2016/07/24

反骨の詩人 金子 光晴


詩人 金子 光晴

 金子光晴は1895年(明治28年)に生まれる。
半年あまりのヨーロッパ旅行の後、1922年(大正11年)「こがね蟲」を出版し、象徴派の詩人として、出発する。

 其夜、少年は秘符の如く、美しい巴旦杏の少女を胸にいだく。
 少年の焔の頰は桜桃の如くうららかであった。
 少年のはじらいの息は紅貝の如くかがようた。


 大正時代には一見国力が充実してみえる自由な時代があった。日清、日露戦争に勝ち、第一次大戦には戦勝国になり、「自由に人間の真実やヒューマニズムについて検討し,世をあげてそれを支持するようにみえながら、それが新しい伝統として根ずかなかったのは、明治以来の絶望的な地盤がそれを拒否するからである。」  「この大正時代は、ひげが君臨しひげが威張った時代明治。ひげのいばっていた時代はひげの乃木将軍とともに終わり、珍しく軍と官憲の弱腰の時代」大正時代がはじまる。

 その時代の後半1923年(大正12年)関東大震災がおこり、「大正人のきれいな、うわっつらがひんめくられて昔ながらの日本人が先方からまっていたとばかりにのさばり出てきた。」そして「狂乱な日本人とそれを利用して日本の軍部がのし上がる。」
 
 1928年(昭和3年)から1934年(昭和9年)あしかけ5年におよぶ東南アジアからパリにかけての放浪の旅に出る。長崎から上海にわたり、イギリス領シンガポール、マレー半島、蘭領ジャワ、スマトラを中心に東南アジアで2年間放浪しパリに到着する。パリでは、生活のためあらゆる仕事をした。

 そのパリでも満州事変以降、日本人は白眼で見られ、5年ぶりの日本帰国の時寄港したペナン、シンガポールでは、侵略帝国主義打倒の旗を立てた女たちが、本国の軍への献金募集で大声をたてていた。 このパリや東南アジアの反日のデモや騒擾とは反対に、帰国したときの母国について「日本の港についてからのこの平静さは、いったいどういうことなのだろう。」といぶかりしだいに日が経つにつれ、この平静さは「これは、軍のうごきの、民衆につたわる微妙な反応である。」ことがわかる。

 1936年(昭和11年)中国各地を回る。翌1937年(昭和12年)日支事変の起った直後、中国や南洋旅行中に書いた詩、鮫の醜悪さやおっとせいの凡庸を描写し、それらを象徴させた詩集「鮫」を発表。

 だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、
 拝礼している奴らの群衆のなかで、
 侮蔑しきったそぶりで、
 ただひとり、
 反対むいてすましているやつ。
 おいら。
 おっとせいのきらひなおっとせい。
 だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
 ただ
「むかうむきになってる おっとせい。」

また日中の戦争をえがいて

 天が、青っぱなをすする。
 戦争がある。
 だが、双眼鏡にうつるのものは、鈍痛のやうにくらりとひかる
 揚子江の水。
 そればかりだ。

 うらがなしいあさがたのガスのなかから、
 軍艦どものいん気な筒ぐちが、
「支那」のよこはらをじっとみる。

 その年のくれに日支事変後の天津と北京を訪れる。翌年1938年(昭和13年)帰国し「洪水」「落下傘」を発表。一部の未発表の詩とあわせて昭和23年に詩集落下傘におさめられた。いずれも反軍、反戦の色彩の強いもので、当時雑誌社が発表を見送ったものもある。
 続いて、1940年(昭和15年)最初の紀行文「マレー蘭印紀行」を発表。珊瑚礁、南の海の夜の悲しい性格、ニッパ椰子や森林の静寂、文明のない、さびしい明るさ、熱帯の湿気と繁茂し圧倒する植物など自然の生命力、その自然のなかに生活を営むヨーロッパ人非植民地のベンガル人、マレー人、華僑、そして日本人、混血児さまざまな人間を描く。

 
  遠い海峡の潮の音。
  かへらないためにとびたつ
  戦闘機。

                           「あけがたの歌」

 遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。
君達のせいじゃない。僕のせいでは勿論ない。
 みんな寂しさがなせるわざなんだ。
寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しに
あって、旗のなびく方へ、
母や妻をふりすててまで出発したのだ。

                            「寂しさの歌」

 戦後になり詩集「落下傘」「蛾」「女たちのへのエレジー」「鬼の児の唄」「人間の悲劇」などをつぎつきと刊行。おおくの作家が軍礼賛になだれをうった時代からかわらぬ視点で反戦、反権威、女たちの詩集を創作し発表し,戦後の人々にうけいれられ、支持された。


 ゆられ、ゆられ
 もまれもまれて
 そのうちに、僕は
 こんなに透きとほってきた。


 心なんてきたならしいものは

 あるもんかい。いまごろまで。
 はらわたもろとも
 波がさらっていった。
                           「くらげの唄」


1965年(昭和40年)「絶望の精神史」を70才になり発表。

 近代日本の明治維新以来100年の国の歩み、日本人と異邦人(エトランゼ)になった自分自身の精神の歴史を、日露戦争のあったころからの自身の体験を直接の見聞にもとずいて描き出した。
 なぜその時代の人々が昭和のイデオロギーに次々と染まっていったのか分析し、日本の精神風景を自伝的に語った。
 それは、とりもなおさず孤独に反軍、反骨の生活をつらぬき通した自分のこころの内を、大正、昭和の時代を、皮膚感覚を通しての社会、風俗を描くことだった。
 明治維新以来の日本の近代化にたいする絶望のすすめを書いたのは、ちょうど日本が高度成長期のはじめの明るい時代だった。

 晩年には,反骨の詩人、ヨーロッパ、アジアの旅人として、時代の語り部として多くの詩集や紀行文、評論文を残した。孫娘の詩「若葉のうた」も70才過ぎてから出版した。

へそ出しの「若葉」を抱いて
ぶらんこにのる。
僕らは 出発する。
人生はいつでも出発だ。
若い日のその実感を 僕は
ひさしくわすれていたものだ。



 さうだ。この人生には
勇気といふものもあったのだっけ。
若い日 僕もそれをもっていた。

2016/07/03

妻をめとらば  与謝野 鉄幹の旅


与謝野 鉄幹 妻 晶子

 妻をめとらば才たけて  みめうるわしくなさけあり 

 鉄幹は若き日、韓半島に3度渡る。1895年(明治28年)日清戦争のおわりのころ教官として渡韓し、閔妃事件により退韓させられるも無罪となりふたたび渡韓する。朝鮮の激動する社会の実感を、壮士風の感情で唱いあげ「東西南北」で発表した。旧来の軟弱、優美、もののあわれを主調としたものから、勇壮、快活にして心の真情を吐露するものに脱皮しなければならないとして、漢語と和語を融合させる、虎剣派とよばれる新しい歌をつくった。

 世をおもふ、心はひとつ。太刀なでて、泣く友もあり、笑む友もあり。

 1900年(明治33年)明星を創刊。2回目の結婚相手の林滝野の資金によるもので、フランスのアールヌ−ヴォー様式のミュシャの絵の模写を表紙に取入れ、西欧風の新しい装丁で、明治30年代の流行をつくり出す。  
 創刊号には藤村の千曲川旅情の歌の原型である旅情が掲載され、そしてフランス象徴詩の上田 敏のヴェルレーヌなどの訳詩が登場した。西欧文学の憧れを日本に運び、この時代の文芸の主導者の地位に与謝野鉄幹はついた。

 やがて、滝野とわかれ、明星の誌面に女流歌人の歌をのせ、多くのスターを,時代のヒロインを生みだした。山川登美子とともに菫と星との言葉をちりばめ、その主役であった晶子と出会い明星の2号に歌をのせる。崇高で激烈な情熱をうたう明星は一世を風靡した。

 鉄幹はその後晶子と三度目の結婚をする。そして、鉄幹婦人となった与謝野 晶子の「みだれ髪」を世に出した。22才の時であった。明治の古くさい道徳観をすて、短歌で感情を情熱を表現し、日本中にセンセイションを巻き起こした。

 われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子


 1905年(明治38年)、日露戦争でロシアを破る。日露戦争後の時代になり、しだいに流行は変化し、1908年(明治41年)明星は廃刊。
 妻となった晶子は次々と短歌をだし、随筆を書いて一家を支えた、妻の活躍をまじかで見つつ、鉄幹は終わった人、時代おくれといわれ、鬱屈した日々を送ることになる。

 しよざいなさ動物園の木の柵に面いだしたる駱駝ならねど

 この心の寂寞、荒廃の気分を変えるため、晶子やまわりの人々の援助で1911年(明治44年)横浜からフランスに旅立つ。その時代をいきいきと伝えている旅行記「巴里より」を出版した。

 途中上海に寄港し、辛亥革命に遭遇し「黄色の革命旗が掲げられている。しかし、革命軍の影響は少ない、東京での騒ぎのほうがよほど大きい。実力をいへば西南戦争における鹿児島の私学校の生徒のごとき者が各地で騒ぎ立てているにすぎない。」と書き、また、シンガポールに寄港し、多くの「からゆきさん」を目の当たりにし、日本の恥として、取り締まる意見のある中,与謝野寛は「内地において売れ口のない女をどしどし輸出向けとして海外に出すのは国益である」と主張した記事を新聞の掲載用に書き送っている。

 約半年の後、晶子は5人の子供をあずけ、鉄幹をおいかけ、一人でシベリア鉄道を乗り継いで、巴里にむかう。そして2人でルノアールやモネの絵を見、そして直接ロダンやレニエに会いにいっている。

 わが泣けば露西亜少女来て肩なでぬ アリヨリ号の白き船室

 ああ皐月仏蘭西の野は火の色す 君もコクリコわれもコクリコ

                            与謝野 晶子

 帰国後、1914年(大正3年)第一次世界大戦勃発の年、政治家を目ざし京都で立候補するも落選し、ふたたび短歌と編集者の仕事に戻る。
 時代は大正に入り、国民所得は倍増し、文化の大衆化が進む。1921年(大正10年)から昭和2年にかけて第二次明星を出版、高村光太郎、堀口大学の詩をのせ、自らの旅の歌を多くのせる。
 当時、日本の国内では、都会の近代的で自由な生活文化があらわれ、文化の大衆化が進むと同時に、1917年(大正7年)の米騒動記事に対して朝日新聞は弾圧をうけ、その後新聞編集の中立性を宣言し、多くのマスコミは権力批判を避け,センセーショナリズムの記事にはしる。世論は人々は見たい記事にしか関心がなくなり、しだいに昭和イデオロギーに染まっていく。 



 昭和の初期、晶子と2人の満蒙旅行記をだす。

いろいろの異国の煙草まさぐりて恋する日にも似る甘さかな

 そのときの与謝野晶子の日記に張作霖爆殺事件に遭遇したときの描写がある。「奉天に著く」で「大和ホテルの宿泊の日、新聞を見ると大元帥の張作霖がいよいよ北京を退き、今日天津をたって京奉鉄道で奉天へ帰るということである。」
 「翌朝、へんな音が幽かに聞こえた。 意外な事変を告げられた。満鉄京奉両線の交差するガアドの下で、京奉線の汽車が四台まで爆破され、張作霖と共に黒龍江省督軍の呉氏もたおれ、其他にも支那官人と婦人の死者が多い様子だと」1928年(昭和3年)6月4日午前5時23分のことだった。

「私たちは初めて今先のへんな爆音の正体を知ったと共に、厭な或る直感が私達の心を曇らせたので思はず共に眉を顰めた。」
 さらに「奉天の五日」で「我々日本人に対して容易ならぬ恐ろしい事を云っている。久しく此地にいる私達にとって、こんなに支那人の感情の急激に悪化した事は例がありません」
そして「日支人間の重苦しい或る不安の気分を交ぜて感ぜねばならなかった。」

 第一次世界大戦後1920年代は、つかの間の平和と安定軍縮の時代であった。1928年(昭和3年)、この日本の陸軍の謀略を境として、日本の対中国、対英米の立場は困難になり、国際的孤立を深めることになる。事件後、清朝崩壊後の軍閥割拠から、蒋介石による中国統一がなされ、奉天にも国民党の青天白日旗が翻ることになる。

 

 与謝野鉄幹は、若い日から、晩年になるまで多くの旅をし、それを記録し、その自然と心情を短歌に托した。日清戦争時の国士風短歌から,心情を率直に表現する短歌の革新を行い、おおくの詩人を発掘しそだて、妻晶子の才能を讃え、晩年にはふたたび爆弾三勇士の歌などの国粋主義短歌を残しこの世を去る。


  

2016/05/14

北原 白秋 万華鏡


日露戦争の戦後世代

 時は過ぎた。さうして温かい刈麦のほめきに、赤い首の蛍に,或は青いとんぼの眼に、黒猫の美しい毛色に、謂れなき不可思議の愛着を寄せた私の幼年時代も、何時の間にか幕はしい「思ひ出」の哀歓となっていく。

      「思ひ出」抒情小曲集         北原 白秋       
 

 明治時代は、江戸時代と同様に正式な文章は漢文、書く小説は文語で、話言葉もまた各藩それぞれの方言がつかわれていた。漢学や蘭学が衰退し、西洋の学派とりわけフランス、ドイツ,イギリスそしてアメリカは近代日本の学ぶべき文明であり、文化芸術も日本に移植されていった。詩や和歌、俳句、小説も新しい時代をむかえ改革され、文語から口語へとしだいに転換していった。
 
 明治時代の一時期文壇に明星全盛の時代があった。多くの画家がフランス世紀末芸術を取入れ、短歌の改革を試み、ぎりしゃ、ろうまあるいはきりすと教の神話信仰を象徴する美しい言葉をつかい、多くの神話にあらわれる星や、愛を表現する花々をちりばめあたらしい詩の世界をつくりだした。

 日本は、1905年(明治38年)日露講和条約を結び、日露戦争は終結し列強の侵略の不安はなくなった。そして、日露戦争の戦後期ははじまる。

 この星と菫の幼稚なロマンチズムの雑誌「明星」は1908年(明治41年)廃刊となった。かわって、1909年(明治42年)自然主義に対抗する、ネオ ロマンチズム「スバル」が森鴎外を顧問に、北原白秋、木下杢太郎、そしてパリから帰国した高村光太郎も加わり、時代の主流となり、現在もよまれている多くの作品が発表された。森鴎外は口語体の小説青年や雁などを、石川啄木はのちの一握の砂にのる多くの短歌をスバルで発表した。

 かれら日露戦争後世代の若い芸術家はパンの会をつくり、あらたな文芸をうみだした。高村光太郎は、その時代を「常識打破、順俗軽侮のデカダン派と称されあらゆる方面の旧体制に盾をついた。」と、また「麗明して柑子実る異国趣味の海港に生まれ、西域文明の教養と官感とを修練し来た彼がごとき青年と、もともと長崎の近海に生れ、かの阿蘭陀芸術の余香に直接薫染して育った邪宗系のトンカジョン予が如きとが、その当時一見して共鳴し感激し歓喜しあった。」と木下杢太郎と北原白秋もその若い狂騒時代をふりかえっている。
 
 北原白秋は1910年(明治43年)から「邪宗門」、「思ひで」、「東京景物詩」、「桐の花」を次々と世にだし、一躍時の詩人となる。

空に真赤な雲のいろ。
玻瑠に真赤な酒の色。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真赤な雲のいろ。                 邪宗門

 邪宗門は赤の色彩ときらめく外光をとりいれ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法、黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、色赤きびいどろをといった言葉を連ねた。
 杢太郎がスバル紙上で「邪宗門」をこの詩は暗示の詩である。感覚および単一感情の配置で、フランスの印象派にちかく、視官をもちいると評した。
 表紙に赤いダイヤのトランプのクイーンを描き、長文の詩的序文の「思ひで」 を高村光太郎は現代の若いジェネレイションの内部生活の世界に新しい色彩と、未知の領域とを与へた事は近頃の文芸界に於ける偉観であると絶賛した。

 白秋の鋭敏な感覚から生み出された情緒は、あたかも文字や音に色を感じ取る、視覚、聴覚、臭覚、触覚が味覚などの感覚が混ざり合共感覚者(シナスタジア)の世界を思わせるきらびやかな詩であった。


 感覚

 わが身は感覚のシンフオニー、
 眼は尺八、
 耳は鐘、
 唇は笛、
 鼻は胡弓

 げに幻想のしたたりの
 恐れと、おののきと、すすり泣き
 匿しきれざる性のはずみを弾ねかえせ
 美しきわが夢の、笛の、尺八の、春の曲。



 大正時代に入り、柳川の実家が破産し、家庭の波乱もおこり生活にも困窮する。作風は、初期のきらびやかな色彩あふれる詩から仏教的世界観のあるがままの自然をうたう「白金之独楽」や「輪廻三抄」 「印度更紗」へとかわっていった。そして鈴木三重吉の「赤い鳥」で童謡を連作し発表。童謡作家の第一人者となる。

 昭和になり、民衆派の詩人が西欧思想であるデモクラシー、プロレタリア思想を新興芸術派が新感覚派芸術やダダイズムによる詩や小説を流行させたのに対して白秋は自分の心象を表現するのは安直な自由詩でなく、短歌であるとしてその形式を続けた。
 新古今和歌集を評価し、外国のものまねでなく日本の古来からある歌をあらたに蘇らせる新幽玄、新象徴主義の短歌を生み出そうとした。

 明治の末、大逆事件で堺利彦たち多くの人が、投獄され処刑され、関東大震災には大杉栄が殺害され、昭和になると加速度的に国内の状況は悪化していく中で、北原白秋は「この道」を赤い鳥で発表し、同じ頃愛国のうた「建国詩」もつくっている。

 白南風の光葉の野薔薇過ぎにけり かはつ“のこえも田にしめりつつ

 突撃路あへてひらくと爆弾筒 いだき爆ぜにき粉雪ちる間に

   「白南風」1934年(昭和9年)大正15年から昭和8年までの作品

この短歌集で自然礼賛の詩と戦争の詩を並列してのせ出版した。

 
 1929年(昭和4年)日本の古神道精神を近代に新たに再生するとして詩集「海豹と雲」を発表した。そして、しだいに国粋主義的となり、「第2海豹と雲」そして「ヒットラーユーゲント歓迎の詩」「海道東征」と国家総動員路線を主導した。

 明治時代 感覚の鋭敏さで時代を先取りし流行をつくり出し、大正時代の童謡の流行にさきがけ、昭和にはいり、大衆の先頭にたって抒情詩のもつ郷愁、郷土愛を唱い、愛校歌、社歌で共同体の絆を強め、愛国歌謡、戦争詩歌で国民を鼓舞し,明治大正昭和にわたり時代の尖端を,時代そのものをつくる多くの童謡、民謡、詩や短歌を残し、北原白秋は「戦後」を知らず、1942年(昭和17年)に亡くなった。
 







2016/02/19

「獺祭書屋」正岡子規「獺祭魚」李商隠




無題

 八歳偸照鏡  八歳 にしてひそかに鏡に照つし
 長眉已能画  長眉 已に能く画く
 十歳去踏青  十歳 にして去きて青を踏み
 芙蓉作裙扠。 芙蓉 裙扠を作す     *裙扠を作す スカートにつける
 十二学弾箏、 十二 にして箏を弾くを学び
 銀甲不曾卸。 銀甲曾つて卸さず     *銀甲 鹿の骨でできた琴の爪
 十四蔵六親、 十四 にして六親に蔵る   *蔵る 身をかくす
 懸知猶未嫁。 懸めて知る 猶お未だ嫁がざるを *懸知 予想して知る
 十五泣春風、 十五にして 春風に泣き
 背面鞦韆下  面を背く 鞦韆の下       *鞦韆 ぶらんこ

                                                                                                               李商隠

 正岡子規に見られるように、明治の文学者は幼少時漢学の教養を身につけていた。時代が変わり、教養の体系が漢学から西洋の学問に、詩は漢詩から新体詩に変貌し、ある人は短歌をある人は俳句へとその表現の形式を変えていった。
 しかし、その詩のもとになる詩想は漢詩が確固として残っていた。また、蕪村や芭蕉も漢詩をもとに多くの俳句を詠んでいる。こころの中の意識にうかぶ情感や*「魔法の青い玉」は同じで、表現があるときは漢詩となり、あるときは新詩体をとり、和歌や俳句となっていく。言語の分析はいまこの魔法の青い玉の謎解きにむかっている。
 
 正岡子規
5才にして4書5経の漢学教育をうける。 母方の祖父大原観山は漢学者であり教養、感情の教育は漢学で行われた。

11才にして漢詩を詠む。
                      
一聲孤月下  一声 孤月の下
啼血不堪聞  血に啼いて 聞くに堪えず
半夜空欹枕  半夜 空しく枕を欹(そばだ)つ
古郷萬里雲  古郷 万里の雲                        

15才にして東京に出る。自由民権思想に触れ、政治演説に熱中し、学風があわぬといって松山中学を中退し、都会をめざす。
20才にして、俳句を始める。
     虫の音を 踏わけいくや 野の小道

そののち7草集をつくる。漢文、漢詩、和歌、俳句を収め、夏目漱石はこれを漢詩で好意的に批評する。
25才にして、「獺祭書屋俳話」を日本に連載し始める。ここで連歌から俳諧を歴史をさかのぼり解説し俳句革新運動の端緒となる。

 唐末の詩人、李商隠は「獺祭魚」と号した。これはカワウソが獲った魚を食べる前に、岸に並べる習性があるように詩をつくる前に、多くの書物を並べ参考とした。書物は、四書五経、史記、漢書以外の多くの通俗的書物をふくみ、このなかから選びだしたおびただしい故事を連ねて詩を構成し、華麗な語句を詩風とした。そして、王安石が評したように、その華麗な表現の奥に深い人間洞察、誠実さがあった。

錦瑟

錦瑟無端五十絃,
一絃一柱思華年。
莊生曉夢迷蝴蝶,
望帝春心托杜鵑。
滄海月明珠有涙,
藍田日暖玉生煙。
此情可待成追憶,
只是當時已惘然

錦瑟 端無くも 五十絃     *錦瑟 妻のかたみの大琴
一絃一柱 華年を思う      *華年 青春時代
莊生の曉夢 胡蝶迷い
望帝の春心 杜鵑に托す     *杜鵑 ほととぎす
滄海 月明らかにして 珠涙有り
藍田 日暖かにして玉煙を生ず  *藍田 架空の色あおき山
此の情 追憶を成すを待つ可けんや
只だ是れ 當時已に惘然     *惘然 茫然自失のさま

 昔荘子は蝶になった夢を見て,その自由さに,暁の夢が覚めて後自分が夢か、蝶が夢なのかを疑った。そして伝説の皇帝である望帝は春めく心を杜鵑に托した故事を使い、月の煌煌と照る蒼海の人魚の涙が真珠となり、呉の姫は藍田山にその姿を追えば,烟として消えた物語、虚構の世界を描き、幻想と現実とを交錯させ儚い追憶の思いを唱った。

無題
昨夜星辰昨夜風
畫樓西畔桂堂東
身無綵鳳雙飛翼
心有靈犀一點通
隔座送鉤春酒暖
分曹射覆蠟燈紅
嗟余聽鼓應官去
走馬蘭臺類轉蓬


昨夜の星辰 昨夜の風
画楼の西畔 桂堂の東
身に彩鳳双飛の翼無きも   *彩鳳とは美しい綾きぬのような羽をもつ神鳥
心に霊犀一点の通ずる有り
座を隔てて送鉤すれば 春酒暖かく  *送鉤 手のうちの金属の環の数あて
曹を分けて射覆すれば 蝋灯紅いなり  *射覆 覆われたものを射当てる
嗟す 余が鼓を聴きて官に応じて去り
馬を蘭台に走らせて転蓬に類るを   *蘭台 政府の記録局
                 *転蓬 風に吹かれてころがってゆく草


 過去と未来の時間と、宴の場桂堂から根無し草のように蘭台に馬をはしらせ空間を駆け抜け、移動する語句で詩を構成し,美しい羽根を持つという神綵鳳そして紅の色彩をちりばめた色彩豊かな言葉を使った。彼の詩人として没入した世界は、最もはかなく、うつろいやすい、愛の世界だった。
 多くの故事の想起するイメージ、隠喩を使い、読む人には同じ像を結ぶ「魔法の青い玉」になり、唐の時代の人のこころを動かし、また毛沢東も愛誦し正岡子規や芥川龍之介をも虜にした。

少年
外戚平羌第一功、
生年二十有重封。
直登宣室螭頭上、
横過甘泉豹尾中
別館覚来雲雨夢、
後門歸去蕙蘭叢。
陵夜猟㶚随田竇、
不識寒郊自轉蓬。 

外戚 羌を平らぐ 第一の功
生年 二十にして重封有り
直ちに宣室 螭頭の上に登り 
横ままに甘泉 豹尾の中を過る
別館に覚め来る 雲雨の夢
後門より歸り去る 蕙蘭の叢
㶚陵の夜猟 田竇に随い
識らず 寒郊に自ら轉蓬する

 外戚はその身内から皇后を出して厚遇される貴族の家柄、父は羌討征に第一の勲功あった名将軍。
生まれながらのめぐまれた家系でそだった少年は何にも勲功なしで年二十歳の若さで、重ねて封禄を増される。
門番がいても素通りし、宮庭のきざはしに登る。また天子の行列を強引に横切ったりする。
その貴公子はまた寝所にも行き勝手に振る舞い、眠りから醒めて夕刻、帰ってゆく。

夜はまた猟をすると外戚の田と竇をおともにしてその文帝の陵墓で猟を楽しんでいる。

めぐまれた貴公子は、飛ぶ転び蓬のように、独りころがってゆく者のあることなど知りもしない。

 李商隠は、唐の末期、国は乱れ相次ぐ反乱,異民族の侵入にあった時代を過ごした。政権中枢は政権争いに明け暮れ、唐は衰退にむかっていった。李商隠は政権内部の権力争いに巻きこまれ、風に吹かれてころがってゆく草のように
官職のため漂泊をよぎなくされた。
 そして若くして相次ぐ肉親の死に遭遇する。人々の運命も力の葛藤や権威の変遷とは関係のない、その人の手のとどかないところで決定されてしまう。こういう世界観にたって新たな詩の世界を生み出した。


 

*魔法の青い玉は「フランスのある寓話に、ある貧しい少年が、魔法使いから一つの青い玉を授かった話がある。その玉は、耐え難い不幸に襲われた時に覗くと、世界の何処かで、いま自分が経験するのと同じ不幸を耐えている見知らぬ人の姿が浮かんでくる。その少年は、その玉を唯一の富とし、その映像のみに励まされて逆境に耐えていく、李商隠が夥しい故事を羅列するとき、それは概ね、彼の意識に浮かんだ青い玉の像だと解してよい。それ故に亦、そこに表現される意味が享受者の精神の玉に何らかの像を結べば充分であり、  」
 
          参考 「李商隠」「詩人の運命」   高橋和己著


2016/02/01

「siri」と「中国語の部屋」


人工知能と進化 

長安一片月 
萬戸打衣聲 
秋風吹不尽 
總是玉關情 
何日平胡虜 
良人罷遠征                  李白



 ヘイsiri 「中国語の部屋」とはなんですか。      
 それはジョン サールと言う哲学者が1980年に考えた思考実験の物語です。
 人工知能のプログラムされた中国語の部屋、そこには小さな人間が入っているとします。外の人が小窓から中国語の文を手渡すと、意味が分からなくてもプログラムされた辞書を必死に調べながら、この小さな人は返事を外に投げ返します。
 この部屋の中の小さな賢人は返事はしますが、中国語が解っていません、またこの作業の意味も理解していません、当然考えているとも言えません。 していることは、多くの事例からいかに正しい返事をするかをマニュアルどおりくり返しているだけです。
 外にいる人間はこの部屋には、中国語を理解している小さな人がいて、中国語の返事をしていると理解し、その返答が洗練されればされるほど小さな賢人は確実に中にいると思えてくるのです。

 しかし、人工知能は人間と同じ漢詩を読んでも、月を見ても、砧を打つ音を聞いても彼の意識に像は浮かばず、こころが揺さぶられることはありません。

 動物は進化の過程で外の世界を認識する能力を獲得してきました。 カエルの目は外の景色のうち、動いているものだけとらえます。もし好物のハエでも動かなければ見えないし、カエルにとってこの世に存在しません。ハエも動いてはじめてカエルの世界にあらわれます。また、カエルの目は空から多いかぶさるものにも反応します。これは鳥などの敵の来襲を知るためです。カエルにとって,宇宙は動くものの明暗のパターンだけでできています。
 は虫類も目の網膜で光を感じる能力はあるものの,脳での解析はおそまつで、敵を遠くまで追いかけたり、夕暮れ時には役のたたないものでした。    その後の進化で2つの目が物を立体的にキャチし,3次元の空間で、きっちりとらえるようになります。

 ほ乳類が最初に生きた時代、地上は昼間は虫類や恐竜に支配され、夜しか安全に活動できませんでした。そのため敵をみつけるのに匂いと音にたよっていました。この時期、とくに聞く能力が発達し、いままでバラバラの雑音であった音を頭の中で組み立て、意味のあるメロディーや叫び声ととらえるような仕組み、時間の感覚がうまれました。

 遠くに生き物がいるか判断するのに、感覚からはいってくる多くの情報にいちいち反応しないで、必要なものだけとりいれます。ばらばらにやってくる光の中から目が色と形をとらえ、耳は多くの空気の振動にまぎれている音をとらえます。この形や色、音をブロックのようなまとまりに分解し、頭の中で処理をして、空間と時間の枠の中でそのブロックをくみたてなおします。そして、敵がうなり声をあげておそってくるかどうかを一瞬のうちに判断します。こうして、こまぎれのシーンはひとつにつながり、世界は動く画像として理解され始めました。

 人間になると記憶が脳に貯えられ、こころの中のイメージがさらに豊かになり、時間は空間とおなじような感じであつかえるようになりました。そして過去や未来が生まれ空想し、文字をつらねて言葉がうまれました。それらをくみあわせて詩や物語を生み出しました。

 人が言語を覚える様子は特性があって、2才前後の言葉の爆発期があります,ものの名前を覚える時,自分の見た視覚情報や聞こえてくる聴覚情報などを時間と空間の中で統合して、さらに自分自身のデーターから予測する。
 この自分自身のデーターが重要で、表層の情報のくみあわせの深部にある意味を持つ塊をドンンドンつくっていき、急速に言語を覚え文法をつくるしくみです。今これが何であるかを機械に学習させるディープラーニングというアルゴリズムの研究が急速に進みつつある。
 コンピュータは単語レヴェルでの言葉の頻度分析や解析は得意で、今でも事実を記述することはかなりできるようになってた。しかし、小説を書いたり詩をつくったりはなかなか機械にはできません。
 これは人間の言語能力の根幹にかかわることで、同じ花でも、バラは西欧の文化的背景をもち、牡丹は東洋の文化的背景をもち、この隠喩を使い、他の領域の知識パターンを使い、抽象化をして物語をつくる。この文化的、歴史的背景などの組み合わせる能力はコンピューターにとってはまだ獲得できていません。

 視覚に関しても、進化の過程で、人間の脳は不要な情報は一気に捨ててしまい、必要な情報だけを時間空間の位相空間に配置し、画像を一瞬見て認識する能力が発達してきた。
 人間は顔の表情に対して非常に感度が高く、少しの唇の動き、少しの目の動き、少しの目尻のしわから相手が喜んでいるのか,悲しんでいるのか、恐れているのかを読み取る。これを人工知能がいかに学んで使えるようになるのかが重要で、この機能を待たせるためには、コンピューターでは顔などの画像を数多く教えこんで、どの画像に近似するかを判断できるようにし、さらにその画像の特定の部位に注目して特徴量をつくり出すことが行われています。
 
 アイフォーン のsiri はヘイ シリーといって話しかければ中に入った人工知能が相手をしてくれるのは、すでに日常化している光景です。これは最近のウェッブが急速に発達し人の声や行動がデータとして、蓄積され、しだいに箱の中の小さい人は賢くなってきています。人工知能の最近の進化は急速で、人間の機能に近づく日は遠くない気がします。


 

                         

2016/01/09

観光立国


 昨年、国外からの観光客が1900万人を超えた。中国からの観光客が爆買いする姿は何度も放送され、東京、大阪、北海道、九州が主な観光地で今年は2000万人を超える予想で、これらの観光客が地方にも多く訪れることが期待されている。

 一方、40年ぶりに田舎の温泉街に日曜の午後に訪れ昔からお気に入りの海の見えるコーヒー店を探した。その店の旅館は廃業し、まわりには朽ちそうな閉店した店、シャッターをおろした店、そしてふるびた自動販売機ばかり目について、観光客らしい人影は殆ど見当たらず、一件の真新しいホテルにかわっていた。

 かつて日本が経済を成長させた1960年代から1980年代にかけて、その温泉街は会社の社員など団体観光客を対象にしてたくさん人を集めにぎわっていた。 日本中、どの温泉でも大広間にみんなで浴衣に着替えて宴会を楽しみ、ゆかたのまま、街に出て散策する。それが、バブルの時代に頂点をむかえる。  日本の観光地である温泉宿も自然や土地の風物が目的ではない、年に1度か2度のゴールデンウイークやお盆、正月のはれの場所を提供していた。 
 その時代は過ぎ去り、若者や家族が、温泉を自然を癒しの場として利用するようになり、しだいにこの会社ぐるみの集団行動は時代遅れになっていった。そして、今では、外国の旅行客がこの日本人のみの嗜好と思われていた温泉にも訪れるようになってきた。

 時代は確実に変化をしているのに、観光を提供する側が、この時代の変遷に気がつかず、白浜の美しかった海岸はテトラポッドの山になり、海岸はコンクリートの護岸堤防となっていた。海はかつての青い海ではなく、生活排水でよどみ、海岸線の松並木は手入れも行き届かない貧相な緑になってしまっていた。昔の温泉は河や山や海と一体になったくつろぎの世界であった。温泉旅館の中をかざりたてても、まわりの景色が破壊されてしまえばくつろぎの場所ではなくなってしまうことを忘れ、経済の発展とともに、このまわりの海岸の自然は変貌をとげ、新しいコンクリートにかわってしまった。

 一部の特殊な場所以外、日本の多くの地域で、なぜこういったことになったのか。これを分析したのがアレックス カーで2001年に Dogs and Demonsをアメリカで出版し翌年2002年日本語の「犬と鬼」を出版した。その文化論は今でも正鵠を射ている。

 「1993年には、全海岸の55%が完全にコンクリート ブロックやテトラポットで固められた。落ち葉が汚いからといって、紅葉の木々は剪定され、河の自然はコンクリートで美しく整備され、きれいになった。
 この文化の根源は、日本の自然に対する放任ではなくコントロールの思想に求められる。盆栽、生け花、石庭といった日本の伝統芸術は、自然を自然のままにではなく、人の手できれいに仕立てる技が重視される。」
 「犬は難く、鬼は易し、ここで言う犬とはゾーニングであり、広告の規制であり、樹木の管理、電線の埋没、歴史的景観の保護、 鬼は文化ホールや、博物館、モニュメントの建築であり、高速道路である。」戦後の荒廃からの復興は、近代的な工業製品に代表されるピカピカの真新しいものがもてはやされ、歴史的な物は古くさいものとして捨て去られてしまった。その結果、この40年間で日本の自然はかなり劣化してしまい、日本の歴史や、伝統文化も開発によって衰退した。それを国をあげて推進し暴走し、だれも抑制することができなかった。
 
 最近ようやくみなおされつつあるように、かつての日本列島は火山国であり、敷島のみどりなす千路の島々は,海岸は波が岩をあらい、白い砂浜を形つくっていた。 現在人気の日本食や日本の製品の他に、その海や山や川、林、などの自然を回復すれば、日本の全国の古都や歴史的な建物や文化が街全体として世界中の観光客にとって魅力的になれば、そして日本の文化遺産を国際的に高く評価されるようにすれば、世界有数の観光立国は夢ではなくなる。

 たとえばタイには年間400万人以上のアメリカヨーロッパの観光客がバンコクだけでなく、チェンマイやアユタヤをおとずれ、合計2500万人以上の観光客をうけいれている。日本と同様に多くの国民はタイ語しか話せません、しかし30年以上前から、伝統文化、その土地の特有の竹や木材を使ったホテルをつくり、遺跡など観光資源を大切にし、パタヤビーチも新たな発想を取入れ、世界中の観光客の滞在するリゾート地となり環境やホテルも世界標準に達している。

 時代は工業化によるコンクリートや真新しいプラスチックの石油大量の石油生品の近代主義から、より自然で環境にあった古来からの素材を使い、風景をより新しい技術で復活させる脱工業化(ポスト モダン)の時代になりつつある。これが実現できれば、夢は現実となる。