花と龍は玉井金五郎とおマンの若松での活躍を描いた映画で、1970年(昭和45年)と1969年(昭和44年)二度にわたり玉井金語楼役を高倉健が主演し任侠映画のスターとして確固たる地位を築いた。1973年(昭和48年)には渡哲也が、それ以前には石原裕次郎や中村錦の助が主演するなど有名な映画スターが主役を演じる昭和日本映画の様式美を体現した作品だった。
1960年代になると、テレビはお茶の間に入り家庭での人気を集め、古い時代劇、明るく楽しい時代劇映画が衰退し、映画も1963年(昭和38年)頃にはアラビアのロレンスとか007のジェームスボンドなどのアメリカ映画、ハリウッドの大作が日本を席巻していた。その年の映画の視聴者は全盛期1958年(昭和33年)の半分以下になってしまい、特に日本映画は日活も東映も観る人は激減した。
それに打ち勝つために東映では客層を絞り、オールナイト興行で学生や、テレビを見ない、アメリカ映画を見ない人々にむけて義理と人情の虚構の世界、様式美の世界を描いた任侠映画路線をうちだし、高倉健、藤純子を一流スターにした。いままで世間的にはきわものであった任侠映画が東映作品の3割を占めるドル箱路線になった。2人の主演した花と龍は1つの時代を作った作品となった。
しかし1973年(昭和48年)に仁義なき戦いと言う実録物映画がつくられ、義理と人情の任侠映画も次第に変貌していった。
玉井金五郎とマンの長男玉井勝則(火野葦平)は1906年(明治39年)うまれ。早稲田大学を中退し軍に志願し入隊,家業を継いだ後31才で中国戦線に出征。1938年(昭和13年)社会の底辺の人々の生活を小説家した作品「糞尿談」で芥川賞をとり、中国の戦場で授与式をし、土と兵隊、花と兵隊などの連載を雑誌や新聞にのせる。
1937年(昭和12年)9月の杭州湾上陸作戦を「土と兵隊」に、1938年(昭和13年)5月徐州会戦を「麦と兵隊」に書いて発表した。これらの戦場のルポルタージュ文学は当時の日本におけるベストセラーとなりとなり火野葦平は引っ張りだこになり、各社は火野の原稿を手に入れるためあらゆる手段を使い、郵送より早い中国からの電報が原稿となった。
当時の様子を大宅壮一は以下のように記している。
去年1938年(昭和13年)の12月。火野葦平の「海と兵隊」「花と兵隊」が東西の四大新聞に同時に連載され出したときは,世間は驚きの目をみはった。火野文学が全日本を風靡したのは、あの無駄のない峻厳な,動的な、きびきびした描写とあの事態に処してゆるがない作家精神と目は誰も持ち合わせているものでなく、
そして当時それぞれに身内の親しい人々を戦線に送った民衆が最も切実に要求したものは戦っている兵隊自身の目に映ったありのままの戦争の姿を知りたい、それと前線の兵隊さんに対する国民大衆の感謝の念がふくまれていた。前線の兵隊の間からあらわれたこの要求に最も忠実に答えた最初の作家として多くのファンを得たのが火野文学である。
作品は映画され、戦闘場面はほとんどとなく長々と広い大地、麦畑を行進する日本軍が描かれている「麦と兵隊」は文部省推薦となる。 さらにこの麦と兵隊は、除州除州と人馬は進む徐州は良いか住み良いかの歌詞となり、東海林太郎が歌って流行している。 当時、日本は上海から上陸し南京を陥落させ、国民党政府を敗走させ陸軍主導で国をあげて戦勝ムードにあった。
その後の火野文学について、「作者は事実の記録をたんねんに行い,精緻な表現力をもっているので、もしチャンスがあれば世にも稀なルポルタージュが生まれてくるであろう」と大宅壮一は予想していた。
1944年(昭和19年)インパール作戦に報道班員として従軍。ぼうだいな当時の記録を手帖に残し、それをもとにして戦後1948年(昭和23年)「青春と泥濘」を発表。これは単なるルポルタージュではない、報道制限をうけない自由な言論空間の下で、戦争の真実を書き上げようとした。
そして「戦場で生死をともにした兵隊たちに対しても,多少の責任と使命を果たし得た気持ちもある。私は最後の行を書き終わったとき、いろいろな感慨が殺到して来て胸が熱くなり、いつか、涙をながしていた。」
このインパール作戦は真珠湾攻撃から2年3ヶ月たち、太平洋の島々で日本軍は敗北し玉砕をくり返していた。中国と東南アジアでも苦戦し、起死回生の大作戦として、インドから蒋介石への援助を断ち切る構想のもとにビルマからアラカン山脈を越えインドのインパールを占拠する一大作戦で牛2万頭に糧抹を運搬させ、それを食料にする、3週間で作戦は終了するという計画であった。
結果は惨憺たる敗北で、火野葦平は作戦後の9月に帰国し、陸軍大臣杉山元に大本営陸軍部であう。「インパール作戦、ならびに、ビルマ戦線全般について、率直に,考えたとおりを述べよ」といわれ,事実を具体的に説明し「このまま進めば、由々しき結果を将来することを恐れます。」と餓死と病死と物資不足の過酷な戦場の実態を訴えた。しかしこの報告をそんなかねえと首を傾げる人もあり、まだ望みは充分あるとの返事であった。「そんな原始的な精神力ではもう間にあわなくなっているのに、軍の中心となる責任者が、まだそんなことをいっているのが、私は悲しかった。」と手帖に記録している。
第二次大戦後1952年(昭和27年)花と龍を,読売新聞に連載し再びブームをつくり、1959年(昭和34年)「革命前後」を中央公論に連載。そして翌年、或る漠然とした不安のため睡眠薬で自殺した。

