シッダールタ インドの詩
ヘルマン ヘッセ
ヘルマン ヘッセ
家の陰で、小ぶねのかたわら、川岸の日なたで、沙羅の木の森の陰で、イチジクの木の陰で、シッダールタは、バラモンの美しい男の子、その友でバラモンの子なるゴーヴィンダとともに、おいたった。父は、むすこの中に偉大な賢者、司祭、バラモン族の中の王者たるものが成長しつつあるのを見た。
やがて、ゴーヴィンタとともに、沙門たちのもとで、静思し、断食し、瞑想によって、苦行を通して滅我の道を歩んだ。心の中のあらゆる執着と衝動が沈黙したら、そのときこそ究極のものが、もはや自我でない本質の奥底にあるものが、大いなる秘密が目覚めるだろう。
やがて、仏陀の教えを聞いた。苦悩について、苦悩の由来について、苦悩を除く道についての教えを説くのを聞いた。ブッダは四諦を教え、八正道を教え、仏陀の道を行くものは救われると説いた。友ゴーヴィンタはその道に帰依した。
シッダールタは友と別れ、改めて遍歴の旅に出た。そして彼は気づいた。「自分が自分について何も知らないこと、シッダールタが自分にとって終始他人であり未知であったのは、一つの原因、ただ一つの原因から来ている。つまり、自分は自分にたいして不安をいだいていた、自分から逃げていたということから来ている。真我(アートマン)を自分は求めた。梵(ブラフマン)を自分は求めた。自我の未知な奥底にあらゆる殻の核心を、真我を、生命を、神性を、究極なものを見いだすために、自我をこまかく切り刻み、殻をばらばらにはごうと欲した。しかしそのため自分自身は失われてしまった。」
意味と本質はどこか物の背後にあるのではなく、その中に、いっさいのものの中にあった。
シッダールタの覚醒へ至る道を、自らの精神遍歴に重ね合わせ、「インドの詩」の副題で1922年に刊行された。この物語の第一部は、尊敬する友 ロマン ロランにささげる ではじまる。
ヘルマンヘッセは1877年、南ドイツのカルフに生まれる。プロテスタント宣教師の父と、インド学者でやはり宣教師の娘の子供として生まれる。祖父と母と父は三人とも長くインドに暮らした。祖父のガラス戸棚の中に、インドの小さな踊る偶像の姿をして立っていた牧神バンによって育てられ、インドの仏像経典、織物に囲まれ、仏教の祈りの文を父親から聞いて育った。
少年時代、南ドイツ、シュヴァーベン地方のシュヴァルツヴァルト(黒森)の古い街で、「美しく多彩な世界と戯れ、動物や植物ばかりか自分自身の空想や夢のジャングルでもあらゆる所を我が家とし、自分の力や才能を楽しみ、燃えるような願いに焼き尽くされることなく、むしろこれを謳歌した。」
1870年代は、勃興するドイツの時代で、ビスマルク宰相によって、ヘッセの暮した南ドイツは合併され第二帝政ドイツとなった。その後ウイルヘルム二世の時代に、ドイツはヨーロッパ大陸の覇者から、さらに当時のイギリス帝国に対抗すべく海軍を増強し世界に展開し始めた。それに対抗してイギリスはチャーチルが海相になっ海軍の拡大と近代化を始めた。
帝国の工業化、強国化の時代、当時のドイツ国内では、キャンプファイヤーを囲みギターを弾き、徹夜で議論したりするワンダーフォーゲルなどの自然の中の文化運動が青年たちの心を捉えていた。1904年「郷愁(ペーター カーメンツイント)」は青年の心の成長と感覚と、自然の雲や空への憧憬を小説にし、発表した。1906年にはヘッセ自身の経験を、なりたいと思っていた理想の人と、現実の自分自身を二人の人物に分割し、彼らの成長を詩的文体でつずった「車輪の下」を出版し、ドイツの詩人、ドイツ精神の騎士と言われるようになった。
1914年そのドイツは第一次世界大戦に突入した。ヘッセはベートーベンの歓喜の歌の導入「友よ、そんな調子でなく」を使って、戦争に同調し、愛国心をあおり戦争の至福をうたう詩人、戦争賛美の作家たちに、ペンで 扇動する事をやめようと訴えた。しかしドイツの多くの友人、新聞など出版者はヘッセを攻撃し、ヘッセは孤立した。その時フランスの小説家ロマン ローランはやはりフランスで反戦を訴えていた。ヘッセを称賛し、彼の自宅を訪れ、その後、長い友情を結ぶ。
当時をヘッセは「そこへあの1814年の夏がやって来た。突如として内も外もすべてが一変したようだった。あの当時、私が他の人々と違っていたのは、たんにあんなにも多くの人々がもっていたあの大いなる一つの慰め、すなわち熱狂が、私には無縁のものだったということだけである。」と語っている。
27歳の時、ショウペンハウエルの哲学の探求の時、インド思想に再び出会った。「鳥は卵から出ようもがいていた」そしてユングの精神分析による意識の変革でその殻を破り、インド思想を元にした、シッダルータの構想が1919年にできた。この時期に、以前の自然観察者から内面世界の観察者となり、夢を言葉で描き、魂の動きを目に見えるように言葉にした「内面への道」の小説家に変貌した。
同じ年、エミール ジンクレーアの著者名で「デーミアン」を発表した。第1章に「2つの世界」の表題をつけた。明るい世界と対立する闇の世界をジンクレーアとデーミアン二人の少年の心の葛藤(カインとアベル)と成長、救済をもたらす聖杯への歩みを描いた。カインは悪でなく善と悪を超えるものとデーミアンが教え、グノーシス派のアブラクサス神話を遍歴し、デミアンという幻影のような青年をうんだデーミアンの母にたどり着く。ジンクレーアは最後は戦争で瀕死の重傷を負い、人類について鮮明な幻覚をみる。
デーミアンはキリスト教徒であるヘッセ自身の精神の自叙伝である。それは第一次大戦に敗北したドイツの若い世代に、不気味なほど正確に時代精神を射当てた作品として受け容れられた。
シッダルータはキリスト教的な世界とは異なる仏教の物語で、悟りに至るひとりの聖人の心を描いた。第一部はすぐに完成した。
第2部は3年後の1922年になり形をなした。シッダルータはカマーラと出会い、世俗の商人とともに働き、世俗の欲望、愛憎の世界を経験した。街から離れ河のほとりについた。渡し守になり人々の煩悩の中に梵を見た。そして完成(オーム)を知り、生命の流れと一致した悟り、万物の流転に身をゆだね、宇宙と一体となる悟りに達した。
そして、再び老いたゴーヴィンタと再会し悟りを、涅槃(ニルバーナ)を語った。一切衆生の中に隠れた仏陀がある。世界は瞬時、瞬時に完全であり、死は生と、罪は聖と、賢は愚と見える。世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するために多くの世俗を体験したことを。
老いた友ゴーヴィンタはシッダルータの顔に輪廻転生の幻影を見た。そして老いたゴーヴィンタの顔に涙が流れた。シッダルータの微笑が彼にとっていつか生涯のあいだに貴重で神聖であったいっさいのものを思い出させた。
インドの僧のリズムを取り入れたこの長編叙事詩は世界中で翻訳され出版された。
特にアメリカではヘンリーミラーが「世に認められている仏陀を凌駕するひとりの仏陀を創り出すことをそれがひとりのドイツ人によってなされた。シッダールタは私にとって新約聖書以上のもの」と絶賛。若者のバイブルとなり500万部以上発売された。
その後、ドイツは再び戦争に向かい破局を迎える。第二次世界大戦後の1947年、ヘルマンヘッセにノーベル文学賞が与えられた。



