2021/06/29

盗まれた脳 アルツハイマー病

  ドノバンの脳は、1943年アメリカSF作品で、脳医学者パトリック コーリー博士が、アリゾナの砂漠に墜落した、大富豪のドノバン氏の体から脳を取り出し、ガラス容器の中でその脳を生存させる。やがてその脳は意識を持ち、パトリック博士の身体を、ドノバンの脳が支配し、博士の肉体を乗っ取ってしまう。その脳が多くの人を支配し、その命令のもとに、殺人を犯し、脳の生命を保つガラス容器を破壊しようとした人をも殺害する。この恐怖の物語は、最後にパトリックの友人、シュラットによって培養器のガラスとともにこのドノバンの脳が破壊され、機能を停止することで終わる。



 アルツハイマー病は、SF小説のように表現すれば、 それは 脳の細胞を静かに盗んでいく泥棒のように、何者かが毎夜訪れ、脳の中に静かに入り込んで、神経細胞を1つずつ破壊していく。脳細胞は破壊され、次第に脳の活動による記憶や、感情、思考力を奪い、やがて脳の支配が全身に及ばなくなってくる。最初に現れる典型的な兆候は物忘れで、次に、より深刻な記憶喪失がやってくる。そしてその後、言動は要領を得ないものになっていき、混乱し幻覚を見るようになり、人格が変化して、怒り、不安、落ち込みと目まぐるしい精神状態を変化させていって、脳の大半がやられてしまうと全身の機能も次第に停止していく。


 すべての精神疾患は脳の病気であるとの信念で、1906年アルツハイマーがアウステ Dの症例を観察し、剖検して報告を行った。進行する認知障害に、幻覚や妄想をきたし、亡くなった患者(アウステ  D)の脳組織の一部を染色し、プレパラートで観察すると、脳の萎縮と動脈硬化性病変そして、アミロイド斑と神経線維の変化が見つかった。このアミロイド班は神経細胞の間に形成されるタンパク質の断片からなる異常なタンパク質のプラーク(塊)であった。

 これをもとに、1910年エミール クレペリンが精神医学の教科書に初老期認知症をアルツハイマー病と名ずけて記載した。 そして、注記として、アルツハイマー病の臨床的解釈は現在のところ未だ不明瞭であると書き加えた。


 アルツハイマー病は、それが正常な老化の避けられない一部なのか、それとも老化とは完全に異なる、純粋に神経病理的な疾病なのかはその後も、明らかではなかった。どの病気でもその概念が明らかになり、検査法が確立するまでは、多くの要素が複雑に絡み合っているため、因果関係が確実にはならないことが多い。

 アルツハイマー病の診断では、血液検査も神経の検査も正常なので、まず話を聞いてテストし、その結果を判断することが重要になる。そのためには、問診を標準化する必要があった。認知機能の標準化された最初の診断は、ミニメンタルステート(MMSE)検査で始まる。さらに詳しく記憶などの検査を長時間に渡って検査して、これを繰り返し、病気を除外して診断に近ずいていく。

 さらにこの診断を難しくしているのは、アルツハイマー病に脳の外傷や、脳血管の障害あるいは甲状腺機能の低下などを合併することもあり、正常の老化と、記憶障害、記憶障害と認知症を区別し診断を確定するのはなかなか難しい。


 そして最近まで、血液の検査や脳の画像による診断は出来なかった。画像検査のCT,MRIができても、診断の確定はできなかったのは、これらの画像で脳が萎縮しているのは、すでに病気がかなり進行し、細胞が破壊された結果の脳萎縮の像であったためであった。 結果的に、いったい何人がアルツハイマー病になっているのか、何才の人がどのくらいの頻度でその病気になるのかという、その人数さえも正確にはわかっていない状態がアルツハイマー病の病名がついてからも長い間続いていた。


 20世紀後半になり、人々の寿命が急速に伸びる長寿社会になると、アルツハイマー病の患者は全世界で急速に増え、ガンや動脈硬化による病気とともに、社会の対応が世界中で問題となり、急速に診断方法も進歩してきた。


 1992年イギリスの神経遺伝学者のジョンハーディーがアミロイドβタンパクの沈着がアルツハイマー病の病変を引き起こす要因であるというアミロイド カスケード仮説を発表した。このアミロイドβは正常にある水溶性のタンパク質で、それが不溶性となり塊をつくり、神経細胞の周りに沈着して神経細胞を死なせてしまうという説であった。この説をもとに、画像の診断や血液検査が開発された。


 画像検査法では、 PET検査が有効であった。このアミロイドの沈着がアルツハイマー病の発症20年前から見られることから、アミロイドぺット検査でその沈着を測定できれば、その沈着の多い人がアルツハイマー病の可能性が高いと判断できる。さらに血液中のアミロイドベータの検査も最近可能となってきた。


 今年6月8日アメリカ食品医薬品局がアデュカヌバブが、脳内のアミロイドβプラークを減少させる効果があるとして、アルツハイマー病の治療薬として初めて承認された。この薬はアミロイドの蓄積が確認された軽度の認知障害および軽度認知症の患者のアミロイドβプラークを59%から71%減少させ、アルツハイマー病を治療できる初めての薬となった。ようやくアルツハイマー病の治療はスタート台に乗った。



この不思議で波乱に満ちた人生における

最後の場面は

2度目の子供時代、そして完全な忘却。

歯もなく、目もなく、味もなく、何もなく。

                            シェイクスピア 


  長寿社会はアルツハイマー病など脳の病気の時代でもある。


2021/05/25

オンリー イエスタデイ 、新型インフルエンザの教訓



 2009年3月新型インフルエンザの流行がメキシコで始まった。飛行機の発達により、中南米より早く、アジアの国々にも感染が広がり、連日10000人以上の人材を航空機の検疫に動員したにも関わらず、5月16日には神戸で初めて、国内の感染者が確認され、その後兵庫県と大阪府で感染は急拡大した。一斉休校や人々の外出自粛で約一週間で下火になった。しかし6月初旬には福岡、中旬以降は首都圏や愛知、広島で感染者は一気に増えた。7月には全国で5000人を超えるまで増えた。


 幸いにも新型インフルエンザは豚由来のH1N1インフルエンザで弱毒性であったのと、タミフルなどの治療薬が有効で、ワクチンの投与とあいまって、急速に終息に向かった。


 その時の反省から2010年6月10日に新型インフルエンザの対策総括会議の報告書がまとめられ、将来の感染症の対策に役立てるように公表された。 その時の報告書で、昨年2020年の新型コロナのパンデミックで起こったことがすでに、ほとんど議論されていた。水際対策、検疫の問題、ウイルスの毒性とそれに応じた対応、公衆衛生対策としての学校や施設の休業社会活動の制限。そして感染症専門施設や発熱患者をみる発熱外来の問題、ワクチンなどの問題が検討され公表された。



 具体的には、提言の初めでまず、意思決定プロセスと責任の主体を明らかにして、地方との関係を発生前の段階から、関係者の間で対処の方針を検討し、実践的訓練をする必要がある。と述べられ、それぞれの分野の対策が提言されている。


 感染症の危機管理に関わる体制の強化については、国立感染症研究所や検疫所、保健所、地方衛生研究所など危機管理を専門にになう組織や、人員体制の大幅な強化必要で、アメリカのCDCなどを参考にして、より良い組織や人員体制を構築すべきである。そしてPCRを含めた検査体制について強化し、地方衛生研究所の法的位置ずけについて検討が必要であると記されていた。

 当時から、ウイルス感染症に対してPCR検査は必須で、すでに使われ、次の感染症には迅速に広範に、系統だって対応できる用意は整えていたはずであった。


 医療体制については、医療スタッフ等の確保、ハイリスク者を受け入れる専門の医療機関の設備、陰圧病床等の施設整備などの院内感染対策等のために必要な財政支援を行う必要がある。

発熱相談センターと発熱外来の設置に関して再度整理すべきである。

やはり、感染症の疑いのある患者をそのリスクに応じて、どこで診察して、どこで入院すべきかの提言がなされていた。


 さらに国家安全対策からワクチンの生産体制を強化するべきで、ワクチンの接種についても、集団接種で実施することも考慮しつつあらかじめ実効性のある体制を計画するべきである。と書かれている。


 政権が交代し、2011年3月東日本大震災が発生。福島原子力発電所1号機、2号機 3号機が次々にメルト ダウン。原子炉は高熱と、高放射線で、人が立ち寄ることができず、ロボットも強い放射線で、燃え尽きてしまった。それらは10年経った今でも、メルト ダウンの結果できたデブリは未だ取り出すことができず、放射線に汚染されたもの、とりわけ汚染水が問題となっている。この汚染水は、原発敷地に一日400トン流入し、それが山側に作った凍土の壁だけでは堰き止められなかったのが遠因で、今でも毎日増えている。その後、地震や風水害が毎年のように起こり、感染症は忘れ去られていた。


 20020年、武漢を閉鎖するほどの猛威をふるった新型コロナウイルスが日本でも流行し、4月7日に緊急事態宣言が出された。第一波は次第に収束し、第二波、第三波とその後何度も、感染の拡大収束を繰り返し、2021年5月、1年半経った現在も緊急事態宣言は解除されず、今も世界中で新型の変異株が生まれ、感染拡大は続いている。


 10年前との違いは、ウィルスの性質の違いと、ロボットの進化と同様、技術の進歩とりわけワクチンの開発とその実用化にあった。 新型インフルエンザは比較的弱毒であったし感染の様式も今回の新型コロナウイルスより単純であった。今回の新型コロナウィルスは、治療薬がなく、感染は世界中に拡散し、死亡者も300万人を超えている。一方ワクチンの接種の進んだ国では、感染の拡大は止まり、正常の日常生活が戻りつつある。

 

 日本の第1例目が報告されたとき、アメリカですでにmRNAワクチンができていた。中国が新型コロナヴィルスの遺伝子配列を公表してから一週間でワクチンはできた。3月16日にこのモデルナ社のワクチンの第1相臨床試験が始まった。一ヶ月遅れでファイザー社はがん治療を研究していたビオンテック社のmRNAの技術を使ったワクチンを製造し5月4日に第1相試験を開始した。この技術は遺伝子工学の成果で、ウイルスの粒子の表面にあるスパイクタンパクの遺伝子情報を持ったmRNAを筋肉内に注射して、このスパイクタンパクを作らせ、それに体が反応し、それに対する免疫ができる技術であった。


 中国では17年前SARSワクチンをシノバック社とシノファーム社はすでに開発していた。それをもとに武漢市のロックアウトされた3月後の4月に新型コロナに対する毒性を無くしたウィルスを利用するの不活化ワクチン臨床治験を始め、7月に北京で緊急接種が行われた。

 

 イギリスでは英国アストロゼネカ社とオックスフォード大学の共同開発のワクチンの開発を行うとともに、ジョンソン首相の指揮のもとに、2020年4月から、ワクチン接種に向け、世界の製造会社との交渉を開始し、夏には接種体制の整備に着手した。


 一方日本では10年前にワクチン体制の強化が提言されていたのに、世界に出遅れた。1980年代に日本はワクチン先進国で、水痘、日本脳炎ワクチン、百日咳ワクチンで世界をリードし技術をアメリカなどにも提供していた。1992年、予防接種の副作用訴訟で、副作用による被害者に国が賠償するべきの判決が出たため、1994年に予防接種法が改正され、接種は努力義務となり接種率は次第に低下した。1996年薬剤エイズ問題で、当時の厚生省生物製剤課長が逮捕され有罪となった。そして製造する企業への開発は支援が遅れ、国が国民の安全のためワクチンを開発し、備蓄する体制が崩れ、ワクチンギャップが生まれた。


 ここ10年くらい、100年に一度と言われる国の安全に関わる事故、災害、病気の流行がおこった。歴史は繰り返し、対策は提案された。未来は正確に予想できないとしても、技術を理解し、状況を判断して未来に向けた対応が実行されるべき時は今なのかもしれません。

 


 



2021/05/04

 トルシエ監督のいた時代


九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす


                             正岡子規

  戦後、遊びやスポーツは野球がすべて、広場では、キャッチボールを手製の松の実を布団のワタで包んで、それに糸を巻いたボールを使い、手製のグローブでしていた。プロ野球は毎日テレビで中継され、高校野球は毎年憧れの舞台をつくっていた。野球アニメ巨人の星は1968年にテレビでも放送が始まった。

 1983年キャプテン翼がスポーツ根性路線とは全く違った、明るいスポーツアニメとして人気になった。1993年Jリーグが誕生し、1998年ワールドカップフランス大会に出場。その頃野球に変わって公園ではサッカー少年が主役になってきた。スポーツも人々の好みは、ずーと続くことはなく、流行は変動する。高度経済成長時代のスポーツの王者野球が、国際化し世界標準を目指すサッカーに主役を交代した時期がやってきた。 

 

 1998年43歳のフィリップ トルシエが日本代表監督となる。フランスのサッカー選手から、コーチになり、9年間アフリカで過ごし、アフリカナイジェリア、ブルキナファソ、南アフリカで監督をして、その才能を発揮していた。

 トルシエは革命を起こした。今までの日本サッカーの当たり前のことをことごとく変えていった。チームを本当に国際化し、プロ化することを徹底する指導で、オリンピック代表選手やユースの選手を育て、2002年のワールドカップにのぞむ準備を始めた。

 まず20歳以下のユースの選手をワールドユースの開催されるナイジェリアの試合の前にブルキナファソに連れて行きそこで合宿した。アフリカの、ワニが生きた鶏を食べ、40度を超す暑さの中、埃まみれの冷房の効かないバスが道路を走るところに着いた。「彼らをあえて遠出させたのは、彼らの生活圏の枠を壊さなくてはいけないと考えてからだ。日本人は海外旅行をしているのではなく、どこに行くにも日本を持ち歩いている。だから、いつも食べ慣れているもの以外を食べさせなくてはいけない。自分の部屋以外でも寝られることを、教えなくてはいけない。精神性と社会性をともなった男にならなくてはいけないからだ。」年功序列ではなく、能力さえあれば若い人でも抜擢され、高給を手に入れられるシステムを作り、国際標準に近ずけた。

 当時サッカー協会は、2年で彼を解雇し、ベンゲルなどの有名な監督を高額で雇うことを考えた。結局トルシエ監督が日本の文化や伝統、性格を理解することを条件に監督を続行することを認めた。

 高度な技術を習得するために、今までテストによる選手の評価自体がなかった日本で、選手たちに様々なテストを受けさせた。目的は、その選手たちが戦術やゲームの展開を理解しチームでオーケストラをつくることであった。その中心選手にイタリアセリエAで活躍していた中田英寿がいた。世界の一流選手となり世界を舞台に活躍するパイオニアで、ペルージャから、ローマそしてワールドカップの年にはパルマに所属していた。そして戦術は、ディフェンダーを3人にする、3バックを試みた。その一翼を担った、もう一人の中田選手、トルシエ監督の申し子中田浩二選手がいた。

 トルシエ監督のもと、2000年のシドニーオリンピックで健闘し、同じ年の10月サウジアラビアを破って、アジア大会で優勝した。しだいに日本でのサッカーの熱気は高まり、その期待を受けて、2002年ワールドカップが日本と韓国で開催された。日本は初戦でベルギーと引き分け、第二戦でロシアを破り、第3戦でチュニジアに勝ちベスト16に進む。次のトルコ戦で敗れ熱狂のワールドカップは幕を閉じた。トルシエ監督の後、ジーコが監督に就任した。


 やがて時代は国際化から、グローバル化に変わる。国際化とは、国は国でその間の障害や垣根が低くなり、世界は標準化される。一方グローバル化は、20世紀末から、21世紀にかけて、国とは別の単一のプラットフォームが情報通信革命とともに起きた時代。金融とコンピューター産業を中心とするグローバル経済がアメリカで始まる。


 スポーツも野球が再び脚光をあび、国内からグローバル化したアメリカメジャーリーグで野茂選手が活躍する。1990年仰木監督率いる近鉄に入団し、数々の記録を塗り替える。しかし、監督の交代や日本のプロ野球システムに合わなくなり、1995年メジャーリーグロサンゼルス ドジャースに入団、新人王を獲得しその後もメジャーリーグの代表投手として数々の記録を残した。 当時、日本はサッカーと同様に野球も国際化とは程遠い世界に住んでいた。日本は日本の野球でありメジャーリーグは別の世界であった。


 多くの人はジャパンアズナンバーワンの夢が破れても、日本の成長には国内的(ドメスティック)でなく国際化(グロバリゼーション)が必要と言われても、多くの人には関係のないことで、本当のところ理解不能で、国際化とは世界的に通用する人材となることと漠然と考えていた。むしろグロバリゼーションコンプレックスから、国際化には反感さえ抱いていた。


 先駆者野茂英雄の大活躍に続いて、イチロー選手が2001年やはり仰木監督の率いるオリックスからメジャーリーグのマリナーズに入団し、一年目から大活躍し新人王とMVPを獲得した。当時日本のテレビニュースのスポーツコーナーではまずアメリカメジャーリーグのイチローや野茂のことが取り上げられ、日本のプロ野球は一面を飾ることがなくなった。


 2001年この年小泉内閣が発足し、郵政改革などの改革を進める。2006年6月ジーコ監督率いるサッカー日本代表チームはドイツのワールドカップで、一勝もできずに敗退。2006年9月第一次安倍内閣が発足。


 日本のサッカーは、トルシエ監督のいた時代に国際標準に向けて、前進した。野球もメジャーでの活躍を目指して多くの才能がアメリカに渡った。そしてテニスやゴルフも世界のトップを争うようになった。


 2020年にパンデミックとなった新型コロナで日本はスポーツ以外の分野で、世界の先進の国ではなくいつの間にか世界に取り残されたことが誰の目にも明らかになった。医療研究で先頭の国と思っていたワクチンの開発競争では、アメリカやヨーロッパ、中国やロシアあるいは生産拠点となったインドにも遅れ、接種も世界の後塵を拝している。世界に冠たる医療制度のつもりが、コロナの重症患者に対応できず、デジタル化もまた世界の標準から置いてけぼり。そして、国の借金ばかり増えた。


 スポーツ界で世界標準に追いつき世界で競争するためには、世界を知り、体験し変化する必要があった。そして結果の見えるスポーツの世界では、サッカーや野球、ゴルフやテニス、バスケットなど多くの種目で日本の選手が活躍するようになってきた。

 変化をするためには努力が必要であり、あつれきを生む。反対に逆らって改革を推し進めるよりは、嵐の過ぎ去るのを待って、困難な物事を先送りすれば、社会は変化しないでもしばらくは平穏に過ぎて行く。そのため国内の多くの分野で日本社会はあまり変化することなく過ごしてきた。しかし、激変する世界では、日本にいれば今のままでも安心安全の国でいられる時代はもう終わるのかもしれません。


2021/04/25

恐竜の子孫は鳥


 鳥たちと自然と感情の歴史


 憎しみ、悲しみ、喜び、恐れなどあらゆる感情の奥には愛があり、善なるものに導かれる感情全てが愛である。大切なものが奪われると恐れの感情がおこり、憎しみもまた愛するものを傷つけられた時おこる。         

                          トーマス アキナスの感情論


 キリスト神の世界に暮らした中世ヨーロッパの人々にとって、雄鶏は太陽の象徴であり、悪霊を追い払うものとして屋根の上に飾られた。また鳩は愛や平和のシンボルで、小鳥たちは聖フランチェスコの説法を聞く愛らしい存在であった。


 中世の宗教画の世界を離れ、自然を詩にし、作曲をし、風景画を描き始められたのは18世紀になってからで、「田舎での生活の思い出、描写的絵画というよりは表現された感情」と副題のある田園交響曲の中で、ウズラやカッコウの声を模した音楽をベートーベンが作曲し、スイスやイタリアを旅行したリストは「私は、自分の感じた最も強烈な感覚や最も鮮明な知覚のいくつかを音楽で表現しようと試みた。」

 18世紀の後半にヨーロッパの国々では、教育の最後にグランド ツアーという、大陸の巡遊旅行をするのが習わしとなり、風景に対する関心が高まり、 19世紀のフランスで山や海といった、自然が美的な評価の対象となった。1840年代になると鉄道旅行が多くの人々の間に広まっていった。19世紀に山は、ハイキングや登山のための自然となり、都会から離れ、自然の中に溶け込むために周りのものの一部となるために必要なものとなる。 バイロンは述べている、「高い山脈は一ひとつの感情となる」。こうして自然は18世紀と19世紀で全く別物になる。


 新たな時代の先駆けをになったコローは神話や肖像画ではない風景のもたらす感情を描くことを試みた。そして、その風景を保存する運動が起こり、1837年、森林の伐採計画を中止し、風景の保護を求めたフォンテーヌブローの森の保全の動きが開始された。1861年フォンテーヌブローの森は芸術保護地区となり、フランスで初めて伐採と採石が禁止された。

 この森の隣にバルビゾン村があり、この村を拠点に、周辺の自然を描く画家の集まりの一人にミレーがいる。ミレーはフランスのノルマディー地方の農家に生まれ、自然の中で働き、生活する人々や鶏小屋ななどのありふれた風景を詩情豊かな絵画にした。ミレーはアジアから輸入された愛玩用の家禽から農家で飼われるようになった鶏を絵の題材とした。

 

 この時代ヨーロッパの国々は、世界に植民地をつくり帝国の領土を拡大していった。イギリスやフランスの人々の興味は原初の自然の残る植民地の東方やアフリカに向かった。アフリカの野生動物の狩を描いた「ソロモン王の洞窟」が人気になり、オリエンタリズムの画家が生まれ、フランスのウジェーヌ フロマンタンは「青鷺狩り」で異国アルジェリアの情景を描いて一躍有名になった。これらは18世紀末のエジプト遠征、1830年に始まるアルジェリアの征服による砂漠の魅力とオリエンタリズムがヨーロッパにもたらされた影響による。

 19世紀の後半、印象派のルノワールは「鳥と少女」の中で東方風のターバンを巻いた少女が、小型の猛きん属の隼を手にした少女の肖像画を描いている。 ヨーロッパではサギや鷹は雀と同じように昔から馴染みの鳥であった。同じようにマネの肖像画の傍には、おうむ科の冠毛のないヨウムが描かれている。このヨウムはアフリカ西海岸の森林地帯に生息し、それがヨーロッパに運ばれて飼育された。一方おうむはほとんどオーストラリアからその近くに住んでいて、のちにペットとしてヨーロッパにやって来た。

 鶏はヨーロッパでは古くから飼われていた、1830年代に中国からコーチン種が持ち込まれ多様化し、19世紀の末バルビゾン派の画家によって農村風景の題材となり、隼やオームの仲間も愛玩用に飼われるようになった。




 一方、アメリカでは、大統領の紋章は米国の鷲、ハクトウワシが使われている。キリスト教では鷲はゼウスの聖なる鳥であり、この鷲はアメリカ先住民の頭にかぶる羽に使われた。


 「頭を使った仕事にしろ、手の仕事にしろ、花開く現在の瞬間を仕事のために犠牲にしたくはないと、たびたび思ったものだ。私は生活に広い余白を残しておきたいのだ。夏の朝など、いつもの水浴を済ませるると、よく日当たりのいい戸口に座り、日の出から昼ごろまで、うっとりと無想にふけった。あれは私の生活から差し引かれた時間などではなく、むしろその分だけ普段よりも多く割り当てられた時間だった。」         ヘンリー D  ソロー


 ソローは 1845年 29歳のときウオールデン湖の辺りに自分で小屋を建て、周りの自然の中で小鳥、動物、魚を観察し一人きりで生活した。そこでホーホーとなくフクロウの声、ガーガーとなくガチョウの声を聞き、棟木のヨタカや窓の下で叫ぶ青カケスとともに眠り、瞑想した。   


 エセミテ渓谷が、1868年ジョン ミューアによって発見され、ヨセミテ渓谷の景色に魅せられ、まるで溶けるような、そして何かに吸い込まれ、興奮して見知らぬどこかに連れていかれてしまいそうな場所と表現し、エセミテの滝の全てを見るために、危険な断崖絶壁を登って、過ごした。この渓谷の空高く、鷲は飛んでいた。1890年にはイエローストーンに続くアメリカで二番目の国立公園になった。ここには20種類以上の野鳥が生息している。


 かもめのジョナサンの小説が1970年に発売された。心はゆれる、そして時とともに変化していく。その心を一羽のかもめに託した物語が作られた。孤高のカモメが生きるため以上の何かを求め、仲間と出会い、師に出会い、さらなる高み、崇高なるものを求める。この空を飛ぶカモメを寓話の象徴として使い、ベトナム戦争で揺れるアメリカで人気となり、やがて世界の若者の心をつかんだ。


 真っ白なカモメと逆に真っ黒な鴉はグリム童話にも題材となっている。1845年のエドガー アラン ポーの詩大鴉で、一躍不吉な鳥の象徴として世界中に知られるようになる。

 レノーアを亡くし悲しみに暮れている12月の寒い夜、不気味な声がして、ドアをノックして不吉な古代のカラスがアテナ神の胸像に止まり、nevermore と喋った。 鴉は神話では預言者であり、この詩では人間の言葉を喋り、主人公を恐怖から狂気に向かわせる鳥となる。


 鳥の恐怖はヒチコックの映画「鳥」で頂点に達する、鳥を扱うペットショップで、インコを手に入れ、それを届ける途中の港町で、カモメに襲われるところから始まる。やがてこの鳥たちが、大群となり次々と子供や人々を襲う。その街の人々はパニックに陥り、この鳥の凶暴化が次第に周りの土地にも広がっていく。


 自然とその中に住む生き物、とりわけ鳥は人の感情を、人の心の世界を写す象徴として使われて来た。時代により、かわいらしい愛玩動物となり、鷲のように誇り高い国の紋章になった。鳥は自然の中に生活するときは、その生態系の一部として生存のための活動をしている。そこでは地上の動物が生存のための食物連鎖で繋がっているように、空にもまた鳥類や少しの哺乳類が生存の空間を求めて飛び交っている。やがて、人類が生存の空間を広げると、その営みが、鳥の生活と交錯し、一部はペットとなり、一部は家禽となる。そして益重と害鳥が生まれ、都市化した世界で、一部の鳥は人間生活にとって厄介者になった。


 感情は人を行動に駆り立てる原因となり、人はその感情を鳥に託した。古くから鳥は神の信託を告げたり、平和や心の平静の象徴でもあった。この鳥を扱った多くの宗教的ファンタジーは物語となり時の人々の心を安らがせる役割を果たした、一方時代によって、鳥は悪魔の象徴になり、人の不安をかきたて、さらには人を襲う人類の敵となった。そして、絶滅した恐竜の子孫は鳥たちであることが明らかになった。


2021/03/28


 



草庵の暮らし 日本の住まい


 

 人類は古代から、風雪を逃れ、食物を食べる住居を洞窟に、あるいは、穴をつくり生活をしていた。北アフリカの熱帯乾燥地帯には、家畜と共に生活する遊牧民ベトウィン族は移動式テントで暮し、モンゴルの草原地帯ではパオで暮らした。パオは木のやぐらと柱で屋根の骨組みをつくり、それにフェルトや毛皮で包んだドーム状の壁を作り、強風や寒さに耐える住まいとし、生活した。その土地の風を感じ、陽光を浴び、風雪などのその地の環境に適した空間をつくり、風土にあった住み方をした。


 日本でも狩猟生活からやがて、農耕の社会になると土を掘り、その上に木材で屋根をつくり、寝たり、作業する生活空間を作った。その後南方の建物と同じように、床が地面より高くなった高床式の穀物の保管のための建物がつくられ、やがてこの高倉を住居にする人々が現れるようになる。

 この高床式の住まいは、やがて平安時代の貴族の儀式や遊戯をする場所としてのための寝殿造りを生み出す。貴族、時の権力者はそこに畳を敷き、屏風を備え、寝台もつくった。15世紀武士が支配する室町時代には、主君の応接の間が必要となり、書物を読んだり書いたりするための書院がつくられた。これが和風の空間、和風建築の原型で、昭和の時代まで続いた。

 

 17世紀江戸時代には、武家屋敷から庶民の家にもまた農家にも畳が普及し、農家も土地により気候により様々に変化し、また財力の豊かな、庄屋などは建物自体を誇示するようになった。一般の日本の農家は、中世ヨーロッパとよく似た家屋の構造になっている。土間にはうまやがあり、その土間には大きなカマドがある。居間や寝室はやや高い床にあり、部屋の中心の囲炉裏で、体を温めたり、濡れた衣服を乾かしたりする。その囲炉裏が家庭と家屋の中心点であった。そしてその煙は天井に登り、煙突はなくそのまま煙は屋根から抜けていく。戦前の日本の農家の家屋は日本の風土より生まれたもので、国土が温帯に位置するためか、古くからのヨーロッパの農家に非常に似かよっている。

 しかし両者の違いも大きい。囲炉裏端では父親、母親、子供の場所が上座、下座で決まっている。そのしきたりは日本では、和室で座って食事をするときに家族の座る場所の決まりや、来客を招いた客座敷の、床の間の位置で上席、そして奥と手前と序列の決め方に受け継がれている。

 そして、日本では土間から家に上がるのは当然履物を脱ぐ必要がある。これによる内と外の意識が西欧と全く異なる住み方の感覚になる。壁は木の柱と棟で骨組みを作り、そのあとに壁を作る。一方ヨーロッパでは石やレンガを積み上げて壁をつくる。 ひさしが陽を遮り、縁側が、雨風から、畳の間を守るため、ひさしを長くして、縁側をつくった。その奥の田の字型の畳の間、居間で寝て食事をし、座敷には床の間と書院があった。


 それにしても、今より気候が寒冷な時代、草庵や農家の住宅、権力者の館に冷暖房もなく、囲炉裏の火や火鉢で暖をとる生活にも関わらず満足に暮らしをしていたのは、気候に比較的恵まれた地域である日本では多くの季節、屋外の生活でも快適に暮らしていた。地球の環境から生まれた人類は、その風土をつくる樹木、風あるいは陽光は快適なものと感じるためで、テントや草庵は快適な住まいとなる。しかし、暑すぎるあるいは寒すぎる季節や雨や風から守る役割も住まいには必要となる。この両方を備えた住む場所を、その土地で使える自然の素材を使って、冬や夏に備えた家を茅葺の屋根や、木の板の壁、障子、唐紙を使って生み出した。


 

 明治維新以後洋風建築が日本に移入され、各地に、鹿鳴館や居留地風の建物が多く立てられ、椅子と机が生活の中に取り入れられ始めた。関東大震災で木造都市東京の建物は大部分が焼失し、そのあとに西洋と同じ、堅牢で重厚な不燃性の建物が多く建てられた。フランス風のロココ建築風など、外面の様式を技巧的に真似て造ったため、日本の風土に似つかわしくない建物もあった。

 当時も一般の人々の生活する家は、地方だけでなく、都市の住宅も、漱石の住まいに見るようにほとんどが和風住宅の借家であり、風と陽光を遮断することの少ない自然を感じる住まいに、暮らしていた。椅子も机も家財道具ほとんどない庶民は、引っ越すときには畳や、建具も一緒に運んでいた。


  19世紀にイギリスで田園都市構想が生まれ、20世紀になると郊外住宅というユートピア構想がアメリカで生まれ、現実のものとなった。当時、工業の発達した都市は工場の排気で不潔で、雑然として、危険ですらあった。仕事の場と暮しの場所を分けて、農村地帯を開発し、交通網を整備して、個人所有の庭付きの家を作り始めた。都市と農村地帯を結ぶ交通網が整備され、とりわけ高速道路で車を使えば、清潔で安全な住まいが個人の所有物となり職場に通勤できる。第一次世界大戦後、住宅不足を解消する必要に迫られたアメリカでは誰でもそれが手に入る、住宅ローン制度がつくられ、人々はこれにより郊外に芝生の庭つきの住宅を手にした。このシステムは、経済が発展し、豊かになればなるほど人々はより働き、より豊かになっていく経済発展の原動力となった。


 日本も第二次大戦まで、ほとんどの住まいの形式は和式住宅であった。第二次大戦の戦火で都市の木造住宅は焼失し、職場も住居も廃墟になった。戦後住む場所の確保は切実な問題になった。1951年公営住宅の標準設計51Cが設計され、鉄筋コンクリートの構造で、戦前の寝る場所と食事の場所が同じ生活の家から、寝る場所とは別の、食事のできる台所ダイニングキッチンが作られた。これがその後の3DK、4DKと呼ばれる日本の建物の標準になった。この公団住宅の発想は学校や病院にも取り入れられた。次第にこの集合住宅は公団住宅から、マンションやタワーマンションへと進化していった。

  アメリカと同じように1960年代から70年代にかけて各地に郊外のニュータウンが建てられた。この個人住宅も、食事をした部屋に布団を敷いて寝る、田型の間取りのなんでも間の代わりに、食事のできる広い台所と寝室が分かれ、独立した子供部屋が標準となる公団住宅の発想が取り入れられ、流行した。当時、親とは別に家を建て、子供達と住む核家族が多くなってきた。その頃、都市に若者は向かい、仕事について、家庭を持つと郊外の私鉄の沿線に沿って住むようにになる。和風の住宅は次第に地方に残される少数派に追いやられることになった。

 工業化住宅生産が始まり、木材以外の新しい素材を使って、工場で素材を組み合わせ、組み立て、大量のユニットを作り、それを住宅地に運んで、クレーを使って家を組み立てた。また鉄道や高速道路も整備され車も普及した。この日本型住宅供給システムはバブル期に頂点を向かえ、経済の成長が止まるとうまくいかなくなった。すでに想定されていた子供達と核家族化した標準世帯は多数派ではなくなり、生活の形は色々で、住まい方は様々で、高齢化が進み、人口が急速に減ってきた。

 今後の住まいはより現代的(モダーン)化し住まいも情報の館化し、都市全体の情報通信網の一部として、より便利で快適に進化していくのか、日本とその風土や伝統に立ち返り、木材を材料にした自然を取り入れた住まいの復活になるのか予想はできません。もしかしたら、自然を感じるモダーンな草庵に住むことが流行するかもしれません。


 迢迢たる天外 去雲の影

 籟籟たる風中 落葉の聲

 忽ち見る 閑窓に虚白の上るを

 東山に月出でて 半江明らかなり          夏目漱石


2021/02/12

山本栄蔵 良寛という生き方


 霞たつ ながき春日に 飯乞ふと 里にいゆけば 里子ども いまは春べと

うち群れて み寺の門に 手毬つく 飯は乞はずて そが中に うちも交りぬ

その中に 一二三四五六七 汝はうたひ 吾はつき 吾はうたひ 汝はつき


つきてうたひて 霞たつ 永き春日を 暮らしつるかも 

                                    手毬つき



 江戸時代徳川政権は古くからの共同体の上に、支配イデオロギーとしての儒教を用いた。

そして幕府の政権の下に、檀家制度で仏教寺院を支配した。その時代には、今の時代と全く別の、西欧の思想に影響される前、近代以前の、低地アジア、大陸に起源を持つ、仏教、儒教、老荘思想の世界があった。


 良寛は1758年(宝暦8年)越後の出雲崎に生まれる。その地の名主、廻船問屋山本新左衛門の惣領で、少年時代の名は山本栄蔵、豊かな生活に恵まれる。出雲崎は日本海の各地を行き来して、瀬戸内から上方に物資を運ぶ北前船の寄港地であり、佐渡金山の陸上げ港として栄えていた。7才になり、漢学塾に通い、論語、四書五経を学び、文選、唐詩選を好んで読んだ。


 家督を弟の由之に譲り、1780年22才の時、備中の曹洞宗の修行道場である円通寺に出家した。江戸時代、仏教のなかの禅宗は、臨済宗と曹洞宗そして江戸時代に新たに明から渡来した隠元の黄檗宗があった。この円通寺は、道元の曹洞宗でありながら、当時新興の隠元の影響を受け、坐禅とともに木魚をを叩き、鉦を鳴らしながら南無阿弥陀仏を唱える、自力と他力の混合した教義の寺であった。

 

 少年時代は、経済が栄えた田沼時代で、豊かな生活を送った。円通寺に出家した頃には天明の大飢饉に日本中が見舞われ、その後、寛政の改革の時代になり人々は倹約をせまられた。越後では浄土宗を国教化する動きがあり、その中で良寛は故郷に戻り、道元の禅宗を信奉し続け、やがて隠者、世捨て人となって、1796年(寛政8年)故郷越後の国上山、五合庵の古い庵に住んだ。


少年 父を捨てて他国に走り 

辛苦 虎を描いて 猫にもならず

人有りて若し箇中の意を問はば

只だ是れ従来の栄蔵生


 この住まいは真言宗国上寺の万元上人の隠居屋として建てられた古い庵であった。杉林の中の小さな草庵で、夏は涼しく、冬は雪に埋まる。この住まいを借りて一人住まい、里に降りて托鉢に回る。この托鉢に大勢の子供たちが一緒になって遊ぶ。寺の住職でない僧侶として布施行を20年に渡り、この地で行った。そして詩歌や書は江戸や各地の国学者や儒者の目にとまり、多くの文化人がその草庵を尋ねるようになった。


生涯身を立つるに懶く

騰騰天真に任す

嚢中三升の米

炉辺一束の薪

誰か問はん迷悟の跡

何ぞ知らん名利の塵

夜雨草庵の裏

双脚等閑に伸ばす

 

 1810年(文化7年)生家橘屋がつぶれる。


無能の生涯作す所なく

国上山嶺に此身を託す

他日交情如し相問わば

山田の僧都是れ同参


1812年(文化9年)詩集「草堂州貫華」歌集「ふるさと」を編集。


 この宮のもりの木下に 子どもらと 遊ぶ春日に なりにけらしも


 

 1816年(文化13年)59才の時、国上山の麓の乙子神社の草庵に移る。ここは村里に近く、子供たちがよく遊びにきていた。その神社の中の建物で、和歌や漢詩をつくり、書を書いた。 その評判を聞いて、長岡藩主 牧野 忠精がわざわざ乙子草庵を訪れて、長岡での仕官をすすめるも、「たくほどに風がもてくる落葉かな」の句を示し、ひとりで草庵暮らしを続けた。


 そして69才になり、島崎の木村家に移り、貞心にであう。二人の間の歌集「はちすの露」を貞心が編集した。ここには良寛との出会い、臨終を迎えるまでの二人の唱和の歌60首が収められている。


君にかく あい見ることの 嬉しさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思ふ  貞心尼

夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに   良寛


やがて、この住まいは病身を介護してもらう場となり、晩年を過ごした。


 良寛のうたの新しさは、その悲哀あるいは歓びの表現が、単なる花鳥風月を超え、あるいは生死を超えた禅の悟りや老荘思想からうまれたうたではあるものの、多くの一般の作とは異なる響きを持っている。


 

 霞立つ 永き春日に 子どもらと 手毬つきつつ この日暮らしつ     春


 風は清し 月はさやけし いざともに をどり明かさむ 老いの名残に   夏

 

 秋もやや うら寂しくぞ なりにける 小笹に雨の 注ぐを聞けば     秋


 淡雪の 中に立てたる 三千大千世界 またその中に 泡雪ぞ降る     冬




 幼い頃から漢文を学び、四書五経の思想を身につけ、その後禅に目覚めた。それから後、長い托鉢生活の中から生まれた歌はもはや儒教でもない、禅の教えでもない、それを超えた日本の春夏秋冬、自然の中の生活から生まれた調べとなり、橘曙覧と共鳴する無心で素直なうたになる。そして晩年の貞心に看取られた病床のリアリズムは時代を超えた近代詩に近いものになる。


 

ぬばたまの 夜はすがらに くそまり明かし あからひく

昼は厠に 走りあへなくに 

この夜らの いつか明けなむ この夜らの 明けはなれなば

をみな来て 尿をあらはむ こいまろび 明かしかねけり

ながきこの夜を

                               「眠れぬ夜」


 うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ を最後に、74才でこの世を去る。