その神域の気高さは、すべての人々が思わず拝伏されられてしまう程だ。アクロポリスに世界の建築家が詣でるように、伊勢神宮は建築家の巡礼の最終的到達地点になるだろう。
ブルーノ タウト
伊勢は温暖の地にあり 古くからの鬱蒼たる杉や檜などの針葉樹と楠や榊など広葉樹が混在し、古代からの生態系が残っている。伊勢神宮はその木立の中に多くの素木の神殿が建てられ構築されている。
伊勢神宮本殿は直線的木材を用い、茅葺の屋根と校倉の積層材で作られ、デザインは渡来建築を模した仏教寺院とは異なる、日本の独自の建築様式であった。しかし明治の初めには西欧の建築を標準としていたため、伊勢神宮は原始的南洋風の建物として、それほど評価はされていなかった。1933年ブルーノタウトが日本を訪れ、カツラとともにイセを発見した。「伊勢神宮は木材をもって最高の醇化に達した本物の日本の独創的な建築である。」と語り、神殿とそれを囲む森そしてその建築の考え方を高く評価した。
「古代の日本人は、その象徴を自然の中に求めていった。石や木や水のなかに精神の象徴を求め、その神像をみたのである。こうした自然観は、いまなお日本人の精神構造の核心に伝わり残されているところのものである。」
「こうした象徴が、一つのフオームに昇華した時、伊勢が生まれたのである。伊勢フォームの完成は、同時に日本神話の完成でもあった。と同時に、それは日本民族の形成がほぼ完了する時期でもあった。伊勢のフォームを創造した古代人のたくましい構想力の背後には、民族形成のエネルギーがそれを支えていたのである。この伊勢フォームは日本民族の原質がふくまれている。」
丹下健三は「日本建築の原型ー伊勢」の中でその建築のデザインはその表層的な形ではなく、その形式が造られるフォームが大切であると述べ伊勢神宮の日本固有の自然から生まれた過程を探ることは日本文化の根底に触れることであろう。と述べている。
7世紀末から8世紀前半のこの時代に日本独自の文化、土着の文化、ナショナリズムの文化が始まった。建築様式のイセもこのナショナリズムによって基本型はデザインされた。
伊勢神宮は690年の第一回の遷宮から20年に一回遷宮を繰り返し、現在にも続いている。この初源への回帰によって、形ではなく時代を超えて持続する、文化の構造をつくった。まるで生物が子孫を残すように、茅葺の屋根を葺き替え、木の柱を新たに建てて、同じ形が反復されることによって伊勢神宮のアイデンティティーが保たれ、石造のパルテノンと同じ永続性を獲得した。
榊葉に心をかけむ木綿垂(ゆふし)でて思へば神も仏なりけり 西行
神道は儒教や仏教が伝来する以前の日本固有の信仰と言われるが、儒教の経典を基にした治世あるいは倫理としての人の道を教えるものでもなく、世界を理解し人々を救済する仏教のような世界宗教でもなかった。神道はマツリで神々に供物を捧げ、ノリトを申し、お祓いを行う、素朴な自然宗教に基く祭祀の儀式に過ぎなかった。
平安時代に、儀式のみの神道が仏教と結びつき、神が仏法により悟りを開いて菩薩になる思想が生まれ、鎌倉時代からしだいに神は仏と強く結びつく。西行は1180年(治承4年)63歳の時に高野山を出て、伊勢に移り住んだ。伊勢神宮を訪れ、思へば神も仏なりけりとうたの中で詠んだ。。伊勢神宮はもともと我が国の神である天照をまつるものであったが、実は天照大神は大日如来が人々の救済のため、神という仮の姿で権現したもので、神と仏が一体となったものと理解していた。
鎌倉時代になると伊勢神道は、渡會氏により教義として確立され、神学が体系化された。
伊勢外宮の神である豊受大神は、止由気宮(とゆけのみや)儀式帳(804)によると、天照は垂仁帝の御代に伊勢の五十鈴の河上に鎮座されたが、雄略帝の御夢にあらわれて「自分はタカマガハラで静かに坐してはいるが、たったひとりのだけでいるのは何かと不便である。食糧さえ充分でない。そこで丹波国のマナヰにいる食物のカミであるトユケ(豊受)大神を自分の近くに連れてきてほしいと」頼まれこのカミを招いて壮大な社殿をつくり外宮とした。内宮の神である天照に太陽神であるオホヒメノムチの習合した神を祀る、内宮より神格が低かった。
それを神官の渡會氏は、日本書紀の神代之巻を神典として外宮の神、豊受神を「日本書紀」の天御中主神(あめのみなかぬし)国常立尊と同じとみなし大元神とした。「書紀」では国常立尊が原初神であり、天御中主神(あめのみなかぬし)が天地初発の時に生まれた神である。これらの神々によって国が造られ、天照大神は神世七代ののちにあらわれる。こうして国生み、国つくりの神々により日本は生まれた。そして皇室の統治の由来を日本国の形成と結びつけて日本を神国とした神道の体系伊勢神道が生まれた。
その神道の中心徳目として、清浄の心「正直」が加わった。すなわちまわりの利害ではなく、純粋に心のうちから生まれるものを大切な倫理項目とした。そして正直のシンボルを三種の神器の鏡に求めた。この動機の純粋性を重視する思想はその後、日本の倫理観の中心になった。
このようにして神国日本の中で伊勢神宮はその頂点に位置し、全国の神社をその下に系列化した。宮廷や公家、武士の一部のものであった伊勢神道は鎌倉時代から次第に日本中に広まり、江戸時代にはお伊勢参りという集団参拝が全国で行われるようになった。
神道は時代とともに仏教に変わって儒教の宇宙哲学である天道思想と神道の道が一致するとされ、江戸時代には神儒一致の儒家神道が一般的になる。そして本居宣長などの国学では、儒教とも離れ、日本の道に純化されていく。
明治維新の後、政府は神社神道と皇室神道を結びつけ国家神道とし、日本の国教として推進した。第二次世界大戦の敗戦によりこれは解体され、天皇は象徴天皇となり、伊勢神宮は信仰の自由のもと国家の庇護はなくなった。
古くからの大木の樹々に囲まれた神社は、穢れを祓い、清浄の心を取り戻し、願いをかなえる祈願の場所となり、伊勢神宮は日本建築の単純さ素朴さの象徴であり、いまも遷宮が行われている。
深く入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風 西行