2010/04/11

水木しげるの昭和


 この春、ゲゲゲの鬼太郎で有名な妖怪作家のふるさと、境港市の水木しげるロードに行きました。神戸から高速道路の中国縦貫道を経由して、米子道を一路北に向かい右手に大山を見、2時間で米子市に到着します。そこからさらに北に20分で日本海につながる境水道の岸壁に到着、漁船や、海上保安庁の船の停泊する岸壁の駐車場に車を置いて、一歩入ったところが水木しげるロードです。1996年にできた人口3万人の街のレトロな商店街がそのまま妖怪のオブジェが立ち並ぶ妖怪ロードとなっていて、ネズミ男の銅像にこども達が手をつないで記念写真をとっていました。

 水木しげるの年代記は昭和史そのものです。大正11年(1922年)生まれ、少年期はのんのんばあに地獄や妖怪の話を聞き育てられ、昭和初期の比較的平和な時代をすごしました。

 その後、日本は国内の混乱から戦争に突入、昭和18年(1943年)召集されラバウルに出兵、戦場の爆撃で左腕を失うも無事に昭和21年(1946年)に帰国。

 戦後の混乱期は、紙芝居作家や貸本漫画家の貧乏な生活を送る。その後、連載漫画がカムイ外伝で有名な『ガロ』や『別冊少年マガジン』に掲載されるようになりました。

 昭和43年(1968年)日本はしだいに豊かになり、学園紛争の年を迎え、ちょうどこの年にはじめて『ゲゲゲの鬼太郎』のテレビアニメが放送され、テレビが家庭の娯楽の中心になり、日本経済が発展するにつれ、5回にわたりこのシリーズは放送され、有名漫画家の1人となりました。

 昭和45年(1970年)『水木しげる妖怪画集』を出版し、マイナーな妖怪世界をしだいに奥深い水木ワールドとして発展させてきました。1980年以降は合理主義、近代化の高度成長路線が陰りを見せ、明るい世界から追いやられた妖怪が再認識され、「なまけものになりなさい」の水木精神が時代に受け入れられ、しだいにおおくの人たちの興味をひくように時代は変化してきました。

 その後アフリカのドゴン族、マレーシアのセノイ族、オーストラリアのアポリジニ、メキシコのインディォ、アメリカのホビ族などの文化を聞き妖怪世界を広げて行き世界妖怪会議まで開いています。

 今では、境港市は最も有名な観光地として、水木しげるロードが定着し、米子駅の霊番ホームからは、鬼太郎列車が漫画キャラクターで彩色され、JR境線も妖怪鉄道となっていました。

 漫画の威力恐るべし。

2010/03/29

満州事変後の日本と小林秀雄


 第一次世界大戦のあと、1920年代は大戦の反省から、世界的に平和の時代であり、日本も大正デモクラシーと呼ばれる時代でした。共産主義と民主主義が世界にひろまり、そして,次の1930年代は世界的な大転換がおこり,革命の時代に入ります。

 その頃日本国内でもプロレタリア文学が流行し、学会でも社会主義や無政府主義の紹介がなされるようになってきました。

 小林秀雄は昭和初期の1929年(昭和4年)改造に“様々なる意匠”を発表。そこでのプロレタリア文学批判、その観念性と政治の為の文学に対する批判は、時代の先駆けでした。

 

 一世を風靡したプロレタリア文学も、1930年代前半には共産党員の大量の検挙や、幹部の転向宣言などで人心がはなれ、しだいに日本全体が民族主義的になってきました。右翼の運動はさらに過激な行動主義,テロリズムに走り出します。

 1930年には、後に外務大臣になった松岡洋右が国会で幣原外交の国際協調路線を批判し、経済上、国防上満蒙はわが国の生命線(life line)であると演説し、その頃東京帝国大学での調査でも、学生達の88%が満蒙に対する武力行使は正統であると回答しています。

 1931年に満州事変がおこされ,国内での一般国民の世論は陸軍の主張を圧倒的に支持しました。この背景には、1931年から翌年にかけて、政争に明け暮れる政党ではなく陸軍が“国防思想普及運動”を全国で展開し、その中で、「この生命線を守るため、国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労民の生活保障、農山漁村の救済は最も重要。」とし農民救済,国民保健、労働政策を各地で訴えた結果でした。

  また小林秀雄は日中事変の最中の1938年(昭和13年)満州から北京に旅行し、満州の印象で以下のように書いています。

  この年から国策で16から19才の少年達の移民政策が始まり、この満蒙開拓青少年義勇隊孫呉訓練所の一カ所を見学し、寒さの中、計画が、うまくいっていない様子も描いています,「満州にわたった少年開拓団の子供達について、その表情は奇妙なものであった。まさしく困難な境遇におかれた時の子供の心そのままの顔なのだ。」書いていました。 そして“欠陥は満拓公社という官僚的組織と何をおいても先ず臨機応変の手腕を要するこの新しい仕事の実際との決定的齟齬にあるのではあるまいか”と

 当時日本の政府は国内の閉塞状況を打ち破るため壮大な夢と熱狂のもとで500万人の満州移民計画をたて、その為に、特別助成金や、別途助成金を村や町に出し、道路整備や産業振興に使う政策をすすめ多くの国民を満州へと向かわせさました。

 小林秀雄は亦1939年(昭和14年)“疑惑Ⅱ”では、「国民の大部分が行った事も見た事も無い国で,宣戦もしないで大戦争をやり,新政権の樹立、文化工作、資源開発を同時に行ひ,国内では精神動員をやり経済統制をやり,といふ様な事態は、歴史始まって以来何処の国民も経験した事などありはしない。」と記しています。

 その当時陸軍は、中国の脅威を最初は反日運動、次第に平和を攪乱するする匪賊、最後には、満州を奪おうとする国民党の陰謀と喧伝しました。そして、上海事変、盧溝橋の発砲から、北支事変、南京占領へと突き進んでいき、1941年(昭和16年)の真珠湾攻撃から対米英蘭に宣戦布告に至ります。

 この事変から戦争にいたる日本の正当性を意義付けるため、昭和17年(1942年)座談会「近代の超克」が13人の学者知識人によって催され、このメンバーの一人として小林秀雄も参加しています。「この戦いは世界史的に見れば、行き詰まった西欧的近代を再定義し、それを超克するものである。」とした内容で、その年の雑誌『文学界』に掲載されました。

 その後の小林秀雄は政治的発言をほとんどせず、西行や実朝の世界を描き戦後、“無常という事”モオツアルト“などを発表することになります。

  

2010/02/21

住処

 THE NOTEBOOCK『きみに読む物語』2004年ベストセラーのアメリカ映画です。

 療養施設に一人暮し、過去の思い出も相手もわからない認知症になっている初老の女性とそこにいつも通い、本を読んで聞かせるやはり年老いた男性の青春時代と2人の物語。


 1940年、渡り鳥と陽光のきらめく、美しい河の有る保養地ノースカロライナ州シーブルックでのノアとアリーの初恋物語。この物語はかつての2人の青春の思い出そのものであることを一瞬奇跡的に思い出し、やがて静かに亡くなっていく2人の愛情と絆を描きだしています。 

 その頃のアメリカは豊かで、主人公ノアが1772年に建てられた家を自分一人で改築した住居も広く美しい建物であり、医療施設も充実し、認知症の人もゆったりきれいな環境で療養生活が送られていた情景が描かれています。強い心の絆とともに,自然に囲まれた環境の美しさ、清潔な場所で静かに息をひきとる場面が多くの人に感動を与えました。


 戦後の日本では,病院も住居も粗末なもので、しかも多くは空襲で消失してしまっていました。住まいは、1951年度に51Cといわれるコンクリートの住宅建築が始まりました。これは公営住宅標準設計の名称で,そのうちの最も小さいタイプのものがCタイプで,わずか12坪しか無かったのは、戦後、資材の無い時代住まいをともかく造る必要があり、小さいながら地方では木造ではないはじめての鉄筋コンクリートによる公営住宅でした。この住宅ではじめて食事の出来る台所、ダイニングキッッチンの発想が取り入れられた。


 その5年後には日本住宅公団に受け継がれ何DKの個室とダイニングキッチンの定型住宅が出来上がり、高度経済成長の始まる時期で、都市に流入する若い世代、ニューファミリーの住処となりました。そして,子供達には個室があたえられ、戦前からの雑居生活は消えプライバシーが家庭内にも持ち込まれ,自立と孤独の訓練の場所と考えられていました。


 その後,日本が1960年台から,経済が急速に拡大する1980年にかけて、ニューファミリーが子供を育てるための住まいとして大量に住居が供給された。多くの都心部に団地が出来、それが次第に郊外に広がり、ニュータウンが建設され,庭付きの住宅が全国で建てられた。その後家庭はしだい変容し,さまざまな形の家族ができ、現在では高齢者や子供の介護ケアの場所としての住居と変化しています。


 一方,介護はさらに他の場所社会的介護施設へと移動しつつあります。最期の住処としてアメリカ映画のような舞台は夢かもしれません。

  

2010/02/14

小田実


小田実とベトナム戦争

「何でもみてやろう」を1961年、27才のとき発表。

1958年にアメリカからヨーロッパを通り、インド、バンコック、香港から帰国した青春放浪記の一冊で、第二次大戦後豊かなアメリカと復興しつつあるヨーロッパ、貧困のアジアを放浪し、そして高度経済成長期に入る日本に帰国した。

 10年後に描いた藤原新也は豊かになってきた日本を脱出し、インドを放浪し人間の存在,人間の生と死のあり方を語った。小田実は貧困社会インドでの人びとの生きる社会を描いた。2人の出発点の違い、インド放浪の視点の差は、大きな構造としての社会のあり方から世界を描くのか、人間存在そのものを写すかの視点のちがいであり、日本の豊かさの質的違いだった。

 

 その後、1960年代の日本では,新幹線が走り,高速道路が出来、1964年には東京オリンピックが開かれ、高度経済成長期が始まる時期でした。

 アメリカはフランスが撤退するとベトナムに介入し,1965年2月には北ベトナム爆撃が開始され、国内では学園紛争と反戦運動が起こり、ベトナム戦争の後方基地となっている日本とアメリカの戦争に反対する運動がしだいに盛り上がり、全国に広がっていきました

 1965年にはベトナムに平和を掲げたベ平連(ベトナムに平和を 市民連合)運動が小田実を中心にできあがり、開高 健,小中陽太郎たちも参加。八百屋さんも花屋さんもと呼びかけ,貧しい農業国の独立運動に近代的武力で侵攻するアメリカに反対する新しい形の市民運動を創り上げました。

 これは既製の政党に属する訳ではなく,自分で考え自分で行動する新たな市民運動のかたちでした。既製の左翼運動にあきたりない学生や多くの市民はこの新たな運動組織としてのべ平連に参加し、学生運動とともに1968年には全国に広がり最盛期を向かえました。

 べトナム戦争は、アメリカ国内でも今までの戦争と基本的な違いがありました。国内の人たちは政府の言う民主主義と全体主義の戦いであるという題目を疑い、若者たちはアメリカ国内で反戦を主張し政府を批判しました。

 その後1973年に解放戦線、北ベトナム,南ベトナム、アメリカの間にベトナム和平協定が結ばれ、アメリカ軍撤退とともに、1975年サイゴンは北ベトナム軍によって陥落しました。

  ベ平連運動も1974年に解散、政治の季節は終わり、日本は高度経済成長に突入し、大きな政治の物語がすたれていきました。小田実はこの間も大きな構想の大きな物語を一貫として追求し、またその死生観は大阪大空襲の経験から難死の思想にあり,唯物的であり続けまた視線はアジア、アフリカに向いていました。1988年に『HIROSIMA』でロータス賞を受賞し、1997年「『アボシ』を踏むで川端康成文学賞を受賞。

 阪神大震災以降は西宮に住んで,再び社会変革家としての活動を続け、行動する作家として社会の中の人間を描く全体小説を書き続け、晩年には「終わらない旅」、「河」3部作を書き上げました。

 

 

2010/01/11

藤原 新也


藤原新也

 1960年代以前の日本は、まだあらゆるものの中にアシア的なものを持っていた。それは 金子光晴の描いた、亜細亜、混沌として物質文明以前の世界。まだ貧しさと、飢餓と死が日常の生活の中に自然の暮らしの中にあった。

日本では、1960年代になるとこのアジア的なものがしだいに失われ、社会の近代化が始まり、 経済では高度経済成長期が始まり、物質的豊かさが始まった。この社会の変動に対して、1960年の後半には、学生達の反乱が社会運動となり、政治の季節をむかえた。

ちょうどこの時期1969年に日本を脱出してインドに放浪の旅に出かけ、1972年に著者最初の作品『印度放浪』を23才のとき書き上げた。

この中で自然と人間の生死も自然の一部であるインドを、「物質的貧困と同時に、日本が失いつつある生命の根本である熱をみた。私はその国の熱にうかされた。そして、地上における生き物の命の在り場所をはっきりと見たし、合わせて自分の命の在り場所もはっきり見ることができた。」

そして、熱球の下で「インドは、命の在り場所の見えるところである。自然の中のそれぞれの命が、独自の強い個性を持って自己を主張している。インドという国が国の近代化にいつも失敗するのは、その人びとの頭上の巨大な熱球の主張や、その分子である地上の熱の独自のうごめきや生命の主張というものを法によって規制できないところにある。さらに言えば、この国においては,熱が法にとってかわっているのだ。それが宗教というものだろう。」

 日本では、1960年代から始まった高度成長期は1980年代にはいり絶頂期を向かえつつあった。その1981年に東洋の端、イスタンブールのボスポラス海峡から東に、香港、台湾、朝鮮半島をたどり日本に至る新たな写真による紀行「全東洋街道」を発表。そこには物質的繁栄前のアジアが鮮やかに写し取られ写真による新たな文明紀行,文明論を生み出した。

1983年『東京漂流』を出版。インド、アジア漂流の体験から日本の豊かになる軌跡、繁栄が人々に何をもたらすのか、近代化がなにをもたらすのかを鋭く浮かび上がらせた。『日本人は戦後80年代になるまで自らを物によって救済することのみに奔走してきた。』

 その象徴は1980年東京郊外のベッドタウンおこった金属バット両親殺人事件で、青空の下の何の変哲もない住宅。この郊外の住宅は、高度成長期20年の間営々として築き上げた消費文明の成果であった。その家の完成とともに空疎化し崩壊した家庭の物語を一枚の写真に雄弁に無言のうちに語らせた。

 皮肉なことに、その後この日本が一歩先んじた近代化、物質的豊かさの追求が、アジアにおいては台湾、韓国、シンガポール,香港などで始まり、東南アジア、中国そして、現在では彼の青春の聖地であったインドにおいても起っている。

2009/09/27

ベトナム戦争と開高 健


開高 健のベトナム戦争

 “それぞれの国には、それぞれの土の匂いがする、 ベトナムの匂いはすべてニョク マム”で始まる ベトナム戦記を開高 健が1965年に発表。

 

 サイゴンの北にある森林地帯の共産軍(ベトコン)連帯司令部の破壊の作戦はベン キャットの名で呼ばれ、その南ベトナム軍による掃討作戦に同行し、ベトコン側の猛攻をうけ、200人の南ベトナム軍の第一大隊のうち生き残ったのは作者の開高健と秋元カメラマンを含め17人だった。

 

 この従軍体験を描き当時話題になった“ベトナム戦記”は、1964年から65年にかけて週刊朝日に連載されたルポをまとめたもので,当時のサイゴンの状況を報告しています。

 彼は多くの庶民、軍人、政府高官,アメリカ兵の話を聞き、混沌とした状況から真実をつかみ取ろうとしたルポルタージュを連載、今さらながら的確に未来を正しく予感していることに驚かされます。

 その時期、ベトナム戦争はまだ南ベトナムの小規模な内戦でした。その後、北ベトナム共産勢力対アメリカの戦争になり、やがて南ベトナム政府軍は解放戦線に破れることになります。すでにこのルポの中にその予想が書かれています。このベトナムの戦場の体験を題材に“輝ける闇”と“夏の闇”を小説化し戦場の現実、虚構でない人々の真実を描きました。

 ベトナムの歴史は被支配者との戦いの歴史で,1000年以上前から中国の圧力をうけ、19世紀にはいってからは、イギリスとのインド植民地化に対抗してフランスが1887年フランス領インドシナ連邦をつくり現在のラオス、カンボジアとともにベトナムは植民地化されました。

 1940年に日本軍が仏印に駐留しフランス軍を武装解除し。その日本軍が撤退すると、かつての植民地の再支配をねらうフランスと民族解放の抵抗運動がおこり、第一次インドシナ戦争と呼ばれています(1946年から1954年)。そのころの反植民地の戦いに参加した人はベトミンと呼ばれ、少数ながらその中には旧日本軍の兵士もいて、彼らを訓練,指揮していました。

 1954年ベトミン軍がフランス軍の拠点デェンビエンフーを陥落させ,フランスはベトナムから撤退。ジュネーブ協定で17度線の北と南にベトナムは分割されました。

  その後フランスに変わってアメリカが共産化のドミノ理論を唱え、南べトナムに軍隊を派遣しました。第二次インドシナ戦争(1960年から1975年)とよばれ,このルポの発表された1965年頃はまだ東南アジアの小さな国の内線が激しくなっている時期でした。

 やがてアメリカの北爆から、アメリカ正規軍投入、枯葉作戦、最新兵器を使い、対ゲリラ作戦を実行した10年にわたるベトナム戦争が1975年サイゴン陥落まで続くことになります。

 開高 健は“裸の王様”で芥川賞を受賞し、“青い月曜日”で自伝を描き、虚構の文学ではない、現実の中の正真正銘の人間を描く文学を生み出しました。1974年以降は、fishingで世界を飛び回り、“もっと広く”“もっと高く”“オーパ”などで釣りと人生と旅を謳歌しました。

ダナン ラング


ダナンラング

 ショック肺(ARDS)は,胸部外傷を伴わない重症の外傷患者にみられる進行性の肺の病変で、これがおこることは,第一次世界大戦の頃から知られていました。

 世界中に広く知られるようになったのは,ベトナム戦争のダナンの戦闘で、多くの症例が報告されてからです。戦場での外傷に対して,大量の輸液によってショックから生還する症例が増えてきたものの、原因不明で受傷後2から3日後に急性の呼吸不全がおこり死亡する症例が増えてきました。この激戦地の名前を冠してダナンラングと呼ばれ、一般にはショック肺(ARDS)として知られています。

 現在ショック肺あるいはARDSは人工呼吸器を使い,PEEPをかけ多くは救命できるようになりました。人工呼吸器は1960年代に使われ始め、息ができなくなった時、そう管といって、気管にチューブを入れ、それをとおして、空気を器械的に肺に送り込む装置です。それによって、肺に酸素は運ばれ、炭酸ガスが吐き出されます。原理は比較的簡単で呼吸を自分でする代わりに、器械をつかって外から酸素の混じった空気をふいごの原理で規則的に入れてやるわけです。

 今回の新型インフルエザでも,急速にウイルス性肺炎が進行し、肺不全 (ARDS)が悪化する症例がみられ、救命には、人工呼吸器が必要になります。現在乳幼児も使える新生児用の人工呼吸器は全国に3859台で、一度に多くの患者が罹患した時の人工呼器が不足しないように対策がたてられていま