年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。
それはあのとき我々の手からすり抜けていった。
でもまだ大丈夫。
明日はもっと速く走ろう。
両腕をもっと先まで差し出そう。
そうすればある晴れた朝に----
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。
流れに立ち向かうボートのように、
絶え間なく過去へと押し戻されながら。
グレート ギャツビー 村上 春樹 訳
スコット フィッツジェラルド
フィツジェラルドは1896年アメリカの北部ミネソタ州セントポール生まれる。1917年プリンストン大学を中退して陸軍に入隊。第一次大戦は猛威を振るったインフルエンザのためヨーロッパに渡らず、南部アラバマ州のモンゴメリーで駐屯しゼルダと会う。
1920年「楽園のこちら側」で若き時代の作家としてみとめられ、新鮮な表現で、生まれた街を舞台にした「氷の宮殿」などの多くの短篇を創作する。
同じ年「古い窓の敷居に腕を載せ、その上に顎を載せ、眠そうな目で砂ぼこりのチラチラ光る路上を眺めていた。」南部生まれのセルダと結婚した。
第一次大戦後のアメリカも、以前あったヴィクトリア時代のモラルは変貌し、怒ったそして新しいタイプの若者が生まれた。 この狂乱のニューヨークにセルダとともに住み、小説そのままの生活を送り、時代の代弁者、時代の申し子にフィッツジェラルドはなる。
フラッパーが生まれ、自らの作品で描いた「ジャズエイジ」の新しい世代が姿を現し、「ニューヨークは世界の誕生を思わせるような虹色の輝きに溢れていた.」
「我々にとってのニューヨークはていどの差こそあれ、酒びたりのどんちゃん騒ぎの街であった。生活を立て直さねばという決心もロング アイランドに戻るまでのこと、戻ってしまえば全てはもとの木阿弥という有様だった。」
1924年長女スコッティーをつれて3人でフランスにわたり「グレート ギャッツビー」を書き上げ出版する。この作品がいまでもアメリカの教科書にものる20世紀最大のアメリカ文学作品となる。
ニューヨークの東、ロングアイランドを舞台にして大金持ちのギャツピーが、暑い夏の日、自宅で夜な夜な豪華なパーティーを開き、オーケストラが演奏されジャッズがうたわれ、舞台では演劇がそしてダンスとお酒の盛大な騒ぎが繰り広げられる。パーティーの主催者ギャツビーが何者であり何のために人々を招き主催するのか謎であった。
隣の住人ニック キャラウエイによって語りすすめられるギャツビーの人生。ギャツビーの過去はしだいに明らかになり、デージーと再会し、そして夏の終わりのプールで悲しい結末を迎える。
第一次大戦後のフランスは文化の中心として世界中から人々を惹きつけた。 世界から小説家など多くの芸術家が集まり毎日が祝祭日の生活を楽しんでいた。そして日本からも多くの画家、小説家の卵や財閥家族などの金持ちがパリの生活を楽しんだ。パリにわたったアメリカ人も芸術のインスピレーションを得て多くの作品を描いた。
「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮す事ができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。」
1925年パリでフィッツジェラルドは最初の短編集「われらの時代」をだしたばかりの若いヘミングウェイと知り会い意気投合している。
フィッツジェラルドはヘミングウェイの才能を認め、「日はまた昇る」のアドバイスをしたり、出版社を紹介したりした。そして「アーネストは雄牛で僕は蝶だ。蝶は美しい しかし雄牛は存在する。」と彼の才能を讃えている。
一方ヘミングウエイはフィッツジェラルドのあまりに繊細でアルコールにおぼれるパリでの様子と、通俗的と思える物語の中に、人間の奥深いこころの底を浮かび上がらせる小説について、後の「移動祝祭日」のなかで描いている。
「彼の才能は蝶の羽の鱗粉があやなす模様のように自然だった。
ある時期まで、彼は蝶と同じようにそのことを理解しておらず、模様が払いおとされたり、損なわれたりしても、気づかなかった。
のちに彼は傷ついた羽根とその構造を意識し、深く考えるようになったが、もはや飛翔への愛が失われていたがゆえに、飛ぶことはできなかった。
残されたのは、いともたやすく飛ぶことができた頃の思い出だけだった。」
その後、ボルチモア郊外にこもり書き上げたのが、セルダとの生活を小説化した「夜はやさし」で新たなフィッツジェラルドの長編小説であった。
アメリカ人富裕階級の世界を、精神科医ディック ダイバーと患者であり後に結婚するニコルとのフランス生活、若い女優ローズマリーと出会い、心の葛藤をえがいた。
セルダの病気や自らのアルコール中毒、17才の女優との関係を作品にしたもので、1934年出版。実際セルダは精神に変調をきたし1930年スイスで療養生活にはいり、アメリカに帰国してからも、入退院を繰り返した。
2人の小説家としての立場はしだいに逆転しフィッツジェラルドはかつての栄光をとりもどそうと焦燥感をつのらせ、一方ヘミングウエイはしだいに認められ「武器よさらば」などで小説家として成功者となる。 彼は「夜はやさし」の書評の中で、わんぱくなガキが軟弱だが才能のある少年、フィッツジェラルドにたいして、あざ笑うような優越感をいだいていたと書き記している。
小説のような生活を送り、自らの実生活を小説化する作家フィツジャラルドはアルコールに溺れ、若すぎる晩年はハリウッドで劇作家として、かつての華やかさとは遠い生活を送った。映画「風とともに去りぬ」のスカレーット オハラの台詞をつくったり、ハリウッドの世界を小説にした。その後、セルダとも離れ、未完の小説「ラスト タイクーン」を残して44才の若さで死亡した。
2人の活躍した時代、フランスで生活をした小説家も多かった。国内では芥川龍之介、中野重治、横光利一などが活躍し彼らの小説はヨーロッパの文化の大きな影響をうけていた。しかしアメリカ文学はほとんど日本には紹介されず、フィッツジェラルドやヘミングウエーの小説の影響力はみられていない。
かれらの小説が反知性主義的な文体あるいは、通俗小説的な文学であったためか、あるいはよき翻訳者に巡り合わなかったためか、また生活様式の差なのか。
彼らロストジェネレイションの文学が日本に受け入れられたのは第二次大戦後で、フィッツジェラルドは現在再評価されている。



