくる
 言葉と言うのは世界を切り取って当てはめ、自分の頭の中で整理し、世界を組み立てることであり、言葉で集団をまとめ、呪術で危機を乗り越えた人々は、こうして地球上のあらゆる土地に住み、文化をつくった。

 この言葉は死者にリアリティーを与えた。時間を空間と同じようにとらえ、死後の世界や輪廻の思想を産み出した。集団をまとめるためには同じ創造者の子孫であると言う神話あるいは宗教も生まれた。そのことによってうわさ話のできる数十人の集団から数百人数千人、数万人以上の集団をまとめることができた。

 その集団が、集団の中での共感する能力と言葉を使い、他の集団と争うようになった。武器を狩猟ではなく、戦いに使い、その武器が発達すると戦争になり、猿の惑星で描かれたように最後には、人類を滅亡に導くことになる。



 ユーラシア大陸の人類は、歩いて北に向かいシベリアまで到達し、やがてアメリカ大陸にも渡った。南に向かった人々は、インドネシアの島々を渡ってオーストラリアに、そしてユーラシア大陸の東の端では、北からは樺太を通って、南からは朝鮮半島や海を渡って日本列島にも辿りついた。 最近縄文人の全ゲノムの解読がなされた。縄文人は1万6000年前から3000年前に日本列島に暮らしていた人々で、日本の各地の森で狩猟生活をしていた。その後、3000年前から大陸から弥生人が渡来して混血した。

 人はそれぞれの場所に住みつき、次第に大きな集団ができ、共通の祖先を持つ民族ができる。それぞれの民族はその初源の物語を持っている。また、それぞれの宗教もまた創世記の物語を持っている。また国によって、祭政一致の宗教も生まれ得る。そしてそれぞれの国は歴史、正統な国史をつくりだす。

 現代においてもこの思想、物語は、どの集団に対する共感性かで異なってくる。血縁か地域か民族か世界か人類かは繰り返し問題となり、国際主義か民族主義かは時代によってどちらかに傾く。しかし、この言葉は、どのようにも言い変えることができるし、フェイク ニュースもできる、また時には物語は虚構を生み出すことがある。
 時間をつくった脳は、過去の歴史を認識する。人の行動の軌跡、歴史は、人類同士は争いを繰り返し、地球上の多くの生き物を絶滅させ、技術を発達させてきたことを物語っている。
さらに、同じようにして、未来を想像する。2673年人類の未来は、進化した猿に支配されるのか、あるいは遺伝子操作による新しい生命体の世界になるのか、あるいは、より精巧なコンピューターの世界になるのか。


 

2019/05/05

ウォルト ディズニーとマーク トウェイン

 戦後の日本には、アメリカ型の民主主義が取り入れられた。 その中で最も憧れと影響力を与えたアメリカ文化はマークトゥエインの小説とウォルト ディズニーだった。

 ウォルトディズニーは1901年生まれる。1920年に最初のアニメーション映画を作り始め、3年後ディズニー最初の大ヒット映画「不思議の国のアリス」を制作した。
そして、1928年にはミッキーマウス映画「蒸気船ウィリー」がつくられ、みずからその声を演じた。この映画はアメリカ国内だけでなくイギリス、フランスそしてドイツとヨーロッパ中に理想の短編映画として大人気となる。
ミッキーはトーキーの奇跡である。ジャズのリズムで生きている動物。あゆみのひとつひとつがステップ動きのひとつひとつがシンコペーションである。こうして世界中に熱狂的ミッキーファンを生み出した。
 その後1930年代に白雪姫やピノキオの世界的に有名な作品が制作され、戦争中はヒットラーに反対する「総統の顔」「理性と感情」「死ぬ教育」「ニワトリのリトル」のアニメ4作品を生み出し、1943年には「空軍の勝利」が公開された。これはアメリカの鷲が、世界をその手で囲い込もうとするファシストの蛸を何度も空から攻撃するというもので、空軍のシンボルとなる部隊章にはミッキーやドナルドそしてプルートなどが登場した。
 戦争が終わり、1955年、カルフォルニア州アナハイムにこのアニメの主人公をテーマにした遊園地がつくられた。大人も子供も生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出をつくる場所、いつも清潔で、いつもおいしいものが食べられる空間、ランド内がショーの舞台、家族で楽しめるエンターテイメントの世界、デズニーランドを創り出した。
 その後、アメリカのフロリダにもう一つのディズニーワールドリゾートが建設され、海外にも広がっていった。日本では東京デズニーランドが1983年に埋立地の舞浜の広大な土地につくられ、デズニーシーとともに国内だけでなくアジアの人々の憧れのリゾート地になった。

 そのディズニーランドの中にトムソーヤ島があり、丸太のいかだに乗って冒険の島に行ける。そしてこの島は国外のディズニーランドにも形は違ってもつくられ、冒険が楽しめる。

 アメリカ小説の源流を作ったマーク トウェインは1835年に生まれる。ミズーリ州のミシシッピ河畔に4歳の時から生活し、1869年に「無邪気な外遊記」と「地中海遊覧記」を出版し、  1873年に「金ぴか時代」で人気作家となり、1876年「トムソーヤの冒険」でベストセラー作家になる。
1885年黒人奴隷のジムとイカダで河を下って逃亡し文明から離れミシシッピー河で生活する「ハックルベリー フィンの冒険」を出版。ヘミングウエーが「アフリカの緑の丘」で絶賛したこの物語は、ミシシッピー川の自然と黒人のジムとジムに共鳴するハック少年の心の冒険小説だった。物語の中でユーモアある文章を口語体の簡潔な文体で奴隷制度とアメリカ文明をも描きだした。 

 その後も講演を続け、20世紀初め日露戦争の直前の時代、独立を目指すフィリピンを鎮圧したフィリピン戦争に対して、アメリカの好戦的植民地政策に反対し、反帝国主義連盟に加わり、多くの風刺論文を新聞に発表した。

 
 マークトゥエインは「金ぴか時代」で南北戦争後のアメリカ社会を描き、アメリカ社会に対する鋭い観察眼を持ってその文明を批判的に表現し、その後も自由主義者として政府に批判的であった。
 日本には戦後になって、アメリカ児童文学として紹介される。明るい冒険の物語にアメリカ民主主義の風をミシシッピー河の流れを感じ取り、アメリカの緑の自然の中の冒険ものがりは当時の少年の憧れの世界文学となった。 


 戦後民主主義の下日本の男の子たちは、トムソーヤやハックルベリーの冒険に夢中になり、女の子たちは白雪姫やシンデレラを夢見た。そして平成時代には、東京ディズニーランドとディズニーシーは、日本中から子供たちとその家族、若者そしてあらゆる世代の人たちが非日常の空間を体験するためのリゾート地となった。
 人々はミッキーやミニー、ドナルドやプルートのキャラクターを身につけ、トムーソーヤやハックルベリーは人工の夢の島に再現され、この清潔で安全な環境で、童心にかえって、ディズニーのエンターテイメントを、アメリカの精神を日本化した夢の世界を体験した。その後、しだいに日本以外の中国、韓国、東南アジアの若者を惹きつけ、彼らの憧れの聖地となった。

 それにしても、マークトウェインだけでなく、スターウオーズまで取り込んでしまうディズニーの力は偉大です。
 令和の時代その影響力で、日本はさらに国際化し、幸せで、それぞれが個性的な世界、日本全体がディズニーランド化するかもしれません。


2019/04/13

三島由紀夫 死への誘惑その2 奔馬



   戦後の、平和、自由、人類としての世界といった枠組みのなかった時代を三島由紀夫は「豊饒の海」の第一部春の雪と第二部の奔馬で描いた。その時代天皇は至高の存在で、死はみじかにあった。

 第一部のセピア色した日露戦争の写真で始まる「春の雪」は主人公松枝清顕の大正時代、貴族社会の悲恋の物語。第二部「奔馬」は、この松枝の生まれ代わりの飯沼勲が主人公になり、激動する1932年(昭和7年)の日本を舞台に物語が展開する。 
  
 飯沼勲は、陸軍の堀中尉を訪れる。「勲は笑った中尉の顔を見て、むしろ過ぐる桜のころにここを訪れるべきだったと思った。中尉は、空を黄いろくするやうな演習場の風塵の中から帰ってきて、桜の花びらのついた埃だらけの長靴を脱ぎ、春と馬糞の匂いにあふれたカーキいろの軍服の肩に、襟に、幼い赤と金の光彩をきらめかせて、少年たちを迎えるべきだった。」そして堀中尉は飯沼薫に「お前の理想とするところは何か」と尋ねる。「昭和の神風連を興すことです。」さらに、「よし、じゃ訊くが、お前のもっとも望むことは何か」と問われ「太陽の、日の出の断崖の上で、昇る日輪を拝しながら、かがやく海を見下ろしながら、けだかい松の樹の根方で、自刃することです。」

 この飯沼勲の信奉する神風連の物語に対して、本多は手紙で、新島襄のキリスト教の布教のため学校をつくるも迫害を受け、京都に逃れ、同志社の基を築いた例を上げ「歴史を学ぶことは、過去の一時代の嵌め絵から、一定の形を抜き出して来て、現代の一部分の形に当てはめて、快哉を叫ぶことではありません。」といって心情の純粋性と歴史の混同をたしなめた。

 非合理の行動主義者の幻の夢は、「色さまざまに変わる美しい一つの鞠」となって蹴り込まれ、冷たいけれども整然とした法秩序建築の中、合理主義者本多繁邦の確信する世界に対しひびを入らせることになる。

 飯沼勲は、昭和の神風連になるべく、腐敗した政財界に鉄槌を加える行動を仲間とともに起こそうとするが、決行前に逮捕され裁判を受け、釈放される。釈放後、財界の黒幕蔵原殺害を一人で実行し、自刃する。最後は「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。」で閉じられる。ほとばしる情動は理性的判断、理知の抑制を飛び越え奔馬となって行動に駆り立てた。



 民族精神の擁護、廃刀令に反対して、古代と同じ、祭祀主宰者としての天皇復古の実現を求めたのが神風連の乱で、明治9年、政府機関である熊本鎮台を襲撃した。
 帯刀は日本が神の国である象徴で、刀剣は神器であり、それを捨てることは国の風儀の否定になるとして、明治政府に刀剣と槍で武力攻撃をしかけた。しかし、時の明治政府の銃の前に鎮圧され、多くは自決した。当時から、神がかりの神秘主義的秘密結社の反乱と呼ばれた。

 昭和の初期、桜、カーキ色の軍服、赤と金の徽章に象徴される、陸軍皇道派もまた、天皇をかかげ天皇制の下の人民国家の樹立を目指して行動を起こした。そして、天皇の率いる政府軍に鎮圧され、軍内過激派のクーデターとされた。


 
 武士道は坂東武者の名誉感と自負心、そして主従の関係、状況に対応する戦闘者の行動規範に始まり、戦闘がなくなった江戸時代においては、極端な形の葉隠として残った。
 江戸時代も18世紀に入り、戦乱の世から100年経ち、「みな人は江戸に行くらん秋の暮れ」といわれた太平の時代になった。鍋島藩の若い武士も現生の衣装や、損得勘定にうつつを抜かしていた。この風潮に対して、当時の江戸時代の現実にはなかった武士の精神を語ったのが葉隠で、戦国武士の思い出の神話化であり、当時においても過激な思想の口述であった。
 「武士道といふは死ぬ事と見つけたり」に象徴されるその先鋭で過激な極論は、切腹礼賛ではなく、日常の生活において、最悪の事態に備える心構えを説いたものだった。そして、武士の無条件の絶対的な主従関係、君臣の契りは、片思いこそ純粋の恋愛であるように打算のない、極端なまでの純粋化、人格の同一化として捉えられた。そして、忠誠を尽くすためには諫争、君を君たらしめる為の努力が義務となる。

 この主君への絶対的な忠誠心は、幕末に再現された。幕末は足利室町末期元亀天正の世の再来と捉えられ、武士にとっての名誉心、自主的決断、目的をもった生き方が蘇る。幕末の志士の行動は尊皇の意識とともに日本の独立と名誉の確保が、自分自身の独立と名誉の確保であるという武士道がもとにあり、その考えは農民や名主、庄屋などの層にも共有された。そして、藩主に対しても、諌言し、その誤りを正すべく行動を起こした。



 この幕末から明治初期の武士の心情は、佐賀の乱、神風連、そして最後の武士の戦いとなる、西南の役の鎮圧とともに消滅し、開国し、富国強兵策をすすめる現実派が政府の実権を握った。
 しかし、西南の役の翌年に大久保利通は暗殺され、明治政府にとって、天皇の地位をどう定めるかが次の重要な問題となった。祭政一致の司祭者か、有徳の君主か、憲法の下の立憲君主か、あるいは共和制かなど様々な勢力がそれぞれの案を提案した。最終的にはドイツ式の憲法の下の君主として立憲君主制の明治帝国憲法が1889年(明治22年)に制定された。そして尊王も忠君愛国の家族的国家観に変質し、武士の持つ人と人のつながりによる忠君もまた武士階級の消滅とともに消え去った。

 人の心は、どのような神話も物語も、美もつくることができる。そしてそれを信じて行動する。奔馬の中に描かれた主人公飯沼勲の行動の生まれる過程は鎌倉時代の武士に源があった。そして政治の理想を古代の祭政一致の神政ユートピアに求めた。平和な時代に眠っていた思想が幕末の動乱期に復活し、さらに昭和の時代にも再び過激な人々を行動に
駆り立てた。

 三島由紀夫はその心情を奔馬に描き、第3部暁の寺で輪廻転生、唯識論を語り、第4部の天人五衰の「そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。」で豊饒の海を終わらせる。自らも幻に対して諌言し、幻をめがけて行動し、自刃した。


            参考   丸山真男講義録 武士のエートスとその展開

2019/03/10

幕末の国学者 橘曙覧


たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし 花の咲ける見る時

たのしみは 庭にうえたる 春秋の 花のさかりに あへる時時

                                    橘 曙覧


  橘 曙覧は1812年(文化9年)現在の福井市に生まれる。文具商を営むも、28歳の時弟に店を譲り、愛宕坂に暮らす。33歳の時、飛騨高山の国学者田中大肥の下で学び、和歌をよみ始める、37歳の時三つ橋に住み、「藁屋」と呼んで終生の住処とした。 このころから徳川幕府は、幕末と呼ばれる激動期になる。橘曙覧42歳の時ペリーが浦賀に来航し開国を迫った。その後安政の大獄、桜田門外の変が起き、54歳の時福井藩主松平春嶽に仕官を勧められるも断る。

花めきて しばし見ゆるも すずな園 田庵(たぶせのいほ)に 咲けばなり
                                                                                                               橘 曙覧

すずな園 田ぶせの庵に さく花を しひてはをらじ さもあらばあれ
                           松平 春嶽

 徳川時代に中国文化の儒教とりわけ、朱子学が統治の中心に置かれ、機能していた。その朱子学も中国とは国情が異なり、日本的に変化して取り入れられた。
 19世紀に入り徳川時代の後半、幕末の日本はその思想、精神が混迷をきたし、幕府の組織の弱体化を招き、各藩への支配が弱まり、同時に、経済的にも行き詰りをきたしていた。さらに、ロシアが蝦夷地に現れ、交易を求め、イギリス、フランスも開港を求めた。そして、アメリカはペリーが軍艦で江戸の近くに来航し、開港を迫まり、幕府は1854年(嘉永7年)日米和親条約の締結を強行する。

 それに対して、開国に反対する尊王攘夷派が台頭し活動を起こした。徳川幕府は、井伊直弼の下で、安政の大獄と呼ばれる反対派の強行弾圧を行った。松平春嶽は井伊直弼の日米修好条約に反対し、安政の大獄で謹慎処分を受けた。桜田門外の変による井伊直弼暗殺後は幕閣となり公武合体をすすめた。


  国学は徳川時代の中期、契沖の歌学の革新から始まる。外来思想に影響されない日本の美的価値を、古来のうた、特に万葉集に見出し、国学の基礎をつくった。この日本の古来の歌の研究は荷田春満に受け継がれ、賀茂真淵は上代日本の歌人になりきり、古道を明らかにした。それを完成させたのが本居宣長で、漢意(からごころ)に対する、大和意(やまとごころ)を見いだし、儒教、仏教が伝わる以前には人々の心は清く直かったと外来イデオロギーを批判した。

「もろこしの古書、ひたすら教誡をのみこちたくいへるは、いとうるさし、人は教えよりてよくなるものにあらず、   教えのなきこそ尊けれ」「事しあればうれしかなしと時々にうごくこころぞ人のまごころ」として日本古代からの精神、日本固有の道を見出だした。


たのしみは 神の御国の 民として 神の教えをふかくおもふとき

たのしみは 鈴屋大人の 後に生まれ その御諭しを うくる思ふ時

国学者として橘曙覧は本居宣長(鈴屋大人)を尊敬し、独楽吟の中でその楽しみをうたった。

                
   一方、幕末の尊王攘夷の思想は、国学とともに、後期水戸学が大きな役割を果たす。
 歴史は、その国の文化の変化を記すもので、社会や文化をどのように捉え、理解していたかを現す。水戸学は、水戸光圀が彰考館を創設して、大日本史を編さんしたことに始まる。明の王室から日本に逃れた、重臣朱舜水の助言の下に、日本の歴史の正統を大日本史で示そうとした。これが前期水戸学で この日本史の研究を受け継ぎ、この研究機関から、後期水戸学がうまれる。その代表が会沢正志斎、藤田東湖で反幕府の急先鋒となる。

 はじめ、藤田東湖の父藤田幽谷が「正名論」で、生名とは社会の人の秩序を明らかにすることであり、正当な統治者は誰かを問題にした。この大義名分論による尊皇論は、はじめは敬幕論を伴っていた。

 さらに儒教理論の中心に、国内統治における王道と覇道がある。この王覇の弁が幕末になると尊王の意味がしだいに変化し、王道を尊ぶことはすなわち天皇を尊ぶことであり、覇道とは武家政治のことであるとして、尊王敬幕が尊皇倒幕になってくる。

 同じように儒教の世界観としての華夷の弁、すなわち中心に位置するのが中華で、その周りに夷狄が住むという認識が日本に適応され、幕末の日本が中華であり、周りの国々、外国は夷狄であり、これを撃つという攘夷の思想に変貌する。

 この橘曙覧のように、古代の心に共鳴する歌の道に始まった国学は、政治とは距離をおいていた。幕末になって、外国からの開国の強要、国内の混乱から次第に変貌をとげ、国学は天皇親政の古にかえれと叫ぶ皇国主義、日本主義の復古イデオロギーになってくる。

 国学が尊王論の根拠を明らかにする一方、儒教をもとにした後期水戸学も尊王敬幕から尊皇倒幕に変化し、2つの潮流があわさって反幕府運動、尊王攘夷派を生み出した。それに対して、幕府も公武合体を行い、延命を図った。しかし反幕府の奔流を押しとどめることはできなかった。


たのしみは 三人の児ども すくすくと 大きくなれる 姿みる時
 
たのしみは 妻子むつまじく うちつどひ 頭ならべて 物をくふ時

たのしみは そぞろ読みゆく 書の中に 我とひとしき 人をみし時


                   
 橘曙覧は権力や名声を求めず、清貧の生活を選び、家族と自然と歌とともに暮らし、幕府が崩壊し、大政奉還と王政復古が成った1868年(慶応4年)57才で亡くなる。彼の死後10日目、明治元年になり新たな時代が始まった。

                  

2019/02/13

上田秋成 雨月物語と春雨物語


「私はせつない生活をしていた期間にこの雨月物語をよみました。夢応の鯉魚は、三井寺の興義といふ鯉の絵のうまい僧の、ひととせ大病にかかって、その魂魄が金色の鯉となって琵琶湖を心ゆくまで逍遥した、といふ話なのですが、私は之をよんで、魚になりたいと思ひました。」
 太宰治は中国の白話小説をもとにした「夢応の鯉魚」をリメイクした作品「魚服記」を発表した。

 羅子は水滸を撰し、而して三世唖児を生み、
紫えんは源語を著し、而して一旦悪趣に堕つる者、
蓋し業を為すことの迫る所耳

「羅漢中は水滸伝を著したために、子孫三代にわたり啞の子が生まれ、紫式部は源氏物語を書いて、一度は地獄に落ちたが、それは思うに、彼らがありもしない嘘の物語を書いて、業の報いを受けた。
 明和5年3月雨晴れて、月おぼろの晩春の夜明かり窓の下でこの書が編み上がり、これを梓氏に与える。題して雨月物語と言う」の序文で始まる雨月物語は1776年(安永5年)上田秋成43才の時に出版された。
 雨月物語は、白峰、菊花の契り、浅茅が宿、夢応の鯉魚、仏法僧、吉備津の釜、蛇性の婬、青頭巾、貧福論の9編からなる怪奇小説で、、個人の心のうちにある感情、思いのくさぐさをその奇抜な内容に託した物語であった。

 「白峰」では崇徳院の怨霊が西行のいさめにも関わらず、王道の倫理を押しのけて、悔しい想い、怨念を描き出した。
 「菊花の契り」は母と二人で暮らす左門がある日行きずりの武士を看病し、兄弟の契りを結ぶ。病気が回復した武士は出雲の軍学者宗右衛門で9月9日には戻ってくると約束し故郷に帰る、そこで監禁され、約束が果たせなくなる。その約束を果たすためには幽霊になっていくしかないと自刃した話。のちに走れメロスの友の信義の江戸時代版とも言える。「浅茅が宿」は夫の約束を信じて待ち続けた宮木は、すでに亡くなり、荒れ果てた我が家に住んでいたのは、宮木の霊、幻だった。
 風に乗って旅する宗右衛門の霊魂や浅茅が宿で夫の勝四郎の帰りを7年待つうちに窮死した宮木の霊魂、そして崇徳院の怨霊、これらは、希望や絶望あるいは怨みを欲望を持った身体が消えた後、実体のない霊がその死者の気持ちを実現する物語である。

  この雨月物語は、後の日本の小説家に大きな影響を与える短編小説集で江戸時代読本の代表作となる。

 上田秋成は1734年(享保19年)生まれ、4才の時、大阪堂島の紙油商上田家の養子となる。懐徳堂という私塾で学び、33才にして、「諸道聞聴耳世間猿」と「世間妾形気」を著す。
 国学を学ぶも、38才の時火災で家を消失、それを期に儒医に医学を学び、42才になり、大阪で医業を始める。そして43才の時、雨月物語を世に送る。

 この新しい小説、中世の仏教的あるいは、近世の儒教の勧善懲悪から独立した物語が生まれた背景には、江戸時代の文化の変化があった。
  黄檗宗は禅宗の一派で、明の末期清の政権に迫害され17世紀日本に渡り、特に徳川綱吉の時代、柳沢吉保が彼らを、厚遇し、各地に寺院をたて、禅宗の寺院とした。この時の政策ブレーンの荻生徂徠が岡島冠山を迎えて、中国語を習い、古文辞学を打ち立てた。これが文学芸術と政治を切り離し、さらに、岡嶋冠山が中国の俗文学を数多く翻訳し、中国俗文学を日本にもたらした。禅宗の黄檗派はまさに明の文化そのものであり、江戸時代の仏教に大きな影響を与えた。

 18世紀の中頃、売茶翁という一人の僧が京都で文化の中心に存在していた。売茶翁は17世紀、九州肥前に生まれ、僧名は月海と言う。月海は明の滅亡の時、日本に亡命した僧侶たちの寺院、黄檗山万福寺などで修行する。50才頃から京都に出た。黄檗僧が江戸時代の日本に新しい飲み物としての煎茶を持ちこんだ。
 この煎茶は明の文化の象徴であり、この売茶翁の煎茶サロンで、京都の文人が集まりチャイナ スクールを作り、中国の絵画や文学や陶淵明などの生き方を学ぶ場所となった。 与謝蕪村、池大雅、上田秋成はこの中国文化の影響を受け、江戸時代の京都、上方の文芸を作り出した。その後、文化の中心は江戸に移り、京都文化がなお輝きを保っていた最後の時期に当たる。

 秋成53才の時、国学者として国粋的な復古主義の本居宣長を批判、宣長の日の神、天照大神の生まれたわが国は、万邦を照らしている国であり、世界中でこんな優れた国は無いと言ったのに対し、世界地図を見れば、日本が世界の中心といっても誰も納得しないであろうといって論争になる。

ひが事をいふてなりとも弟子ほしや 古事記伝兵衞とひとはいふとも と宣長を揶揄し、

 敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花 と宣長が詠んだのに対して

 敷島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花 と茶化した。

 国学は和歌を通して、歌の心を、中世的秘伝の口授を否定し、革新し、こころの表現としての歌学を唱えた契沖に始まる。それと同時に仏心や漢意に影響されない、それ以前の日本の道を明らかにしようとするやまとごころの考え方を本居宣長が主張した。この歌学と古道の二つのみちを最初に合流させたのが賀茂真淵で、これが本居宣長さらには平田篤胤に受け継がれる。
 この国学を賀茂真淵から学んだ上田秋成は、芸術主義、文人主義者的活動の傾向が強く、国粋主義的、日本主義の本居宣長と対立することになる。その後、本居宣長の説より古道のイデオロギーをさらに強め再構築した平田篤胤が、幕末の天皇親政の復古主義、攘夷論を支えることになる。

 秋成は55才で医業をやめて、京都、奈良、大阪を転居しつつ随筆山霧記や和歌の紀行文、歌文集つづらぶみ(藤冊子)を著す。60才頃、太田南畝は大阪で役人をつとめ、上田秋成と会い、意気投合している様子を「胆大小心録」に描いている。
秋成は、晩年に短編小説集「春雨物語」を書き残した。その中で血かたびら、二世の縁、目ひとつの神、死首の咲顔 など人の情を寓話に託した物語を残した。
 その人間観は、完全な悪人や善人は登場しない、人は皆過失をおかしうる、そして、変わりうると考えた。最後の樊噲 は 雨月物語の青頭巾の主題と同じく「心放せば妖魔となり、収むる則は仏果を得る」と荒くれが改心し仏僧になる物がたりであった。

 江戸時代の文学の世界にたどり着くまでに、言葉の壁と共に江戸時代の人々が世界をどう見ていたかを知るため、大きな歴史変化の断層を乗り越える必要がある。ひとつは戦後民主主義の世界観で、第二次世界大戦の敗北による民主主義と人権思想の定着と、家制度と天皇制国家主義の否定。もう一つの層は、明治維新による儒教を否定し仏教の扱いを変えた断層で、その二層の奥に江戸時代の精神世界が広がる。仏教の輪廻転生と儒教の仁義忠孝の世界で、妖怪の住む世界である。
 言葉の壁と文化の断層を乗り越えた時、そこには新鮮な文学の世界が広がっていた。それらの作品はのちに、多くの作家に影響を及ぼした。