「一休骸骨」
室町幕府三代将軍足利義満は、各地の守護の対立を利用してその力を削ぎ、官位を登りつめ、公家化することで武家における足利家の権威の確立を図った。天皇に代わって公家や寺院の土地安堵の権限を握り、公武合体政策で宮廷を取り込んだ。
さらに、明の皇帝から国王の称号をもらい、日本の支配権を確立しようとした。1401年義満は明の皇帝に国内を統一したこと、そして通行と通商をしたいとの書面を明の皇帝に持たせた。翌年、「爾日本国王源道義、心を王室に存し愛君の誠を懐き、波涛を踰越して遣使来朝す」との返詔を受け取る。
義満の擁立する北朝の後小松天皇の子供として1394年一休は生まれる。金閣寺が完成した翌年、5才の時、臨済宗の安国寺に出家させられる。
8才の時には、、中国風の虎の屛風の絵の前で「この虎を捉えてみろ」と将軍に言われ、「ではその虎を追い出してください。」と返答した逸話は義満の豪華な館を舞台にして生まれた。義満は明との貿易で珍しい金銀の食器や豹柄の毛皮の椅子や登り龍の絵のなどの珍しい品や美術品を手に入れ財力を蓄え、それらの装飾品で身の回りを飾り、暮らしていた。
17才の時西金寺の謙翁和尚の弟子になる。京都には日蓮宗の勢力が強く、地方では一向宗と呼ばれる真宗の教えが一般の民衆に浸透していた。一方鎌倉時代武士階級に広まった禅宗は、室町幕府では重用されていた。しかし、都の禅宗は権力者に取り入り俗化して中国かぶれの禅僧も多く、かれらが幕府の使節を務め、国書をしたため、接待役を務めた。中には蓄財に励む禅僧もいた。
その都から逃れ、本来の禅の師を求めて、22才の時、滋賀堅田の祥瑞庵の華叟(かそう)の元を訪れ、その弟子になり清貧生活をおくり、修行し、一休の名をもらう。
有漏路より無漏路へ帰る一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け
(煩悩の世界から、煩悩を越えた世界に、私は戻る。そしてその途中で一休み)
禅の世界では、精神世界と俗世界は両者とも大切であり、悟りに至る道のみでは、生活できないので、世俗世界に戻り、煩雑の世界に浸る。世俗世界に絡め捕られた時その煩悩から遠ざかりそれを超えた精神世界に没入する。この二つの世界の間で一息つく。この一休こそ求めるものである。
十年以前、識情の心、瞋恚豪機即今に在り。鴉は笑う、出塵の羅漢果、昭陽日影玉顔の吟
一休は27才の時悟りを開く。夏の夜遅く、小舟に乗り一人座禅を組む。闇夜にからすの鳴き声が聞こえた。その時十年来の疑問がいっきに解け、羅漢の境地に達する。寺に帰り一片の詩を吟みこの体験を師に伝えた。
修行により開悟した一休は、34才の時、師の亡くなった後、庵を出て、街に戻った。一休の生きた時代は、天皇に威なく、政治に信なく、禅などの宗教も堕落した時代で、街では学識や、身分の装いは通用しない時代になり、赤裸な人間本来の姿が現れた。街に出て小庵を転々としていった一休は、この間皇室や武士、町人や農民、文人や歌人、遊女など多くの人と出会い、彼らが寄り合い、一休の文化サロンが作られていった。一休は養叟(ようそう)などの、 旧来の形式に陥り、堕落した禅を激しく批判し「自戒集」を編纂した。
頤卦題名貪食来
会中膾炙寵如梅
攫金手段機輪転
君子果然多愛財
養叟は自分の名を宗頤と取り替え、印可証といって飯の種にした。彼の門下は、梅をほめるように自慢した。金をつかむ手段は、輪が転ずるように素早い。君子は財を愛される。
華叟子孫不知禅
狂雲面前誰説禅
三十年来肩上重
一人荷担松源禅
華叟の弟子たちは皆、禅を知らぬ。この私の前で誰が禅を説けるか。30年来松源の禅を一人で、担い肩が重い。
住庵十日意忙々
脚下紅糸線甚長
他日君来如門我
魚行酒肆又婬坊
養叟に送った手紙では、この寺にいた十日は気ぜわしい日々だった。私の脚に絡まる赤い糸は甚だ長く、私はそこから出て行く。もしいつか私をたずねてくる気があれば、魚屋か、酒場か、それとも淫売屋をのぞいて見てくれ。
62才から妙勝寺を再建、酬恩庵と称した。ここを拠点に布教を行う。一休の元には茶人の村田珠光や能、狂言や茶の湯、連歌など東山文化の担い手が訪れた。これらの人々が北山文化の王朝を擬した花の御所文化を否定して、日本の庶民の土着した歌、能にとどまらず、茶道、住まいなど現在につながる日本的文化の始まりを生み出した。
1457年「骸骨」の中で、「そもそもいつれの時か、夢の中にあらさる、いすれの人か骸骨にあらさるへし。それを五色の皮につつみて、もてあつかふこそ、男女のいろもあれ。いきたへ、身の皮破れぬれは、その色もなし。上下のすかたもわかす。たた今、かしつきもてあそふ皮の下に、骸骨をつつみて持ちたりと思ひて、此の念を能く仰信すへし」
人はやがて死んでその皮がやぶれてなくなれれば、感情も消え、生前の地位の上下も分けられない。人間はみな、この骸骨に皮を被せていきて動いているいるに過ぎない。
一休73才の時1467年から11年に及ぶ応仁の乱がおこった。この間京都から、奈良、大阪に逃れる。この応仁の乱は、仏道の衰退、朝儀礼節の衰退そして幕府の無力から武士団の一族の内部分裂、同族の争いが大義も名分もない動機で勃発し、勝敗のつかないまま収束した。その最中76才で盲目の旅芸人森侍者と出会い、共に暮らす。
そして森公の深恩に謝するの願書を残した。狂雲集の中では「約弥勒下生」とされ弥勒下生信仰の恩とされている。
木凋葉落更回春
長緑生花旧約新
森也深恩若忘却
無量劫来畜生道
一休は禅僧とし悔悟し、儀礼、格や形式や常識を破壊し、生の根源、人間の生物としての存在を凝視し、人間本来の姿を禅の修行を通して見い出した。そして風狂の人生を過激につらぬき通した。
1474年81才で大徳寺の住職となり、1481年没する。
