とうとう、春がやっ来た。
どこから来たの。
此の花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやってきたのさ。
妻は彼から花束を受け取ると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として目を閉じた。
「春は馬車に乗って」 横光利一
自然主義や白樺派を乗り越えようとして、新感覚派とプロレタリア文学が登場する。1924年(大正13年)6月「文芸戦線」が創刊され菊池旦や中野重治らが中心メンバーとなる。4ヶ月後の同じ年の10月「文藝時代」が創刊され、川端康成、横光利一、片岡鉄兵などが名を連ねる。横光利一は新感覚派の驍将と呼ばれ、小説の神様と言われ、川端康成より人気のあった流行作家だった。
その年、横光26才の時「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された」の新たな感覚的表現で「頭ならびに腹」を書いて、文壇に登場した。新感覚派は文学の表現の問題で、象徴派の響き、言葉のテンポ、リズムを表現上の重大要素として取り入れた。この前には、1923年(大正12年)に「日輪」上代の美しい姫をめぐる3国の大路の物語を書き、「斬新、絢爛の感覚的な修飾、緊迫した高調子の文体、強烈な極彩色的物語の大胆な構成は、当時の驚異であった。」と高い評価を受け、馬の背中にとまった蠅の目で見た短編小説「蠅」を翌年に「御身」などの第一次大戦後のヨーロッパ小説影響を受けた初期作品を刊行。
1926年(大正15年)若い妻の死を悼んだ作品。「春は馬車に乗って」や「花園の思想」を執筆。 この年、中野重治は堀辰雄などと驢馬を敢行し、叙情性の中に、硬質で激情を内包したプロレタリアート詩「機関車」や「夜明けの前のさよなら」を発刊。
お前は歌ふな
お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌ふな
それらの歌々を
行く行く人びとの胸郭にたたきこめ
機関車では
彼は巨大な図体を持ち、黒い千貫の重量を持つ、
彼の身体の各部は悉く測定されてあり、
彼の導管と車輪と無数のねじとは隈なく磨かれてある
と機関車を集団指導する力強い党にたとえ詩にした。
プロレタリア文学は、文芸の課題もその作品がどのような階級のイデオロギーを代表しているかを問題にすべきであるとして、新感覚派の文学をヨーロッパから輸入された小ブルジョアジーの個人的反逆に過ぎないと批判した。それに対して、文学をマルクスさえも一個の素材にして、宇宙の廻転さえも包摂することができるものと前提した上で、資本主義も社会主義も認め、世界の見方においては唯物論的立場に立つ。としてコンミニズム文学より新感覚派の文学が弁証法的発展段階の上に位置すると、横光利一は主張した。
1929年(昭和3年)横光は上海に行き、1ヶ月滞在する。ここを舞台にプロレタリア文学を超える小説を意気込んで、「上海」を執筆した。中国人、異国人の日本人、ロシア人の人間を物自体として描く感覚主義の集大成とも言われる作品だった。僕は上海へ行って、「上海」を書きましたが、それは精神とか意識とかいうものよりも、できる限り物質を書こうと思った。と後に語っている。当時の上海は国際都市、租界地、阿片窟、や歓楽街があり、中国人苦力や地方の豪家の子女の裕福な中国人、流れ者の西洋人そして日本人も共同租界地に2万人住んでいた。
この年、中野重治は「雨の降る品川駅」を改造にのせる。
1930年(昭和5年)には横光利一は「機械」で人間と人間の組み合せや人間と事件の力関係によって変化する人間関係の中だけに、人間の実態はある。」私という存在の不安定さを小説に定着した。
中野重治は1935年転向した後、「村の家」などの小説を発表する。
横光利一は1935年(昭和10年)純粋小説論で、通俗小説と純文学の融合を唱え、その思想を小説化した「家族会議」を新聞に連載した。東京兜町の株屋と大阪北浜の株屋の娘の恋愛劇で、軽井沢のホテルや六甲の別荘を舞台に、資産家階級の当時のモダーンガールやモダンボーイが主人公の作品で、翌年に映画化され、流行の先端をゆく作品だった。
1936年(昭和11年)ヨーロッパに行く。2月に神戸港から船でパリに着く。ドイツやオーストリアなどなどをまわってフランスで滞在する。そのパリで若い岡本太郎の案内で生活して8月にベルリンオリンピック取材後シベリア鉄道で帰国する。
横光利一の大作「旅愁」を執筆し始める。矢代と久慈、日本主義者とフランス崇拝者、そして若いヒロイン宇佐美千鶴子の宗教、愛、政治を網羅した全体小説を目指した。西欧文化に対する日本精神による文化戦争に次第に傾いていく。カソリックなどのキリスト教や日本精神をも包摂する古神道をその中心に据えた。その頃公演で、「日本もこの近代の毒に侵されてきたのです。だからこの厳しい時代を生きぬくために、われわれ文学者が召されていると思っている。その毒から日本を清める。これがみそぎということのほんとうの意味ですですよ。みそぎの精神は、民族の心だ。」その時代の波に乗って、皇国の民の心を捉えていく。
中野重治は、戦後共産党に入党。同じ共産党に入党した杉浦明平は旅愁を批判し、「これはまさに痴呆の書というべきである」と攻撃「天皇に帰一し奉る東洋的無の発見は主として京洛の哲学者だましによってなされたが、横光ももその毒をひそかに小説に盛り込んで、読者を害おうと努めた。」戦後は政治的立場から激しい批判にさらされた。
フランスに暮らしていた岡本太郎は「氏は決して単なる日本主義者でもなければ西欧礼賛者でもなく、その反対でもなかったのだ。氏の魂にとって西洋東洋の問題は実は氏自身が考える程深刻な矛盾ではなく、二つのものは一本の透きとおった感性によって貫かれていたとしか私には思えないのである」と考えていた。 横光利一は、戦後「旅愁」の最終編「梅瓶」を書いて、昭和22年に病死した。
中野重治は戦後共産党から出馬し、選挙に出て当選し、政治の世界で活躍し、また「甲乙丙丁」など多くの小説を出し、文芸の世界でも活躍した。
怒涛のようの訪れた政治の変化、社会の激動に文学者として生真面目に対応し、日本主義に傾いた横光利一。一方、中野重治はプロレタリア文学で時代に挑み、、そして転向、入党、と政治的文学者の道を揺らぎながら歩いた。中野重治が1979年亡くなって10年後、ソ連は解体し、現在ロシアは新たな民族主義、反西欧のユーラシア主義思想に支配されている。

