2009/08/23
ポルポト,赤軍、文化大革命
2009/08/14
ロイカトーン祭り
11月初めにタイのドンムアン空港に降り立つと、日本の晩秋の気候になれた体には、雨期末期のムンとする熱気がとりわけ強烈で南国の光と香りを感じさせます。
昔行ったカンボジア国境の小さなアランヤプラテートの町,バンコクから車で3時間あまりで到着、宿舎の近くでロイカトーン祭り行われていました。仏教国タイでは毎年,11月の満月の日、この頃,タイは雨期が終わり乾気になり満月が美しい気候になります。
クラトンというバナナの葉の上にいろんな花をかたどり灯籠をたて、そしてこれを河に浮かべます。 これは,日本と同様にタイ全土で行われる灯籠流しで,タイではロイカトーン祭りと呼ばれています。祭りは同時に舞台での演技大会が行われ、観客から選ばれた人がミスロイカトーンになります。そして所によっては花火大会がおこなわれます。
日本でも灯籠流しは,お盆の行事として、各地で行われる送り火のことで,お盆に亡くなった人の精霊を向かえ、灯籠の中に入れてあるろうそくに火をつけ,それを河や海に流す,送り火の仏教の行事です。
仏教の教えは,インドからおこり次第に周辺の国に,伝わり中心地で有るインドはヒンズー教にパキスタンやバングラディシュはイスラム教に取って代わられたものの現在中国や日本には約1億人の仏教徒がタイ、ヴェトナム、ミャンマーが約6000万人から、4000万人、スリランカとカンボジアが1200から1400万人の信者がいます。またチベットやモンゴルにも多くの仏教徒が住んでいます。
この季節になると、アジアの多くの国と共通の仏教国日本であることを思い起こします。
2009/07/29
大転換の時代
1930年代、大変換期とフランス
第一次世界大戦後は,国際法や国際道義を重視し,国際連盟などの国際組織によって平和を維持し続けるべきだとの考えが強くなった。そして,戦勝国のフランス、イギリスそしてアメリカは平和と繁栄を謳歌していた。日本もまたつかの間の好景気を満喫していた。
とりわけ、1920年代のパリは美術、音楽、文学、演劇などの中心で世界中から人々が集まり、この芸術都市に暮らし作品を生み出していた。小説家をはじめ、芸術家を目ざすアメリカ人にとってもまたパリは憧れの都市であり、スコット フィッツ ジェラルドや、カートルード スタイン、エズラ バンドやヘミングウエーなどもフランスに移り住んでいた。ヘミングウエーは“もしきみが幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこですごそうとも、パリはついてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ。”と書いている。
日本からは、岡本太郎や藤田つぐ治など400人以上の画家や彫刻家が留学などの目的で滞在し。堀口大学や藤原義江、また小説家の林芙美子も放浪記で有名になった後,パリで生活していた。その頃岡本太郎もバタイユと親好を結び,人間性を圧殺する全体主義、革命を裏切る官僚制対する憤りを主張する文化運動を彼らとともに行っていた。
1920年(大正9年)から1940年(昭和15年)への20年間は、前半の10年に夢みられた平和と繁栄と国際協調の期待、主にイギリスおよびアメリカの覇権によって世界の治安が保たれた時代であり、また西欧文明の最盛期であった。経済的に繁栄を謳歌し、世界平和は保たれていた。共和国フランスは文字通り世界の芸術文化の中心として輝き、世界中の人々を引きつけていた。
しかし、1929年の世界大恐慌は瞬く間にユートピアの時代を過去のものとし、世界経済がブロック化し、世界貿易はスパイラル的に減少し、この影響はフランスにも及び,全労働者の60%が失業する事態となり、深刻な政治的抗争がおこった。ファッショ団体である火の十字架やアクション フランセーゼなどの右翼団体ができ,左翼もまた結束して人民戦線を形成した。
ドイツは生存権獲得、旧秩序を破壊するナチスが台頭し、日本では、米英本位の平和主義を排すとした近衛内閣が誕生した。そして世界大戦へと世界は突き進んでいった。
2009/07/20
ノモンハンの夏

これは、ソ連がヨーロッパで新しく組み変えた戦争観によってジューコフ将軍のもとに近代戦でのぞんだのに対し,日露戦争を引き継いだ非近代的世界観で戦った日本はソ連機甲部隊に打ちのめされた戦争でした。
参考 村岡著 日本思想史研究
2009/06/21
臓器移植法案
いざさらば 死にげいこせん 花の雨。一茶の時代、死ぬことは今よりずっと身近で自然なものでした。
1960年代人工呼吸器ができて、息ができなくなったり、呼吸が止まると、そう管といって、気管にチューブを入れ、それをとおして、空気を器械的に肺に送り込む装置を使い延命可能となりました。
原理は比較的簡単で呼吸を自分でする代わりに、器械をつかって外から酸素の混じった空気をふいごの原理で規則的に入れてやるわけです。 急性の肺の病気や呼吸障害の場合、効果は劇的でした。いままで助からなかった人が助かるようになり、救命医学の進歩に皆が感激していました。
しかし、問題は、心臓や肺そのほかの臓器が回復しても、脳が回復不能の事態が起こったことです。これが脳死の状態です。細胞の死は、場所によって時間的にばらばらに起こります。自然の状態では、呼吸がとまればすぐに、心臓も止まり、数秒後に脳の細胞が死んで.その後ゆっくり全身の細胞が死んでいきます。
レスピレーターを使うと、脳が死んでも心臓は生き、腎臓や肝やほかの臓器が生きている状態、脳死の状態がおこってきました。自然の状態での死が、人間の判断やコントロールによる死になり、生きている心臓などの臓器を他人に移植する治療もできるようになりました。そのためにはどの時点で死んだと判断するかの必要性が生まれてきました。
今回の法案のA案は脳死は一般に人の死であり,本人が生前に拒否しなければ,家族の同意で臓器提供を可能にする。また,15歳未満の臓器提供を禁ずる現行法の年齢制限を撤廃するというもので、現在はアメリカなでの外国で臓器の提供を受け移植手術をしていたものが国内でも可能となります。
2009/06/15
鳥か豚か人間か
新型インフルエンザ
一般の風邪もインフルエンザもヴィールスが体に侵入しておこる感染症です。
冬には毎年何万人もの人がインフルエンザにかかり,季節性インフルエンザと呼ばれています。今回世界中に蔓延した新型インフルエンザは抵抗力をもった人がいないため一気に世界的な大流行をおこしました。しかし,幸いなことに毒性は弱く、メキシコ以外では死亡者は多くありません。
今回政府が新型インフルエンザに対するガイドラインを今年の2月つくっています。
前段階 (未発生期)国内では未発生の段階。
第一段階(海外発生期)
第二段階(国内発生期)
第三段階 国内で患者の接触歴が疫学調査で追えなくなった事例が生じた状態
感染拡大期
蔓延期
回復期
第四段階(小康期)患者の発生が減少し低い水準でとどまっている状態。
これらを想定して、医療機関などの対応策が練られていました。
しかし、これは高毒性の鳥インフルエンザを想定したものでした。 WHOは当初よりcontainment(封じ込め)は不可能、めざすべきはmitigation(被害の軽減)だとアナウンスしてきたにもかかわらず、日本では水際撃退作戦を機内での検疫を重装備の医官が毎日1万人に対して行いました。
過去の新型インフルエンザは、最初の1、2年で人口の25%くらいは感染し、数年以内には大半の国民がかかり、季節性インフルエンザになっていくことがほとんどです。
今年の秋には第二波の流行がおこるのはほぼ確実です。今後の新型インフルエンザに向けてするべき対策は,今回の経験を科学的に検証し、検疫はどの程度有効であったのか、毒性によって医療体制や社会活動を今後どの程度制限するのか,感染症専門施設の充実か発熱外来の充実かワクチンの活用はどうするかなどの検討することが大切です。
2009/03/08
大正時代と芥川龍之介

大正時代は1912年からはじまり、1926年までの15年間で,この時代日本は極東における大国になりつつありました。
この大正時代の代表的作家は芥川龍之介で、1892年(明治25年)に生まれ、大正4年(1915年)に羅生門を発表し、事実上のデビュウ作となりました。文章のうまさ、冴えそして物語の見事な構成力で、人間心理を描き出しスマートな短篇小説を次々と生み出し、若くして国民的作家となりました。薮の中、鼻、蜘蛛の糸,地獄変は今昔物語など昔話を題材として創作したもので,中国を舞台にした物語、童話など多岐にわたる短篇を世にだしています。
大正3年(1914年)ヨーロッパを主戦場として第一次世界大戦勃発。日本は参戦したものの,被害はほとんどなく,輸出で利益を得、つかの間の好景気と平和がおとずれ,大正モダンと呼ばれる都市化と,大衆化の時代でした。
それにあわせて,国内にも日本改造を合い言葉に様々な団体ができました。民主主義を目ざす黎明会や新人会、それと対極をなす興国同志会など国粋主義団体が次々と結成され、文学もプロレタリア文学や自然主義文学が台頭してきました。
一方、中国では大正8年(1919年)には、講和会議に対する幻滅から,五−四運動が起こり、又,日本の21か条の要求など対中政策に対して、排日反日運動が高まっていました。
しかし、中国は統一されず中華民国政府、共産党、地方軍閥の間で内戦がおこり混乱を極めていました。
この頃大正10年(1921年)、芥川龍之介は大阪毎日新聞の特派員として,3月から7月までの4ヶ月中国を旅行しその旅行記を“支那游記”として発表しました。
○支那の紀行となると,場所そのものが下等なのだから,時々は礼節を破らなければ溌溂たる描写は不可能である。
○現代の支那なるものは,詩文にあるような支那じゃない、
○上海同文書院の見学では一本の鯉幟を見て、“支那じゃない日本にいるのだと云う気になった、しかしその窓の側へ行ったら、すぐ目の下の麦畑に,支那の百姓が働いていた。それが何だか私には怪しからんやうな気をおこさせた。”
○あるいは天平山白雲寺の反日の落書きについては、“この使喉費は30万円内外ということだ。”と記している。
毎日新聞の紀行文の随所に見られる、今では考えられないような表現や偏見に驚かされます。それが、当時の日本人の一般的な中国観そのものだったことが伺われます。
○ 又短篇小説“馬の脚”で、北京の三菱につとめている主人公が、“わが金甌無欠の国体は家族主義の上に立つものなり。家族主義の上に立つものとせば,一家の主人たる責任の如何に重大なるは問うを待たず。”の文章は当時の日本の家庭に、国体思想が行き渡っていたことを示しています。
大正時代の後期の作品は、大導寺信輔の半生、或る阿呆の一生や歯車など自分にまつわる物語を書きつつ,人生に対する漠然たる不安から、1927年(昭和2年)、35歳で自らの短い生涯の幕を閉じました。
芥川龍之介の死んだ翌年、1928年(昭和3年)張作霖爆殺事件がおこり、満州事変、支那事変から、太平洋戦争に時代は突入していきました。