
村上 春樹の“ねじまき鳥クロニクル”の本田老人や間宮中尉の話にでてくるハルハ河近くの国境をめぐる激戦地ノモンハン事件は、モンゴルではハルハ河戦争と呼ばれ,当時日本国内では、この戦争についてあまり報道されていません。
中国大陸では1931年(昭和6年)満州事変がおこり、1937年(昭和12年)盧溝橋事件から日中事変が始まる。
日本陸軍は、中国一撃論を唱え、蒋介石は一ヶ月でかたずけ、その後ソ連軍にあたるという独断的計画をたてていました。しかし現実は一ヶ月どころか、宣戦布告もなく何年にもわたる泥沼の戦闘状態におちいっていきました。
小林秀雄は日中事変の最中の1938年(昭和13年)満州から北京に旅行し、以下のように書いている。“事変はいよいよ拡大し,国民の一致団結は少しも乱れ無い。この団結を支えているのは一体どのような智慧なのか,この事変に日本国民は黙って処したのである。これが今度の事変の最大の特徴だ。”
日中戦争の最中のこの時期、1939年(昭和14年)ソ連と満州の国境をめぐってノモンハン事件が勃発しました。このノモンハン事件は多くの小説家が題材にとりあげています。なぜ多くの歴史家や小説家がこのノモンハンを取り上げるのか、その理由は,日本的な精神や世界観、軍隊や官僚組織の典型がみられるからです。そして,戦後、平和で民主化された現在も状況によっては同じ対応がおこるではないかとの危惧を抱くからです。
アメリカの研究者アルビン D.タックスが「ノモンハン上 下 草原の日ソ戦 1939」の本を書き上げ、半藤一利の「ノモンハンの夏」や五味川 純平の」「ノモンハン」,歴史小説家の津本 陽も「八月の砲声ノモンハンと辻 政信」でこの当時の作戦参謀の辻政信について描いています。辻作戦参謀自身もこの戦いの記録「ノモンハン」を残しています。
入江徳郎の「ホロバイルの荒鷲」では当時の陸軍の戦闘機が表紙をかざり、草葉栄の「ノロ高地」では日本の戦車がやはり表紙に描かれています。
当時の日本陸軍の装備は日露戦争時代とほとんど同じで,銃は三八式歩兵銃で近代化されず,ようやく昭和4年に89式中戦車をつくったものの、これは短い砲身の57ミリ砲の装甲の薄い戦車が主力でした。その後改良型の新型戦車もつくられたもののこの戦いには旧式戦車が出撃しました。写真でよく見る日本のズングリした戦車と、ソ連の戦車の違いは,ソ連型はアメリカBT戦車と同じように砲身が長く射程は長く高性能であったため、結局戦車と戦車では戦いにならず、火炎瓶による肉弾戦車攻撃が最大の日本の兵器でした。
これは、ソ連がヨーロッパで新しく組み変えた戦争観によってジューコフ将軍のもとに近代戦でのぞんだのに対し,日露戦争を引き継いだ非近代的世界観で戦った日本はソ連機甲部隊に打ちのめされた戦争でした。
これは、ソ連がヨーロッパで新しく組み変えた戦争観によってジューコフ将軍のもとに近代戦でのぞんだのに対し,日露戦争を引き継いだ非近代的世界観で戦った日本はソ連機甲部隊に打ちのめされた戦争でした。
日本の一般の兵士は勇敢で、戦車に肉弾で突撃炎上させ、捕虜になるより死を選ぶ散華の精神で戦ったこと。
現場責任者の責任感からの自殺や、撤退の責任から自害に追い込まれ、この戦の真の教訓を得ることができなかったこと。
辻政信作戦参謀は戦車など近代兵器の知識は乏しかったものの、官僚としては優秀だったと評価され、それほど責任をとらず、この戦争から何一つ教訓を得ることなく同じ戦争観で再び戦争の指揮者となったこと。
この戦争は日本軍の戦争を支えた思想、日本精神が色濃く反映していました。「その特徴の第一に、動機主義的傾向がありました。行為者の心の潔白さや正直、無私の心根を重視し、結果はあまり問題にしない、あるいは理性より感性を重んじ感情的判断をすることです。結局、犠牲的精神は旺盛であるものの、動機主義は独善的となり,自信過剰となる。さらに感性重視は,一切の周到な用意や検討を欠き、異見を退け独善主義独りよがりが生ずる。客観性の蔑視や軽視から実証的、科学的判断にもとずく用意不足となる結果をうみました。」
360度地平線が見渡せる、どこまでも緑の草原が続いているまったいらな無人の地帯で、国境線をめぐって双方に多くの犠牲者を出した紛争から2年後、同じような日本的感情論が軍という官僚組織を支配し、第2次大戦に突入し国家を破綻に追い込んだ苦い歴史は現在の日本にとってもおおいに教訓になることです。
参考 村岡著 日本思想史研究
参考 村岡著 日本思想史研究