2008/08/21

ソルジェニッチェンのロシア


ロシアとソルジェニッチェン

 

 ロシア平原は長い間,遊牧民族モンゴルの支配のため,国家をつくる事が出来ず(タタールのくびき)15から16世紀にかけてようやくロシア人の国家ができた。17世紀にはいりロマノフ王朝が誕生し、北の強国となったものの西欧のルネッサンス、市民革命はこの地域までには及ばず、支配層の皇帝と支配される農奴とに分かれ、市民社会をつくることはなかった。

 1917年にロシア革命が起こり,ソ連になった。その翌年に生まれたソ連時代の反体制作家ソルジェニッチェン氏が今年8月4日に死亡しました。

 

 彼は、スターリンを批判した罪で8年間の流刑を受け、それを題材にして1962年に収容所生活を描いた小説 “イワン デニーソヴィッチの一日”でデビュー。その後“ガン病棟”“ 煉獄のなかで”を海外で出版。70年ノーベル文学賞を受賞。“収容所群島”を出版後1974年に国外追放処分を受けアメリカに亡命。

 

 その後、ソ連はゴルバチョフの改革政策で、1990年から大統領制を取り入れ,共産党一党独裁を廃止し、市場経済体制に移行。この年市民権を回復。ソ連は解体し、翌年ロシア連邦大統領にエリチェン就任。1994年にソルジェニッチェン氏はロシアに帰国した     1996年の大統領選で再びエリチェンが選ばれた。このとき,ロシア経済は壊滅状態で国家破産寸前であった。そして,政権の中枢は、新興財閥集団オルガルヒが占める事になった。

 

 ソ連時代の体制批判の急先鋒であったソルジェニッチェンは,帰国後、新しいロシアの主人公たちの金権と反ロシア主義を激しく非難し、民族の文化的伝統を守るように主張した。国際資本のもとの金権国家をやめ,自分たちで自立して、固有の国家機構、文化、正教の教えを維持し民族の精神生活こそ大切であると主張し、

後のプーチン政権を支持した。結局,ソ連の崩壊は西欧型民主主義国家を生まず、国際資本にほんろうされ,復活させたのは宗教と新たな民族主義でした。

2008/08/04

江戸の花火


暗く暑く 大群衆と 花火待つ 西東三鬼

 

 100万都市になった江戸。夏の大江戸花火の日は両国には大群衆が集まり,大道芸、ガラス細工、鉢植えの朝顔、見世物小屋が立ち並び,隅田川には花火をみる屋形船でひしめいていた。

 

 今でも,続く夏の夜の花火など,江戸の文化は今も多くのこっています。その中で、江戸時代の文化を代表する浮世絵がヨーロッパの絵画に多くの影響を与え、伊万里焼きなどの陶器もまた世界中で人気を博しました。

 

 陶器はこの時代、日本が最も優れたものをつくっていました。  17世紀前半の初期伊万里の図柄は今みても、その斬新性に驚かされることがあります。17世紀後半にはオランダ東インド会社から多くの柿右衛門様式の茶器や動物の置物が輸出され、ヨーロッパの貴族たちにとって伊万里焼きを飾る事は流行の先端を行く事でした。

 

 絵画の世界では、日本の画家では葛飾北斎が代表で、19世紀末のヨーロッパ画家、ミュシャ、ロートレックやゴーガンそしてマネ、ドガなどの印象派の作品に多くの影響を与え、ガレの作品のモチーフにも多く用いられています。当時のパリにジャポニスムの熱狂がみられ、その後、浮世絵は西欧絵画の根本にまで影響を与えています。遠近法を無視した装飾性や、はっきりとした輪郭、単純な構図、独特の色彩の使い方を多くの画家がとりいれていました。

 

 中でも北斎の漫画は絶大な人気で、北斎55歳のときから初編が発行され,風景,人物画、動植物、建築,妖怪などが描かれています。最終的には15編あり多くの芸術家はこの漫画から,インスピレーションを受け、構図や表現を学んでいます。

 

 江戸時代の北斎と浮世絵は国内での評価は狩野派などの正統派に対して,庶民に人気のあるサブカルチャー扱いで、今の日本の状況と似たところがあります。最近まで国内では、漫画や村上隆の作品はサブカルチャーで一流扱いされていなかったものが、アメリカやヨーロッパの評価の高さにつられ,日本美術界での評価が上がり日本文化の代表になりつつあります。

北京

北京の55日

 長い間、唐、天竺の時代から、ユーラシア大陸の東の端に海を隔てて、大陸の影響を受けつつも日本は独自の文化を育ててきました。

 

 今から100年前は世界がグローバル化し、グレートレース、列強による利権争奪競争の時代でした。ユーラシア大陸の西の端の国、イギリスが海洋を渡り、世界中にかれらの支配地域を広げ、インドを中心にして世界帝国を築き,ユーラシア大陸の東にある清王朝に租借地をつくり、一方大陸の北方には強大なロシア帝国が旧満州現在の中国東北区に支配を広げ、フランスはインドシナを植民地化し、アメリカもまた南北戦争後、フィリピンを支配下におき,清への進出をねらっていた。日本も徳川幕藩体制から,植民地化されることなく明治政府になり、脱亜入欧政策のもとに富国強兵、殖産興業を掲げ列強の後を追いはじめた。

 

 北京の55日は、1963年のアメリカ映画で、この時代の義和団の乱を描いた映画です。キリスト教の布教に対する不満からおこった義和団事件は扶清滅洋を掲げ、各地で排外主義の争乱がおき、清朝はこれを裏から支援しました。

 1900年北京の各国外交官に対し義和団が攻撃を開始し、清朝も宣戦布告、55日の戦いの後、8か国連合(イギリス,アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、日本)軍が北京に到達して清は戦いに破れ、1912年に滅亡。また,その後ロシアのロマノフ王朝も,オーストリア帝国も滅亡しました。このとき日本軍は柴中佐役の伊丹十三が率い登場しています。

 

 20世紀の大半は、共産主義主義と民主主義の2つの世界に分割されていました。アメリカ映画の中で描かれる物語は当然その時代の制作者の意識の反映で、主役のチャールトンヘストンが邪悪な義和団と黒幕の西太后に対して各国が協力して55日間の危機を乗り越えハッピーエンドを迎える物語です。実際は列強による清の領土に対する覇権争いとそれに抵抗する排外主義の乱で、当時日本でこの映画が結構人気を獲得したのは、戦後アメリカのソフトパワーの強大さを物語っています。

 21世紀になり、ユーラシア大陸や世界各地で起きている資源をめぐる大国の動きは配役は変わったものの100年前の列強の時代を彷彿とさせます。

2008/06/15

桜桃忌

 蛍火の おぼるる如く 桜桃忌

 また,翌年シラーの人質から題材をとった,”走れメロス”(1940年)はその巧みな
描写で、いまでも多くの教科書に取り上げられています。

 メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは,村の牧人である。で始まる単純な爽快な文。

 戦後になっても文壇において,既存の価値観が崩壊した時代、それを破壊し、生活そのものも無軌道で無頼派と呼ばれるようになった。

 人非人でもいいじゃないの、私たちは、生きていさえいればいいのよ。”ヴィヨンの妻”

 1947年(昭和22年)12月には”斜陽”が単行本として,発売された。前年に新憲法が発布され,華族が廃止され、また農地解放で地主階級もまた廃止された。この時代に斜陽華族の家庭を巧みに表現し、太宰治の評価をさらに高めた。

 1948年(昭和23年)雑誌展望に若い頃の作品”道化の華”以来の自伝小説”人間失格”を掲載.同年朝日新聞に小説”グット バイ”が掲載予定であった。
 このころから戦後の混乱期がようやく収束し、新しい時代が始まった。
 39歳になるこの年、東京三鷹の多摩川上水で心中自殺。

 ひよわな華、道化の華としての人の心を描いた作家、太宰治は、実生活でもそれを貫徹してしまった。


2008/06/01

更衣

 海をみて 青空をみて 更衣

 梅雨に入る前、日本は四季のうちもっとも美しい季節を迎えます。
この頃を盛りに花は咲き乱れ,若葉から青葉、濃い緑と木々は繁り、やがて季節は梅雨から夏に移り変わっていきます。

 更衣は明治になり,政府が6月1日と10月1日に決めたもので、平安時代から既に,始まり江戸時代には、武士の袴の更衣、庶民もまた,服の虫干し、夏支度がいっせいに行われていました。

 四季のある国、日本の自然の美しさを幕末から、明治初期におとずれた多くの外国の日人々が記録に残しています。

 この季節江戸近郊の田園について、至る所に農家、村、寺院があり、また至る所に豊かな水と耕地がある。作地は花壇のように手入れされ,雑草は一本もみることは出来ない。竹林の中の農家、高く伸びた杉の木陰道、緑の木立に隠れたお宮。椿 槙の生け垣。植物相は無限なほど形態が豊富だ。
 
 また,小泉八雲は素朴で絵のように美しい、はかなく滅びゆく江戸時代から続く日本の文化を描き、数々の小説をとともに、アメリカに紹介した。
 
 小泉八雲,ラフカディオハーンはギリシャで生まれ,アイルランドで育ち,南北戦争のころアメリカで記者生活を送り、1890年に日本の山陰の松江市に居を構え、多くの民話や怪談を題材にした幻想的で情緒豊かな世界を小説で描いた。

 また、そのころの時代18世紀から19世紀にかけての日本は暗い遅れた生活に喘いでいた訳ではなく、多くの人々もまた衣食住ともに簡素ながら,満たされ自然の中で、自給していた生活が紹介されている。
 
 その後19世紀後半から20世紀にかけ、日本も近代化,工業化が急速に進み、豊かさを求めて世界中が疾走した時代にはいりました。
 この,時代に確かに存在した、一つの美しい文明は滅び去り、いまでは残されたこの時代の記録から想像する以外によみがえらせる事は出来ません。
 

 
 

2008/05/06

人知れず微笑まん

 北京オリンピックを前にして、チベット問題が引き金になり、中国の民族主義が、
世界中に波紋を投げかけています。
 民族主義、ナショナリズムはいつの時代も扱いをあやまると,災いをもたらす
厄介な感情にもなります。民族主義はいつも無頼の砦と化す危険を抱えています。

 日本でも1930年代無謀な戦争に突入したのは、この民族主義的情動も大きく関与していました。戦後、この国体思想は何だったのかを分析して、論壇に若くしてデビューし、瞬く間に時代の寵児となった人が丸山真男です。
 
 ”超国家主義の論理と心理”のなかで,昭和日本のファシズムはほかの国の近代国民国家のナショナリズムと明らかに異質である。個人の自由な判断、主体が無い、近代市民社会の欠けた村落共同体のままであった日本が、天皇制のもとで、教育勅語などの国家神道を中心とする教育を通じ、内容的価値の実態を伴って統治したものであったと明快な理論で分析しました。

また”軍国支配者の精神形態”で軍の支配分析を行い,その後 ”日本の思想”で日本の
特性の由来を分析しさらに多くの賛同者を得ました。

 丸山真男が最も活躍したのは1950年代後半から1960年代で、多くの人たちにとって彼は民主主義の指導者であり、戦後民主主義の教祖でもありました。

 時代は、ちょうど吉永小百合がキューポラのある街で有名になり、その映画が当時
の日本の流行思想でもあった時代でした。

 1960年の新安保条約反対のオピニオンリーダーでした。この年の5月に安保条約改訂は岸内閣によって強行採決。6月15日全学連主流派の安保反対デモで,樺美智子さんが死亡。

 その頃から,戦後民主主義のオピニオンリーダーはその思想そのものやアカデミズム体質を批判されるようになりました。

 1960年中頃からは,日本が高度大衆消費社会となりつつあり、また、丸山真男
が病理とした前近代的で西欧より劣っているとした日本の文化が逆に肯定的に評価
され始めました。

 あまりに西欧的で、西欧近代の視点からの丸山日本社会論は力を失い、1960年代
後半には全共闘の批判の的となり、1969年拠点の東大法文2号館が占拠破壊され、
失意の内に,定年を待たずして退官されました。

 戦前の1930年代から40年代、蓑田胸喜らが超国家主義の先導者たちの時代とするならば、戦後から1960年まではその思想の全否定の時代でした。時代精神もまた流行があり、後の時代からみれば真理がかならずしもいつも主流を成す訳ではありません。

”最後に”

誰かが私を笑っている
向こうでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
最後に笑うものが
最もよく笑うものだと
でも私は
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ

  樺 美智子
 

2008/04/17

岡本 太郎



物まねは易く、創造は難し。

 先日,青山の岡本太郎記念館を訪れました。

岡本太郎は有名なコラム漫画家岡本一平と小説家岡本かの子の一人っ子で、
戦後、絵画、彫刻、評論活動で時代の寵児となりました。
 大阪の万国博覧会の太陽の塔は、多くの議論を呼び起こし、現在もその異形は残っています。

 美術界で岡本太郎の最も嫌ったのは,戦前からの伝統、形式主義です。盆栽にもみられる、繊細なひねり。洒落,創造する事なく、型を模倣しその世界にこもってしまっていること。これらに対して激しく反対しています。


 これは歴史的に日本の美術が室町時代から始まり日本の中世にかけてでき上がった過程で、ちんまりし気取った形式主義、趣味的繊細さに陥った結果です。

 この伝統主義、日本独自の芸術観は戦国時代から江戸時代にかけ確固としたものになり、明治、大正そして昭和の初期まで変わる事なく続いています。

 
 たとえば、雪舟の絵画が技法を極める事のみに集中し、絵の本質を失っている事。明治時代以降の洋画がヨーロッパとくにフランスの絵画を取り入れた物まねで、洋画アカデミズムに陥り、絵画の形式化や観念化してしまった事。また伝統芸術は些末さと技法に走り本来の
創造的エネルギーを無くしたことも同じ理由によります。
 
 岡本太郎はこの日本主義、伝統主義を単に否定したのではなく、逆にフランス生活でのヨロッパの芸術家との交流を通じ、抑圧された戦争時代を経て、日本の芸術の中にあるまっすぐで原始的なたくましさをもった縄文土器の再評価し、尾形光琳の紅白梅流水図や燕子花図屏風の絢爛と力強さの中に世界レヴェルの高い芸術的価値を見いだし評価をしています。


 また自らは、美術や彫刻は美しくあってはいけない,芸術はいやらしくなくてはいけない。その信念のもとに創作活動をし、現在毀誉褒貶の後、現在はその独創性は高く評価されています。

 一方、日本人に受け継がれてきた伝統的感情、価値観や道徳、世間体あるいは文化的伝統といったものは、昭和25から26年生まれ世代以降の家庭では、すでに消え去っています。団塊の世代の親が戦前より引き継いだ伝統的諸価値はその後の世代に受け継がれる事はなかったように思われます。