
金子光晴の放浪記
古靴店
赤、青、黄の強い原色の郷愁(ノスタルジヤ)
濡れた燕がツイツイと走る5月の雨空、
狭い港町の、ペンキの板囲した貧しい古靴店がある。
店一ぱい、軒先にも、店にも、はげすすけた古靴、破れ靴、
大きな泥のままの長靴や、戯けた子供靴迄
すべて、この人の生に歩み疲れ、捨てられたものらの
朽壊れた廃船舶が聚っている。
おお、悲しい哀傷的な港景だ。
人情よ、零落の甘さ、悔もなさ、慕しさよ。
俺は、只俺の人生が泣きたくなった。
金子光晴 1895年(明治28年)に生まれる。
半年あまりの最初のヨーロッパ旅行の後、「こがね蟲」を出版し、象徴派の詩人として、出発する、関東大震災のあと、「こがね蟲」でうたったヨーロッパの美意識の世界は崩れ去る。1928年(昭和3年)から1934年(昭和9年)あしかけ5年におよぶ東南アジアからパリにかけての放浪の旅に出る。
その時の旅行記「マレー蘭印紀行」は1940年(昭和15年)に出版された。その後、「どくろ杯」で婦人の森三千代の小説を下敷きにして、中国放浪紀を書いた。続編の「眠れ巴里」がフランスでの2人の貧乏生活と巴里の日本人を描き、最後に「西ひがし」で3部作を完成させ昭和60年代から70年代に出版した。これらの紀行文は戦前の中国、アジア、ヨーロッパ、西と東の放浪記だった。
最初に上海、シンガポールをおとずれる。戦前の国際都市上海の当時の混乱と猥雑ぶりを「上海は1つのかくはん機だ。ひきずりこまれた人間どもは混血となる。」
マレーでは、日本の夏よりも高温多湿の植物、動物の生命のあふれるゴム園に滞在し マレーシアのバトパハにしばらく滞在した。
「パンジヤル マシンをのぼり
バトパハ河をくだる
両岸のニッパ椰子よ。
ながれる水のうへ
静思よ。
はてない伴侶よ。
文明のない、さびしい明るさが
文明の一漂流物、私をながめる。
胡椒や,ゴムの
プランター達をながめたやうに。」
ニッパ椰子の唄
また、スマトラ島のメダンでは
「ジャワの風景は、鋤きかえされた陸田、ひび割れた土塊の骸ろである。馬来半島は、明るい雲雲の変化にみち、人間は軽薄な文化に憧れている。ここ、スマトラにわたってみると、老樹はいたるところに陰影をつくり、じぶんの室のなかにいても、くろぐろと繁茂するものの、ひそまりかえったしずかさが徹えてくる。
おなじ植物でも、ここの植物は、すべて,そのうまれそだちが粗暴で、強力で、みのたけがずぬけてのっぽで、縦横無尽、おもいのままないきかたで、密生している。スマトラの自然は、いつも樹木の下陰になって、ひるでもまるで、夜のようだ。
阿蘭風な低屋根がならんでいるメダン全市も猶、森林の延長であるのにほかならない。」
放浪の旅から得たものは、みずからの古い日本を否定し、エトランゼとしての見方を身につけた人間になったこと。そして多くの文学者のように、日本を、昔を思い出し回帰することなく、たったひとり、うしろむきのおっとせいとなった。
フランスをおとずれた人たちの中にはそれで箔ををつけて日本での生活の糧にする人がいた一方、金子光晴と三千代は底辺の生活を経験し、貧しい社会の底辺に暮すフランス人や外国人の生活を見て人間のあり方そのものを見出した。人種や国籍が違ってもその中に、日本人との差異より人間の中の同一性を見いだした。
珊瑚島
「うつくしいなどと言う言葉では言い足りない。悲しいと言えばよいのだろうか。
あんまりきよらかすぎるので、非人情の世界に見える。」
「人間生活や意識に何のかかわりもないこんな島が、ひとりで明けはなれてゆくことを、暮れてゆくことを。人類世界の現実から、はるかかなたある島々を、人々は、意想イディアとよび無何有郷ユートピアとなづけているのではあるまいか。」
0 件のコメント:
コメントを投稿