林芙美子は旅行、放浪を題材にして多くの作品をうみだし、満州事変から日中戦争(支那事変)、対米戦にいたる庶民の眼でみた昭和時代の記録になっている。
1928年(昭和3年)尾道から東京に上京した生活を描いた放浪記の連載を始め、昭和恐慌時代の日本の流行作家となる。
その後も、多くの旅行をしている。満州事変の2年前、満州から中国にかけての旅行を1月にわたりする。
そして、私はハルピンが好きと書いた「ハルピンのお散歩」を1930年(昭和5年)に出している。当時ハルピンのあたりの人口は51万人、1895年ロシア帝国はこの地に東洋のモスクワの建設を目指し巨額の費用をかけて街を作った。
その約10分の1が白系ロシア人であり、そしてユダヤ系住民、アメリカ人、イギリス人ドイツ人も多く住み異国情緒漂う町でもあった。そこで、国内にはない、広軌の列車に乗り、紅茶を飲み、初めての洋服を買い、「世界大旅行にでかけているような愉しい気持ちでした。」とうきうきした気分で、はじめての海外旅行を楽しんだ。
日本は、1931年(昭和6年)満州事変を起こし、満州国を建国した。満州国の創設を企てた軍の考えは対ソ連の緩衝地帯としての国を作り上げそれを日本のコントロール下に置くことにあった。
同じ年1931年(昭和6年)27才の時、シベリア鉄道を使って一人で巴里に向う。金子光晴たちの貧乏生活に勇気つけられたのか、権威や地位、社会的地位すべてからはなれた生活を送った林芙美子もまた底辺に近い人々の目線を持っていた。フランスで自炊し、着物を着て歩きまわる生活を半年にわたり続け「西伯亜の三等列車」「下駄で歩いた巴里」「巴里の小遣い帳」を出版。
1932年(昭和7年)ロンドンの支那人コミンテルンでは、上海市街戦に対する反日デモを見、その後にマルクスの墓をおとずれる。 同年5月パリから日本への帰国 6月には帰国途中の上海で魯迅にあった。
その後も国外の旅を続け、中国には第1次上海事変直後 日中戦争(支那事変)後の第二次上海事変、南京陥落直後の四回訪れている。
1937年(昭和12年)日本政府は言論取り締まり強化の方針を発表した。そして12月には人民戦線事件で自由主義者も獄につないで発言を封じる。
同年7月7日の日中戦争(支那事変)の勃発。直後の12月南京陥落、毎日新聞の特派員として上海から南京にむかった。その記事が上海一番乗りとして読者の注目を集め、さらに翌1938年(昭和13年)9月の漢口攻撃戦に作家として兵隊たちと一緒に従軍し漢口一番乗りをはたした。
この年には国家総動員法が制定された。
多くの国民は戦争を支持し、林芙美子は「国の宣伝下手は日本の益をゆがめられてしまう、民間から偉いジャアナリストを選んで宣伝省と云うのでも造ったらどんなもんだろう。」と提言し、それに応えて、日本政府は全文壇を揺り動かした文人の従軍ペン部隊をつくった。この内閣情報部派遣のペン部隊に選ばれるのは一流作家の証となり,北原白秋はその中に大衆作家の多く詩人の少ないことを問題にしたほどで、選考にもれた人は悔しがった。
首相官邸で発表された作家は合計23名でそれぞれ陸軍と海軍に分かれ、その中で林芙美子は、陸軍に選ばれた唯一の女性作家となった。
1938年(昭和13年)9月国民党政府は南京陥落の後、漢口に首都を移していた。その首都を攻めるために日本軍が30万人を動員し国民党軍との戦いに臨んだ。
林芙美子のあくなき情熱は危険もおそれない冒険心を生み出し、漢口攻略戦の従軍作家として、揚子江に沿って漢口まで朝日新聞の報道部隊とトラックに乗り兵士たちと一緒に行動し漢口一番乗りをはたした。その戦場のルポルタージュ「戦線」は戦場の自然そして日常としての戦いを感情をこめ、臨場感あふれる筆で書き上げ、当時の日本の国内の人々、読者を引きつけ、圧倒的支持を得た。
「銃声や砲声を聞き最初は寝ることができなかったものが次第に慣れてきた。そして敵兵の死体を見ても恐怖を抱かず何の感傷もわかないどうした事なのだろうか、その気持ちを不審に思ってた」と記している。
今まで戦場は遠いものであり想像でしかなかった。それが現場のルポルタージュで、現在の報道映像と同じ程度に鮮明に描き出して、当時の庶民の感情そのものの記録を書き送った。
「私は兵隊が好きだ。
空想も感情もそっと秘めて、
砲火に華と砕けて逝く。」
愛国は時代の風潮であり、 庶民作家は事変とともに一躍ときの人となる。朝日新聞や中央公論発行の「戦線」や「北岸部隊」はベストセラーとなり、林芙美子は全国の講演会で従軍を語り、流行歌や演劇にもなった。
「この時代と共に、私は逞しく素朴に進んでゆきたいと思っています。」
1940年(昭和15年)満州国への一人旅「凍れる大地」を朝日新聞の後援でルボルタージュの記事を発表した。林文子の書いた満州は10年前と比べて暗いものであった。「ハルピンのお散歩」で描いた満州は林文子のにとって憧れの外地であった。その後、日本は、満州国を独立させ、国策のために多くの子供を含め貧農業の人々を各都道府県に割り当てて半ば強制的に満州に送り込んだ。
「日本の現状を非常に案じて,何かしら重苦しいものが始終頭の中を去来している。」
そして「青少年義勇軍にも行ってみたが今は何も言いたくない」とその後も義勇軍については何も語らず過ごした。
1942年(昭和42年)南方派遣でマレー
ジャワ ボルネオ島半年間の旅行をする。当時日本の占領下、比較的安定した時期で戦闘はなく,南方初だよりなどの数編の報告を雑誌に発表した。以降、敗戦までは疎開して、寡作になった。
時代の意見に反対することは難しく時代の流れに乗るのは容易い。情報が制限された時、みようとしないものは見えないのもので、努力して見ようとして初めて形に現れる事実もある。林文子の考えの枠組みの中には、中国の世界はどこにもない。なぜ反日になるのかは想像もしていない。マルクスは貧乏人の味方だったし、お国の為に戦っている兵隊さんは偉い、そして戦場にともに生きる馬たちをいとおしく思う。
嵐のように去った戦争では、死んだ人が一番可哀想と思い,戦後も不運な運命のひとびとの物語を書き続けた。

