2012/01/29

高橋和己


 団塊の世代とは堺屋太一の造語で、1947年から1949年までに生まれた世代を言う。この世代は、戦争で海外に出征していた人々が、敗戦とともに国内に帰還し、結婚し、生まれた世代で、人口は年間250万人を超え、3年間で980万人になる。
 この世代が青年になる頃、日本の高度成長期がはじまり地方から多くの若者が上京して、職業についた。またベトナム反戦運動や、学園紛争を担った。
  高橋和己は、この世代に圧倒的な支持をうけた作家で、1962年「非の器」でデビューし、精緻な論理を構築した法学者が、権威を失い、しだいに破滅にいたる過程を描き出した。「憂鬱なる党派」は生硬な理論の対話が連続する小説で、イスラム教のスンニ派とシーア派の争いが、日本から見ていると理解しにくいのと同じように、その時代と舞台となった戦後の共産党の歴史を知っているもの以外には,わかりにくい重い響きと内容のドラマで当時の、思想や政治が至上のものであった時代の熱気を感じさせるものでした。
 「邪宗門」は大本教を素材に宗教集団の運命を描いたやはり新興宗教の興勢から崩壊にいたる架空の教団の組織と挫折の歴史を描いた。また「散華」において戦時における日本の精神について語った。
  評論集「孤立無縁の思想」中で政治と文学を語り、戦後民主主義、北一輝や岡倉天心のアジア主義思想について語り、戦争や散華の精神についての埴谷雄高氏との往復書簡も当時の文壇でも論争を呼ぶこととなった。
  戦後民主主義については、「人は、人間社会の歴史を構成するどの単位を自分の準拠する枠にするのかをせまられる。個人か、家族か、地域共同体か、職場か、階層か、階級か、誓約共同体か、国家か、全世界か。個人を重視すればリベラリズム、家族を基本にとれば儒教思想、誓約共同体は宗教や思想的結社、国家に依拠すれば国家主義。従来、人々は個人から全世界にわたる各単位の間の価値を、なんとか撞着することのないように調整しようと努力し世界観をつくってきた。しかし人間の歴史の現実は、これらの価値の衝突と流血の歴史でしかなかった。戦前、戦中の日本は典型的国家主義であり、敗戦はこれが外から崩され、新たに世界を信じ,個人を重視する、自由と民主主義と文化国家がとなえられた。」
 ヨーロッパから近代化革命がアジアに伝搬するとき、帝国主義的侵略という形態をとったゆえに、初元においては共通の危機意識に支えられ、日本、中国、インド等々の知識人の精神に同時に思いおこされ、主張されたナショナリズムがある。岡倉天心や内藤湖南、孫文や章炳麟、そしてガンジー。西洋物質文明に対する東洋の精神文明を説き、あるいは文化的なあるいは政治的な東洋の連帯を夢想した。
 順逆不二の論理 北一輝で中国の辛亥革命,中華民国樹立の過程で、革命を支えた日本人たちの大アジア主義の夢と崩壊。そしてやがて国家主義へと変質していくアジア主義と昭和維新を描き出した。
 戦争もまた政治の破綻ではなく、国家的規模においてなされる持続的な確信的犯罪行為である「戦争というものが、民族的な正義と正義とが真っ向からぶつかりあうもので、それは悪魔と天使、悪と正義の戦いでなく、一つのやむを得ぬ正義と、いまひとつのやむを得ぬ正義の戦いであるとおもっている。」
  さらに悲の器で「今度の戦争では,確かに三つの精神がこの極東でぶつかりあい角逐した。一つは、アメリカの高度に発達した資本主義に基礎をおく、サイバネティックスの理論と大機動部隊による物量作戦。一つは貧しい資源を、人的資源と精神力でおぎなおうとする、日本の特攻精神。そして、もう一つは、広大な土地の上に,忍従する土着の思想と革命思想を結びつけた中国の持久戦論とゲリラ戦術」また「思想的動物である人間は、恥を受ける生よりも信義に死ぬことを選ばねばならないことがある。」と語らせている。
 ウヨクを語り、サヨクを語りそして宗教を考え、そして既成左翼の概念を否定し、よりラジカルに物事を捉える論理を展開し、当時の新サヨクの経典となった。
 1960年代に始まった高度経済成長は1970年には日本列島改造,輸出の激増によって日本の経済は発展し、豊かさが人々の生活を変えた。宗教や思想を語るよりさらに豊かになり、さらに良い生活を求め人々は、走り出した。   高橋和己は甘い夢とか願望、洒脱や軽妙とは無縁の作家のまま1971年に39才の若さで一生を終えました。
 団塊の世代は生まれる前に国家主義は否定され,眼前で階層イデオロギーである共産主義も崩壊しました。日本では平和と民主主義と豊かさの中で、その団塊世代が社会の第一線から退く年齢となってきました。
 
 

2011/12/31

横山 大観








 

 島根県安来市にある足立美術館は日本庭園で有名で、最高の日本庭園としてアメリカで評価されています。この庭園にある美術館は近代日本画が多く展示され、特に横山大観は初期の作品から、晩年まで約130点にのぼる膨大な数が集められています。

 

 明治時代は徳川300年の鎖国が破られ、西欧の文明によって日本は文明開化し、亜細亜的な伝統と日本の文明にかわって欧米の社会システムをグローバルスタンダードとして受け入れることによって近代化した。一方、それに反発する国粋的ナショナリズムもおこった。

  美術においても、日本画は古いものとされ,多くの水墨画、屏風絵、浮世絵などは海外に流失あるいは二足三文で売られていった。 これに対して、岡倉天心はフェノロサとともに日本の伝統的美術品である水墨画、仏像、陶磁器の復権とそれらを守る運動に奔走した。

 1889年(明治22年)東京美術学校が設立され、日本画のみの学校で出発した。その後、黒田清輝を主任に招いて西洋画科が開設された。そして黒田清輝を中心にし、油絵による遠近法を用いた技法をフランスの印象派から学び.日本における西洋画を確立した。この西洋画がしだいに日本での主流となった。

 岡倉天心は途中で東京美術学校の校長をやめざるを得なくなり、日本画の伝統をうけついだ美術を指導する日本美術院を起こした。そこで横山大観や菱田春草は学び、日本画の一潮流を形成して行った。

   岡倉天心は東洋の理想で、「亜細亜は一つである。ニつの強力な文明、孔子の共同主義をもつ中国人と、ヴェーダの個人主義を持つインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔てているというのも、両者それぞれの特色を強調しようがためにすぎない。雪を頂く障壁といえども、すべてアジアの民族にとっての共通の思想遺産ともいうべき究極的なもの、普遍的なものに対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることは出来ない。」として西欧文明に対するアジアの文化の優位性を主張した。

 西欧から学び近代化した日本はアジアの大国となっていった。 大正から昭和時代になると西欧デモクラシーに変わってしだいに日本全体が国際主義から国粋主義的になり、軍国化していった。そしてこの反西欧、反資本主義の波は、横山大観の日本の風土や自然、富士山や大海原、桜をえがいた絵画を国家と民族を象徴するものとし、ついには時代精神と共鳴し、彼を第二次大戦時国家の推薦する日本画の代表に押し上げた。

 イタリアでは1922年(大正11年)ムッソリーニが、第一次大戦後社会主義思想による社会の混乱を非共産主義,反資本主義を掲げ大衆の支持を勝ち取り政権の座についた。1930年(昭和5年)横山大観は速水御舟らとそのムッソリーニに会うとともにローマで、1ヶ月の日本美術展を開催し16万人以上の入場者を記録した。

 また、ドイツでは1933年(昭和8年)にヒトラーが政権につき、1939年(昭和14年)スペインではフランコ独裁政権が樹立された。ヨーロッパ大陸はこれらの独裁国家が大きな力を持ちはじめた。このドイツのヒットラー総統に横山大観の画「旭日霊峰」が、また中国の汪兆銘に「昇龍」が日本の芸術の成果として贈呈された。

 この大アジア主義は昭和に入りアジアでの支配、資源獲得へと方向をかえ、大東亜共栄圏の構想となり、その理論的根拠としての近代の超克が語られた。それは、ヨーロッパの帝国主義的原理からなる近代主義、機械主義の世界秩序を転換させアジアはアジアとして新たな道義的秩序からなる世界へ変更させる世界観であった。

 その後,真珠湾攻撃から日米は開戦にいたる。

 横山大観は1943年(昭和18年)には大日本美術報国会の会長になり、多くの戦時中の絵画,戦争絵画を生み出した。そのうちの「海山十題」は日本主義の精華として国民の圧倒的支持をうけた。

 現在、横山大観の絵画に対する評価は定まっていない。

参考 絵筆のナショナリズム 柴崎信三 著

 

2011/11/23

カンボジア















国際政治と小国の運命

 カンボジアの気候は、雨季と乾期にわかれ11月から半年が乾期で,5月から10月までが雨期で、この雨期には毎日湿気と熱気で熱帯の熱さに包まれ,川は増水しトレンサップ湖はまんまんと水をためる。今回のタイ,カンボジアの洪水も雨季に大量に降った雨が,国土の広大な地域に洪水をもたらしたものです。

 雨季には道路はぬかるみとなり,乾期にはラテライトの赤い土埃を舞い上げるカンボジアとタイの国境地帯では,一部の地域はジャングルを思わせる樹林が生い茂るが,ほとんどの地域は乾期にはまったく雨が降ってこないため,植物は落葉し,枯れるものも多く見られ、灌木の平地が連なる。

 1979年この国境地帯の平地を追い詰められ、難民となった人々に混じってカンボジアのタイ国境近辺にポルポト政権指導部は居住地を確保した。また難民は100万人を超え国境を超えタイ領内にキャンプを作り、水、食糧、医療などの援助をタイ政府の管理のもとでうけいれた。日本からも1979年12月から1982年の12月まで医療チームがカンボジア難民の治療にあたった。

 1930年頃のフランス植民地下のプノンペンは、支配者のフランス人の他ベトナム人、中国人、マレー人も多く生活をしていた。

 第二次大戦後の1954年、シアヌーク国王のもとに,カンボジア王国をつくり独立した。1960年代前半にはカンボジアの黄金時代とよばれ、治安はよく平和は続いていた。ところが、ベトナム戦争の最中、1970年にアメリカに近いロンノルらが、シアヌークの海外滞在中にクーデターがおこし政権をとった。

 その後1975年にベトナムのサイゴンが陥落、同じ年の4月にカンボジアでは,ポルポトらのクメールルージュがロンノル派の政権をうちやぶり政権についた。ポルポト政権は原始共産主義ともいえる極端な政策を実効し、都市から地方に人々を追い出し、農業に従事させた。現実を無視した極端な社会主義が全国土で実行され、カンボジアの経済も農業もすべてを破壊した。

 クメールルージュほとんどが貧農出身の若者で構成され,教育程度も低く粗野で,実用的技能を持たない無能な支配者たちで、彼らの命令に従わないものは、逮捕や処刑が待っていた。

 ポルポトの理想や思想は情念の奴隷となり自らの猜疑心から、党派闘争で内部の敵をつくり粛正をくり返していた。この猜疑心と恐怖の連鎖に歯止めはなかった。そして、国民に対しても、無謀な政策を実力で強制し、国土全体が強制労働キャンプと化し,700万人の人口のうち150万以上の人々が犠牲になった。

 1977年以降ポルポト政権は民族主義的色彩を強めるとともに、ベトナムに戦争を仕掛け、そのため中国の力をたよった。これに対してベトナムで訓練をうけたヘン サムリンらカンボジア人グループはベトナム軍の支援のもとにポルポト政権下のカンボジア軍を打ち破り政権を樹立した。その結果、1979年1月にポルポト政権は崩壊し、追いつめられたポルポトらはタイ国境近くの山岳平地に撤退した。このとき多くの難民となったカンボジア人が国境地帯に居住した。

 

 カンボジアのポルポト政権は中国に援助を求め、タイを通じて武器を手にいれた。さらに,中国はベトナムを撤退させる為、1979年2月、20万人以上の軍隊で中越国境を超え南下させ、北部の都市を占拠した。アメリカは、ベトナムが戦争の長期化で、軍事同盟をむすんだソ連が疲弊することを期待してこれを黙認した。タイもまた東南アジアにおけるベトナムの強大化をきらい、ポルポトを支えた。

 国際政治に翻弄された小国カンボジアは1991年ようやくパリ協定が結ばれ戦乱に終止符をうった。

              参考 ポルポト 著者 フィリップ ショート

2011/10/10

デジャヴュ

 西欧の世界支配がアジアに及んだとき、日本は明治維新で国内の革命を行い、西欧技術を取り入れ対応し、一方中国の清朝は衰退し混乱し西欧の植民地とされつつあった。

 この時期、中国では清朝末期で、多くの中国の反政府の人びとは東京に亡命し清朝打倒の『中国革命同盟会』を結成した。そして清朝は1911年(明治44年)の辛亥革命で滅亡し、孫文を中心として今から100年前、1912年(大正1年)中華民国が建国された。

 日本と中国が協力し清朝を倒し、西欧に対抗するというアジア主義の夢は実現するかに見えたのは一瞬であった。日本は中国に権益を求め,中国は排日に向かった。すなわち、第一次大戦の翌年1915年(大正4年)大隈内閣のとき,袁世凱に対中21か条の要求を突きつけ,革命派を武力で押さえ,日本の権益を拡張しようとし、それに対してして中国国内で広範な西欧排日運動がおこる。  

 その頃、日本も大正デモクラシーと呼ばれる時代で、第一次大戦中に戦場とならず経済は急拡大し,国家規範は喪失し、いわゆる成金が多数生まれ,一方労働運動もさかんになっていた。

 また政友会と民政党の2大政党制が普通選挙法のもとで行われていたものの、利益誘導の競い合いとなり腐敗政治が蔓延する結果となり、世論の政党排撃論が広がっていった。

 その後の日本の経済は1920年には戦後恐慌をおこし、1923年(大正12年)関東大震災などでさらなる打撃をうけ、政府は多くの財政赤字をかかえ、インフレ的不況対策と為替相場の維持、介入というデフレ的対策とその場の応急対策におわれていた。

 一方、アメリカの1920年代は最も幸福な時代と呼ばれ、土地の次に株式の天井知らずの上昇時代で国民すべてが投資家となった。 ヨーロッパでは、1925年までにハンガリー、ポーランド、ソ連がハイパーインフレをおこし経済は壊滅状態となった。

 次の1930年代はアメリカの金融恐慌から世界大恐慌を来たし、世界同時不況となり、グローバル化した自由な経済活動と繁栄の時代から、一転し、国家による経済統制、アメリカやイギリスによる経済ブロックが形成され自由経済体制は崩壊した。1931年イギリスは金本位制度をやめ、猛烈にポンドを切り下げ、これに対抗してアメリカも金本位制度をやめ為替を切り下げた。そのためフランスは猛烈なデフレになりみまわれた。日本でも、不況が続き、政党内閣制、国際協調体制、国際金本位制ともに崩れ去った。

 永井 荷風は日記に、「日本の現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚無きことの三事なり」と書き記しています。

 指導的な国の不在が1930年代の世界恐慌につながった(キンドルバーガー)そし て,通貨下げ競争や貿易戦争が勃発し、資本の国家統制が行われ、社会と政治は混乱にみまわれた。  現在、世界はしだいにこの時代に似た様相を呈してきています。                                                                  

 

 

 

2011/10/09

原子力発電と人体


 原子力の恐怖はいつの間にか風化しつつあった。
人の心は移ろいやすく、広島と長崎の原爆投下でさえ歴史の中の出来事になりつつあった。
 原子力の開発がアインシュタインの予言からロスアラモスで原子爆弾は開発され完成し投下された。人は原子力を使って巨大なエネルギーを生み出すことはできた。しかしその結果生みだされた世界は、想像力をもって想定できる範囲をはるかに超えるものであった。
 原子力から生み出される放射性物質は生物にどのような影響を与えるかは、広島、長崎、チェルノブイリで一部明らかにされたものの、確かなことはほんの少しで、現在まで不明なことが多かった。
 2011年311日の震災、津波により、福島における原子力発電所の事故は起きた。震災の翌日12日のベントと1号機の水素爆発、続いて14日の3号機の水素爆発は、原子炉から漏れだした大量の放射性物質を広範囲に飛散させ周囲を高濃度放射性物質で汚染することになります。
 その爆発物の中には、放射性ヨウ素、放射性セシウム、プルトニウム、ストロンチウムなどが含まれ、80キロ圏内ではストロンチウムが、45キロ圏内ではプルトニウムが土壌中から検出されました。プルトニウムやストロンチウムなどの重い物質までが遠方まで飛散したことはあらためて今回の爆発力の巨大さを証明しています。
  軽い物質である放射性ヨウ素はさらに遠くまで飛散しました。この半減期はおよそ8日と短いものの、体内に取り込まれると甲状腺に集積して甲状腺がんをひきおこします。
 甲状腺は、とくに成長に重要なホルモンである甲状腺ホルモンを分泌し全身の活動力を調整し、成長をうながす役割の臓器です。放射性ヨードはこの甲状腺に大部分取り込まれ放射線を出し続け、5年以上の期間たってから若い人たちに甲状腺がんをおこします。
 チェルノブイリの爆発による放射性ヨウ素は甲状腺がんを7000人以上の人に発症させています。このがんの進行は比較的ゆっくりで、早期に発見し手術で完治することは可能です。
 放射性セシウムは、80キロ圏内で高濃度の土壌集積をみとめ、更に遠方でも多くのホットスポットをつくっています。 この放射性セシウムは,カリウムに似ているため、体内似取り込まれると、全身に蓄積します。セシウム134の半減期は2年、セシウム137の半減期は30年です。この物質もまた甲状腺などの内分泌器官に多く蓄積 し、体内で放射線を出し続けます。その結果遺伝子に働きかけ、発がん性を高めることはわかってっいます。
 プルトニウムはウラン燃料が核分裂してできる物質で、一度体内に取り込まれると排出されることなくアルファ線による内部被爆は続き、半減期はプルトニウム23887年、2392万4000年かかります。その結果、肺がんや白血病を引き起こすことになります。
 今後、放射線の被曝を防ぎ、安全な生活を送るためにはフクシマ原発からどの核種がどのくらいの濃度で飛散し、現在もどのくらいの濃度で存在するのか正確に知る必要があります。
 近代科学の生み出した様々な科学物質はあるものは自然に浄化されあるものは、毒性を残すもののしだいに生態系に取り込まれて行きます。
 一方,原子力の爆発で生みだされた放射性物質は広範囲に拡散し、東日本の水田,森、土壌を汚染しました。放射性物質は環境にとっての異物であり、地球上の生態系に同化することなく、人の力では完全に浄化することは不可能で、何万年にもわたって放射線を出し続けるやっかいな存在です。

2011/07/18

団地の歴史

 戦後日本は、空襲によってほとんどの都市はやけ野原となり住む家は極端に不足していました。1951年、この住居を確保するため市営、県営の住宅である公団住宅が建てられました。コンクリート性で耐久性の高い建物が設計されましたが当時の財政の状況から最低限度の生活可能な狭小住宅が最初に普及していきました。

 その後、都市は復興し、産業がおこり、若い人々はその仕事のために都市に住居を求めることになります。そして高度成長期が始まり1956年に日本住宅公団が設立されました。

 戦後の生活の理想のモデルとしてのアメリカがあり、それに習って設計された西洋風の台所や居間を備えた住宅団地が出来上がり、当時『文化のあるところは、団地と駅周辺』といわれ、4人家族の標準世帯、両親と子供向けの住居が大量に供給されました。

 

 団地の歴史はブルーノ タウトから始まります。勤労者のための住宅団地を設計し、後にはソ連で住宅団地の建設を行います。その住宅は機能主義的で生活重視の、しかも安価なものとなりました。日本でもこのソ連型に似た住宅団地が建てられることになりました。

 その頃、原子力発電所の建設も始まり、水上 勉は『都市生活の二男三男よ。長男の国、辺境の寒村は、放射能まみれになっても、きみたちが、健康で,優雅な文明生活を味わえて,せめて2DKのマンションで暮らせるように、ひとのいやがる原発を抱えてがんばっているのだ,という声を,私は若狭の地平からきく思いがする。』と書いています。

 その後、庭つき一戸建て住宅が多く建てられました。狭いながらも自然が庭に残り、人気の住まいとなり、郊外へとしだいに広がって行き、都心部ではマンションに人気が移って行きます。団地や個建住宅のさらに進化したものがニュータウン構想で、1971年多摩ニュータウンが出来、これに似た形のニュータウンが日本各地の都市郊外につくられました。

 21世紀の現在、日本の社会は変貌をとげ、住宅不足から、充足へ。標準的家族構成から、様々な家族の構成へと変化していきます。地方から目立ち始めた高齢化が、都市部にもはじまり、2010年から2025年までの15年間で、65歳以上の高齢者人口が694万人増加すると推定されています。

 都市でも場所によっては、団地の限界集落化がはじまりました。持ち家を持つことが人生の目的だった時代は過去のものとなりました。今後流行する新たな住まい方は、コンパクトシティーやエコタウン、いずれにしても人口構成に合ったものにならざるを得ません。

 

2011/07/10

自然を乱すべきか


 新たな詩人よ

 嵐から雲から光から

 新たな透明なエネルギーを得て

 人と地球にとるべき形を暗示せよ



 20世紀の初頭、神秘主義や宗教と科学が「宇宙の生命エネルギー」という考えで融合し、また「生態学」すなわち「エコロジー」がドイツの生物学者ヘットルによってはじめて提唱されました。宮沢 賢治は東北の花巻で、農民として田畑を耕し、農芸を広める社会活動家で、芸術活動を実践し、園芸家としても有名な日本のエコロジストの先駆者でした。



 六月の雲の圧力に対して

 地平線の歪みが

 視界50度を超えぬやう

 濃い群青をとらねばならぬ



 日本の国土は自然に恵まれ豊かなものの、自然災害が毎年のように起こりそれを克服することが生活の一部になります。戦前の昭和時代は不況の中、関東大震災や東北地方を中心に冷害や干ばつに毎年のように襲われています。その時代に広がった農本主義は、西欧化する都市型の文明に対する反発と、農家の疲弊を救済する方法として多くの人びとの支持を得、彼の描いた世界もしだいにその農本主義思想にのみこまれていきます。


 明治三陸地震に続いて、第二次大戦の前1933年にふたたび昭和三陸地震がおこり、その半年後に有名な『雨ニモマケズ』を手帖に書き残し37歳で死亡。 



Strong in the rain

Strong in the wind

Strong against the summer heat and snow

He is healthy and robust

Free from all desire



 この英訳の宮沢賢治の詩が今年4月11日ワシントンのナショナル大聖堂で東日本大震災の犠牲者の追悼式で朗読されました。


 戦前から、戦後の昭和30年頃まで,日本の多くの地域で,自然に囲まれ、日々の暮らしが営まれていました。田園と里山とが人々の生活の場所であり,これ等の生活はアジアの 稲作地帯と多くの共通点が認められます。

 戦後日本は、家庭の近代化、民主化や農地解放を受け入れ産業は全国あげて、工業化に突き進みました。急速な工業化、都市化がすすめられた結果、この江戸時代から続いてきた自然の中の村落共同体はしだいに衰退していきます。


 世界的にも、工業化と都市化は進み、石油をエネルギー源にさらには原子力も加わり、豊かな生活を享受するようになりました。

 1970年代になるとこの急速な都市化近代に対して、脱石油環境保護の観点から、太陽光や風力、廃棄物を新たな電子工学の知識を用いて統合する運動が起こり、地球生命圏の思想がうまれてきました。アメリカではヒッピーが生まれ、ドイツ、オーストリアでは緑の党が結成され、アメリカから発信されたsmall is beautifulが潮流となり世界に広がりました。2度目の

エコロジーの時代でした


 しかし、その後20世紀末の冷戦の終了から21世紀にかけ、世界大競争時代になり、再び環境保護の運動は資源とエネルギー争奪戦にとってかわられ、地球上にくまなく資本主義が広がり、石油や原子力エネルギーをふんだんに使った技術革新が生活の豊かさをもたらし浸透していきました。

 その最中、今回の地震と津波とともにおこったフクシマ原発事故は、放射能汚染が広範な土地、大気、海洋を一瞬のうち回復不能にすることをみせつけています。

 日本も、再び自然を大切にした自然と折り合う社会、自然エネルギーを利用した社会に舵をとる必要に迫られています。