2008/06/15

桜桃忌

 蛍火の おぼるる如く 桜桃忌

 また,翌年シラーの人質から題材をとった,”走れメロス”(1940年)はその巧みな
描写で、いまでも多くの教科書に取り上げられています。

 メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは,村の牧人である。で始まる単純な爽快な文。

 戦後になっても文壇において,既存の価値観が崩壊した時代、それを破壊し、生活そのものも無軌道で無頼派と呼ばれるようになった。

 人非人でもいいじゃないの、私たちは、生きていさえいればいいのよ。”ヴィヨンの妻”

 1947年(昭和22年)12月には”斜陽”が単行本として,発売された。前年に新憲法が発布され,華族が廃止され、また農地解放で地主階級もまた廃止された。この時代に斜陽華族の家庭を巧みに表現し、太宰治の評価をさらに高めた。

 1948年(昭和23年)雑誌展望に若い頃の作品”道化の華”以来の自伝小説”人間失格”を掲載.同年朝日新聞に小説”グット バイ”が掲載予定であった。
 このころから戦後の混乱期がようやく収束し、新しい時代が始まった。
 39歳になるこの年、東京三鷹の多摩川上水で心中自殺。

 ひよわな華、道化の華としての人の心を描いた作家、太宰治は、実生活でもそれを貫徹してしまった。


2008/06/01

更衣

 海をみて 青空をみて 更衣

 梅雨に入る前、日本は四季のうちもっとも美しい季節を迎えます。
この頃を盛りに花は咲き乱れ,若葉から青葉、濃い緑と木々は繁り、やがて季節は梅雨から夏に移り変わっていきます。

 更衣は明治になり,政府が6月1日と10月1日に決めたもので、平安時代から既に,始まり江戸時代には、武士の袴の更衣、庶民もまた,服の虫干し、夏支度がいっせいに行われていました。

 四季のある国、日本の自然の美しさを幕末から、明治初期におとずれた多くの外国の日人々が記録に残しています。

 この季節江戸近郊の田園について、至る所に農家、村、寺院があり、また至る所に豊かな水と耕地がある。作地は花壇のように手入れされ,雑草は一本もみることは出来ない。竹林の中の農家、高く伸びた杉の木陰道、緑の木立に隠れたお宮。椿 槙の生け垣。植物相は無限なほど形態が豊富だ。
 
 また,小泉八雲は素朴で絵のように美しい、はかなく滅びゆく江戸時代から続く日本の文化を描き、数々の小説をとともに、アメリカに紹介した。
 
 小泉八雲,ラフカディオハーンはギリシャで生まれ,アイルランドで育ち,南北戦争のころアメリカで記者生活を送り、1890年に日本の山陰の松江市に居を構え、多くの民話や怪談を題材にした幻想的で情緒豊かな世界を小説で描いた。

 また、そのころの時代18世紀から19世紀にかけての日本は暗い遅れた生活に喘いでいた訳ではなく、多くの人々もまた衣食住ともに簡素ながら,満たされ自然の中で、自給していた生活が紹介されている。
 
 その後19世紀後半から20世紀にかけ、日本も近代化,工業化が急速に進み、豊かさを求めて世界中が疾走した時代にはいりました。
 この,時代に確かに存在した、一つの美しい文明は滅び去り、いまでは残されたこの時代の記録から想像する以外によみがえらせる事は出来ません。
 

 
 

2008/05/06

人知れず微笑まん

 北京オリンピックを前にして、チベット問題が引き金になり、中国の民族主義が、
世界中に波紋を投げかけています。
 民族主義、ナショナリズムはいつの時代も扱いをあやまると,災いをもたらす
厄介な感情にもなります。民族主義はいつも無頼の砦と化す危険を抱えています。

 日本でも1930年代無謀な戦争に突入したのは、この民族主義的情動も大きく関与していました。戦後、この国体思想は何だったのかを分析して、論壇に若くしてデビューし、瞬く間に時代の寵児となった人が丸山真男です。
 
 ”超国家主義の論理と心理”のなかで,昭和日本のファシズムはほかの国の近代国民国家のナショナリズムと明らかに異質である。個人の自由な判断、主体が無い、近代市民社会の欠けた村落共同体のままであった日本が、天皇制のもとで、教育勅語などの国家神道を中心とする教育を通じ、内容的価値の実態を伴って統治したものであったと明快な理論で分析しました。

また”軍国支配者の精神形態”で軍の支配分析を行い,その後 ”日本の思想”で日本の
特性の由来を分析しさらに多くの賛同者を得ました。

 丸山真男が最も活躍したのは1950年代後半から1960年代で、多くの人たちにとって彼は民主主義の指導者であり、戦後民主主義の教祖でもありました。

 時代は、ちょうど吉永小百合がキューポラのある街で有名になり、その映画が当時
の日本の流行思想でもあった時代でした。

 1960年の新安保条約反対のオピニオンリーダーでした。この年の5月に安保条約改訂は岸内閣によって強行採決。6月15日全学連主流派の安保反対デモで,樺美智子さんが死亡。

 その頃から,戦後民主主義のオピニオンリーダーはその思想そのものやアカデミズム体質を批判されるようになりました。

 1960年中頃からは,日本が高度大衆消費社会となりつつあり、また、丸山真男
が病理とした前近代的で西欧より劣っているとした日本の文化が逆に肯定的に評価
され始めました。

 あまりに西欧的で、西欧近代の視点からの丸山日本社会論は力を失い、1960年代
後半には全共闘の批判の的となり、1969年拠点の東大法文2号館が占拠破壊され、
失意の内に,定年を待たずして退官されました。

 戦前の1930年代から40年代、蓑田胸喜らが超国家主義の先導者たちの時代とするならば、戦後から1960年まではその思想の全否定の時代でした。時代精神もまた流行があり、後の時代からみれば真理がかならずしもいつも主流を成す訳ではありません。

”最後に”

誰かが私を笑っている
向こうでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
最後に笑うものが
最もよく笑うものだと
でも私は
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ

  樺 美智子
 

2008/04/17

岡本 太郎



物まねは易く、創造は難し。

 先日,青山の岡本太郎記念館を訪れました。

岡本太郎は有名なコラム漫画家岡本一平と小説家岡本かの子の一人っ子で、
戦後、絵画、彫刻、評論活動で時代の寵児となりました。
 大阪の万国博覧会の太陽の塔は、多くの議論を呼び起こし、現在もその異形は残っています。

 美術界で岡本太郎の最も嫌ったのは,戦前からの伝統、形式主義です。盆栽にもみられる、繊細なひねり。洒落,創造する事なく、型を模倣しその世界にこもってしまっていること。これらに対して激しく反対しています。


 これは歴史的に日本の美術が室町時代から始まり日本の中世にかけてでき上がった過程で、ちんまりし気取った形式主義、趣味的繊細さに陥った結果です。

 この伝統主義、日本独自の芸術観は戦国時代から江戸時代にかけ確固としたものになり、明治、大正そして昭和の初期まで変わる事なく続いています。

 
 たとえば、雪舟の絵画が技法を極める事のみに集中し、絵の本質を失っている事。明治時代以降の洋画がヨーロッパとくにフランスの絵画を取り入れた物まねで、洋画アカデミズムに陥り、絵画の形式化や観念化してしまった事。また伝統芸術は些末さと技法に走り本来の
創造的エネルギーを無くしたことも同じ理由によります。
 
 岡本太郎はこの日本主義、伝統主義を単に否定したのではなく、逆にフランス生活でのヨロッパの芸術家との交流を通じ、抑圧された戦争時代を経て、日本の芸術の中にあるまっすぐで原始的なたくましさをもった縄文土器の再評価し、尾形光琳の紅白梅流水図や燕子花図屏風の絢爛と力強さの中に世界レヴェルの高い芸術的価値を見いだし評価をしています。


 また自らは、美術や彫刻は美しくあってはいけない,芸術はいやらしくなくてはいけない。その信念のもとに創作活動をし、現在毀誉褒貶の後、現在はその独創性は高く評価されています。

 一方、日本人に受け継がれてきた伝統的感情、価値観や道徳、世間体あるいは文化的伝統といったものは、昭和25から26年生まれ世代以降の家庭では、すでに消え去っています。団塊の世代の親が戦前より引き継いだ伝統的諸価値はその後の世代に受け継がれる事はなかったように思われます。

 

花いばら

春風や 堤長うして 家遠し

 春の日の、土手や堤防は江戸時代から、治水のためにつくられ、春になるとそれらの堤の斜面に,つくしが芽を出し,タンポポが咲き、豆科の植物の蔓がいっせいに伸び始めます。
 
 その堤防の土手沿いには桜が植えられ,4月の初旬、満開の花のあと、強風、青嵐が吹き、花が散り、一斉に若葉の季節になります。

 この時期,草がまだ密生する前の、虫の少ない季節で、この短い4月の初めは,草滑りの遊びが出来る一番いい季節です。

 蕪村のもうひとつの有名な句に

   愁ひつつ 丘にのぼれば 花いばら

があります。
そして,同じ心情は春風馬堤曲にみられます。

  堤下摘芳草
  荊与蕀塞路
  荊蕀何妬情
  裂裙旦傷股

そして、もうひとつ有名な茨の句

  路絶えて 香にせまり咲く 茨かな

があります。





2008/04/05

中皮腫

 
 戦後民主主義はアメリカのテレビドラマが教科書でした。ルーシーショウやパパ大好きなどのホームドラマからあこがれのアメリカの家庭を知り、西部劇からアメリかの開拓精神、歴史を学びました。

 その中に連続テレビドラマ拳銃無宿 Wannted Dead or Aliveが1958年から1961年まで放送され、賞金稼ぎのガンマン ジョッシュランダルをスティーブ マックイーンが演じ日本でも一躍有名になりました。

 彼はその後、1963年に大脱走 The great escape に出演。この映画は、第二次大戦のさなかドイツの捕虜収容所からの脱出を描いた映画で、監督はジョン スタージェス、音楽は
エルマーバーンスタインが担当しました。後に有名になる多くのハリウッドスターが共演しています。

トンネル堀のプロである,チャールズ ブロンソンやナポレオン ソロで活躍したデヴィットマッカラムなど懐かしい顔ぶれが出ています。

 最も印象的なシーンは、,アメリカ兵シュルツ役のスティーブ マックイーンが,ドイツの丘陵地帯をオートバイで駆け下り、駆け上り、スイスとの国境にある、2mの防御柵をジャンプして、飛び越え脱走をはかる場面です。

その当時から、ドイツ軍のバイクはBMW製で,性能には定評があり、
サイドカーつきや,多くの種類の車による、バイクのアクション シーンは大きな反響を呼び,その後のアクションスターとして不動の地位を獲得する第一歩となった作品です。

 スティーブ マックイーンはバイクや車の愛好家で,自分で車を解体し,整備して、レースにも出場していました。

 アクション スターとしての不敵な顏貌と憂いを含んだ瞳が魅力で、
ネバダ スミス、ブリット、パピヨン、タワーリングインフェルノ
など多くのヒット作品に主演しています。その絶頂期、1980年に50歳の若さで、アスベストによる胸膜中皮腫で亡くなりました。

 中皮腫は比較的まれな病気で、臓器を包む膜にできる悪性腫瘍です。
この腫瘍はお腹の腹膜,心臓の心膜、肺の胸膜などどこにでもできます。
スティーブ マックイーンはこのうち,胸膜にできた中皮腫で、
原因はバイクや車のブレーキのアスベストの被曝によるものでした。

 アスベストは天然に有る鉱石の一種で、繊維状に変形し、白石綿と
青石綿があります。

 耐熱性、耐久性にすぐれ、自動車のブレーキなどの部品、電化製品、
建築資材などに使われることが多く、一時期には、耐火性を高めるために,
建物の壁にわざわざアスベストを混ぜたり吹き付けて使っていました。

 この鉱物、アスベストは1970年代に最も多く輸入され使われましたアスベストが体内にはいると,20年から40年かかって、中皮腫という悪性腫瘍をおこしてきます。

 また,喫煙者は肺がんもおこします。中皮腫は肺から体内に吸い込んだ量よりも、体内の沈着期間が問題で、たとえ少量でもマックイーンのように若いときから,アスベストに暴露されていた人は発病の危険性が高く注意が必要です。

 
 

2008/03/11

無心



良寛和尚の春の短歌


霞立つ 長き春日を 子供らと 手まりつきつつ
今日もくらしつ
 
漢詩



花は無心に蝶を招き
蝶は無心に花を尋ね
花開くとき蝶来たり
蝶来るとき花開く
我も亦人を知らず
人も亦我を知らず
知らずとも帝則に従う

    
良寛の春の短歌と漢詩は
日本の四季を実感させる。
300年以上前の風土と感覚に共鳴。

日本の伝統、意識のひとつに清貧、無心といった、仏教の教えが、この江戸時代の
代表的心情であり、江戸時代の教養は、この良寛和尚のように、漢詩、俳句
和歌、書、などでした。明治時代の西欧化にもかかわらず、多くの教養人は共通の基礎
知識としてこれらが受けつがれていました。
 昭和になり、戦後民主主義の時代にも、生活の実感では、戦前の教育をうけた親の
世代が、この伝統を伝え生活に根付いていました。

 平成になり、江戸時代からの文化的教養を担う世代が途絶え、伝統は歴史になりつつ
あります。それは、仏教が生活に密着していた時代が終わったことを示しています。

 良寛の思想の根幹は

我が生何処より来たり 去りて何処にか之く
独蓬窓の下に座し ごつごつとして静かに尋思す
尋思するも始めを知らず 焉くんぞ能くその終わりを知らん
現在も亦復然り 展転総べて是空
空中我有る無し 況や是与非と有らんや
如かず些子を容れ 縁に随ってしばらく従容たるに

これらが、今後再認識される時代くるかもしれません。



Homage to Perfection of Wisdom

the Lovely,the Holy.

Avalokita,the Holy Lord and Bodhisattva,

was moving in the deep course of the Wisdom

which has gone beyond.

He looked down from on high,

He beheld but five heaps,

and He saw that in their own-being

they were empty