2018/06/11

草野心平と詩人黄瀛

川面に春の光はまぶしく溢れ。
そよ風が吹けば光たちの鬼ごっこ葦の葉のささやき。
行行子は鳴く。行行子の舌にも春のひかり。

土堤の下のうまごやしの原に。
自分の顔は両掌のなかに。
ふりそそぐ春の光に却って物憂く。
眺めていた。

少女たちはうまごやしの花を摘んでは巧みな手さばきで花環をつくる。
それをなわにして縄跳びをする。花環が円を描くとそのなかに富士がはいる。
その度に富士は近ずき。とおくに坐る。

耳には行行子。
頬にはひかり。


 草野心平は1921(大正10年)年1月、日本を出て、中国広東にあった嶺南大学に入学した。1903年(明治36年)512日生まれの心平、18歳の時であった。嶺南大学はアメリカ型のミッションスクールで、外国人が経営する学校で独自のカリキュラムで運営されていた。教員の4割は中国人、残りの多くはアメリカ人の教師であった。

 この頃中国では五-四運動が始まった。これは日本の対華21箇条の要求を中国政府が受け入れたことに反対する反日運動であった。

1923年(大正12年)はじめての詩集「廃園の喇叭」を発表する。中国の広州にいて、1925年(大正14年)もっとも中国らしい名前の同人誌「銅羅」を発刊した。
 当時草野心平は無名であった。「春と修羅」の詩を読み、それに感動し「銅羅」に、やはり無名の宮沢賢治の作品も載せた。その詩を「表現過程においていつの間にか、天然自然が濾過器としての彼を透って、賢治的な心象風景を描いた」と評して高く評価した。この「銅羅」には草野心平を中心に黄瀛、宮沢賢治、高橋清吉、三好十郎など多くの詩人が参加した

 この中で、当時は黄瀛が詩人としてもっとも有名だった。黄瀛は中国人の父と日本人の母の間に生まれたハーフで、中国の青島日本中学校時代、多くの日本語の詩を発表し、日本でも認められていた。その後、進学のため日本にわたり、高村光太郎のアトリエで多くの時間をすごしていた。その頃草野心平を光太郎に紹介した。
 そして高村光太郎のもとに黄瀛、賢治、心平は私淑することになる。
 その後、黄瀛は文化学院に在籍した後、陸軍士官学校に入学、2年後に卒業する。1931年(昭和6年)南京にわたり蒋介石の国民党に参加する。

1928年(昭和3年)に「銅羅」は廃刊、草野心平は同年11月「第百階級」を出版、生活に苦しみながら詩を創作する。そして1935年(昭和10年)には歴程を創刊する。

秋の夜の会話
 
さむいね。
ああさむいね。
虫がないてるね。
ああ虫がないてるね。
もうすぐ土の中だね。
土の中はいやだね。
痩せたね。
君もずいぶん痩せたね。
どこがこんなに切ないんだろうね。
腹だろうかね。
腹とったら死ぬだろうね。
死にたかないね。
さむいね。
ああ虫がないてるね。


 1937年(昭和12年)盧溝橋事件から、日中の全面戦争になる。その後、蒋介石の国民党とドイツの仲介により日本との和解が進められた。それに対し、日本の陸軍参謀本部は現実的判断から和平を求めた。一方近衛内閣は国民の熱気におされ、賠償責任が必要であると主張し和解交渉は決裂した。1938年(昭和13年)、近衛内閣が国民政府を相手にせずと声明を出し、日本は汪兆銘を担ぎ出し南京政府を作った。
 中国には共産党の延安政権 、蒋介石の指揮する国民党の重慶政権そして南京にそれらに対抗するための日本が支える汪兆銘の南京政府が併立する状態になった。

 草野心平の大学時代の同級生は延安の共産党、重慶の国民党そして南京の汪兆銘政権に別れた。草野心平は、林柏生にさそわれ 1940年(昭和15年)汪兆銘の南京政府宣伝部顧問として南京に向かった
  1942年(昭和17年)には日本政府の支援のもと、第一回大東亜文学者大会が開催された。中華民国から草野心平が文学者の代表として出席し、1944年(昭和19年)には第3回目の大東亞文学者大会が開かれた。しかし、汪兆銘は病死し次第に色あせた会議になってしまった。

1945年(昭和20年)日本は敗戰、草野心平は、国民党軍軍人として接収のため南京に来た黄瀛と再会した。

一つのふるさとからいつのまにかおれにも一つのふるさとが出来。
二つが別別の二つでありさうして一つであることの希願から。
大きな亜細亜の命運のなかで。
けれどもおれがみたものは。
いまはまさしく敗亡のみじめなざまだ。
中国なくして日本なく日本なくして中国なし。の系譜を正しく踏もうとして。
けれども夢は阿修羅になって迫るいま。
生ま身をひきさく別離の胸にやぶける金属音。

 敗戦後の1946年(昭和21年)3月草野心平は中国から帰り福島県の阿武隈山脈の下の生家に帰った、そして歴程を復刊する。
 黄瀛は1949年(昭和24年)国民党の将校として中国共産党に囚われ入獄、1962年(昭和37年)出獄。1966年(昭和41年)文化大革命で獄中の人となり、  11年後に解放され、四川外語学院で日本語と日本文学を教える、そして教授になる。

生きていれば きっといい時世が
来るにちがいない
こんな時はかなさは
すっかり取り除かれて
いるにちがいない
高い梢の桐の花
石垣一ぱいの
明るい金色の名なし草
夏の早い雲足さっときてさっと戻る
さんさ時雨

後来有期


 草野心平の尊敬する師は高村光太郎であり、大いなる影響を受けた詩人は天上の作家
宮沢賢治で、自らは地上の詩人であった。そして黄瀛は自分の存在自体が詩でありたいと願い終生詩を書き続けた。

2018/05/22

日本的医療文化 変わったこと変わらないこと

  • 戦後の日本は、国民皆保険制度を確立し、誰でも、どこでも、同じ治療が安い医療費で受けられる、お任せ型の医療を確立した。
  •  その後、医療の技術は進歩しはじめた。現在使われているCT検査は 1970年代に、またMRIは1980年代に発明された。その頃カテーテルによる心臓治療が始まり、内視鏡も進歩し薬も続々と開発された。 それとともに1980年代には、医療費20兆円越え、医療費亡国論が唱えられた。すでに、日本は少子高齢化に向かっていて、この医療費を放置すると、国の財政が破綻する、特に多くの種類の多くの薬が使われ、薬代が医療費の全体の30パーセントをしめていて、これを削減する必要があると言われた。
 当時先進国では、専門に分化しすぎている臨床医を、専門医と家庭医に分けることが行われていた。1985年(昭和60年)日本でも家庭医に関する懇談会できた。しかし、2年後の1987年(昭和62年)反対に会い、家庭医構想は頓挫した。
  1990年代半ばからデジタル技術の時代がはじまった 。デジタル技術が定型的な仕事、給料の計算や自動車などの溶接作業などを肩代わりし、それを使って人間は判断することに集中でき作業の効率は改善した。
 医療の分野でもこの IT技術の活用が期待された。しかしこの時期のコンピューターシステムは取り入れても、作業の手間は変わらず、業務は効率化しないで、お金だけかかった。

 2000年(平成12年)医療費は約30兆円になり、公的介護保険制度ができる。当時、病院改革すなわち病院の質の向上が、問題となり、また医療の研修が問題になり、高齢者医療費増大が問題になった。
 2004年(平成16年)医局体制を大学病院の独占から、市中病院も加わった研修医制度ができた。それにより医局支配の体制は弱くなった。

 そして2001年(平成13年)小泉内閣になると、財政再建のため医療費の支出に総枠を決めて削減した。この医療費の削減が医療崩壊をもたらしたとして批判され、その後医療費削減は困難になった。

  以前から課題であった、医療情報の開示、医療機関の第三者評価を進めるとともに、ITなども活用しながら、科学的根拠に基づいた医療(エビデンス ベイスド メディシン)を確立していくことが目標となった。多くの医療機関同士で患者の病名や処置のなどの情報の共有を目指した、電子カルテを使った情報化がすすめられた。しかしコストのかかりすぎや、情報流出の懸念からなかなか進歩、普及が見られなかった。
 この頃になると、日本の医療保険制度は世界的に優れていることに疑問符がつきだした。財政的には赤字の先送りによって支えられ、医療関係者の過重労働に支えられ、技術は最先端ではなく、IT化もそれほど進んではいないし、医療のシステムや情報の開示は遅れているのではないかのと。

 2010年(平成22年)医療費は介護を含め約40兆円となる。


 この数年で、医療にもIT技術が急速に取り入れられた。 世界最強の囲碁のチャンピオンを倒したアルファ碁の会社ディープ マインド社はイギリスの公共医療シシテム、国民医療サービス(NHS)と共同でこの技術を医療システムに適用し、新しいシステムを開発しつつある。
  また韓国では医療情報化政策で、今では医療機関のあいだ、医療機関と患者の間の情報共有がITで実現していて、医療機関の質の評価が行われ、各病院の実績が公表されている。そしてアプリ「健康情報」でだれでも見ることができる。さらに、「マイチャート」で診察の時患者が情報共有に同意すれば、クラウド上に検査結果や薬の処方が記録されいつでも見て使うことができる。
 医療技術では機械が視力を獲得し、情報集め、診断をするようになった。医療における画像診断、CT やMRIや、顕微鏡でみる病理診断、あるいは胃カメラや大腸のカメラの画像、心電図や心臓エコーの診断も出来始めた。ディープマインド社は眼球のスキャン画像100万枚を解析して失明経過を明らかにし、ロンドンでは頭頸部のがんCT、MRIの画像から、効果的放射線治療の研究を行なっている。

 さらに機械が耳を持ち音声入力が可能となった。
そして2016年Microsoft社が会話における音声認識で人間と同じ役割を果たすことに成功した。医療や介護の現場で時間がかかり面倒なことは、活動の記録を規則にしたがって正確に書き残す作業で、多くの時間がこの作業に費やされている。電子カルテの方法でかなり改善したもののいまだ手書きの書類作成は必要で、これがすべて音声による正確な記載ができれば本来の医療にもっと集中できる。
 ロボットの進化で手となり足となる機能も進歩した。アメリカの国防高等研究計画局が膨大な予算をつぎ込んで1999年ロボットダヴィンチが完成、世界中で多くの手術に使われている。
 さらには人間の判断、頭脳も機械がかわりにでき始めた。現在IBM社のワトソンを使って病気の診断をし、さらに日本の保険会社がこのワトソンを使って、過去の保険金の支払い例を評価し学習して専門的知識を身につけた。これは健康診断のデーターから将来の病気の可能性を評価する方向に進化する。

 技術は進歩する。この30年間、機械化(コンピュウター化)で病院などの医療システム、教育、治療が大きく変わる時代に入った。一方、日本の医療文化は変わらないことも多かった。

 今後このITを使った技術を日本の医療文化にどのように取り入れて、医療のシステムを変えていくのかが問われている。一方、少子化と高齢化が急速で、そのための財源が問題となっている。高齢者の国日本、働き手の激減する日本社会で、財政問題から日本の医療文化も今後根本的な変更が迫られるかもしれません。

2018/04/22

春と修羅 シャーマン宮沢賢治


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

  • 宮澤賢治は「春と修羅」の中で私とは、映画の画像のように明滅する現象で、また私が感知する人や銀河など宇宙の中の世界も同じであるととらえた。
  • 科学的思考の枠組み、言葉を使って、自分という存在を、また外界の自然や世界を(量子力学のような物質の波動であり粒子であることを)理解し、時間の中の地史、歴史も同じように考え、詩として組み立てようとした。
 また、仏教的世界感で世界を理解し、農芸化学の知識と鉱物学や物理学の言葉を詩にちりばめ、自分の心が感じる風景、心象をスケッチし表現した。
 

 1930年代日本は社会が不安定になり、資本家に対する不満、近代社会に対する不満から、
社会主義や反資本主義の運動が盛んになった。
このなかには北一輝など天皇制を変革のシンボルとする国家主義者や、柳田國男の民俗学者、
あるいは橘孝三郎などの農本主義者たちが社会改革の運動を理論化し展開した。

 宗教では、日蓮を人類救済の唯一の人とし、法華経を信じ、日本の国体を護り立正安国の真の世界を目指す宗教家、田中智学の主催する国柱会はかなりの人々に影響を与えていた。当時、日蓮宗は北一輝、石原莞爾、三好達治らも信奉し、宮沢賢治もこの教えに感動し、「正しくつよく生きるとは、銀河系を自らのなかに意識してこれに応じて生きていくことである。」「春の風とゆききし、雲からエネルギーをとれ。」と日蓮宗の熱烈な信徒となり、国柱会に参加し社会活動をめざした。
 
 同時に1920年代から1930年代にかけては科学の時代でもあった。アインシュタインの相対性理論が発表され、ハイゼルベルグが不確定性原理を発表、鉱石学、天文学、通信科学などが注目され、多くの雑誌が出された。子供達も顕微鏡や望遠鏡で遊びながら科学者になる夢を見た時代だった。

 また、文学とりわけ詩の世界では北原白秋が詩や短歌から、童謡の作詞家となり、多くの作品を生み出していた。

 宮沢賢治は1896年(明治29年)岩手県に生まれる。父親は熱心な浄土真宗信者で、その家の長男として宗教的家庭で育ち、1920年(大正9年)盛岡高等農林学校研究生を終了し、花巻高等女学校の教師になる。
 翌年1921年(大正10年)家出して日蓮宗の国柱会の奉仕活動を始める。このころ法華文学を目指し童話を書き始める。
1922年(大正11年)に宮澤賢治の良き理解者であった妹としと死別し「永訣の朝」を書き、「春と修羅」を発表した。修羅とは仏教的世界で、六道すなわち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上で人間の一つ下をあらわす。そして自らを修羅と考え悟りの境地を詩の形で表現し、「春と修羅」と名ずけた。
 心の中には言葉になる以上の多くの感覚の集まりがうまれている。
それを表現するために、あるいは理解するために枠組みを作り、童話や詩であらわす。
 宮澤賢治は法華経の宗教的世界観、そして科学的知識とりわけ農芸化学、地質学の概念やイメージをそのなかに取り入れ構成し新しい詩を作った。それが、「春と修羅」だった。
 その後も同じ題名で続編を発表した。
1925年(大正14年)には「注文の多い料理店」を出版し、「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」を書き始める。

「そこでは、あらゆことが可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。」

 宮沢賢治の生きた昭和時代、恐慌と相次ぐ冷害による凶作で東北地方は飢饉に陥った。
雨ニモマケズ、風ニモマケズの詩はこのときうまれた。その後、詩の世界からしだいに光 風の音が精神を語る、童話作家となっていく。自然の世界をアニミズム、精霊的感覚でとらえ物語とした。

「黄色い枇杷の実吹き飛ばせ
青いどんぐり吹き飛ばせ・・・すっぱいりんごも吹き飛ばせ
どっどど・・・どっどど・・・うみの水も吹き飛ばせ
やまの岩も吹き飛ばせ・・・どっどど・・・どっどど・・・」


 そして社会改革家として、時空を超えた共同体をつくるシャーマンになった。
その共同体イーハトブでは罪や悲しみさえ聖くきれいに輝いている世界だった。
しかしこの社会改革、文学すべて未完のまま、37歳で生涯を閉じた。
 

青ぞらのはてのはて
水素さへあまりに希薄な気圏の上に
「私は世界一切である
世界は打つらふ青い夢の影である」
などこのやうなことすらも
あまりに重くて考へられぬ
永久で透明な生物の群れが棲む



2018/04/03

ソニー ドリームキッズ AIBOとaibo



 1999年(平成11年)人工知能を積んだアイボと言うソニーのロボット犬が大人気だった。感情を組み込まれたロボットとして作られ、放っておくと退屈し、声をかけると喜ぶ精巧さで 当時文化庁から表彰され大人気となっていた。その頃ソニーはアイボとバイオで世界の最先端企業だった。

 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を原作にした「ブレード ランナー」が1982年(昭和57年)映画化された。2019年環境破壊による荒廃したロサンゼルスを舞台にして、火星から逃亡してきたアンドロイドを処理する人間と感情をもったアンドロイドの悲哀を描くものだった。その世界では、生物は保護され人造人間は廃棄する、ハリソンフォードが主演し、酸性雨のたちこめる舞台は日本の都市がイメージしてつくられた。
 この本物そっくりの機械じかけの生物アンドロイドは感情を持ち、心をもっていた。

 戦後財閥の解体によって、1946年(昭和21年)に井深 大と盛田昭夫が東京通信工業を設立。その会社の設立の目的は「仕事に命を捧げる技術者たちがその技術を高めうる最高のレベルで実現できる目的でダイナミックで喜びにあふれた理想的な仕事場を創造すること。」だった。それが世界のSONYになり、 同じ頃本田宗一郎が1948年(昭和23年)本田技研工業株式会社を創業し、バイクを作りその技術で世界のホンダになった。
 この時代は、敗戦に伴い財閥が解体されると国家統制が緩み、自由な技術者や研究者の時代が訪れ、あらたな起業家たちが世に出るチャンスだった。

 ソニーは創業者の井深氏がまずテープレコーダーを自らの手で創り出して創業された。その後トランジスタラジオを作り、世界中、特にアメリカに爆発的に売れ、続いてトリニトロン技術を使ったテレビでさらにそのブランド力を高めた。そしてウォークマンを作り、新たな音楽を楽しむ携帯の音楽プレーヤーとして世界の音楽ファンを取り込み、コンピューターでは、バイオを持つことがおしゃれで流行の先端を行くことになった。
そしてこれらの家庭電化製品や、コンピューター製品は日本技術の成果であり世界中に売れた。

 井深さんはトランジスターキッズだった、盛田さんはウォークマンキッズだった、大賀さんはCDキッズだった、今われわれはデジタルドリームキッズにならなければならない。20世紀の終わり、新たに会長になった出井氏は世界むけ企業のイメージ作戦で語り、キャッチフレーズは「ソニーで夢を見ませんか」だった。

 出井会長になってソニーの経営を人のつながりによる情の経営から国際照準に合わせた合理的な経営に切り替えた。そしてダボス会議に出席し世界の政界財界の人々と話をし、国際人としてソニーの顔となった。

 1999年(平成11年)10月のタイム誌の別冊デジタル50の特集号がアマゾンのジェフべゾフをあげ 表題は「一位はビルゲイツじゃないよ」だった。そして世界の15位にデジタル時代の影響力のある企業としてソニーの出井会長はランクされていた。
 インターネットはビジネス界に落ちた隕石だ。物作りのみに頼っていてはだめで新たなネットワーク時代のビジネスが必要だとする構想でソニーを変革していった。
 そしてその夢は、時の森首相が2000年(平成12年)9月21日の秋の臨時国会のITインターネットプロトコルバージョン6と言う言葉が入った所信表明演説がなされ、これが実行され、日本がIT先進国になる、世界の先端国家になるかに見えた。
 この構想は前年、出井会長が議長を務めたIT戦略会議で、5年でアメリカを抜くIT大国になるという目標の実現を目指したものだった。
 その当時、アメリカでは情報ハイウエー構想がゴア副大統領によってうたわれ、多くのIT企業が勃興した。しかしそのドットコムブームはテクノロジーに期待されたほどの進歩が見られず希望と構想が先にに進んでしまった。正しい方向に必ずしも進化しないでバブルとして消え去っった。
 日本でも構想では、高速インターネット網を整備して、電子政府をつくり、学校教育のIT化の推進を掲げた。しかし実際にはパソコンを多くの人に支給したり、書類の電子化が一部に行われただけで、2001年(平成13年)9月のITバブル崩壊とともに頓挫した。

 このITバブルの崩壊でソニーもまた隕石による恐竜と化してしまい哺乳類となったのはGoogleとアマゾンであり、鳥類として残ったのがアップルだった。アップルのスティーブン ジョブズは初期のコンピューターで、シンプルな形をした技術と芸術の統合した完成品をつくろうとし、さらにそれを進化させ音楽、映像そして文章全ての作業ができるiPadi phonを完成させて、世界の企業のトップになり、文化や生活までも変えてしまった。

 今は3回目のIT革命の時代で、人工知能AIすべてのものがインターネットにつながるItoTそしてビックデータと言う言葉を聞かない日はないほどのブームを迎えている
  今まで、幾度も迎えたITの流行が、一過性のもので、バブルとなり幾度か崩壊した。 今回も、何が正しい方向であるかはまだ流動的で、アメリカや中国そしてロシアやアジアの各国が、それぞれ、IT大国に方向を定め政策を打ち出している。さらにはこの知的財産に対して、アメリカは国外への技術の流失を防ぐため、かつてのCOCOMに近い政策を打ち出してきた。

  現在世界企業の主役は大手のIT各社が占めている。1番がアップル、2番がGoogleのアルファベット、第3位がAmazon.comなどのインターネットにおけるプラットフォーマーが独占している。概念としての人工知能やIT技術が現実の生活を変えることは確かであるものの、今後いつどんな技術が変革の主役になるかまだ誰にもわかっていません。  


  ブレードランナーで予想された感情をもったロボットは、2019年に誕生することはなく、人工知能やロボットはこの間、違う方向で進歩した。 感情をもったロボット犬というアンドロイドの方向とは違う、機能の向上した犬型ロボットとなって今年アイボが復活した。そしてブレード ランナーも新たに2049年を舞台に復活した。
 誰が未来の覇者になるか興味のつきない時代です。


2018/02/18

松本清張 推理小説「小官僚の抹殺」


 時代の寵児、ヌーボー グループの前衛作曲家和賀英良は幼い頃、生まれ故郷を追われ、山陰海岸を父と2人で放浪し、島根県の小さな街カメダ(亀嵩)の親切な警察官三木健一に助けられる。彼の秘密であるハンセン病の父親との暗い過去を消し去るためにこの恩人を殺害する。事件の解明が幾度も壁にぶつかるのは狭い出雲の地域に残っている方言が東北の訛りに似ているためで、それが事件を混乱させ、物語の鍵となる。

  松本清張の「砂の器」は、日本の共同体から排除されたような生活を送った父親の生涯を思い浮かべながら親子の絆、人生の暗い過去と輝ける現在を連鎖させる事件を推理小説化した。
 回想的自叙伝「半生の記」の最初は「父は伯耆の山村に生まれた。中国山脈の脊梁に近い山奥である。7ヶ月の幼い時貧乏な百姓夫婦のところに里子に出され、そのまま実家に帰ることができなかった。」ではじまる。  


 そしてゼロの焦点では濃い海の色の日本海に面した金沢の海岸を、点と線では九州の日本の原風景を残した海岸を舞台にして、一見無関係な個々の事件の現場の点がしだいに予想外の線で結びつき、過去の世界を明らかにして事件の全容にせまる新しい推理小説を生み出した。 

 これらの物語は電話交換手の聴覚、 顔と記憶と、心の不安やおののき,犯罪者の動機となるこころの闇、深く隠しておきたい暗い過去を時代背景とともに描き出した。
 ハードボイルドタッチのアメリカ探偵小説やアガサクリスティーとは異なる日本の新たな推理小説で、殺人を犯すには動機がある、その動機はそれに翻弄される人の生きる時代にあるとして展開されるストーリーは社会派推理小説と呼ばれた。

 松本清張は1953年(昭和28年)森鴎外の日記にまつわる小説「或る小倉日記伝」で認められ、その後多くの歴史ものや現代短篇小説を描いた。
 1955年(昭和30年)には推理小説の「張り込み」を小説新潮に発表した。街には美空ひばりのリンゴ追分のメロディーが流れ、戦後は終わり、石原慎太郎の「太陽の季節」が発表された年でもあった。翌年には週刊新潮が発刊され大衆文化の時代が始まった。昭和32年短編の「顔」を描いて日本探偵作家クラブ賞を受賞し、その翌年には「点と線」と「目の壁」がベストセラーとなる。

 「点と線」や「ある小官僚の抹殺」では事件の全貌が明らかになる直前の不可思議な官僚の自殺、その裏の政と官の癒着、汚職、権力者の悪だくみを描いた。
 昭和30年代は高度経済成長時代の初期で、政治家と官僚が権力を握り、一方あらたな日本の中間層となるサラリーマンがうまれた。彼らが清張の読者になり、清張の小説は週刊誌に連載小説のかたちで連載され、やがて単行本にもなり、日本の推理小説家の第一人者となっていく。

 日本は戦後しばらくして政官財の世界が復活し始め、音楽や小説家の集団である文壇などの世界はギルド的になり権威を復活しつつあった。松本清張はそれら文壇に加わることはなく、独自の日本的情念を推理小説にした。その表現はわかりやすく、ストーリーは意外性に富み一級のエンターテイメント小説だった。推理小説以外にも鬼畜や無宿人別帳などその時代と社会に翻弄される日本社会の底辺に生きる人びとを描き、人間タイプライターとよばれるほど量産した。
 「ある小官僚の抹殺」は推理小説の手法で権力悪を小説化したもので、事実を知る実務者官僚の死によって事件は雲散霧消し上層部の人間は責任からのがれる。この作品が後の「日本の黒い霧」につながる。

 1958年(昭和33年)在日米軍の撤退が完了する。この時まで日本は駐留軍によるオキュパイド ジャパンであった。リーゼントスタイルやアロファシャツが流行し,ジャズが流行しアメリカの民主主義が日本におしよせた。このアメリカの占領、進駐軍の時代に、GHQが関与したといわれる帝銀事件、下山事件、三鷹事件など未解決の事件が次々おこり、真相は不明のままであった。
 これらの12の謎の事件をあつかっている「日本の黒い霧」が1959年(昭和35年)発表された。占領下日本の秘密の事件を、事実を丹念にあつめ、推理小説風のドキュメンタリーとして描き、占領軍アメリカと日本政府の真相隠蔽を暴露したものだった。

 1960年代小説界の最も大きな変化といえば推理小説の流行と言われ、松本清張はプロレタリア文学が昭和初年以来企てて果たせなかった資本主義社会の暗黒の描出に成功して、水上勉は小説的なムード小説と推理小説の結びつきに成功してしまったと当時評された。

 しかしそれら松本清張の客観的な事実をえがくドキュメンタリー小説、推理小説的ノンフィクションに対して批判も多かった。
 大岡昇平は「フィクションとしての真実を描く小説の形式をかりて、ノンフィクションとの混同を持ち込もうとしている。そして、松本の推理小説と実話ものの真相は、松本自身の感情によって歪められている。日本人の「古い質」のいっ出は、日本の大衆社会が西欧の大衆文化論では割り切れない二重構造を持っていることを示した。」
 また「怨念とか執念とか人間の感情を生のまま提示する」小説手法や歴史事件小説に対して「彼らのひがみ精神とその生み出した虚像である」と批判した。事実、朝鮮戦争の陰謀説の推理があたらなかったなど批判はあたっていた。

 しかし当時も、また今でも松本清張の人気があるのは、逆に否定的に語られた西欧化されない「古い質」の情念を人びとは支持しているからで、あたかも当時、低俗で前近代的歌謡曲であると美空ひばりの歌が文化人から批判されたのと似た構図がある。

 松本清張の作品は何度も映画化され,テレビドラマとなり,リメイクされた。1974年(昭和49年)公開された「砂の器」は山田洋次の脚本で、野村芳太郎監督が映画化した。交響曲「宿命」をテーマ曲として、和賀の幼い時代、消し去りたい過去、冬の吹雪の海岸、桜の咲く野山を放浪する父と子をセリフのない映像美で表現した。和賀英良役を加藤剛、今西警部補を丹波哲郎、吉村刑事を森田健作が演じ、昭和の名作として残っている。

 平成の終わり、昨年、2017年(平成29年)日本映画で観客を最も多く集めたのはアニメ映画「名探偵コナンから紅の恋歌」でした。やはり、 昭和は遠くなりにけりか。





2018/01/24

昭和任侠伝 火野葦平の花と龍




 花と龍は玉井金五郎とおマンの若松での活躍を描いた映画で、1970年(昭和45年)と1969年(昭和44年)二度にわたり玉井金語楼役を高倉健が主演し任侠映画のスターとして確固たる地位を築いた。1973年(昭和48年)には渡哲也が、それ以前には石原裕次郎や中村錦の助が主演するなど有名な映画スターが主役を演じる昭和日本映画の様式美を体現した作品だった。

 1960年代になると、テレビはお茶の間に入り家庭での人気を集め、古い時代劇、明るく楽しい時代劇映画が衰退し、映画も1963年(昭和38年)頃にはアラビアのロレンスとか007のジェームスボンドなどのアメリカ映画、ハリウッドの大作が日本を席巻していた。その年の映画の視聴者は全盛期1958年(昭和33年)の半分以下になってしまい、特に日本映画は日活も東映も観る人は激減した。

 それに打ち勝つために東映では客層を絞り、オールナイト興行で学生や、テレビを見ない、アメリカ映画を見ない人々にむけて義理と人情の虚構の世界、様式美の世界を描いた任侠映画路線をうちだし、高倉健、藤純子を一流スターにした。いままで世間的にはきわものであった任侠映画が東映作品の3割を占めるドル箱路線になった。2人の主演した花と龍は1つの時代を作った作品となった。
 しかし1973年(昭和48年)に仁義なき戦いと言う実録物映画がつくられ、義理と人情の任侠映画も次第に変貌していった。


 玉井金五郎とマンの長男玉井勝則(火野葦平)は1906年(明治39年)うまれ。早稲田大学を中退し軍に志願し入隊,家業を継いだ後31才で中国戦線に出征。1938年(昭和13年)社会の底辺の人々の生活を小説家した作品「糞尿談」で芥川賞をとり、中国の戦場で授与式をし、土と兵隊、花と兵隊などの連載を雑誌や新聞にのせる。
 1937年(昭和12年)9月の杭州湾上陸作戦を「土と兵隊」に、1938年(昭和13年)5月徐州会戦を「麦と兵隊」に書いて発表した。これらの戦場のルポルタージュ文学は当時の日本におけるベストセラーとなりとなり火野葦平は引っ張りだこになり、各社は火野の原稿を手に入れるためあらゆる手段を使い、郵送より早い中国からの電報が原稿となった。 

 当時の様子を大宅壮一は以下のように記している。
 去年1938年(昭和13年)の12月。火野葦平の「海と兵隊」「花と兵隊」が東西の四大新聞に同時に連載され出したときは,世間は驚きの目をみはった。火野文学が全日本を風靡したのは、あの無駄のない峻厳な,動的な、きびきびした描写とあの事態に処してゆるがない作家精神と目は誰も持ち合わせているものでなく、

 そして当時それぞれに身内の親しい人々を戦線に送った民衆が最も切実に要求したものは戦っている兵隊自身の目に映ったありのままの戦争の姿を知りたい、それと前線の兵隊さんに対する国民大衆の感謝の念がふくまれていた。前線の兵隊の間からあらわれたこの要求に最も忠実に答えた最初の作家として多くのファンを得たのが火野文学である。
  
 作品は映画され、戦闘場面はほとんどとなく長々と広い大地、麦畑を行進する日本軍が描かれている「麦と兵隊」は文部省推薦となる。 さらにこの麦と兵隊は、除州除州と人馬は進む徐州は良いか住み良いかの歌詞となり、東海林太郎が歌って流行している。 当時、日本は上海から上陸し南京を陥落させ、国民党政府を敗走させ陸軍主導で国をあげて戦勝ムードにあった。

 その後の火野文学について、「作者は事実の記録をたんねんに行い,精緻な表現力をもっているので、もしチャンスがあれば世にも稀なルポルタージュが生まれてくるであろう」と大宅壮一は予想していた。

 1944年(昭和19年)インパール作戦に報道班員として従軍。ぼうだいな当時の記録を手帖に残し、それをもとにして戦後1948年(昭和23年)「青春と泥濘」を発表。これは単なるルポルタージュではない、報道制限をうけない自由な言論空間の下で、戦争の真実を書き上げようとした。
 そして「戦場で生死をともにした兵隊たちに対しても,多少の責任と使命を果たし得た気持ちもある。私は最後の行を書き終わったとき、いろいろな感慨が殺到して来て胸が熱くなり、いつか、涙をながしていた。」

 このインパール作戦は真珠湾攻撃から2年3ヶ月たち、太平洋の島々で日本軍は敗北し玉砕をくり返していた。中国と東南アジアでも苦戦し、起死回生の大作戦として、インドから蒋介石への援助を断ち切る構想のもとにビルマからアラカン山脈を越えインドのインパールを占拠する一大作戦で牛2万頭に糧抹を運搬させ、それを食料にする、3週間で作戦は終了するという計画であった。

 結果は惨憺たる敗北で、火野葦平は作戦後の9月に帰国し、陸軍大臣杉山元に大本営陸軍部であう。「インパール作戦、ならびに、ビルマ戦線全般について、率直に,考えたとおりを述べよ」といわれ,事実を具体的に説明し「このまま進めば、由々しき結果を将来することを恐れます。」と餓死と病死と物資不足の過酷な戦場の実態を訴えた。しかしこの報告をそんなかねえと首を傾げる人もあり、まだ望みは充分あるとの返事であった。「そんな原始的な精神力ではもう間にあわなくなっているのに、軍の中心となる責任者が、まだそんなことをいっているのが、私は悲しかった。」と手帖に記録している。
 

 第二次大戦後1952年(昭和27年)花と龍を,読売新聞に連載し再びブームをつくり、1959年(昭和34年)「革命前後」を中央公論に連載。そして翌年、或る漠然とした不安のため睡眠薬で自殺した。
 

2018/01/08

ダダイスト中原中也


 

 「まことに人生、一瞬の夢、ゴム風船の、美しさかな。」

   「さらば東京 おお わが青春」

 ダダイズムとは第一次世界大戦中の1910年代にヨーロッパやアメリカで起きた芸術運動である。1916年2月チューリッヒでトリスタン ツアラによってはじめられた。
 それは人間の理性を否定し、解体し、意志的、意識的に作られた芸術を全否定した。そして芸術作品は意味のない詩とか意味のない絵、そして構成された写真を作成しダダイズムとして登場した。

 その後、意識を否定し理性を否定したために意識的に作品は作ってはいけないということからその頃流行したフロイトやユングの無意識の世界に目をつけダダイストの一部が無意識世界の美意識を表現することでシュールリアリズムを作り出した。

 高橋清吉が1920年(大正9年)短編小説「万朝報」の新享楽主義の最新芸術と言う記事で、「文字の組み方が、同じページの中に縦に組まれたり横に組まれたり甚だしきに至っては斜めにくまれたりして居て」の一文に触発され日本におけるダダイストを宣言する。そして 1923年(大正12年)ダダイスト新吉を発表する。
 
DADAは一切を断言し否定する。
無限とか無とか、それはタバコとかコシマキとか単語とかと同音に響く。
想像に湧く一切のものは実在するのである。
一切の過去は納豆の未来に包含されている。
人間の及ばない想像を、石や鰯の頭に依って想像し得ると,扚子も猫も想像する。

 そして「皿」で

        皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿 
                          倦怠 額に蚯蚓這ふ情熱

の視覚的詩をのせる。

 序文で、佐藤春夫は「気質として彼は理想家であった。理想を見失った理想家であった。前世紀のデカダンが美を食ったのに対して、高橋は真実を 人間にはどうしてもつかみ切れない真実を貪り耽けって 、そしてその結果めちゃくちゃになっている。」

 このダダイスト新吉の詩は、同時代の中原中也たち若い詩人に大きな影響を与えた。そして、アナーキスチックな同人詩「赤と黒」などを産み出し、日本のアヴァンギャルド詩の先駆者となった。しかし、それらの虚無的破壊的ダダイズムは長続きせず、高橋新吉は仏教的諦観に、中原中也の詩はアナーキズムから郷愁に変わり、前衛芸術は、短い間日本中で流行し、あっというまに消えていった。

ウハキはハミガキ
ウハバミはウロコ
太陽が落ちて
太陽の世界が始まった
テッポーは戸袋
ヒョータンはキンチャク
太陽が上がって
夜の世界が始まった

 中原中也は明治1907年(明治40年)生まれる。中学時代のダダイスト中也は1927年(昭和2年)高橋新吉を訪れている。
 やがて奇妙な三角関係の小林秀雄達の住むフランス象徴派詩人の影響圏にはいり、ダダと象徴詩を融合した新しき詩人として、近代都市モダーン都市東京を歌う。その後しだいに、春の日の黄昏れから月光の支配する世界の詩人、悲しい詩人へと変わっていく。
 中也は「生活者」に幾時代かがありまして 茶色い戦争がありましたで有名な「サーカス」を発表。1929年(昭和4年)大恐慌のはじまる年であった。小林秀雄の様々なる意匠はその年改造に掲載され,ランボーの地獄の季節を翻訳し出版する。中原中也は1934年(昭和9年)28才の時「山羊の歌」を出版し,その中にサーカスや汚れちまった悲しみになどを収録。
 汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 
汚れっちまった悲しみに今日も風さえ吹きすぎる
 汚れっちまった悲しみは たとえば狐のかわごろも 
汚れっちまった悲しみは 小雪のかかってちぢこまる
 汚れっちまった悲しみは

 なにのぞむなくねがふなく
汚れっちまった悲しみは 懈怠のうちに死を夢む
 汚れっちまった悲しみに いたいたしくも怖気づき
汚れっちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる
 1930年(昭和5年)「測量船」を世に出した三好達治とともに昭和初期の抒情詩の代表詩人になる。その後、中原賞を受賞した立原道造「ののちのおもひに」もまた美しき日本抒情をうたった。しかし三者はまったく異質の詩だった。
 三好達治は整った美しい詩情を表現し、中也はダダイズムで自己を解体し、実世界の放蕩と修羅場を経験しそれを表出した。三好達治はまったく異なる,中原中也の傷ついた魂のさけびとを評価することはなかった。

 思へば遠く来たもんだ 十二の冬のあの夕べ 港の空に鳴り響いた 
汽笛の湯気は 今いずこ
 雲の間に月はいて それな汽笛を耳にすると しょう然として身をすくめ 
月は時空にいた
 それから何年経ったことか 汽笛の湯気を茫然と 眼で追ひかなしくなっていた 
あの頃の俺はいまいずこ
 今では女房子供持ち、思へば遠く来たもんだ 此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど
                             頑是ない歌
  長谷川泰子と別れ、結婚し2人の男子が誕生した。長男とは死別し、中原中也は
1937年(昭和12年)「在りし日の歌」をのこして30才で他界した。