2018/10/21

シッダールタ   魂の遍歴   ヘルマンヘッセ

シッダールタ                                  インドの詩

                             ヘルマン ヘッセ

 家の陰で、小ぶねのかたわら、川岸の日なたで、沙羅の木の森の陰で、イチジクの木の陰で、シッダールタは、バラモンの美しい男の子、その友でバラモンの子なるゴーヴィンダとともに、おいたった。父は、むすこの中に偉大な賢者、司祭、バラモン族の中の王者たるものが成長しつつあるのを見た。
 やがて、ゴーヴィンタとともに、沙門たちのもとで、静思し、断食し、瞑想によって、苦行を通して滅我の道を歩んだ。心の中のあらゆる執着と衝動が沈黙したら、そのときこそ究極のものが、もはや自我でない本質の奥底にあるものが、大いなる秘密が目覚めるだろう。

 やがて、仏陀の教えを聞いた。苦悩について、苦悩の由来について、苦悩を除く道についての教えを説くのを聞いた。ブッダは四諦を教え、八正道を教え、仏陀の道を行くものは救われると説いた。友ゴーヴィンタはその道に帰依した。

 シッダールタは友と別れ、改めて遍歴の旅に出た。そして彼は気づいた。「自分が自分について何も知らないこと、シッダールタが自分にとって終始他人であり未知であったのは、一つの原因、ただ一つの原因から来ている。つまり、自分は自分にたいして不安をいだいていた、自分から逃げていたということから来ている。真我(アートマン)を自分は求めた。梵(ブラフマン)を自分は求めた。自我の未知な奥底にあらゆる殻の核心を、真我を、生命を、神性を、究極なものを見いだすために、自我をこまかく切り刻み、殻をばらばらにはごうと欲した。しかしそのため自分自身は失われてしまった。」
 意味と本質はどこか物の背後にあるのではなく、その中に、いっさいのものの中にあった。

 シッダールタの覚醒へ至る道を、自らの精神遍歴に重ね合わせ、「インドの詩」の副題で1922年に刊行された。この物語の第一部は、尊敬する友 ロマン ロランにささげる ではじまる。

 ヘルマンヘッセは1877年、南ドイツのカルフに生まれる。プロテスタント宣教師の父と、インド学者でやはり宣教師の娘の子供として生まれる。祖父と母と父は三人とも長くインドに暮らした。祖父のガラス戸棚の中に、インドの小さな踊る偶像の姿をして立っていた牧神バンによって育てられ、インドの仏像経典、織物に囲まれ、仏教の祈りの文を父親から聞いて育った。
 少年時代、南ドイツ、シュヴァーベン地方のシュヴァルツヴァルト(黒森)の古い街で、「美しく多彩な世界と戯れ、動物や植物ばかりか自分自身の空想や夢のジャングルでもあらゆる所を我が家とし、自分の力や才能を楽しみ、燃えるような願いに焼き尽くされることなく、むしろこれを謳歌した。」

 1870年代は、勃興するドイツの時代で、ビスマルク宰相によって、ヘッセの暮した南ドイツは合併され第二帝政ドイツとなった。その後ウイルヘルム二世の時代に、ドイツはヨーロッパ大陸の覇者から、さらに当時のイギリス帝国に対抗すべく海軍を増強し世界に展開し始めた。それに対抗してイギリスはチャーチルが海相になっ海軍の拡大と近代化を始めた。
 帝国の工業化、強国化の時代、当時のドイツ国内では、キャンプファイヤーを囲みギターを弾き、徹夜で議論したりするワンダーフォーゲルなどの自然の中の文化運動が青年たちの心を捉えていた。1904年「郷愁(ペーター カーメンツイント)」は青年の心の成長と感覚と、自然の雲や空への憧憬を小説にし、発表した。1906年にはヘッセ自身の経験を、なりたいと思っていた理想の人と、現実の自分自身を二人の人物に分割し、彼らの成長を詩的文体でつずった「車輪の下」を出版し、ドイツの詩人、ドイツ精神の騎士と言われるようになった。

 1914年そのドイツは第一次世界大戦に突入した。ヘッセはベートーベンの歓喜の歌の導入「友よ、そんな調子でなく」を使って、戦争に同調し、愛国心をあおり戦争の至福をうたう詩人、戦争賛美の作家たちに、ペンで 扇動する事をやめようと訴えた。しかしドイツの多くの友人、新聞など出版者はヘッセを攻撃し、ヘッセは孤立した。その時フランスの小説家ロマン ローランはやはりフランスで反戦を訴えていた。ヘッセを称賛し、彼の自宅を訪れ、その後、長い友情を結ぶ。
 当時をヘッセは「そこへあの1814年の夏がやって来た。突如として内も外もすべてが一変したようだった。あの当時、私が他の人々と違っていたのは、たんにあんなにも多くの人々がもっていたあの大いなる一つの慰め、すなわち熱狂が、私には無縁のものだったということだけである。」と語っている。
 
 27歳の時、ショウペンハウエルの哲学の探求の時、インド思想に再び出会った。「鳥は卵から出ようもがいていた」そしてユングの精神分析による意識の変革でその殻を破り、インド思想を元にした、シッダルータの構想が1919年にできた。この時期に、以前の自然観察者から内面世界の観察者となり、夢を言葉で描き、魂の動きを目に見えるように言葉にした「内面への道」の小説家に変貌した。 
 同じ年、エミール ジンクレーアの著者名で「デーミアン」を発表した。第1章に「2つの世界」の表題をつけた。明るい世界と対立する闇の世界をジンクレーアとデーミアン二人の少年の心の葛藤(カインとアベル)と成長、救済をもたらす聖杯への歩みを描いた。カインは悪でなく善と悪を超えるものとデーミアンが教え、グノーシス派のアブラクサス神話を遍歴し、デミアンという幻影のような青年をうんだデーミアンの母にたどり着く。ジンクレーアは最後は戦争で瀕死の重傷を負い、人類について鮮明な幻覚をみる。

 デーミアンはキリスト教徒であるヘッセ自身の精神の自叙伝である。それは第一次大戦に敗北したドイツの若い世代に、不気味なほど正確に時代精神を射当てた作品として受け容れられた。

 シッダルータはキリスト教的な世界とは異なる仏教の物語で、悟りに至るひとりの聖人の心を描いた。第一部はすぐに完成した。
 第2部は3年後の1922年になり形をなした。シッダルータはカマーラと出会い、世俗の商人とともに働き、世俗の欲望、愛憎の世界を経験した。街から離れ河のほとりについた。渡し守になり人々の煩悩の中に梵を見た。そして完成(オーム)を知り、生命の流れと一致した悟り、万物の流転に身をゆだね、宇宙と一体となる悟りに達した。


 そして、再び老いたゴーヴィンタと再会し悟りを、涅槃(ニルバーナ)を語った。一切衆生の中に隠れた仏陀がある。世界は瞬時、瞬時に完全であり、死は生と、罪は聖と、賢は愚と見える。世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するために多くの世俗を体験したことを。
 老いた友ゴーヴィンタはシッダルータの顔に輪廻転生の幻影を見た。そして老いたゴーヴィンタの顔に涙が流れた。シッダルータの微笑が彼にとっていつか生涯のあいだに貴重で神聖であったいっさいのものを思い出させた。

 インドの僧のリズムを取り入れたこの長編叙事詩は世界中で翻訳され出版された。
 特にアメリカではヘンリーミラーが「世に認められている仏陀を凌駕するひとりの仏陀を創り出すことをそれがひとりのドイツ人によってなされた。シッダールタは私にとって新約聖書以上のもの」と絶賛。若者のバイブルとなり500万部以上発売された。

 その後、ドイツは再び戦争に向かい破局を迎える。第二次世界大戦後の1947年、ヘルマンヘッセにノーベル文学賞が与えられた。

 

2018/10/01

脱脂粉乳と鯨肉 

GHQサムス准将の医療改革 

 終戦後の1945年(昭和20年)日本は極端な食料不足に陥っていた。日本の大都市で1月に餓死者が数10人、上野公園では1日に6人が飢えて死んでいると報道された。住むに家なく、着るに衣服なく、食うにコメなしとして、皇居前広場には食糧メーデーで大群衆が押しかけた。

 当時日本には中学生504万人、小学生1351万人あわせて、2,000万人いた。しかし、日本の国内には食糧はなく、世界中でヨーロッパ、やアジアの国々も食糧難であった。GHQのサムスは学校給食は子供たちの成長を促し、伝染病への抵抗力をつけ、また子供から栄養の知識が伝わることによって大人にも体力がつくとの考えからアメリカでの牛乳に目をつけ、保存できない生の牛乳を、脱脂して粉乳としてアメリカから安く輸入する方法を考えた。さらにアジア救済連盟を通して、小麦などの食糧をアメリカから輸入して、給食に使うことが決定し、1946年(昭和21年)の11月に学校給食開始が決まった。その中には、米軍の保有していたトマトジュースなどの野菜、そして捕鯨を再開して鯨肉をたんんぱく源として給食に使った。1948年(昭和23年)には、600万人の子供達に給食が行き渡った。そして、コッペパン、脱脂粉乳、鯨肉の学校給食は戦後世代の共通の記憶となった。

 日本政府は戦争中、世界に冠たる日本独自の医学を打ち立てようとして、1938年(昭和13年)厚生省をつくり、開業医中心の病院医療を公的医療機関を中心にするなど、政策の変更を図った。そして、全国に46校の医学専門学校をつくった。
 戦後GHQのサムスは日本の医療制度に対して、大学医学部と医学専門学校の2種類が並存し、医専は教育の質が低く、研修するべき付属病院を持たない速成医師養成機関であるとみなした。また、世界的にみれば大学医学部も入学時の年令の低いこと、医学部教育期間の短いこと、資格試験のないこと、卒後研修のないことが問題にした。
 この制度を改革するためにアメリカの制度をもとにして、改革案を提示した。医専は17校が廃校となり、29校が医学部となった。そして医学部は学士修了者のみメディカルスクールに入学する案が提案された。しかし、日本側の反対で、現在と同じ6年制になった。医師国家試験は1946年(昭和21年)から開始され、インターン(臨床研修制度)も取り入れられた。

 戦争中、外国の医学雑誌は輸入されなくなった。この遅れてしまった医学の復興のため、戦後、3年間は医学のあゆみなどにアメリカ政府の許可で著作権を無視し、アメリカの医学報告の和訳が載せられた。そして1946年(昭和21年)には米軍病院の進んだ医療機器の展覧会を日本医師会館で開かれ、それをモデルに日本でも新しい医療器械が作られるようになった、
 物資不足のためか、中世並みと言われた日本の病院改革も行われた。当時、ガーゼは消毒されず洗濯され、軍手で手術を行っていた。1947年(昭和22年)サムスは厚生省の附属機関として、国立東京第一病院の中で「病院管理学校」を開き、全国の病院長を集め、病院経営の教育をした。 そして戦後、日本の医学界はドイツ医学に代わってアメリカの医学を急速に取り入れることになった。

 戦後、日本中で天然痘やコレラ、チフスが蔓延し、性病や結核も流行していた。これを撲滅するため水道の塩素消毒、DDT噴霧、ワクチン接種など様々な対応をした。そしてこれらの伝染病予防のため、公衆衛生を充実させることをサムスは提案した。それは日本国憲法の条文となった。
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」日本国憲法第3章第25条。

 1946年(昭和21年)には、GHQは公娼廃止の覚え書きを日本政府に渡し、保健所機能の拡充強化に関する覚え書きが出された。そして東京都杉並区に新しい杉並モデル保健所を作った。腸チフスの予防注射をし、性病洗浄や結核の人工気胸手術もした。そしてこの仕事に参加した人たちの熱心な努力によって、全国の保健所は病気予防、公衆衛生の普及に大きな役割を果たした。
 

 1945年(昭和20年)8月7日大本営発表「咋8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり。敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるもののごときも詳細は目下調査中なり。
 第一次米国原爆災害調査団が来日。同年9月6日築地正男東京帝国大学外科学教授とともに広島に向かった。広島についで長崎も訪れ、三週間で帰国した。築地博士は10月の総合医学に、所謂原子爆弾傷に就て 特に医学の立場からの対策を掲載。9月下旬に第2次米国調査団が再びやってきた。日本政府も原子爆弾災害調査研究特別委員会を設け日米共同の医学調査を行う。それが「原子爆弾災害調査研究成績」にまとめられ、1946年(昭和21年)夏の総合医学に掲載された。
 1946年(昭和21年)暮れ、米国原爆災害調査団の第3陣が来日した。これがのちのABCC(原爆障害調査委員会)になる。1947年(昭和27年)3月には「ABCC総合報告」がワシントンで発表された。そして4月には日本医学会総会で原子爆弾症臨床などの特別講演が行われた。
 その後これらの医学報告は、次の戦争に備え、アメリカの法律で、軍事機密として、発表禁止になった。

 1945年から1952年まで日本を支配したGHQは多くの日本の医学、医療を変え、現在の日本の医療システムの根幹を作り、現在まで続いている。

 その占領軍支配が終わった後、日本医事新報は「マッカーサー元帥やサムス准将の如き冷厳な人物によって占領政策が推進せられたのは我々にとって実に不幸な廻り合わせであった」と記している。

2018/09/11

地球温暖化の夏 関空の水没

 今年の夏は3ヶ月にわたる猛暑を記録し、9月になっても終わらない夏が続いている。
6月hot7hotter8月hottestでブーゲンビリアやハイビスカスなど熱帯原産植物が生命を謳歌していた。さらには、台風が日本列島を直撃し、高潮と猛烈な風で甚大な被害を及ぼした。今年9月、台風21号の高潮のため、ダッカ空港ではなく、関西空港が水没する情景は、台風の猛威を見せつけた。

 過去数十億年で見れば、気候は大きく変動していて、地球全体が熱帯で、北極にヤシが生えたていた時代もあり、逆に地球全体が完全に凍っていたこともあった。その時の海面は100メートル以上低く、また温暖期には今より180メートル高かった。
 そして、人類誕生以来文明も気候の変動や、人間の活動により、消滅した例も見られる。太平洋上のイースター島は森林の伐採によって文化をつくっていた、しかし気温と降水量が森林の再生に不向きな環境の島であり、また土壌が豊かでなく、山の低い孤立した島であったため、森林の消滅と共にポリネシアの社会を崩壊させた。

 マヤ文明もまた水不足から滅亡した。レバノンは緑豊かな国土でレバノン杉を国旗に用いている。その大地は乾燥し、大量の伐採のため、今では杉は絶滅寸前となる。またアラル海は灌漑用水の使いすぎで消滅し、アフリカのチャド湖も消滅寸前となった。
過去の歴史は、気候と場所、そして人間の営みで文明が滅亡したことを物語っている。

 現在地球上でおこっていることは、周期的気候の変化の一部分なのか、人間の活動の結果なのか。この状況に対して「成長の限界」が1972年にローマクラブから報告された。世界は近い将来に資源の枯渇と汚染排出による環境の変化から成長不可能な状況に直面する。全地球のシステムをコンピューターでモデル化して、100年にわたって推定し、物理的な成長の制約は21世紀の世界政治の重要な課題となるとした。
 地球は有限であり、人口増加と人々の活動により、石油枯渇 、オゾン層破壊、地球温暖化 、有害物質の処理不能、 種の絶滅、 森林の消失の危機が起こり、そのままの経済成長は不可能で、限界に達する。地球の資源には限りがあり、持続可能な経済成長の必要性を訴え反響をよんだ。その20年後に新しい情報を加えて「限界を超えて」ですでに、人類は地球の能力の限界を超えたのではないかと述べた。さらに10年後の2005年「成長の限界人類の選択」を出した。

 その後、資源については、石油の枯渇はなかったものの、人口の増加は70億を超え、二酸化炭素は自然の吸収力の2倍を超え、地球温暖化など予想が妥当だったものが多い。
 まず第一に地球の温暖化による海面の上昇。
1900年から2000年の100年間で地球上の平均気温は0.6度上昇した。この上昇は21世紀になり加速している。パリ協定で1.5度Cを目標にしたのは、根拠のあることで、全体としてわずかな変化でも、地球上の局所では多大な変化をもたらした。
 地球温暖化のため、北極の氷は溶けてしだいに海面を上昇させ、世界中で氷河は消失しつつある。現在では海水面の上昇からモルディブやツバル、キリバスは水没の危険があり、バングラデシュやオランダは水没の危険は高く、他の国では低高度の地域はやはり、水没、高波浸水の危険は高くなる。もし、地球の平均気温が2度上昇すれば、海面は36センチ上昇すると推定される。
 さらに、氷河は世界の大河に水を供給している、もしそれが減少すれば深刻な水不足をきたす。ヒマラヤ氷河はアジアの大河のすべての源で、黄河、長江、メコン川、サルウイン川、ガンジス川、インダス川、プラウトプトラ川の水源になっている。そして、北半球の中高緯度の地帯では雨量は増加し、他の地域では降水量は減少して、砂漠化が進行している。
 第二にハリケーンや台風の強大化は地球温暖化の影響を確実に受け、人の管理不可能なシステムである。海水温の上昇はハリケーンや台風やサイクロンを巨大化させ、 今後どれほど強大化し、どれほどの被害を及ぼすかは不明である。
 ハリケーン カトリーナなど21世紀の台風やハリケーンは世界中で、甚大な被害を及ぼすようになってきた。猛烈な風の脅威とともに沿岸地域の高潮の被害浸水も増加し、アメリカでは1970年に比較して10倍以上の経済的な損害を出している。2005年のハリケーンはメキシコ湾の海上石油生産施設を壊滅させ、橋桁に衝突した施設で、橋の通行は停止した。 今後は沿岸地域のハリケーンや台風のさらなる強大化にともなう海面上昇対策が必要となってくる。 
 今後の対策として、アメリカのハリケーン地帯の海抜10メートル以下の地域では、住宅、道路、病院を安全な場所に移動させた方が、沿岸部でハリケーン被害を受け続けるより、はるかに経済的には有効であるという報告もされいる。しかし合理的計画はあっても、実現には多くの困難がある。

 第三は海洋の酸性化が進み海中の珊瑚を死滅させつつある。そして牡蠣、プランクトン、骨格類に被害を与える。
 そして第4には生態系の崩壊。気候の変動により陸上の植生を変化させる。それとともに野生生物と消失絶滅する種が急速に増えてくる。さらには、寒い地方の蚊などの感染症媒介生物の北上をもたらしている。 


 1972年当時の心配は杞憂で 技術の進歩で解決できるのか、まだ結論は出ていない。しかし地球温暖化は世界中で共通の認識になった。京都議定書に続き2015年パリ協定で、二酸化炭素の排出は吸収を上まらないようにする。そして世界共通の長期目標として
産業革命前からの平均気温の上昇を2度より十分下方に保持、1.5度Cに抑える努力を追求することが批准された。

 今後問題となるのは、環境を悪化させない成長ができるようにすること。省エネルギー生活に切り替え、二酸化炭素を出さないエネルギー源に変更すること。各国、アメリカ、ヨーロッパ、中国は2、30年後に再生可能エネルギーを全エネルギーの60から80%に増やす目標を立てている。2030年には40から50%を目標にしている。日本は2030年に2224%を目標にしている。

 台風の強大化や高潮の被害を防ぐ対策も必要で、伊勢湾台風、第二室戸台風、今年の台風21号以上の台風は毎年のように発生し、熱波もさらにひどくなると予想される。
 人口減少社会で、10年先あるいはさらなる将来を想定した、今後起こりうる自然災害に対応する都市の再設計が必要になる。

 人間は現状維持を好み将来のことよりも現在を重視する傾向がある。イギリス植民地相ジョセフチェンバレンは19世紀の終わりころ「私に言わせれば時代の流れは全ての権力がより大きな帝国に集中する方向に向かっております。そして、力の小さい王国すなわち進歩の遅れた国は、2流の属国の地位に滑り落ちることでしょう。進歩しないものは取り残される。」と言った世界観は21世紀の今も主張する国がある。
 さらに、もし経済成長が停止たら、地球の気温上昇は止められるものの、世界の多くの人々は貧困と病の中に残される。
 一般に人々は目の前にある経済成長、短期的な消費 雇用などの経済問題、あるいは安全保障の問題を優先的に追求するもので 、議定書が実行され温暖化が本当に防止できるか、今後、長期的危機は手遅れになるまで放置されてしまうのかはわかりません。




2018/08/01

井伏鱒二の「黒い雨」と野坂昭如の「火垂るの墓」

 

1966年(昭和41年)井伏鱒二の代表作「黒い雨」は連載小説として発表された。画期的戦争の記録小説として、日本でも評価され、海外にも翻訳され紹介され、映画化もされた。黒い雨は雑誌新潮に1967年(昭和40年)1月号から最初は「姪の結婚」と言う題名で連載が始められ、その後題名を「黒い雨」とかえ重松氏の日記に重点を置き広島の原爆惨禍を抑えた筆致で描き、翌年の9月号で連載を終わっている。野間文芸賞を受賞し大江健三郎、江藤純氏ら多くの人々も絶賛し文化勲章も受けた作品だった。

 特に山本健吉氏は文化勲章にちなんだ記事で、「黒い雨は近来の傑作と思うが、この本を書いた動機は、あの毎年の原水爆反対集会のお祭騒ぎが悲しくて、あの作品を書いたという。あまりに政治の手に汚されすぎた。あまりに安易な符牒で呼ばれ過ぎた。井伏さんがこれを書いてくれなかったら、私は日本人として、何時までもやりきれない思いを消すことはできなかっただろう。」

 
 最初は巨大なクラゲのやうな原爆雲が刻々と赤、紫、黄、緑などに色をかへながら、廃墟となった広島市街を上から舐めるやうにユックリと動いて行く。そして人々を焼き尽くした灼熱の環境で郊外の竹藪のそばの溝の流れには目高が群れて遊んでいるという描写、あるいは死亡した子供をおんぶした母親、そして原爆爆心地の近くで、植物の新芽が徒長する様相。 「正しい戦争より最も不正な平和を選ぶ」というローマの政治家キケロの言葉ををかみしめている。それら重松日記に記されている文を取り入れ小説化した。


 この作品は全ページの約半分に重松日記や岩竹日記、他の資料とか報告書や資料を引用して小説に使った。重松静馬氏の日記は広島における原爆投下という過酷な力が加わった時、部外者ではなく、罹災者でしか感じられない生身の体験であり、その場の人々の様相であり自然の変容の目撃者である。その現実をそのまま記録し、みごとなドキュメンタリー小説になっている。

 著者自身が黒い雨は小説ではなくルポルタージュであるとのちに語っているように、戦争と平和の物語を題材にして最初は姪の結婚を主題にした世間の人情ものにしようとして連載小説は始まった。その後、 事実の重みから日記の描写の記述がそのまま文章として はめ込まれ 物語は完成した。
 



 井伏鱒二は1898年(明治31年)の生まれで、戦前より多くの作品を書いている。1929年(昭和4年)「山椒魚」「屋根の上のサワン」を発表。 1934年(昭和9年)「青ヶ島大概記」を書き上げた。この製作の過程を太宰治は打ち明けている。24歳の太宰治が早稲田大学近くの井伏鱒二宅で下宿しているときだった。江戸時代、近藤富蔵
という武士が八丈島に流された時記録された「八丈実記」のなかの八丈島持青ヶ島大概記のリメイク版であった。
 井伏鱒二の小説は村の出来事や、民話を素材にしてそれの端々に井伏風の創作を、人情味を加えて書いた作品が多い。1939年(昭和14年)ジョン万次郎漂流記で直木賞を受賞した。これもまた、明治の少年読本シリーズで石井研堂作の中浜万次郎をテキストにしている。

 井伏文学の特徴は、ありふれた日常生活を市民的日常を、観察して文章にする。そこに生の声ではない人間模様を描き出す方法とっている。描写技術がうまくないと古びた花鳥風月、凡庸な人情話になってしまう。
 センセーショナルな作家太宰治ほど有名でなかった井伏鱒二は、戦後この作品は自分の創作でなく人から聞いたものであるとした「駅前旅館」で番頭の日常些事を書き、「本日休診」もまた当時の産婦人科医院の日常を面白おかしくして描いて読売文学賞を受賞した。

 1966年(昭和41年)68才の時、それらとは異色の作品黒い雨で一躍国民的作家として文化勲章を受け、海外にも翻訳され反響をよんだ。「わしらは、国家のない国に生まれたかったのう」の一行に象徴される最も重要なものに注目し、この作品を書き上げた井伏氏の真実の姿勢を感じた。と船橋氏は評している。これは戦後まもなく書かれた「遥拝隊長」の戦争批判と同じ理念を表現していた。
 

 翌1967年(昭和42年)野坂昭如が短編小説「火垂るの墓」を発表した。神戸大空襲の後孤児となった14歳と4歳の兄妹の物語。戦争による爆撃で焼け出され、幼い妹を餓死させた想いを小説化したもので、冒頭の、餓死した少年のドロップの缶、その中に入っていたのは妹の灰と骨のかけらだった。その缶は投げ捨てられ、空に向かった清太の魂は、4歳の妹節子の魂と再会する。スタジオジブリの高畑勲監督のアニメ映画化して世界的に評価される。

 タレントであり作詞家であり歌手であった野坂昭如は「おもちゃのチャチャチャ」を作詞し、「黒の舟歌」を歌って人気を集め、あふれる反抗精神で世間の常識を突き崩す小説で、人の心模様を描き、ある時は江戸時代の戯作者になり、またある時は人の欲望心のやるせなさを描き出そうとした。
 火垂るの墓は文字にしたとたんに嘘が混じる。と自らが語っているとおり自分の経験した事実を創作し物語にしたものだった。
そして、卑怯者の思想を持つ、焼跡闇市派を自称し、文を書き、政治家にもなった。「正しい戦争より最も不正な平和を選ぶ」というローマの政治家キケロの言葉を体現して実行しようとした。


 小説はありふれた退屈な話とあまりに現実離れした突飛な物語その間にある。そして、小説は文章の技術だけではない、歴史に対する理解や人間の心の深層に迫る見方が反映される。そして、題材とする資料や日記の事実と創作との間の虚構と真実の兼ね合いでその作品の価値は決まる。

 今コンピューターに小説が書けるかが話題になっている。多くの文章を簡単にコピーできる。そして災害や事件の記事や、そのほかのルポルタージュ記事はかなり機械でも描きやすいタイプの文章で、すでに人間の記者と区別できないレベルに達している。日本では、昨年星新一に応募したコンピューターのショートストーリーが一次選考を突破した。

 今後、コンピューターを使い、資料を読み込ませ、それぞれの作家らしい文章を学習させて面白い小説にしたり、昔の物語を下敷きにして、機械による新たな小説が生まれる時代がすぐにやって来る気がします。しかし、心の叫びを表現した詩や小説はアンドロイド文学には無縁の世界です。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

・・・


                           峠三吉



2018/07/03

岡本太郎の父一平


           梅咲くやえらく儲けた製材所                                                       一平

 

 岡本一平は1886年(明治19年)函館で生まれ、江戸情緒を残す東京で、5歳から生活する。一平は、美貌のおしゃれな都会っ子で、東京の下町育ちで洒脱で野暮の嫌いな江戸っ子気質をもち、東京美術学校西洋画科に入り、大地主の娘大貫かの子と結婚する。
 かの子は1899年(明治32年)生まれ、明星で短歌発表しその常連となっている。
2人は美術学校の主任教授の仲人で1910年(明治43年)に挙式した。翌年二人の間に長男太郎が生まれた。岡本かの子は、のちに女流作家として有名になり、また長男岡本太郎は戦後、日本美術の革命児となる。

 岡本一平は大正から昭和初期にかけて、朝日新聞に漫画にちょっと洒落た文章をつける漫画漫文を連載、大ヒットし一躍有名漫画家になった。
 夏目漱石は朝日新聞の1912年(大正1年)8月から翌大正2年12月の掲載作品をまとめた「探訪画趣」の序文で、一平の時事漫画とその洒脱な文章を「私はこの絵と文とをうまく調和させる力をいっそう拡大して大正の風俗とか東京名所とかいう大きな書物を、あなたに書いていただきたいような気がするのです。」と絶賛。
 その後、映画小説と名ずけ、ストーリー性のある漫画を創作した「映画小説 女百面相」を単行本として出版し、さらに子供向けの連載漫画「平気の平太郎」を発表。 風俗漫画、政治漫画、似顔絵漫画、人生漫画と幅広い漫画の世界を開拓し大正期大衆漫画時代を作り出した。

 1921年(大正10年)東京美術学校の古き良き学生時代の恋物語「へぼ胡瓜」
と大正13年「どじょう地獄」を講談社から発表。実生活では一途すぎる性格のかの子と衝突し、一時は梅坊主の一座に弟子入りし、ばか囃子やかっぽれを踊り浅草の舞台に上がる日々を送った。その後家庭生活の葛藤を乗り越えるため、宗教に救いを求め、二人でキリスト教の信仰に入り、やがて大乗仏教信者となった。
 
 漫画においては漫画漫文スタイルを確立し、超多忙な生活を送っていた一平は、1922年(大正11年)新たな飛躍を求めて、一度めのアメリカ、ヨーロッパの旅行に旅立った。アメリカ、イギリス、フランスの政治漫画雑誌の現場を実感し、東京美術学校時代の同級生藤田嗣治とも再会し、ヨーロッパ近代絵画の知識を身につけ、それを漫画の世界に反映させた。これは、しんぷりしちずむと題した8コマ漫画漫画など新たな漫画の手法に反映されている。
 
 
 1929年(昭和4年)ロンドン軍縮会議を朝日新聞特派員として取材のため出発。
ロンドン、パリ、ベルリンと1932年(昭和7年)まで3年間ヨーロッパに滞在し、息子の岡本太郎は1940年(昭和15年)までずっとパリで暮らした。

 政治まんが時事まんがも一平流をつらぬいた。政治に対する激しい怒りや批判をストレートにすることはしなかった。底流には江戸時代の俳画作品に通じる、洒脱と笑いと粋な姿勢があった。政治的にはあまり先鋭にはならず、批判は後からクスリと笑う、ペーソスに包まれていた。

 そして「漫画にもやはり歴史もあれば世界的情勢といふものもある。これらを腹に置いてかからないと論に権威が足りないし、確たる想も建てにくい」と技術だけではない漫画での知性、歴史観にうらずけられた表現を大切にした。  

 林陸相(議会印象評)大臣席の1ばん端で深沈寡黙を守っている将軍がムクムクキリッとなった。演壇に出ての語気が荒い。「好戦的態度で国民を煽るという事実は全くありません。軍部としては甚だ迷惑です」将軍の虎ヒゲに触れていいところと触るるとべからざるところがある。
 一平の政治漫画はやはり、夏目漱石が評したように、「あるものになると、画よりも文章の方が優っているように思われるものさえあった。」
 また「漫画を3つの起源に分け、ナンセンス漫画、諷刺漫画、リアリズム漫画で、時局漫画の如きにおいても風刺の実効よりも機智の興味に力を移してきた。時局風刺画は性能不足の時代となった。大衆はこの絢爛なる時局の動きに対して、漫画家に別の注文を求めている。それは時局に就ての挿画であり、ユーモアであり、機智であり、余裕である。」

 その頃1929年(昭和4年)に、一平は江戸時代の俳優絵帳の現代版「新水や空」と題した、俳優や政治家の似顔絵を新聞で連載し、毛筆で人物の性格まで表現した。かの子は一時期隣に住んでいた芥川龍之介をモデルにした「鶴は病みき」で小説家としての一歩を踏み出し、認められる。一平はそのプロデューサーを務め、かの子は次々と小説を発表し女性流行作家となる。その絶頂期、1939年(昭和14年)の冬にかの子は亡くなる。その遺稿の小説「生々流転」などを出版し、自らは、漫画界の第一線から退いていった。

 戦時体制になる中、翌年1940年(昭和15年)トントントンカラリと隣組と全国で歌われた隣組の作詞をして、再び脚光を浴びる。戦争の激化とともに東京の空襲が激しくなり、1944年(昭和19年)には浜松に、その後岐阜県に疎開した。 


ちいもははも猫もしゃくしもおとりかな
たもとして払ふ夏書の机かな 
          与謝蕪村

気に入らぬ婆アと並び田植え歌 
風流も用事も一つ机かな  
          岡本一平。




 大正時代から昭和の初期にかけて、新聞、雑誌の漫画漫文で一時代を築き、漫画にヨーロッパ美術の新たな手法を取り入れ、革新し、先端を疾走した岡本一平。晩年は江戸時代の与謝蕪村の俳画の伝統にもどり、戦争中、疎開先の木曽川沿いの田舎で小さな子供たちと生活し、漫俳を作り出した。
 そして、へぼより野暮を嫌った粋で、洒脱な人生を終生貫き、1948年(昭和23年)62才で幼い4人の子供を残して亡くなる。


秋晴れや映画の景色ゆく心地


菊の香やなにを今更諸慾ぞも

2018/06/11

草野心平と詩人黄瀛

川面に春の光はまぶしく溢れ。
そよ風が吹けば光たちの鬼ごっこ葦の葉のささやき。
行行子は鳴く。行行子の舌にも春のひかり。

土堤の下のうまごやしの原に。
自分の顔は両掌のなかに。
ふりそそぐ春の光に却って物憂く。
眺めていた。

少女たちはうまごやしの花を摘んでは巧みな手さばきで花環をつくる。
それをなわにして縄跳びをする。花環が円を描くとそのなかに富士がはいる。
その度に富士は近ずき。とおくに坐る。

耳には行行子。
頬にはひかり。


 草野心平は1921(大正10年)年1月、日本を出て、中国広東にあった嶺南大学に入学した。1903年(明治36年)512日生まれの心平、18歳の時であった。嶺南大学はアメリカ型のミッションスクールで、外国人が経営する学校で独自のカリキュラムで運営されていた。教員の4割は中国人、残りの多くはアメリカ人の教師であった。

 この頃中国では五-四運動が始まった。これは日本の対華21箇条の要求を中国政府が受け入れたことに反対する反日運動であった。

1923年(大正12年)はじめての詩集「廃園の喇叭」を発表する。中国の広州にいて、1925年(大正14年)もっとも中国らしい名前の同人誌「銅羅」を発刊した。
 当時草野心平は無名であった。「春と修羅」の詩を読み、それに感動し「銅羅」に、やはり無名の宮沢賢治の作品も載せた。その詩を「表現過程においていつの間にか、天然自然が濾過器としての彼を透って、賢治的な心象風景を描いた」と評して高く評価した。この「銅羅」には草野心平を中心に黄瀛、宮沢賢治、高橋清吉、三好十郎など多くの詩人が参加した

 この中で、当時は黄瀛が詩人としてもっとも有名だった。黄瀛は中国人の父と日本人の母の間に生まれたハーフで、中国の青島日本中学校時代、多くの日本語の詩を発表し、日本でも認められていた。その後、進学のため日本にわたり、高村光太郎のアトリエで多くの時間をすごしていた。その頃草野心平を光太郎に紹介した。
 そして高村光太郎のもとに黄瀛、賢治、心平は私淑することになる。
 その後、黄瀛は文化学院に在籍した後、陸軍士官学校に入学、2年後に卒業する。1931年(昭和6年)南京にわたり蒋介石の国民党に参加する。

1928年(昭和3年)に「銅羅」は廃刊、草野心平は同年11月「第百階級」を出版、生活に苦しみながら詩を創作する。そして1935年(昭和10年)には歴程を創刊する。

秋の夜の会話
 
さむいね。
ああさむいね。
虫がないてるね。
ああ虫がないてるね。
もうすぐ土の中だね。
土の中はいやだね。
痩せたね。
君もずいぶん痩せたね。
どこがこんなに切ないんだろうね。
腹だろうかね。
腹とったら死ぬだろうね。
死にたかないね。
さむいね。
ああ虫がないてるね。


 1937年(昭和12年)盧溝橋事件から、日中の全面戦争になる。その後、蒋介石の国民党とドイツの仲介により日本との和解が進められた。それに対し、日本の陸軍参謀本部は現実的判断から和平を求めた。一方近衛内閣は国民の熱気におされ、賠償責任が必要であると主張し和解交渉は決裂した。1938年(昭和13年)、近衛内閣が国民政府を相手にせずと声明を出し、日本は汪兆銘を担ぎ出し南京政府を作った。
 中国には共産党の延安政権 、蒋介石の指揮する国民党の重慶政権そして南京にそれらに対抗するための日本が支える汪兆銘の南京政府が併立する状態になった。

 草野心平の大学時代の同級生は延安の共産党、重慶の国民党そして南京の汪兆銘政権に別れた。草野心平は、林柏生にさそわれ 1940年(昭和15年)汪兆銘の南京政府宣伝部顧問として南京に向かった
  1942年(昭和17年)には日本政府の支援のもと、第一回大東亜文学者大会が開催された。中華民国から草野心平が文学者の代表として出席し、1944年(昭和19年)には第3回目の大東亞文学者大会が開かれた。しかし、汪兆銘は病死し次第に色あせた会議になってしまった。

1945年(昭和20年)日本は敗戰、草野心平は、国民党軍軍人として接収のため南京に来た黄瀛と再会した。

一つのふるさとからいつのまにかおれにも一つのふるさとが出来。
二つが別別の二つでありさうして一つであることの希願から。
大きな亜細亜の命運のなかで。
けれどもおれがみたものは。
いまはまさしく敗亡のみじめなざまだ。
中国なくして日本なく日本なくして中国なし。の系譜を正しく踏もうとして。
けれども夢は阿修羅になって迫るいま。
生ま身をひきさく別離の胸にやぶける金属音。

 敗戦後の1946年(昭和21年)3月草野心平は中国から帰り福島県の阿武隈山脈の下の生家に帰った、そして歴程を復刊する。
 黄瀛は1949年(昭和24年)国民党の将校として中国共産党に囚われ入獄、1962年(昭和37年)出獄。1966年(昭和41年)文化大革命で獄中の人となり、  11年後に解放され、四川外語学院で日本語と日本文学を教える、そして教授になる。

生きていれば きっといい時世が
来るにちがいない
こんな時はかなさは
すっかり取り除かれて
いるにちがいない
高い梢の桐の花
石垣一ぱいの
明るい金色の名なし草
夏の早い雲足さっときてさっと戻る
さんさ時雨

後来有期


 草野心平の尊敬する師は高村光太郎であり、大いなる影響を受けた詩人は天上の作家
宮沢賢治で、自らは地上の詩人であった。そして黄瀛は自分の存在自体が詩でありたいと願い終生詩を書き続けた。

2018/05/22

日本的医療文化 変わったこと変わらないこと

  • 戦後の日本は、国民皆保険制度を確立し、誰でも、どこでも、同じ治療が安い医療費で受けられる、お任せ型の医療を確立した。
  •  その後、医療の技術は進歩しはじめた。現在使われているCT検査は 1970年代に、またMRIは1980年代に発明された。その頃カテーテルによる心臓治療が始まり、内視鏡も進歩し薬も続々と開発された。 それとともに1980年代には、医療費20兆円越え、医療費亡国論が唱えられた。すでに、日本は少子高齢化に向かっていて、この医療費を放置すると、国の財政が破綻する、特に多くの種類の多くの薬が使われ、薬代が医療費の全体の30パーセントをしめていて、これを削減する必要があると言われた。
 当時先進国では、専門に分化しすぎている臨床医を、専門医と家庭医に分けることが行われていた。1985年(昭和60年)日本でも家庭医に関する懇談会できた。しかし、2年後の1987年(昭和62年)反対に会い、家庭医構想は頓挫した。
  1990年代半ばからデジタル技術の時代がはじまった 。デジタル技術が定型的な仕事、給料の計算や自動車などの溶接作業などを肩代わりし、それを使って人間は判断することに集中でき作業の効率は改善した。
 医療の分野でもこの IT技術の活用が期待された。しかしこの時期のコンピューターシステムは取り入れても、作業の手間は変わらず、業務は効率化しないで、お金だけかかった。

 2000年(平成12年)医療費は約30兆円になり、公的介護保険制度ができる。当時、病院改革すなわち病院の質の向上が、問題となり、また医療の研修が問題になり、高齢者医療費増大が問題になった。
 2004年(平成16年)医局体制を大学病院の独占から、市中病院も加わった研修医制度ができた。それにより医局支配の体制は弱くなった。

 そして2001年(平成13年)小泉内閣になると、財政再建のため医療費の支出に総枠を決めて削減した。この医療費の削減が医療崩壊をもたらしたとして批判され、その後医療費削減は困難になった。

  以前から課題であった、医療情報の開示、医療機関の第三者評価を進めるとともに、ITなども活用しながら、科学的根拠に基づいた医療(エビデンス ベイスド メディシン)を確立していくことが目標となった。多くの医療機関同士で患者の病名や処置のなどの情報の共有を目指した、電子カルテを使った情報化がすすめられた。しかしコストのかかりすぎや、情報流出の懸念からなかなか進歩、普及が見られなかった。
 この頃になると、日本の医療保険制度は世界的に優れていることに疑問符がつきだした。財政的には赤字の先送りによって支えられ、医療関係者の過重労働に支えられ、技術は最先端ではなく、IT化もそれほど進んではいないし、医療のシステムや情報の開示は遅れているのではないかのと。

 2010年(平成22年)医療費は介護を含め約40兆円となる。


 この数年で、医療にもIT技術が急速に取り入れられた。 世界最強の囲碁のチャンピオンを倒したアルファ碁の会社ディープ マインド社はイギリスの公共医療シシテム、国民医療サービス(NHS)と共同でこの技術を医療システムに適用し、新しいシステムを開発しつつある。
  また韓国では医療情報化政策で、今では医療機関のあいだ、医療機関と患者の間の情報共有がITで実現していて、医療機関の質の評価が行われ、各病院の実績が公表されている。そしてアプリ「健康情報」でだれでも見ることができる。さらに、「マイチャート」で診察の時患者が情報共有に同意すれば、クラウド上に検査結果や薬の処方が記録されいつでも見て使うことができる。
 医療技術では機械が視力を獲得し、情報集め、診断をするようになった。医療における画像診断、CT やMRIや、顕微鏡でみる病理診断、あるいは胃カメラや大腸のカメラの画像、心電図や心臓エコーの診断も出来始めた。ディープマインド社は眼球のスキャン画像100万枚を解析して失明経過を明らかにし、ロンドンでは頭頸部のがんCT、MRIの画像から、効果的放射線治療の研究を行なっている。

 さらに機械が耳を持ち音声入力が可能となった。
そして2016年Microsoft社が会話における音声認識で人間と同じ役割を果たすことに成功した。医療や介護の現場で時間がかかり面倒なことは、活動の記録を規則にしたがって正確に書き残す作業で、多くの時間がこの作業に費やされている。電子カルテの方法でかなり改善したもののいまだ手書きの書類作成は必要で、これがすべて音声による正確な記載ができれば本来の医療にもっと集中できる。
 ロボットの進化で手となり足となる機能も進歩した。アメリカの国防高等研究計画局が膨大な予算をつぎ込んで1999年ロボットダヴィンチが完成、世界中で多くの手術に使われている。
 さらには人間の判断、頭脳も機械がかわりにでき始めた。現在IBM社のワトソンを使って病気の診断をし、さらに日本の保険会社がこのワトソンを使って、過去の保険金の支払い例を評価し学習して専門的知識を身につけた。これは健康診断のデーターから将来の病気の可能性を評価する方向に進化する。

 技術は進歩する。この30年間、機械化(コンピュウター化)で病院などの医療システム、教育、治療が大きく変わる時代に入った。一方、日本の医療文化は変わらないことも多かった。

 今後このITを使った技術を日本の医療文化にどのように取り入れて、医療のシステムを変えていくのかが問われている。一方、少子化と高齢化が急速で、そのための財源が問題となっている。高齢者の国日本、働き手の激減する日本社会で、財政問題から日本の医療文化も今後根本的な変更が迫られるかもしれません。