昨日まで 花の散るをぞ惜しみこし 夢かうつつか夏も暮れにけり
源実朝
聖徳太子は律令制度をつくり、それを支える中心の思想に仏教をすえた。この世界の見方が定着し、社会を安定させ、日本社会はその世界観で動かされていた。そこにさらに日本古来の正直と道理を守る考えが加わって、日本は神と仏の加護の下で暮らす社会であった。
平安時代も京の都の天皇を中心とした貴族が日本を統治した。彼らは仏教の世界を信仰して暮らしていた。平安末期になると律令制は綻びきたし 上皇による院政になって、仏教では末法思想が広がる。滅びつつある平安朝に権力を握ったのが後白河上皇でそれを武力で支えたのが平清盛であった。後白河上皇とその姻戚で、京武者となる平清盛が天下人として君臨した。清盛は後白河上皇の権威を借り、勅命絶対の思想のもとに、地位を極めた。
遊びせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺がるれ
後白河上皇は若き日々、当時のモダーンな、今様をうたいその世界に没頭した。
後白河上皇は、漢詩や和歌などの文芸にも秀で、音楽や儀礼に通じ、蹴鞠の達人であった。平清盛は、武家として初めて権大納言に昇進する。その後、上皇は平清盛とは敵対し、平家を滅亡させる。
平家滅亡の後、鎌倉幕府を源頼朝が開き、後白河上皇の死後、征夷大将軍になる。朝廷は後白河上皇の孫の後鳥羽上皇が権力者となる。
後鳥羽上皇は才能に恵まれていた。朝廷で和歌を主宰し、正当な王であることを示す「新古今和歌集」を編纂した。和歌だけでなく、琵琶をも演じ、武芸を得意とし、蹴鞠にも長けていた。日々、馬に乗って弓を引き、川をおよぎ、山で狩りをし、礼楽の思想によって朝廷の権威を高めた。
源頼朝は実朝8歳の時亡くなると、その後鎌倉幕府は陰謀と暗殺の渦巻く世界になり、公武の対立、教団の勢力の増大そして、そのそれぞれが党派に別れ、抗争していた。その混乱の中、源実朝は三代目の将軍になる。
大海の 磯もとどろによする波 われてくだけてさけて散るかも
この頃になると武士がしだいに力をもちはじめ朝廷は力を失いつつあった。後鳥羽上皇は源実朝との良い関係を保ち、公武の合体を進め、子供のいない実朝が退位し、後見人になり、京の天皇家が幕府の後継将軍にする策を進めた。実朝は異例の速さで官位を昇進し、瞬く間に右大臣となった。
名実共に若き指導者となった 源実朝は、鶴岡八幡宮の拝賀の夜、二代将軍頼家の遺児、甥の公暁に暗殺される。この暗殺は歴史を大きく変えることになった。幕府内は悲しみと動揺が広がり、主の死を哀傷し、翌日には百余人の御家人達が出家し、公暁の近親者は処罰され源氏の血族は滅亡した。
出でて去なば 主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春を忘るな
源頼朝が暗殺されると、京と鎌倉のあいだに確執が生まれ、 自らの力をたのむ後鳥羽上皇が執権北條義時を撃つ命を発する。それに対して関東の武士は反撃し、承久の乱が勃発する。
この頃から、西欧中世の騎士道に似た武士道の源流が見られる。武器を持ち、自立した彼らにとって、最も大切なものは武人の誇りと主従の契りである。天皇に従うべきか、忠臣の道を選ぶかを問われた時、忠臣の道を選ぶ。そして有徳者こそ君主になるという思想で、天皇や上皇でも天道に反すれば統治者の資格を失うという思想であった。
承久の乱では、後鳥羽上皇の北条義時追放の令に対して、関東武者は鎌倉の武家の棟梁のもとに集まり、三代将軍のご恩を忘れず、京に向かって軍を進めた。いかに天皇の命令が重いといっても、主従関係に従わないのは弓馬の道に反すると多くの武士は考えた。
承久の乱で関ヶ原の戦いに匹敵する天下分目の戦いは、関ヶ原から東へ30キロほどの、木曽川西岸の地で行なわれた。当時の京都文化はこの地にも及び、今様の歌い手、傀儡子と言われた歌舞集団はここから、後白河院院のもとに召されていた。この木曽川の西岸、墨俣の地(現在の大垣市墨俣町)はかつて、木曽川、長良川、揖斐川や中小の河川が、洲股(墨俣)で合流し大河となり伊勢湾に合流していた、この地が渡川場で、源平の合戦以来、東西の境になる要衝であった。ここに上皇軍は陣を構え、1万9千人の軍勢で19万人の東軍を迎え撃った。西軍は山田 重忠の奮闘及ばず、海道大将軍 藤原 秀澄は墨俣の陣から2日で撤退した。その後京都の近くの瀬田川の戦いに勝った幕府軍、東軍は京の都に押し寄せ、京都市内の戦闘で承久の乱は幕を閉じた。
聖徳太子の律令制と仏教に裏ずけられた権威の物語は綻び、消滅した。承久の乱の後、上皇は隠岐の島に流され、京の都の朝廷の世界が関東の武士の世界にとってかわられる。鎌倉幕府は、北条泰時が将軍職にはつかず、執権となり複数の指導者体制をとり、武士の精神を法律とした「関東御成敗式目」を定める。
後鳥羽上皇は、現在の島根県の美保関から、船で隠岐の島の海士町に流された。この美保関から、天気の良い日には隠岐の島が見える。隠岐の島は一番大きな島後と島前と呼ばれるより本土に近い小島に別れる。上皇はこの島前と呼ばれる小島の海士町に少数の付き人とともに暮らし、和歌の世界に没頭し、「隠岐本新古今和歌集」などを編纂した。時々使者が京から訪れ、それを京の人々に届けた。その後京に復帰することなく隠岐で60歳の生涯を閉じた。
我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き浪風 心して吹け
文人であり侍であった右大臣実朝は暗殺され、和歌が残った。後鳥羽上皇の遠島により日本は武者の時代になり、明治維新まで続いた。
* 承久の乱の戦場となった木曽川、墨俣川(現在の長良川)の西岸は壬申の乱以来幾たびも、東(坂東)と西(京)の勢力が激突し、戦場となった。壬申の乱では、671年大海人皇子(天武天皇)が自分の領地安八磨郡の地で、大友皇子軍を撃ち破った。墨俣町の不破神社にこの神社の神が娘に化身した大海人皇子を助けたとの伝説が残る。
墨俣川の戦いは1181年(治承5年)平の清盛の5男、平重衡が総大将で東に向かい、この川を渡ってきた源義円(義経の兄)を倒した。1338年の青野ヶ原の戦いでは、後醍醐天皇の命を受け、北畠顕家が奥州から駆けつけ、室町幕府軍が、現在の大垣市赤坂町で激突した。
