2021/09/26

江戸の文芸と明治の文学

落葉 

 

 秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに、うら悲し。

 鐘のおとに、胸ふたぎ、色かへて、涙ぐむ、過ぎし日の おもひでに。

 げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな。


                       ヴェルレーヌ 「落葉」 上田敏 訳


 江戸時代の文学の典型は、儒教的な教訓と、人の世の人情や滑稽さを描いたもので、近代以前の儒教の影響が色濃く反映していた。曲亭馬琴の南総里見八犬伝や、式亭三馬の浮世風呂、十返舎一九の東海道中膝栗毛は日本庶民の愛読書となった。それより前の田沼意次の時代には、1788年に、恋川春町は「悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶひいきのえぞおし)」を黄表紙で水滸伝のように、蝦夷地(北海道)を舞台にロシア、中国、日本人の活劇小説を世に出し、平賀源内は「風流志道軒」で主人公の浅之進が仙人にもらった羽扇を手にして、「大人国」、「小人嶋」、「長脚国」そしてボルネオ、アルメニア、天竺、阿蘭陀さらに「愚医国」「いかさま国」などを巡り、荒唐無稽の異国遍歴の物語を出版した。

 上田秋成も、物語とはひとしく「そらごと」「作り物語」である。作者の心の中の憤りを書きだし、それを出来るだけ現代の世相にはばかって戯曲化し露骨に表現しないように、過去の時代の事実なき筋に託したり、たわいない滑稽に紛らわせる。これが小説であるとした。また江戸時代の小説では、「支那(中国)や日本の小説だと、災厄が四方に迫り、進退全く窮まるにに際し、之を救ふ者は神仏の加護にあらずんば、必ず狐狸妖怪の助力であった。」



 明治になり、西欧近代に出会うと、明治3年は早くも「西洋道中膝栗毛」が仮名垣魯文によって書かれた。弥次郎兵衛と北八がロンドンの万国博覧会見学に行くの途中の騒動物語であった。

 明治11年(1878年)「八十日間世界一周」や「月世界旅行」が翻訳された。その中で、資本主義の国フランスらしく、クラブの中の賭けから世界一周の物語が始まり、月を目指す砲台作りには資金集めが重要だった。しかし物語のクライマックス、窮地に陥った時主人公を救うのは、神や仏や妖怪ではなく、合理的精神であり、資本力のある人の経済であった。

 二葉亭四迷はツルゲーネフの翻訳「あひびき」で江戸の文芸から別れ、新たな言文一致の斬新な文章で当時の青年たちに熱狂的に受け入れられ、ドイツ留学をした森鴎外の翻訳詩集「於母影」、恋愛劇「即興詩人」は西欧への憧れを日本の若者に広げていった。


 坪内逍遥は小説神髄で「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」として近代小説は江戸時代の八犬伝など、儒教的な勧善懲悪を批判し、真の近代小説であるためにはあるがままの人の情、煩悩などの心の内面を表現するのが文学であるとした。こうして江戸時代の戯作文芸からヨーロッパの自立した個人の内面や社会を描く西欧的小説の時代が始まった。



 明治時代に近代日本文学が生まれたのは、西欧の小説が近代国家の文化とともに取り入れられたことによる。当時のイギリス、フランス、ドイツ、ロシアは経済的にも豊かで、軍事的にも強大でそれを支える国民の文化は豊穣であった。とりわけフランスは明治維新の時、第二帝政期で、世紀末の第三共和国が、第一次大戦を迎えるまで、ベル エポック期と呼ばれ、ヨーロッパ文化の中心で、世界の憧れの都市であった。


 その時代のフランスの文化の香りを詩とともに日本に移入したのが上田敏であった。1905年(明治38年)上田敏の「海潮音」が翻訳刊行された。此の詩集やボードレールの詩集「悪の華」など19世紀末の象徴詩を翻訳した。当時のフランス象徴詩は対象を暗示し神秘性を語ることが象徴詩の目的で、この心情を読む人の心に起こさせるものであった。

 フランス文学を正確に理解し、それにとらわれず日本語の詩として表現した上田敏は日本の和歌から、新しい言葉の響き、海の向こうのフランス語とその精神を日本語の詩として創造した。そして明星の誌上に「英米の近世文学」の中でバイロンの詩やチャールズ ディケンズの小説などを紹介している。

 上田敏は東京帝国大学でラフカディオ ハーンのもとで学び、英語やフランス語をよく知っていて、外国語で完全に思考し表現できる学生と高く評価されていた。翻訳こそ日本を一等国に押し上げる原動力であり、国力としての経済、産業技術だけでなく、文化こそその国の豊かさ、国力の源泉であると考えていた上田は、20世紀初頭の日本について、「維新前後の混乱期にあって古典を学んでおらず、先行世代に比べ基礎的教養がない。また現在の若者も、短期間での専門家養成を目指す教育の弊害として教養教育を欠いており、文科を志願する者の他には、学生は精神上の修養といふ事を全く怠って居る。」


 海潮音はフランス象徴詩を文語で訳し、原詩の叙情を、日本の古語の優美さを、その詩で創作した。のちの詩人北原白秋は「私がサツフォの断章を知り、ショパンを知り、近代白耳義の若い詩人たちを知り、仏蘭西の高踏派、象徴派の諸種の詩風を知り、世紀末の頽唐した諸官能と神経との交響曲を知り得たのは全く博士のお陰であった。」と語っている。


 夏目漱石も西欧の文学が何かわからなくてロンドンの留学に向かった。イギリスの歴史と文化の奥深い教養から生まれる、シェイクスピアなどの小説の背景をなしている人間の洞察や人間存在を描くことを学んだ。留学時イギリスのケンジントン博物館、ヴィクトリアアンドアルパート博物館、ナショナルギャラリーなどを訪れている。多くのイギリスの芸術に触れ、それらの芸術は技巧ではなく自己の思想なり、価値観の表現であることを発見する。そして多くの小説に取り入れた。晩年には「天に則り私を去るとよむ。天は自然である。自然に従って、私、すなわち主観や技巧を去って、文章はあくまでも自然たれ」とする則天去私の考えに至る。こうして純文学は明治時代のヨーロッパの芸術の影響のもとに日本にもたらされ、トルストイの「戦争と平和」やスタンダールの「赤と黒」などの全体小説が目標であり基準となった。そして明治の文豪森鴎外や夏目漱石が生まれた。


 一方、SF作品である、ジューン ベルヌが明治時代の初期に翻訳された。アフリカや北極、そして世界から月世界や海底に物語は広がり、展開する。これは、冒険の舞台が空間的に広がった新たな活劇として好評を博した。坪内逍遥は、それらの未来小説を「ヴェルヌの主眼とする所は学術の進歩を示すににあり、有形の社会の星霜の変化をしたる様を示すにあり、故に真成の小説の如くにあながち妙想を写さんとはせず外部の現象を写し得ればそれにて十分に満足したる者にて 云はば変則の小説にしていわゆる哲学の同胞にはあらで理学の解釈例証に過ぎざるものなり 」と批判的であった。




 坪内逍遥の言う通り、SF小説は時間軸と空間軸をどんどん広げ、思考実験としての世界を荒唐無稽ではない起こりうる現実としての科学的物語で、メインストーリーはその科学的正確性と同時にアイデアの斬新さや意外性が重要視される。それは推理小説や冒険小説についても同様で、人間の能力のうち主に前頭葉の働きである理学、知的ゲームに主眼が置かれる。これらのエンターテイメントに近い通俗小説、娯楽のための読み物は江戸時代の黄表紙の時代からあった。明治時代の小説家にとって本当の小説はリアリティや哲学性をもった純文学、純粋小説であり、通俗小説とは明らかに質の違うものであった。




2021/08/29








 

死への誘惑 その4 三島由紀夫の宗教小説 暁の寺







 「バンコクは雨季だった。空気はいつも雨滴を含んでいた。強い日差しの中にもしばしば雨滴が舞っていた。しかし空のどこかには必ず青空が覗かれ、雲はともすると日のまわりに厚く、雲の外周の空は燦爛とかがやいていた。」


 豊饒の海第三作「暁の寺」は1939年(昭和14年)第二次大戦直前のタイ王室の7才になるジンジャン(月光姫)に本多邦繁が初めて会ったシーン、 国王の離宮バンパインでの出来事そしてタイから休暇でインドを訪れる、それらを舞台に物語が始まる。


 タイでジンジャン(月光姫)と別れ、日本に向かう。「本多は熱帯の風物に別れを惜しんだ。金の仏塔が緑の密林の間に小さくなると、自分がそこで味わった転生の出会いが、すべて一篇のお伽話、一場の夢のように思われてくる。あれほど転生の証拠が揃っているのに、月光姫があまり幼いので、すべてがわらべうたの哀歓に紛れ、清顕や勲のような生の一連の流れ、その奔湍の帰結に触れることなく、旅人の好奇の目を揺れてすぎた1輌の狂気の花車に似たのである。」

 日本に帰国したその年の冬十二月八日、真珠湾攻撃が行われ、日本国民は熱狂した。「真珠湾攻撃の熱狂に本多が嫉妬を感じていたと云っては誇張になる。ただ彼は、爾後自分の人生が決して輝かしいものになることなく終わるという、利己的で憂鬱な確信の虜になったのである。」


 戦時中、本多は余暇を専ら輪廻転生の研究に充てた。


 タイなどの小乗仏教は、「人々の肉体や外界の事物には本来善悪はなく、それを善たらしめ悪たらしめるものは悉く心である。「思」である。意志である。」「心と意思が罪と業の原因をなすのであるからわれわれは本来無我である。思いは輪廻転生の原因であってても主体ではない。主体はついにわからずじまいである。来世はただ今世の連続である、この世と一つながりでつづいてゆく終夜の灯明の火が生なのであった。」


 仏教は「我(アートマン)」を否定し、その来世へつながる「霊魂」も否定した。死んで一切が無に帰するとすれば、悪行によって悪趣に堕ち、善業によって善趣に登るのは一体何者か、仏教がいっさいは空であるとして否定した我(アートマン)の思想と、仏教の輪廻の思想の矛盾が各派に分かれた論争しながら、理論的帰結を得られなかったのが小乗仏教。


「何が生死に輪廻し、あるいは浄土に往生するのか?一体何が?」この解を出したのが大乗仏教の中の唯心論で、インドの無著(アサンガ)から始まり、三蔵法師により中国にもたらされ、7世紀頃には日本にも伝わった。


 唯識論はわれわれは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六識の奥の無意識の世界に、第七識たる未那識(まなしき)、すなわち自我の意識があり、さらにそのさらに奥に、阿頼耶識という究極の識を設想する。目で色や形を捉え、耳で聞き、鼻で香りを舌で味を感じ、第六意識、脳神経が世界を組み立て、未那識が認識する。さらにこの奥の阿頼耶は一切の活動の結果である種子を蔵(おさ)めている。そして、この種子は様々な条件のもとで行為をする(現行)そしてその行為はその種子を阿頼耶識に送られ植えつけられる。これらすべてを記憶し保存し意識下に情報として蓄える種子となる。これらが転がるように展開し、種子と現行の因果、現行と種子の因果は同時に行われる。        


種子生現行 現行薫種子 三法展転 因果同時


唯識論では、阿頼耶識自体に、輪廻転生を惹き起こす主体も動力も、二つとも含まれているとする。


「過去の存在も、未来の存在も、何一つ確証はなく、わが手で触れ、わが目で見ることができる現在一刹那だけが実有だ。」この無明の長夜にひとり目ざめて、一刹那一刹那、存在と実有を保証しつづける北極星のような究極の識が、阿頼耶識である。「現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、同時に、世界の一切を顕現させている阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在するのである。」


 人は外界を認識して空間を作り、その像と気分と行為を記億して保存し、空間のように認識して時間にする。 生と死を支配する阿頼耶識は、生命の起源からその永遠の上流から流れる暴流に例えられる。恒に転ずること、暴流のごとし。その種子が生命をうみ、その周りの自然を生むが、阿頼耶識が有根身(肉体)を失えば、それを取り巻く自然(器世間)も意味をなくし種子のみ残る。再び結生の識として新たに生まれるものが次の世の阿頼耶識となり輪廻転生する。

 

 第二部は11年後。月日は流れ、本多は58歳になる。戦後生き残った本多の別荘地御殿場に舞台を移して、物語は進む。18才になったジンジャン(月光姫)が日本に留学し再び本多に出会う。鮮やかな色彩に彩られた絵巻物、輪廻転生する松枝清顕そして飯沼勲、二人と同じ3つの黒子をジンジャンの脇に見つける。

 一体この私とは何かをつきつめる本多邦繁を主人公に、架空のタイの皇女を中心に物語は組み立てられる。しかしこの主役ジンジャンの心は語られることなく、心不在のままでコブラに噛まれ命を落とす結末になる。


 1972年に書かれたこの小説は、日本文化に代わって、民主、自由、経済が至上のものとなり、経済発展の道を駆け上る時代の日本で発表された。小説の中の夢物語と現実の世界を並列させて作家としての生活を送ってきた作者は、この小説を書き上げた後、「暁の寺以外の現実はすべてこの瞬間に紙屑となった。」と語っている。


 奔馬で政治思想編を創り上げた。その続編としての暁の寺は輪廻転生する物語をタイ王室の月光姫を主役にした、バタイユを乗り越えた宗教小説を書きつつ、大乗仏教の唯識論の世界に自ら没入していった。しかし現実の生活の戒律である心のうちの煩悩、貪(むさぼる)、瞋(排除する)、癡(道理に暗い)、慢(他を侮る)、疑(真理をわきまえない)悪見(誤った見解)などの事柄には無関心で、社会生活する人間の本性、自己愛の未那識には言及することなく、生や死や認識論としての大乗仏教の唯識論に共鳴した。小説の構築は登場人物の生活や世界の描写は二次的にして三島由紀夫の観念、その刹那の世界観を全精力を傾けて文字にし、遺書とした。


2021/08/01

和尚 一休




「一切のもの一度空(むな)しくならすといふことなし。空(むな)しくなるを本分
(人間本来の姿)のところへかへるとはいふ也」   

                            「一休骸骨」


  室町幕府三代将軍足利義満は、各地の守護の対立を利用してその力を削ぎ、官位を登りつめ、公家化することで武家における足利家の権威の確立を図った。天皇に代わって公家や寺院の土地安堵の権限を握り、公武合体政策で宮廷を取り込んだ。

 さらに、明の皇帝から国王の称号をもらい、日本の支配権を確立しようとした。1401年義満は明の皇帝に国内を統一したこと、そして通行と通商をしたいとの書面を明の皇帝に持たせた。翌年、「爾日本国王源道義、心を王室に存し愛君の誠を懐き、波涛を踰越して遣使来朝す」との返詔を受け取る。


 義満の擁立する北朝の後小松天皇の子供として1394年一休は生まれる。金閣寺が完成した翌年、5才の時、臨済宗の安国寺に出家させられる。

 8才の時には、、中国風の虎の屛風の絵の前で「この虎を捉えてみろ」と将軍に言われ、「ではその虎を追い出してください。」と返答した逸話は義満の豪華な館を舞台にして生まれた。義満は明との貿易で珍しい金銀の食器や豹柄の毛皮の椅子や登り龍の絵のなどの珍しい品や美術品を手に入れ財力を蓄え、それらの装飾品で身の回りを飾り、暮らしていた。


 17才の時西金寺の謙翁和尚の弟子になる。京都には日蓮宗の勢力が強く、地方では一向宗と呼ばれる真宗の教えが一般の民衆に浸透していた。一方鎌倉時代武士階級に広まった禅宗は、室町幕府では重用されていた。しかし、都の禅宗は権力者に取り入り俗化して中国かぶれの禅僧も多く、かれらが幕府の使節を務め、国書をしたため、接待役を務めた。中には蓄財に励む禅僧もいた。


 その都から逃れ、本来の禅の師を求めて、22才の時、滋賀堅田の祥瑞庵の華叟(かそう)の元を訪れ、その弟子になり清貧生活をおくり、修行し、一休の名をもらう。


 有漏路より無漏路へ帰る一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け

   (煩悩の世界から、煩悩を越えた世界に、私は戻る。そしてその途中で一休み)


 禅の世界では、精神世界と俗世界は両者とも大切であり、悟りに至る道のみでは、生活できないので、世俗世界に戻り、煩雑の世界に浸る。世俗世界に絡め捕られた時その煩悩から遠ざかりそれを超えた精神世界に没入する。この二つの世界の間で一息つく。この一休こそ求めるものである。


十年以前、識情の心、瞋恚豪機即今に在り。鴉は笑う、出塵の羅漢果、昭陽日影玉顔の吟

 

 一休は27才の時悟りを開く。夏の夜遅く、小舟に乗り一人座禅を組む。闇夜にからすの鳴き声が聞こえた。その時十年来の疑問がいっきに解け、羅漢の境地に達する。寺に帰り一片の詩を吟みこの体験を師に伝えた。


 修行により開悟した一休は、34才の時、師の亡くなった後、庵を出て、街に戻った。一休の生きた時代は、天皇に威なく、政治に信なく、禅などの宗教も堕落した時代で、街では学識や、身分の装いは通用しない時代になり、赤裸な人間本来の姿が現れた。街に出て小庵を転々としていった一休は、この間皇室や武士、町人や農民、文人や歌人、遊女など多くの人と出会い、彼らが寄り合い、一休の文化サロンが作られていった。一休は養叟(ようそう)などの、 旧来の形式に陥り、堕落した禅を激しく批判し「自戒集」を編纂した。


 頤卦題名貪食来

 会中膾炙寵如梅

 攫金手段機輪転

 君子果然多愛財


 養叟は自分の名を宗頤と取り替え、印可証といって飯の種にした。彼の門下は、梅をほめるように自慢した。金をつかむ手段は、輪が転ずるように素早い。君子は財を愛される。


 華叟子孫不知禅

 狂雲面前誰説禅

 三十年来肩上重

 一人荷担松源禅


 華叟の弟子たちは皆、禅を知らぬ。この私の前で誰が禅を説けるか。30年来松源の禅を一人で、担い肩が重い。


 住庵十日意忙々

 脚下紅糸線甚長

 他日君来如門我

 魚行酒肆又婬坊


 養叟に送った手紙では、この寺にいた十日は気ぜわしい日々だった。私の脚に絡まる赤い糸は甚だ長く、私はそこから出て行く。もしいつか私をたずねてくる気があれば、魚屋か、酒場か、それとも淫売屋をのぞいて見てくれ。


 62才から妙勝寺を再建、酬恩庵と称した。ここを拠点に布教を行う。一休の元には茶人の村田珠光や能、狂言や茶の湯、連歌など東山文化の担い手が訪れた。これらの人々が北山文化の王朝を擬した花の御所文化を否定して、日本の庶民の土着した歌、能にとどまらず、茶道、住まいなど現在につながる日本的文化の始まりを生み出した。


 1457年「骸骨」の中で、「そもそもいつれの時か、夢の中にあらさる、いすれの人か骸骨にあらさるへし。それを五色の皮につつみて、もてあつかふこそ、男女のいろもあれ。いきたへ、身の皮破れぬれは、その色もなし。上下のすかたもわかす。たた今、かしつきもてあそふ皮の下に、骸骨をつつみて持ちたりと思ひて、此の念を能く仰信すへし


 人はやがて死んでその皮がやぶれてなくなれれば、感情も消え、生前の地位の上下も分けられない。人間はみな、この骸骨に皮を被せていきて動いているいるに過ぎない。



  一休73才の時1467年から11年に及ぶ応仁の乱がおこった。この間京都から、奈良、大阪に逃れる。この応仁の乱は、仏道の衰退、朝儀礼節の衰退そして幕府の無力から武士団の一族の内部分裂、同族の争いが大義も名分もない動機で勃発し、勝敗のつかないまま収束した。その最中76才で盲目の旅芸人森侍者と出会い、共に暮らす。

 そして森公の深恩に謝するの願書を残した。狂雲集の中では「約弥勒下生」とされ弥勒下生信仰の恩とされている。

 

 木凋葉落更回春

 長緑生花旧約新

 森也深恩若忘却

 無量劫来畜生道


 

 一休は禅僧とし悔悟し、儀礼、格や形式や常識を破壊し、生の根源、人間の生物としての存在を凝視し、人間本来の姿を禅の修行を通して見い出した。そして風狂の人生を過激につらぬき通した。


 1474年81才で大徳寺の住職となり、1481年没する。

2021/06/29

盗まれた脳 アルツハイマー病

  ドノバンの脳は、1943年アメリカSF作品で、脳医学者パトリック コーリー博士が、アリゾナの砂漠に墜落した、大富豪のドノバン氏の体から脳を取り出し、ガラス容器の中でその脳を生存させる。やがてその脳は意識を持ち、パトリック博士の身体を、ドノバンの脳が支配し、博士の肉体を乗っ取ってしまう。その脳が多くの人を支配し、その命令のもとに、殺人を犯し、脳の生命を保つガラス容器を破壊しようとした人をも殺害する。この恐怖の物語は、最後にパトリックの友人、シュラットによって培養器のガラスとともにこのドノバンの脳が破壊され、機能を停止することで終わる。



 アルツハイマー病は、SF小説のように表現すれば、 それは 脳の細胞を静かに盗んでいく泥棒のように、何者かが毎夜訪れ、脳の中に静かに入り込んで、神経細胞を1つずつ破壊していく。脳細胞は破壊され、次第に脳の活動による記憶や、感情、思考力を奪い、やがて脳の支配が全身に及ばなくなってくる。最初に現れる典型的な兆候は物忘れで、次に、より深刻な記憶喪失がやってくる。そしてその後、言動は要領を得ないものになっていき、混乱し幻覚を見るようになり、人格が変化して、怒り、不安、落ち込みと目まぐるしい精神状態を変化させていって、脳の大半がやられてしまうと全身の機能も次第に停止していく。


 すべての精神疾患は脳の病気であるとの信念で、1906年アルツハイマーがアウステ Dの症例を観察し、剖検して報告を行った。進行する認知障害に、幻覚や妄想をきたし、亡くなった患者(アウステ  D)の脳組織の一部を染色し、プレパラートで観察すると、脳の萎縮と動脈硬化性病変そして、アミロイド斑と神経線維の変化が見つかった。このアミロイド班は神経細胞の間に形成されるタンパク質の断片からなる異常なタンパク質のプラーク(塊)であった。

 これをもとに、1910年エミール クレペリンが精神医学の教科書に初老期認知症をアルツハイマー病と名ずけて記載した。 そして、注記として、アルツハイマー病の臨床的解釈は現在のところ未だ不明瞭であると書き加えた。


 アルツハイマー病は、それが正常な老化の避けられない一部なのか、それとも老化とは完全に異なる、純粋に神経病理的な疾病なのかはその後も、明らかではなかった。どの病気でもその概念が明らかになり、検査法が確立するまでは、多くの要素が複雑に絡み合っているため、因果関係が確実にはならないことが多い。

 アルツハイマー病の診断では、血液検査も神経の検査も正常なので、まず話を聞いてテストし、その結果を判断することが重要になる。そのためには、問診を標準化する必要があった。認知機能の標準化された最初の診断は、ミニメンタルステート(MMSE)検査で始まる。さらに詳しく記憶などの検査を長時間に渡って検査して、これを繰り返し、病気を除外して診断に近ずいていく。

 さらにこの診断を難しくしているのは、アルツハイマー病に脳の外傷や、脳血管の障害あるいは甲状腺機能の低下などを合併することもあり、正常の老化と、記憶障害、記憶障害と認知症を区別し診断を確定するのはなかなか難しい。


 そして最近まで、血液の検査や脳の画像による診断は出来なかった。画像検査のCT,MRIができても、診断の確定はできなかったのは、これらの画像で脳が萎縮しているのは、すでに病気がかなり進行し、細胞が破壊された結果の脳萎縮の像であったためであった。 結果的に、いったい何人がアルツハイマー病になっているのか、何才の人がどのくらいの頻度でその病気になるのかという、その人数さえも正確にはわかっていない状態がアルツハイマー病の病名がついてからも長い間続いていた。


 20世紀後半になり、人々の寿命が急速に伸びる長寿社会になると、アルツハイマー病の患者は全世界で急速に増え、ガンや動脈硬化による病気とともに、社会の対応が世界中で問題となり、急速に診断方法も進歩してきた。


 1992年イギリスの神経遺伝学者のジョンハーディーがアミロイドβタンパクの沈着がアルツハイマー病の病変を引き起こす要因であるというアミロイド カスケード仮説を発表した。このアミロイドβは正常にある水溶性のタンパク質で、それが不溶性となり塊をつくり、神経細胞の周りに沈着して神経細胞を死なせてしまうという説であった。この説をもとに、画像の診断や血液検査が開発された。


 画像検査法では、 PET検査が有効であった。このアミロイドの沈着がアルツハイマー病の発症20年前から見られることから、アミロイドぺット検査でその沈着を測定できれば、その沈着の多い人がアルツハイマー病の可能性が高いと判断できる。さらに血液中のアミロイドベータの検査も最近可能となってきた。


 今年6月8日アメリカ食品医薬品局がアデュカヌバブが、脳内のアミロイドβプラークを減少させる効果があるとして、アルツハイマー病の治療薬として初めて承認された。この薬はアミロイドの蓄積が確認された軽度の認知障害および軽度認知症の患者のアミロイドβプラークを59%から71%減少させ、アルツハイマー病を治療できる初めての薬となった。ようやくアルツハイマー病の治療はスタート台に乗った。



この不思議で波乱に満ちた人生における

最後の場面は

2度目の子供時代、そして完全な忘却。

歯もなく、目もなく、味もなく、何もなく。

                            シェイクスピア 


  長寿社会はアルツハイマー病など脳の病気の時代でもある。


2021/05/25

オンリー イエスタデイ 、新型インフルエンザの教訓



 2009年3月新型インフルエンザの流行がメキシコで始まった。飛行機の発達により、中南米より早く、アジアの国々にも感染が広がり、連日10000人以上の人材を航空機の検疫に動員したにも関わらず、5月16日には神戸で初めて、国内の感染者が確認され、その後兵庫県と大阪府で感染は急拡大した。一斉休校や人々の外出自粛で約一週間で下火になった。しかし6月初旬には福岡、中旬以降は首都圏や愛知、広島で感染者は一気に増えた。7月には全国で5000人を超えるまで増えた。


 幸いにも新型インフルエンザは豚由来のH1N1インフルエンザで弱毒性であったのと、タミフルなどの治療薬が有効で、ワクチンの投与とあいまって、急速に終息に向かった。


 その時の反省から2010年6月10日に新型インフルエンザの対策総括会議の報告書がまとめられ、将来の感染症の対策に役立てるように公表された。 その時の報告書で、昨年2020年の新型コロナのパンデミックで起こったことがすでに、ほとんど議論されていた。水際対策、検疫の問題、ウイルスの毒性とそれに応じた対応、公衆衛生対策としての学校や施設の休業社会活動の制限。そして感染症専門施設や発熱患者をみる発熱外来の問題、ワクチンなどの問題が検討され公表された。



 具体的には、提言の初めでまず、意思決定プロセスと責任の主体を明らかにして、地方との関係を発生前の段階から、関係者の間で対処の方針を検討し、実践的訓練をする必要がある。と述べられ、それぞれの分野の対策が提言されている。


 感染症の危機管理に関わる体制の強化については、国立感染症研究所や検疫所、保健所、地方衛生研究所など危機管理を専門にになう組織や、人員体制の大幅な強化必要で、アメリカのCDCなどを参考にして、より良い組織や人員体制を構築すべきである。そしてPCRを含めた検査体制について強化し、地方衛生研究所の法的位置ずけについて検討が必要であると記されていた。

 当時から、ウイルス感染症に対してPCR検査は必須で、すでに使われ、次の感染症には迅速に広範に、系統だって対応できる用意は整えていたはずであった。


 医療体制については、医療スタッフ等の確保、ハイリスク者を受け入れる専門の医療機関の設備、陰圧病床等の施設整備などの院内感染対策等のために必要な財政支援を行う必要がある。

発熱相談センターと発熱外来の設置に関して再度整理すべきである。

やはり、感染症の疑いのある患者をそのリスクに応じて、どこで診察して、どこで入院すべきかの提言がなされていた。


 さらに国家安全対策からワクチンの生産体制を強化するべきで、ワクチンの接種についても、集団接種で実施することも考慮しつつあらかじめ実効性のある体制を計画するべきである。と書かれている。


 政権が交代し、2011年3月東日本大震災が発生。福島原子力発電所1号機、2号機 3号機が次々にメルト ダウン。原子炉は高熱と、高放射線で、人が立ち寄ることができず、ロボットも強い放射線で、燃え尽きてしまった。それらは10年経った今でも、メルト ダウンの結果できたデブリは未だ取り出すことができず、放射線に汚染されたもの、とりわけ汚染水が問題となっている。この汚染水は、原発敷地に一日400トン流入し、それが山側に作った凍土の壁だけでは堰き止められなかったのが遠因で、今でも毎日増えている。その後、地震や風水害が毎年のように起こり、感染症は忘れ去られていた。


 20020年、武漢を閉鎖するほどの猛威をふるった新型コロナウイルスが日本でも流行し、4月7日に緊急事態宣言が出された。第一波は次第に収束し、第二波、第三波とその後何度も、感染の拡大収束を繰り返し、2021年5月、1年半経った現在も緊急事態宣言は解除されず、今も世界中で新型の変異株が生まれ、感染拡大は続いている。


 10年前との違いは、ウィルスの性質の違いと、ロボットの進化と同様、技術の進歩とりわけワクチンの開発とその実用化にあった。 新型インフルエンザは比較的弱毒であったし感染の様式も今回の新型コロナウイルスより単純であった。今回の新型コロナウィルスは、治療薬がなく、感染は世界中に拡散し、死亡者も300万人を超えている。一方ワクチンの接種の進んだ国では、感染の拡大は止まり、正常の日常生活が戻りつつある。

 

 日本の第1例目が報告されたとき、アメリカですでにmRNAワクチンができていた。中国が新型コロナヴィルスの遺伝子配列を公表してから一週間でワクチンはできた。3月16日にこのモデルナ社のワクチンの第1相臨床試験が始まった。一ヶ月遅れでファイザー社はがん治療を研究していたビオンテック社のmRNAの技術を使ったワクチンを製造し5月4日に第1相試験を開始した。この技術は遺伝子工学の成果で、ウイルスの粒子の表面にあるスパイクタンパクの遺伝子情報を持ったmRNAを筋肉内に注射して、このスパイクタンパクを作らせ、それに体が反応し、それに対する免疫ができる技術であった。


 中国では17年前SARSワクチンをシノバック社とシノファーム社はすでに開発していた。それをもとに武漢市のロックアウトされた3月後の4月に新型コロナに対する毒性を無くしたウィルスを利用するの不活化ワクチン臨床治験を始め、7月に北京で緊急接種が行われた。

 

 イギリスでは英国アストロゼネカ社とオックスフォード大学の共同開発のワクチンの開発を行うとともに、ジョンソン首相の指揮のもとに、2020年4月から、ワクチン接種に向け、世界の製造会社との交渉を開始し、夏には接種体制の整備に着手した。


 一方日本では10年前にワクチン体制の強化が提言されていたのに、世界に出遅れた。1980年代に日本はワクチン先進国で、水痘、日本脳炎ワクチン、百日咳ワクチンで世界をリードし技術をアメリカなどにも提供していた。1992年、予防接種の副作用訴訟で、副作用による被害者に国が賠償するべきの判決が出たため、1994年に予防接種法が改正され、接種は努力義務となり接種率は次第に低下した。1996年薬剤エイズ問題で、当時の厚生省生物製剤課長が逮捕され有罪となった。そして製造する企業への開発は支援が遅れ、国が国民の安全のためワクチンを開発し、備蓄する体制が崩れ、ワクチンギャップが生まれた。


 ここ10年くらい、100年に一度と言われる国の安全に関わる事故、災害、病気の流行がおこった。歴史は繰り返し、対策は提案された。未来は正確に予想できないとしても、技術を理解し、状況を判断して未来に向けた対応が実行されるべき時は今なのかもしれません。

 


 



2021/05/04

 トルシエ監督のいた時代


九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす


                             正岡子規

  戦後、遊びやスポーツは野球がすべて、広場では、キャッチボールを手製の松の実を布団のワタで包んで、それに糸を巻いたボールを使い、手製のグローブでしていた。プロ野球は毎日テレビで中継され、高校野球は毎年憧れの舞台をつくっていた。野球アニメ巨人の星は1968年にテレビでも放送が始まった。

 1983年キャプテン翼がスポーツ根性路線とは全く違った、明るいスポーツアニメとして人気になった。1993年Jリーグが誕生し、1998年ワールドカップフランス大会に出場。その頃野球に変わって公園ではサッカー少年が主役になってきた。スポーツも人々の好みは、ずーと続くことはなく、流行は変動する。高度経済成長時代のスポーツの王者野球が、国際化し世界標準を目指すサッカーに主役を交代した時期がやってきた。 

 

 1998年43歳のフィリップ トルシエが日本代表監督となる。フランスのサッカー選手から、コーチになり、9年間アフリカで過ごし、アフリカナイジェリア、ブルキナファソ、南アフリカで監督をして、その才能を発揮していた。

 トルシエは革命を起こした。今までの日本サッカーの当たり前のことをことごとく変えていった。チームを本当に国際化し、プロ化することを徹底する指導で、オリンピック代表選手やユースの選手を育て、2002年のワールドカップにのぞむ準備を始めた。

 まず20歳以下のユースの選手をワールドユースの開催されるナイジェリアの試合の前にブルキナファソに連れて行きそこで合宿した。アフリカの、ワニが生きた鶏を食べ、40度を超す暑さの中、埃まみれの冷房の効かないバスが道路を走るところに着いた。「彼らをあえて遠出させたのは、彼らの生活圏の枠を壊さなくてはいけないと考えてからだ。日本人は海外旅行をしているのではなく、どこに行くにも日本を持ち歩いている。だから、いつも食べ慣れているもの以外を食べさせなくてはいけない。自分の部屋以外でも寝られることを、教えなくてはいけない。精神性と社会性をともなった男にならなくてはいけないからだ。」年功序列ではなく、能力さえあれば若い人でも抜擢され、高給を手に入れられるシステムを作り、国際標準に近ずけた。

 当時サッカー協会は、2年で彼を解雇し、ベンゲルなどの有名な監督を高額で雇うことを考えた。結局トルシエ監督が日本の文化や伝統、性格を理解することを条件に監督を続行することを認めた。

 高度な技術を習得するために、今までテストによる選手の評価自体がなかった日本で、選手たちに様々なテストを受けさせた。目的は、その選手たちが戦術やゲームの展開を理解しチームでオーケストラをつくることであった。その中心選手にイタリアセリエAで活躍していた中田英寿がいた。世界の一流選手となり世界を舞台に活躍するパイオニアで、ペルージャから、ローマそしてワールドカップの年にはパルマに所属していた。そして戦術は、ディフェンダーを3人にする、3バックを試みた。その一翼を担った、もう一人の中田選手、トルシエ監督の申し子中田浩二選手がいた。

 トルシエ監督のもと、2000年のシドニーオリンピックで健闘し、同じ年の10月サウジアラビアを破って、アジア大会で優勝した。しだいに日本でのサッカーの熱気は高まり、その期待を受けて、2002年ワールドカップが日本と韓国で開催された。日本は初戦でベルギーと引き分け、第二戦でロシアを破り、第3戦でチュニジアに勝ちベスト16に進む。次のトルコ戦で敗れ熱狂のワールドカップは幕を閉じた。トルシエ監督の後、ジーコが監督に就任した。


 やがて時代は国際化から、グローバル化に変わる。国際化とは、国は国でその間の障害や垣根が低くなり、世界は標準化される。一方グローバル化は、20世紀末から、21世紀にかけて、国とは別の単一のプラットフォームが情報通信革命とともに起きた時代。金融とコンピューター産業を中心とするグローバル経済がアメリカで始まる。


 スポーツも野球が再び脚光をあび、国内からグローバル化したアメリカメジャーリーグで野茂選手が活躍する。1990年仰木監督率いる近鉄に入団し、数々の記録を塗り替える。しかし、監督の交代や日本のプロ野球システムに合わなくなり、1995年メジャーリーグロサンゼルス ドジャースに入団、新人王を獲得しその後もメジャーリーグの代表投手として数々の記録を残した。 当時、日本はサッカーと同様に野球も国際化とは程遠い世界に住んでいた。日本は日本の野球でありメジャーリーグは別の世界であった。


 多くの人はジャパンアズナンバーワンの夢が破れても、日本の成長には国内的(ドメスティック)でなく国際化(グロバリゼーション)が必要と言われても、多くの人には関係のないことで、本当のところ理解不能で、国際化とは世界的に通用する人材となることと漠然と考えていた。むしろグロバリゼーションコンプレックスから、国際化には反感さえ抱いていた。


 先駆者野茂英雄の大活躍に続いて、イチロー選手が2001年やはり仰木監督の率いるオリックスからメジャーリーグのマリナーズに入団し、一年目から大活躍し新人王とMVPを獲得した。当時日本のテレビニュースのスポーツコーナーではまずアメリカメジャーリーグのイチローや野茂のことが取り上げられ、日本のプロ野球は一面を飾ることがなくなった。


 2001年この年小泉内閣が発足し、郵政改革などの改革を進める。2006年6月ジーコ監督率いるサッカー日本代表チームはドイツのワールドカップで、一勝もできずに敗退。2006年9月第一次安倍内閣が発足。


 日本のサッカーは、トルシエ監督のいた時代に国際標準に向けて、前進した。野球もメジャーでの活躍を目指して多くの才能がアメリカに渡った。そしてテニスやゴルフも世界のトップを争うようになった。


 2020年にパンデミックとなった新型コロナで日本はスポーツ以外の分野で、世界の先進の国ではなくいつの間にか世界に取り残されたことが誰の目にも明らかになった。医療研究で先頭の国と思っていたワクチンの開発競争では、アメリカやヨーロッパ、中国やロシアあるいは生産拠点となったインドにも遅れ、接種も世界の後塵を拝している。世界に冠たる医療制度のつもりが、コロナの重症患者に対応できず、デジタル化もまた世界の標準から置いてけぼり。そして、国の借金ばかり増えた。


 スポーツ界で世界標準に追いつき世界で競争するためには、世界を知り、体験し変化する必要があった。そして結果の見えるスポーツの世界では、サッカーや野球、ゴルフやテニス、バスケットなど多くの種目で日本の選手が活躍するようになってきた。

 変化をするためには努力が必要であり、あつれきを生む。反対に逆らって改革を推し進めるよりは、嵐の過ぎ去るのを待って、困難な物事を先送りすれば、社会は変化しないでもしばらくは平穏に過ぎて行く。そのため国内の多くの分野で日本社会はあまり変化することなく過ごしてきた。しかし、激変する世界では、日本にいれば今のままでも安心安全の国でいられる時代はもう終わるのかもしれません。