江戸時代、俳句とその内容を墨絵や淡彩画で表現し、絵と文が一体となった俳画が蕪村の手で完成された。蕪村は絵画とりわけ文人画といわれる南画を描き、やがて俳句の世界でも活躍を始める。それを組み合わせ、さらには絵つきの文を印刷出版する。この絵つきの本は江戸では黄本と呼ばれ、田沼意次の時代に、庶民の熱狂的人気を獲得した。その代表者が山東京伝で、絵の才能と切れのいい文章で痴れ者ぶりを発揮した。京の優雅さや儒教道徳を洒落のめす力で時代のトップランナーとなった。
17世紀の中頃、江戸で生まれた荻生徂徠の古文辞学は、朱子学も一つの学派に過ぎないとして人情、個人の情を重んじ、享保以降の陽明学や老荘思想の流行、心学や国学などの新思 潮が生まれる素地をつくる。18世紀になると儒教道徳にも実際的な気風が生まれ、都市生活は自由になり、経済は豊かになり、江戸っ子など庶民のための文芸、文化が盛んになる。18世紀は江戸文芸の最盛期を迎えることになる。
蕪村の生まれた年が京保の改革の始まる年、1716年(享保元年)で、この時から寛政の改革までが、蕪村の活躍した時代、江戸時代の文化が上方から江戸に中心が移る時であった。
蕪村は大阪に生まれ22才の年に江戸で絵画と俳句を学ぶ。中国の南画を学び、漢詩を学び、中国文化を終生憧憬していた。
1757年(宝暦7年)42才から俳諧師として京都に定住し俳句と絵を組み合わせた独創的な俳画をつくる。そして俳文という散文の詩を作り、そこに滑稽な絵を載せたり、妖怪絵巻も描いた。それらの作品には優雅なユーモアがみられる。「新花摘」の狐狸談の物語は1797年(寛政9年)に刊行された。
元禄時代上方を中心とした出版の文化は、18世紀蕪村の時代になると、江戸にも生まれ、両者が混じり最も豊饒なる江戸の文化が花咲いた。
江戸は百万都市となり、豊かな庶民も増え、上方の上品な芸にはない独自のエンターテイメントの成り立つ市場規模になった。出版業界は確立し、蔦屋重三郎などが台頭してきた。彼らがプロデューサーとなり、あとは有能な絵師、作家の登場を待つばかりとなっていた。
1782年(天明2年)山東京伝21才の作品「御存商売物」でデビューする。
本の本と言うコンセプトで、面白かったとか、すごひ、と様々の本を擬人化し、評価して当時の出版事情をパロディー物語とした。上方文学とりわけ八文字屋の京阪小説を茶化し、黄表紙や洒落本、一枚絵や、柱絵という柱に貼る細長い浮世絵が流行し、赤本黒本は流行遅れになる様を描いた。そしてその時代のはやりの食べ物などの流行通信となり、江戸で高い評価を得る。黄本は江戸庶民の心意気の現れで、人々は強い愛着を持ち、上方の文芸を鈍重で古くさいものとした。
1785年(天明5年)には金持ちの一人息子、ぶ男でうぬぼれものの物語「江戸生艶気樺焼」を出版し、黄本作家として人気が沸騰する。主人公艶二郎のしし鼻は京伝のシンボルとなる。京伝自身は大柄で、美男子で、容貌においても江戸の華であり、粋で、洒脱な生粋の江戸っ子だった。
その後も「孔子縞ま時藍染」で幕府の儒教奨励を茶化し、「時代世話二挺鼓」で田沼意次の失脚を題材に、早業競争にパロディー化した作品などを次々と刊行した。
この時代になると徳川イデオロギーはゆるみ、道徳重視から経済重視になってくる。
文芸作品の商品化が進み、京伝は「隠者めかした者が、煩悩に束縛される人々を哀れみ、自ら高踏する態度は銭無し組の負けおしみ、仏教の空も、般若の空観もない、金がすべてを可能とする」と大楽の中で語っている。
京伝29才、1790年(寛政2年)「小紋雅話」でうなぎやネズミ、人の頭を図柄と して着物のデザインをつくり、それを売り出したり、あるいはゆきのあしでは白地に二の字の下駄跡 、人の内股の👣、そして犬の足あと🐾をデザインした。近代的蕪村の創作を飛び越え現代の商業デザイナーの先駆けともいえる作品を残した。
寛政の改革で、京伝31才の時1791年(寛政3年)幕府に手鎖50日の刑を受ける。
1793年(寛政5年)に京橋銀座に紙煙草入の製造販売をを始め、デザイナー(意匠作家)の仕事に没頭する。京伝の店の包装紙に謎絵を描いて大人気となる、そして曲亭馬琴は、京伝の店の煙草と煙草入れを擬人化した恋物語をつくる。
寛政の改革で、幕政批判や風刺が禁止されると、作品は滑稽さの極みの追求と、仁義忠孝の儒教的教訓話になっていく。政治を語れず、宗教が卑俗化した後の滑稽さは止めどのない馬鹿馬鹿しさのパレードとなる。
1809年(文化6年)痴れ者ぶりを発揮した人が、蛇の真似をし、蝶々になり、蝙蝠になり、鳶になり、手長海老になり、蝋燭になる。これを歌川豊国の絵でを出版したのが「腹筋逢夢石」、大評判をとり続編が次々と出て、その翌年「座敷芸忠臣蔵」でこのシリーズは終わっている。
この滑稽本の二大書物は物語にとどまらず、その形態模写は実際に当時の人々がそれを真似て遊んで楽しんだ。
そして、読本では、滑稽さを通俗道徳のもとに描いて、馬琴と人気を争い多作になる。
合巻、読本、洒落本、滑稽本それぞれの流行にそれなりの作品を残して山東京伝は生涯戯作者であり、店主であり、江戸っ子の通人であった。晩年は考証学に没頭し、「骨董集」を未完のまま、文化13年56歳でなくなる。
山東の嵐の後に破れ傘身は骨董の骨にこそなれ 太田南畝



