2021/11/11

西行 ブルーノタウトと伊勢

  


その神域の気高さは、すべての人々が思わず拝伏されられてしまう程だ。アクロポリスに世界の建築家が詣でるように、伊勢神宮は建築家の巡礼の最終的到達地点になるだろう。


                               ブルーノ タウト


 伊勢は温暖の地にあり 古くからの鬱蒼たる杉や檜などの針葉樹と楠や榊など広葉樹が混在し、古代からの生態系が残っている。伊勢神宮はその木立の中に多くの素木の神殿が建てられ構築されている。


 伊勢神宮本殿は直線的木材を用い、茅葺の屋根と校倉の積層材で作られ、デザインは渡来建築を模した仏教寺院とは異なる、日本の独自の建築様式であった。しかし明治の初めには西欧の建築を標準としていたため、伊勢神宮は原始的南洋風の建物として、それほど評価はされていなかった。1933年ブルーノタウトが日本を訪れ、カツラとともにイセを発見した。「伊勢神宮は木材をもって最高の醇化に達した本物の日本の独創的な建築である。」と語り、神殿とそれを囲む森そしてその建築の考え方を高く評価した。

 

 「古代の日本人は、その象徴を自然の中に求めていった。石や木や水のなかに精神の象徴を求め、その神像をみたのである。こうした自然観は、いまなお日本人の精神構造の核心に伝わり残されているところのものである。」

 「こうした象徴が、一つのフオームに昇華した時、伊勢が生まれたのである。伊勢フォームの完成は、同時に日本神話の完成でもあった。と同時に、それは日本民族の形成がほぼ完了する時期でもあった。伊勢のフォームを創造した古代人のたくましい構想力の背後には、民族形成のエネルギーがそれを支えていたのである。この伊勢フォームは日本民族の原質がふくまれている。」

 丹下健三は「日本建築の原型ー伊勢」の中でその建築のデザインはその表層的な形ではなく、その形式が造られるフォームが大切であると述べ伊勢神宮の日本固有の自然から生まれた過程を探ることは日本文化の根底に触れることであろう。と述べている。


 7世紀末から8世紀前半のこの時代に日本独自の文化、土着の文化、ナショナリズムの文化が始まった。建築様式のイセもこのナショナリズムによって基本型はデザインされた。


 伊勢神宮は690年の第一回の遷宮から20年に一回遷宮を繰り返し、現在にも続いている。この初源への回帰によって、形ではなく時代を超えて持続する、文化の構造をつくった。まるで生物が子孫を残すように、茅葺の屋根を葺き替え、木の柱を新たに建てて、同じ形が反復されることによって伊勢神宮のアイデンティティーが保たれ、石造のパルテノンと同じ永続性を獲得した。


    榊葉に心をかけむ木綿垂(ゆふし)でて思へば神も仏なりけり  西行


 神道は儒教や仏教が伝来する以前の日本固有の信仰と言われるが、儒教の経典を基にした治世あるいは倫理としての人の道を教えるものでもなく、世界を理解し人々を救済する仏教のような世界宗教でもなかった。神道はマツリで神々に供物を捧げ、ノリトを申し、お祓いを行う、素朴な自然宗教に基く祭祀の儀式に過ぎなかった。


 平安時代に、儀式のみの神道が仏教と結びつき、神が仏法により悟りを開いて菩薩になる思想が生まれ、鎌倉時代からしだいに神は仏と強く結びつく。西行は1180年(治承4年)63歳の時に高野山を出て、伊勢に移り住んだ。伊勢神宮を訪れ、思へば神も仏なりけりとうたの中で詠んだ。。伊勢神宮はもともと我が国の神である天照をまつるものであったが、実は天照大神は大日如来が人々の救済のため、神という仮の姿で権現したもので、神と仏が一体となったものと理解していた。


 鎌倉時代になると伊勢神道は、渡會氏により教義として確立され、神学が体系化された。

 伊勢外宮の神である豊受大神は、止由気宮(とゆけのみや)儀式帳(804)によると、天照は垂仁帝の御代に伊勢の五十鈴の河上に鎮座されたが、雄略帝の御夢にあらわれて「自分はタカマガハラで静かに坐してはいるが、たったひとりのだけでいるのは何かと不便である。食糧さえ充分でない。そこで丹波国のマナヰにいる食物のカミであるトユケ(豊受)大神を自分の近くに連れてきてほしいと」頼まれこのカミを招いて壮大な社殿をつくり外宮とした。内宮の神である天照に太陽神であるオホヒメノムチの習合した神を祀る、内宮より神格が低かった。


 それを神官の渡會氏は、日本書紀の神代之巻を神典として外宮の神、豊受神を「日本書紀」の天御中主神(あめのみなかぬし)国常立尊と同じとみなし大元神とした。「書紀」では国常立尊が原初神であり、天御中主神(あめのみなかぬし)が天地初発の時に生まれた神である。これらの神々によって国が造られ、天照大神は神世七代ののちにあらわれる。こうして国生み、国つくりの神々により日本は生まれた。そして皇室の統治の由来を日本国の形成と結びつけて日本を神国とした神道の体系伊勢神道が生まれた。


 その神道の中心徳目として、清浄の心「正直」が加わった。すなわちまわりの利害ではなく、純粋に心のうちから生まれるものを大切な倫理項目とした。そして正直のシンボルを三種の神器の鏡に求めた。この動機の純粋性を重視する思想はその後、日本の倫理観の中心になった。

 このようにして神国日本の中で伊勢神宮はその頂点に位置し、全国の神社をその下に系列化した。宮廷や公家、武士の一部のものであった伊勢神道は鎌倉時代から次第に日本中に広まり、江戸時代にはお伊勢参りという集団参拝が全国で行われるようになった。


 神道は時代とともに仏教に変わって儒教の宇宙哲学である天道思想と神道の道が一致するとされ、江戸時代には神儒一致の儒家神道が一般的になる。そして本居宣長などの国学では、儒教とも離れ、日本の道に純化されていく。

 明治維新の後、政府は神社神道と皇室神道を結びつけ国家神道とし、日本の国教として推進した。第二次世界大戦の敗戦によりこれは解体され、天皇は象徴天皇となり、伊勢神宮は信仰の自由のもと国家の庇護はなくなった。

 古くからの大木の樹々に囲まれた神社は、穢れを祓い、清浄の心を取り戻し、願いをかなえる祈願の場所となり、伊勢神宮は日本建築の単純さ素朴さの象徴であり、いまも遷宮が行われている。


 深く入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風       西行

2021/10/17

SF 黄金時代  安部公房と小松左京

 高度に発達した科学は魔法と区別がつかない     A C クラーク


 戦前からの科学小説(サイエンス フィクション)について「従来科学小説が生れながら、ついに文学上の伝統をこしらえ得なかったのは、全く悲劇と言えましょう。日本が明治時代の革命的進歩精神を徐々に固定化し、ついに世界の国際的文化から落伍した。そして科学小説が単なる少年読物に堕してしまった。」 

 その反省から、SF専門誌「星雲」が1954年(昭和29年)発行された。その中で米ソ科学小説傑作集にハインラインの「地球の山々は緑」やS アレフレイヨーフの「試射場の秘密」などが翻訳され、やがて宇宙旅行が行われ、人造人間は人類に奉仕する日がやってくる世界を小説で創造する、その近未来を描いた専門誌から戦後日本のSF小説はスタートした。 その後多くの海外SF小説が翻訳され、1957年(昭和32年)になると早川書房から、ジャック フィニィーの「盗まれた街」やカート シオドマクの「ドノヴァンの脳髄」が日本で出版された。



 1957年(昭和34年)世界で最初の人工衛星スプートニク1号がソ連で打ち上げられ、1961年(昭和36年)にはガガーリン少佐の乗った有人宇宙飛行が成功した。



 ちょうどその頃1959年(昭和34年)12月に日本で初の本格的SF雑誌、「SFマガジン」創刊号が出版された。ブラッドベリの「7年に一度の夏」やA Cクラーク「太陽系最後の日」の海外の翻訳小説とともに糸川英夫の「宇宙ロケット」が掲載された。多くの若い人々に今まで知らなかった新しい輝きに満ちた世界を描いた雑誌は熱気を持って支持され、古いタイプの怪奇小説や科学小説に飽き足りない小説家たちの興味を刺激した。

当時は翻訳ミステリーの全盛期でもあり、エラリークイーンズ ミステリーマガジンやヒチコックマガジンも出版されていた。


 糸川英夫は日本のロケットの父と呼ばれ、予算のない日本で、ペンシルロケットと呼ばれた超小型ロケットから、次第にカッパ型のロケットまで日本もロケット開発に参加し、性能は次第に進化していき世界の先進技術に追いついていった。



 1960年(昭和35年)11月号の「SFマガジン」に第一回SFコンテストの募集が掲載され、愛読者であった小松左京も応募した。「地には平和を」で本土決戦を戦ったかもしれない世界と戦後の平和な家族のピクニックの世界を対比させた物語が選外の努力賞であったが受賞し、選考委員であった安部公房氏が高く評価した。入選作はなく、「下級アイデアマン」で眉村卓が「時間砲」で豊田有恒が佳作となった。


 このSFコンテストの選者安部公房は、1951年(昭和26年)「壁 S カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞していた。主人公の男が、壁を吸収し、先に彼が吸収しておいた無人の荒野で新たな壁を成長させ、最後には彼の全身が一枚の壁そのものに変形する物語で、小説『壁」の第二部「バベルの塔の狸」では奇妙な動物が現れ僕の影をくわえて逃げ去る、そして透明人間になってこの奇妙な動物、とらぬ狸に連れられバベルの塔に向かう物語、そして第3部赤い繭に続く3部作を発表した。作品の中の人間は植物や無機物などの物自体に変形し、そのことで自由を得て、また変形するまったく自由なイメージの世界を小説にした。


 1959年(昭和34年)には長編SF作品「第4間氷期」を単行本として出版した。自ら判断するAI機械に死んだ平凡な男の記憶を再生させることから物語は始まる。やがて、胎児ブローカーの存在が明らかになり、氷河期が終わり世界の海面が急上昇し始める。やがて日本も沈没し、日本列島は山だらけの小島がポツンポツンと残るだけの世界になる。それに備えて、秘密裏に海底植民地開発を計画し、胎児を集め人工的に進化の過程を変更して、水中生活できる水棲人間を生産する世界を描く。AIによる未来予想、35億年の進化の過程を人間の手で恣意的に変えていいのかといった生命倫理の問題、地球環境の大変化を小説化した。


 そして安部公房は60年代SF文学について「現実というものは、本能的に追求すれば、怪談的となり、知的に探求すればSF的になるものであって、日常をそのままなぞったような自然主義、特に私小説的方法では現実の本質は捉えられない」と語り、SF小説は「古典文学の大胆で多様な空想を引き継いでおり、仮説を持ち込むことでむしろ日常から安定の仮面を剥ぎ取り現実に新たな光を当てるもの」と語った。

 1962年「砂の女」を発表、砂は不毛で絶えず流動し、一切を拒絶する、自分自身が砂になり、同化することによって男は脱出する必要もなく、まったく自由になることを発見する。この小説は映画化され、翻訳され世界で高い評価を受けた。その後も「他人の顔」「箱男」など次々と世に出した。



 1960年代はSF黄金時代で多くの小説家が、このSF的な小説を試みている。1962年に三島由紀夫も平凡な家庭の家族がある日突然それぞれ宇宙人であることを悟り、人類と地球を」救う物語「美しい星」を書いている。またテレビアニメの世界では、SF的ロボット「エイトマン」「鉄腕アトム」「鉄人28号」が放映されていた。



 1970年の大阪万博が開かれ、未来学ブームが起こった。アメリカ館ではアポロ計画の成果「月の石」が展示され、インド館では原子炉の模型が展示され、万博会場に関西電力の美浜原発から送電し原子力発電の未来がアピールされた。多くのSF作家も各企業の企画に参加し、ロボット館や、海底都市の構想を担った。この大阪万博に参加した小松左京の提案した「開け行く無限の未来に目をはせつつ  」の理念から「人類の進歩と調和」がテーマとなった。



 当時日本のSFを主導していたのが小松左京で、1964年(昭和39年)鉄を食べるアパッチ族が現れ、やがて日本を破滅させる物語「日本アパッチ族」を光文社のカッパ ノベルスから出版した。同じ年、南極だけに人類は生き残り、地球上の人物が滅亡する「復活の日」を刊行した。当時米ソ対立の時代を背景に、南極の越冬が話題になり、ワクチンの効かないインフルエンザの流行を素材にしたSF作品だった。1965年に「果てしなき流れの果てに」の連載を開始。大阪万博の少し前に未来学はブームになりつつあり、人間はなぜ未来を考えるかという未来感の起源を人間の歴史から仏教の「輪廻史観」ゾロアスター教、からユダヤ教キリスト教、イスラム教に見られる「終末史観」そしてダーウインの「進化史観」をさかのぼり未来観の未来を「未来の思想」で文明史としてまとめた。


 1973年には小松左京の「日本沈没」が映画化され、話題を呼び、お正月映画として空前の観客を動員しベストセラー作家の地位を確立した。 1978年アメリカ映画、未知との遭遇、そして1977年にはスターウオーズの第1作が始まった。スターウオーズシリーズは宇宙を舞台にした、時空を超えた世界の、大掛かりな活劇で世界中の人々を虜にした。SFはその後、家族で楽しめるSFファンタジーが主流となっていく。


 1960年代後半から1970年代にかけて文学は力を持ち、人生や社会の指標であった。しかし、1970年代政治の季節は終わり、文学の世界でも全体小説と呼ばれるような大きな物語は終りを迎えた。そして日本の若者の価値観も、変わりつつあった。日本のテレビの番組では努力、根性ものは漫画でも流行遅れとなり、若者世代ではまじめは美徳ではなくなり、小説や漫画の世界はオタク化の時代がはじまった。


 若者の世界は外へ向うより、排他的になり、内に向かう。皆がヒーローと認める共通の主人公の物語より、特殊な分野、ホラーやSF作品、怪奇小説、あらゆる分野のマイナーで特殊な世界に興味を持ち、それにのめり込み、全生活をかける若者「おたく族」が生まれた。SF小説は90年代にはかつての栄光は失い、氷河期を迎え、一部の愛好家の世界のみで生き残るマイナーなジャンルのマニア小説となっていった。

 

 現在科学は高度に発達し、気候変動、人工知能、人体改造などかつてのSF(サイエンス フィクション)物語は創作ではなく現実(ノンフィクション)となってきた。





2021/09/26

江戸の文芸と明治の文学

落葉 

 

 秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに、うら悲し。

 鐘のおとに、胸ふたぎ、色かへて、涙ぐむ、過ぎし日の おもひでに。

 げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな。


                       ヴェルレーヌ 「落葉」 上田敏 訳


 江戸時代の文学の典型は、儒教的な教訓と、人の世の人情や滑稽さを描いたもので、近代以前の儒教の影響が色濃く反映していた。曲亭馬琴の南総里見八犬伝や、式亭三馬の浮世風呂、十返舎一九の東海道中膝栗毛は日本庶民の愛読書となった。それより前の田沼意次の時代には、1788年に、恋川春町は「悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶひいきのえぞおし)」を黄表紙で水滸伝のように、蝦夷地(北海道)を舞台にロシア、中国、日本人の活劇小説を世に出し、平賀源内は「風流志道軒」で主人公の浅之進が仙人にもらった羽扇を手にして、「大人国」、「小人嶋」、「長脚国」そしてボルネオ、アルメニア、天竺、阿蘭陀さらに「愚医国」「いかさま国」などを巡り、荒唐無稽の異国遍歴の物語を出版した。

 上田秋成も、物語とはひとしく「そらごと」「作り物語」である。作者の心の中の憤りを書きだし、それを出来るだけ現代の世相にはばかって戯曲化し露骨に表現しないように、過去の時代の事実なき筋に託したり、たわいない滑稽に紛らわせる。これが小説であるとした。また江戸時代の小説では、「支那(中国)や日本の小説だと、災厄が四方に迫り、進退全く窮まるにに際し、之を救ふ者は神仏の加護にあらずんば、必ず狐狸妖怪の助力であった。」



 明治になり、西欧近代に出会うと、明治3年は早くも「西洋道中膝栗毛」が仮名垣魯文によって書かれた。弥次郎兵衛と北八がロンドンの万国博覧会見学に行くの途中の騒動物語であった。

 明治11年(1878年)「八十日間世界一周」や「月世界旅行」が翻訳された。その中で、資本主義の国フランスらしく、クラブの中の賭けから世界一周の物語が始まり、月を目指す砲台作りには資金集めが重要だった。しかし物語のクライマックス、窮地に陥った時主人公を救うのは、神や仏や妖怪ではなく、合理的精神であり、資本力のある人の経済であった。

 二葉亭四迷はツルゲーネフの翻訳「あひびき」で江戸の文芸から別れ、新たな言文一致の斬新な文章で当時の青年たちに熱狂的に受け入れられ、ドイツ留学をした森鴎外の翻訳詩集「於母影」、恋愛劇「即興詩人」は西欧への憧れを日本の若者に広げていった。


 坪内逍遥は小説神髄で「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」として近代小説は江戸時代の八犬伝など、儒教的な勧善懲悪を批判し、真の近代小説であるためにはあるがままの人の情、煩悩などの心の内面を表現するのが文学であるとした。こうして江戸時代の戯作文芸からヨーロッパの自立した個人の内面や社会を描く西欧的小説の時代が始まった。



 明治時代に近代日本文学が生まれたのは、西欧の小説が近代国家の文化とともに取り入れられたことによる。当時のイギリス、フランス、ドイツ、ロシアは経済的にも豊かで、軍事的にも強大でそれを支える国民の文化は豊穣であった。とりわけフランスは明治維新の時、第二帝政期で、世紀末の第三共和国が、第一次大戦を迎えるまで、ベル エポック期と呼ばれ、ヨーロッパ文化の中心で、世界の憧れの都市であった。


 その時代のフランスの文化の香りを詩とともに日本に移入したのが上田敏であった。1905年(明治38年)上田敏の「海潮音」が翻訳刊行された。此の詩集やボードレールの詩集「悪の華」など19世紀末の象徴詩を翻訳した。当時のフランス象徴詩は対象を暗示し神秘性を語ることが象徴詩の目的で、この心情を読む人の心に起こさせるものであった。

 フランス文学を正確に理解し、それにとらわれず日本語の詩として表現した上田敏は日本の和歌から、新しい言葉の響き、海の向こうのフランス語とその精神を日本語の詩として創造した。そして明星の誌上に「英米の近世文学」の中でバイロンの詩やチャールズ ディケンズの小説などを紹介している。

 上田敏は東京帝国大学でラフカディオ ハーンのもとで学び、英語やフランス語をよく知っていて、外国語で完全に思考し表現できる学生と高く評価されていた。翻訳こそ日本を一等国に押し上げる原動力であり、国力としての経済、産業技術だけでなく、文化こそその国の豊かさ、国力の源泉であると考えていた上田は、20世紀初頭の日本について、「維新前後の混乱期にあって古典を学んでおらず、先行世代に比べ基礎的教養がない。また現在の若者も、短期間での専門家養成を目指す教育の弊害として教養教育を欠いており、文科を志願する者の他には、学生は精神上の修養といふ事を全く怠って居る。」


 海潮音はフランス象徴詩を文語で訳し、原詩の叙情を、日本の古語の優美さを、その詩で創作した。のちの詩人北原白秋は「私がサツフォの断章を知り、ショパンを知り、近代白耳義の若い詩人たちを知り、仏蘭西の高踏派、象徴派の諸種の詩風を知り、世紀末の頽唐した諸官能と神経との交響曲を知り得たのは全く博士のお陰であった。」と語っている。


 夏目漱石も西欧の文学が何かわからなくてロンドンの留学に向かった。イギリスの歴史と文化の奥深い教養から生まれる、シェイクスピアなどの小説の背景をなしている人間の洞察や人間存在を描くことを学んだ。留学時イギリスのケンジントン博物館、ヴィクトリアアンドアルパート博物館、ナショナルギャラリーなどを訪れている。多くのイギリスの芸術に触れ、それらの芸術は技巧ではなく自己の思想なり、価値観の表現であることを発見する。そして多くの小説に取り入れた。晩年には「天に則り私を去るとよむ。天は自然である。自然に従って、私、すなわち主観や技巧を去って、文章はあくまでも自然たれ」とする則天去私の考えに至る。こうして純文学は明治時代のヨーロッパの芸術の影響のもとに日本にもたらされ、トルストイの「戦争と平和」やスタンダールの「赤と黒」などの全体小説が目標であり基準となった。そして明治の文豪森鴎外や夏目漱石が生まれた。


 一方、SF作品である、ジューン ベルヌが明治時代の初期に翻訳された。アフリカや北極、そして世界から月世界や海底に物語は広がり、展開する。これは、冒険の舞台が空間的に広がった新たな活劇として好評を博した。坪内逍遥は、それらの未来小説を「ヴェルヌの主眼とする所は学術の進歩を示すににあり、有形の社会の星霜の変化をしたる様を示すにあり、故に真成の小説の如くにあながち妙想を写さんとはせず外部の現象を写し得ればそれにて十分に満足したる者にて 云はば変則の小説にしていわゆる哲学の同胞にはあらで理学の解釈例証に過ぎざるものなり 」と批判的であった。




 坪内逍遥の言う通り、SF小説は時間軸と空間軸をどんどん広げ、思考実験としての世界を荒唐無稽ではない起こりうる現実としての科学的物語で、メインストーリーはその科学的正確性と同時にアイデアの斬新さや意外性が重要視される。それは推理小説や冒険小説についても同様で、人間の能力のうち主に前頭葉の働きである理学、知的ゲームに主眼が置かれる。これらのエンターテイメントに近い通俗小説、娯楽のための読み物は江戸時代の黄表紙の時代からあった。明治時代の小説家にとって本当の小説はリアリティや哲学性をもった純文学、純粋小説であり、通俗小説とは明らかに質の違うものであった。




2021/08/29








 

死への誘惑 その4 三島由紀夫の宗教小説 暁の寺







 「バンコクは雨季だった。空気はいつも雨滴を含んでいた。強い日差しの中にもしばしば雨滴が舞っていた。しかし空のどこかには必ず青空が覗かれ、雲はともすると日のまわりに厚く、雲の外周の空は燦爛とかがやいていた。」


 豊饒の海第三作「暁の寺」は1939年(昭和14年)第二次大戦直前のタイ王室の7才になるジンジャン(月光姫)に本多邦繁が初めて会ったシーン、 国王の離宮バンパインでの出来事そしてタイから休暇でインドを訪れる、それらを舞台に物語が始まる。


 タイでジンジャン(月光姫)と別れ、日本に向かう。「本多は熱帯の風物に別れを惜しんだ。金の仏塔が緑の密林の間に小さくなると、自分がそこで味わった転生の出会いが、すべて一篇のお伽話、一場の夢のように思われてくる。あれほど転生の証拠が揃っているのに、月光姫があまり幼いので、すべてがわらべうたの哀歓に紛れ、清顕や勲のような生の一連の流れ、その奔湍の帰結に触れることなく、旅人の好奇の目を揺れてすぎた1輌の狂気の花車に似たのである。」

 日本に帰国したその年の冬十二月八日、真珠湾攻撃が行われ、日本国民は熱狂した。「真珠湾攻撃の熱狂に本多が嫉妬を感じていたと云っては誇張になる。ただ彼は、爾後自分の人生が決して輝かしいものになることなく終わるという、利己的で憂鬱な確信の虜になったのである。」


 戦時中、本多は余暇を専ら輪廻転生の研究に充てた。


 タイなどの小乗仏教は、「人々の肉体や外界の事物には本来善悪はなく、それを善たらしめ悪たらしめるものは悉く心である。「思」である。意志である。」「心と意思が罪と業の原因をなすのであるからわれわれは本来無我である。思いは輪廻転生の原因であってても主体ではない。主体はついにわからずじまいである。来世はただ今世の連続である、この世と一つながりでつづいてゆく終夜の灯明の火が生なのであった。」


 仏教は「我(アートマン)」を否定し、その来世へつながる「霊魂」も否定した。死んで一切が無に帰するとすれば、悪行によって悪趣に堕ち、善業によって善趣に登るのは一体何者か、仏教がいっさいは空であるとして否定した我(アートマン)の思想と、仏教の輪廻の思想の矛盾が各派に分かれた論争しながら、理論的帰結を得られなかったのが小乗仏教。


「何が生死に輪廻し、あるいは浄土に往生するのか?一体何が?」この解を出したのが大乗仏教の中の唯心論で、インドの無著(アサンガ)から始まり、三蔵法師により中国にもたらされ、7世紀頃には日本にも伝わった。


 唯識論はわれわれは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六識の奥の無意識の世界に、第七識たる未那識(まなしき)、すなわち自我の意識があり、さらにそのさらに奥に、阿頼耶識という究極の識を設想する。目で色や形を捉え、耳で聞き、鼻で香りを舌で味を感じ、第六意識、脳神経が世界を組み立て、未那識が認識する。さらにこの奥の阿頼耶は一切の活動の結果である種子を蔵(おさ)めている。そして、この種子は様々な条件のもとで行為をする(現行)そしてその行為はその種子を阿頼耶識に送られ植えつけられる。これらすべてを記憶し保存し意識下に情報として蓄える種子となる。これらが転がるように展開し、種子と現行の因果、現行と種子の因果は同時に行われる。        


種子生現行 現行薫種子 三法展転 因果同時


唯識論では、阿頼耶識自体に、輪廻転生を惹き起こす主体も動力も、二つとも含まれているとする。


「過去の存在も、未来の存在も、何一つ確証はなく、わが手で触れ、わが目で見ることができる現在一刹那だけが実有だ。」この無明の長夜にひとり目ざめて、一刹那一刹那、存在と実有を保証しつづける北極星のような究極の識が、阿頼耶識である。「現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、同時に、世界の一切を顕現させている阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在するのである。」


 人は外界を認識して空間を作り、その像と気分と行為を記億して保存し、空間のように認識して時間にする。 生と死を支配する阿頼耶識は、生命の起源からその永遠の上流から流れる暴流に例えられる。恒に転ずること、暴流のごとし。その種子が生命をうみ、その周りの自然を生むが、阿頼耶識が有根身(肉体)を失えば、それを取り巻く自然(器世間)も意味をなくし種子のみ残る。再び結生の識として新たに生まれるものが次の世の阿頼耶識となり輪廻転生する。

 

 第二部は11年後。月日は流れ、本多は58歳になる。戦後生き残った本多の別荘地御殿場に舞台を移して、物語は進む。18才になったジンジャン(月光姫)が日本に留学し再び本多に出会う。鮮やかな色彩に彩られた絵巻物、輪廻転生する松枝清顕そして飯沼勲、二人と同じ3つの黒子をジンジャンの脇に見つける。

 一体この私とは何かをつきつめる本多邦繁を主人公に、架空のタイの皇女を中心に物語は組み立てられる。しかしこの主役ジンジャンの心は語られることなく、心不在のままでコブラに噛まれ命を落とす結末になる。


 1972年に書かれたこの小説は、日本文化に代わって、民主、自由、経済が至上のものとなり、経済発展の道を駆け上る時代の日本で発表された。小説の中の夢物語と現実の世界を並列させて作家としての生活を送ってきた作者は、この小説を書き上げた後、「暁の寺以外の現実はすべてこの瞬間に紙屑となった。」と語っている。


 奔馬で政治思想編を創り上げた。その続編としての暁の寺は輪廻転生する物語をタイ王室の月光姫を主役にした、バタイユを乗り越えた宗教小説を書きつつ、大乗仏教の唯識論の世界に自ら没入していった。しかし現実の生活の戒律である心のうちの煩悩、貪(むさぼる)、瞋(排除する)、癡(道理に暗い)、慢(他を侮る)、疑(真理をわきまえない)悪見(誤った見解)などの事柄には無関心で、社会生活する人間の本性、自己愛の未那識には言及することなく、生や死や認識論としての大乗仏教の唯識論に共鳴した。小説の構築は登場人物の生活や世界の描写は二次的にして三島由紀夫の観念、その刹那の世界観を全精力を傾けて文字にし、遺書とした。


2021/08/01

和尚 一休




「一切のもの一度空(むな)しくならすといふことなし。空(むな)しくなるを本分
(人間本来の姿)のところへかへるとはいふ也」   

                            「一休骸骨」


  室町幕府三代将軍足利義満は、各地の守護の対立を利用してその力を削ぎ、官位を登りつめ、公家化することで武家における足利家の権威の確立を図った。天皇に代わって公家や寺院の土地安堵の権限を握り、公武合体政策で宮廷を取り込んだ。

 さらに、明の皇帝から国王の称号をもらい、日本の支配権を確立しようとした。1401年義満は明の皇帝に国内を統一したこと、そして通行と通商をしたいとの書面を明の皇帝に持たせた。翌年、「爾日本国王源道義、心を王室に存し愛君の誠を懐き、波涛を踰越して遣使来朝す」との返詔を受け取る。


 義満の擁立する北朝の後小松天皇の子供として1394年一休は生まれる。金閣寺が完成した翌年、5才の時、臨済宗の安国寺に出家させられる。

 8才の時には、、中国風の虎の屛風の絵の前で「この虎を捉えてみろ」と将軍に言われ、「ではその虎を追い出してください。」と返答した逸話は義満の豪華な館を舞台にして生まれた。義満は明との貿易で珍しい金銀の食器や豹柄の毛皮の椅子や登り龍の絵のなどの珍しい品や美術品を手に入れ財力を蓄え、それらの装飾品で身の回りを飾り、暮らしていた。


 17才の時西金寺の謙翁和尚の弟子になる。京都には日蓮宗の勢力が強く、地方では一向宗と呼ばれる真宗の教えが一般の民衆に浸透していた。一方鎌倉時代武士階級に広まった禅宗は、室町幕府では重用されていた。しかし、都の禅宗は権力者に取り入り俗化して中国かぶれの禅僧も多く、かれらが幕府の使節を務め、国書をしたため、接待役を務めた。中には蓄財に励む禅僧もいた。


 その都から逃れ、本来の禅の師を求めて、22才の時、滋賀堅田の祥瑞庵の華叟(かそう)の元を訪れ、その弟子になり清貧生活をおくり、修行し、一休の名をもらう。


 有漏路より無漏路へ帰る一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け

   (煩悩の世界から、煩悩を越えた世界に、私は戻る。そしてその途中で一休み)


 禅の世界では、精神世界と俗世界は両者とも大切であり、悟りに至る道のみでは、生活できないので、世俗世界に戻り、煩雑の世界に浸る。世俗世界に絡め捕られた時その煩悩から遠ざかりそれを超えた精神世界に没入する。この二つの世界の間で一息つく。この一休こそ求めるものである。


十年以前、識情の心、瞋恚豪機即今に在り。鴉は笑う、出塵の羅漢果、昭陽日影玉顔の吟

 

 一休は27才の時悟りを開く。夏の夜遅く、小舟に乗り一人座禅を組む。闇夜にからすの鳴き声が聞こえた。その時十年来の疑問がいっきに解け、羅漢の境地に達する。寺に帰り一片の詩を吟みこの体験を師に伝えた。


 修行により開悟した一休は、34才の時、師の亡くなった後、庵を出て、街に戻った。一休の生きた時代は、天皇に威なく、政治に信なく、禅などの宗教も堕落した時代で、街では学識や、身分の装いは通用しない時代になり、赤裸な人間本来の姿が現れた。街に出て小庵を転々としていった一休は、この間皇室や武士、町人や農民、文人や歌人、遊女など多くの人と出会い、彼らが寄り合い、一休の文化サロンが作られていった。一休は養叟(ようそう)などの、 旧来の形式に陥り、堕落した禅を激しく批判し「自戒集」を編纂した。


 頤卦題名貪食来

 会中膾炙寵如梅

 攫金手段機輪転

 君子果然多愛財


 養叟は自分の名を宗頤と取り替え、印可証といって飯の種にした。彼の門下は、梅をほめるように自慢した。金をつかむ手段は、輪が転ずるように素早い。君子は財を愛される。


 華叟子孫不知禅

 狂雲面前誰説禅

 三十年来肩上重

 一人荷担松源禅


 華叟の弟子たちは皆、禅を知らぬ。この私の前で誰が禅を説けるか。30年来松源の禅を一人で、担い肩が重い。


 住庵十日意忙々

 脚下紅糸線甚長

 他日君来如門我

 魚行酒肆又婬坊


 養叟に送った手紙では、この寺にいた十日は気ぜわしい日々だった。私の脚に絡まる赤い糸は甚だ長く、私はそこから出て行く。もしいつか私をたずねてくる気があれば、魚屋か、酒場か、それとも淫売屋をのぞいて見てくれ。


 62才から妙勝寺を再建、酬恩庵と称した。ここを拠点に布教を行う。一休の元には茶人の村田珠光や能、狂言や茶の湯、連歌など東山文化の担い手が訪れた。これらの人々が北山文化の王朝を擬した花の御所文化を否定して、日本の庶民の土着した歌、能にとどまらず、茶道、住まいなど現在につながる日本的文化の始まりを生み出した。


 1457年「骸骨」の中で、「そもそもいつれの時か、夢の中にあらさる、いすれの人か骸骨にあらさるへし。それを五色の皮につつみて、もてあつかふこそ、男女のいろもあれ。いきたへ、身の皮破れぬれは、その色もなし。上下のすかたもわかす。たた今、かしつきもてあそふ皮の下に、骸骨をつつみて持ちたりと思ひて、此の念を能く仰信すへし


 人はやがて死んでその皮がやぶれてなくなれれば、感情も消え、生前の地位の上下も分けられない。人間はみな、この骸骨に皮を被せていきて動いているいるに過ぎない。



  一休73才の時1467年から11年に及ぶ応仁の乱がおこった。この間京都から、奈良、大阪に逃れる。この応仁の乱は、仏道の衰退、朝儀礼節の衰退そして幕府の無力から武士団の一族の内部分裂、同族の争いが大義も名分もない動機で勃発し、勝敗のつかないまま収束した。その最中76才で盲目の旅芸人森侍者と出会い、共に暮らす。

 そして森公の深恩に謝するの願書を残した。狂雲集の中では「約弥勒下生」とされ弥勒下生信仰の恩とされている。

 

 木凋葉落更回春

 長緑生花旧約新

 森也深恩若忘却

 無量劫来畜生道


 

 一休は禅僧とし悔悟し、儀礼、格や形式や常識を破壊し、生の根源、人間の生物としての存在を凝視し、人間本来の姿を禅の修行を通して見い出した。そして風狂の人生を過激につらぬき通した。


 1474年81才で大徳寺の住職となり、1481年没する。

2021/06/29

盗まれた脳 アルツハイマー病

  ドノバンの脳は、1943年アメリカSF作品で、脳医学者パトリック コーリー博士が、アリゾナの砂漠に墜落した、大富豪のドノバン氏の体から脳を取り出し、ガラス容器の中でその脳を生存させる。やがてその脳は意識を持ち、パトリック博士の身体を、ドノバンの脳が支配し、博士の肉体を乗っ取ってしまう。その脳が多くの人を支配し、その命令のもとに、殺人を犯し、脳の生命を保つガラス容器を破壊しようとした人をも殺害する。この恐怖の物語は、最後にパトリックの友人、シュラットによって培養器のガラスとともにこのドノバンの脳が破壊され、機能を停止することで終わる。



 アルツハイマー病は、SF小説のように表現すれば、 それは 脳の細胞を静かに盗んでいく泥棒のように、何者かが毎夜訪れ、脳の中に静かに入り込んで、神経細胞を1つずつ破壊していく。脳細胞は破壊され、次第に脳の活動による記憶や、感情、思考力を奪い、やがて脳の支配が全身に及ばなくなってくる。最初に現れる典型的な兆候は物忘れで、次に、より深刻な記憶喪失がやってくる。そしてその後、言動は要領を得ないものになっていき、混乱し幻覚を見るようになり、人格が変化して、怒り、不安、落ち込みと目まぐるしい精神状態を変化させていって、脳の大半がやられてしまうと全身の機能も次第に停止していく。


 すべての精神疾患は脳の病気であるとの信念で、1906年アルツハイマーがアウステ Dの症例を観察し、剖検して報告を行った。進行する認知障害に、幻覚や妄想をきたし、亡くなった患者(アウステ  D)の脳組織の一部を染色し、プレパラートで観察すると、脳の萎縮と動脈硬化性病変そして、アミロイド斑と神経線維の変化が見つかった。このアミロイド班は神経細胞の間に形成されるタンパク質の断片からなる異常なタンパク質のプラーク(塊)であった。

 これをもとに、1910年エミール クレペリンが精神医学の教科書に初老期認知症をアルツハイマー病と名ずけて記載した。 そして、注記として、アルツハイマー病の臨床的解釈は現在のところ未だ不明瞭であると書き加えた。


 アルツハイマー病は、それが正常な老化の避けられない一部なのか、それとも老化とは完全に異なる、純粋に神経病理的な疾病なのかはその後も、明らかではなかった。どの病気でもその概念が明らかになり、検査法が確立するまでは、多くの要素が複雑に絡み合っているため、因果関係が確実にはならないことが多い。

 アルツハイマー病の診断では、血液検査も神経の検査も正常なので、まず話を聞いてテストし、その結果を判断することが重要になる。そのためには、問診を標準化する必要があった。認知機能の標準化された最初の診断は、ミニメンタルステート(MMSE)検査で始まる。さらに詳しく記憶などの検査を長時間に渡って検査して、これを繰り返し、病気を除外して診断に近ずいていく。

 さらにこの診断を難しくしているのは、アルツハイマー病に脳の外傷や、脳血管の障害あるいは甲状腺機能の低下などを合併することもあり、正常の老化と、記憶障害、記憶障害と認知症を区別し診断を確定するのはなかなか難しい。


 そして最近まで、血液の検査や脳の画像による診断は出来なかった。画像検査のCT,MRIができても、診断の確定はできなかったのは、これらの画像で脳が萎縮しているのは、すでに病気がかなり進行し、細胞が破壊された結果の脳萎縮の像であったためであった。 結果的に、いったい何人がアルツハイマー病になっているのか、何才の人がどのくらいの頻度でその病気になるのかという、その人数さえも正確にはわかっていない状態がアルツハイマー病の病名がついてからも長い間続いていた。


 20世紀後半になり、人々の寿命が急速に伸びる長寿社会になると、アルツハイマー病の患者は全世界で急速に増え、ガンや動脈硬化による病気とともに、社会の対応が世界中で問題となり、急速に診断方法も進歩してきた。


 1992年イギリスの神経遺伝学者のジョンハーディーがアミロイドβタンパクの沈着がアルツハイマー病の病変を引き起こす要因であるというアミロイド カスケード仮説を発表した。このアミロイドβは正常にある水溶性のタンパク質で、それが不溶性となり塊をつくり、神経細胞の周りに沈着して神経細胞を死なせてしまうという説であった。この説をもとに、画像の診断や血液検査が開発された。


 画像検査法では、 PET検査が有効であった。このアミロイドの沈着がアルツハイマー病の発症20年前から見られることから、アミロイドぺット検査でその沈着を測定できれば、その沈着の多い人がアルツハイマー病の可能性が高いと判断できる。さらに血液中のアミロイドベータの検査も最近可能となってきた。


 今年6月8日アメリカ食品医薬品局がアデュカヌバブが、脳内のアミロイドβプラークを減少させる効果があるとして、アルツハイマー病の治療薬として初めて承認された。この薬はアミロイドの蓄積が確認された軽度の認知障害および軽度認知症の患者のアミロイドβプラークを59%から71%減少させ、アルツハイマー病を治療できる初めての薬となった。ようやくアルツハイマー病の治療はスタート台に乗った。



この不思議で波乱に満ちた人生における

最後の場面は

2度目の子供時代、そして完全な忘却。

歯もなく、目もなく、味もなく、何もなく。

                            シェイクスピア 


  長寿社会はアルツハイマー病など脳の病気の時代でもある。