2009/07/29

大転換の時代

1930年代、大変換期とフランス

 

 第一次世界大戦後は,国際法や国際道義を重視し,国際連盟などの国際組織によって平和を維持し続けるべきだとの考えが強くなった。そして,戦勝国のフランス、イギリスそしてアメリカは平和と繁栄を謳歌していた。日本もまたつかの間の好景気を満喫していた。

  

 とりわけ、1920年代のパリは美術、音楽、文学、演劇などの中心で世界中から人々が集まり、この芸術都市に暮らし作品を生み出していた。小説家をはじめ、芸術家を目ざすアメリカ人にとってもまたパリは憧れの都市であり、スコット フィッツ ジェラルドや、カートルード スタイン、エズラ バンドやヘミングウエーなどもフランスに移り住んでいた。ヘミングウエーは“もしきみが幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこですごそうとも、パリはついてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ。”と書いている。

 

 日本からは、岡本太郎や藤田つぐ治など400人以上の画家や彫刻家が留学などの目的で滞在し。堀口大学や藤原義江、また小説家の林芙美子も放浪記で有名になった後,パリで生活していた。その頃岡本太郎もバタイユと親好を結び,人間性を圧殺する全体主義、革命を裏切る官僚制対する憤りを主張する文化運動を彼らとともに行っていた。

 

 1920年(大正9年)から1940年(昭和15年)への20年間は、前半の10年に夢みられた平和と繁栄と国際協調の期待、主にイギリスおよびアメリカの覇権によって世界の治安が保たれた時代であり、また西欧文明の最盛期であった。経済的に繁栄を謳歌し、世界平和は保たれていた。共和国フランスは文字通り世界の芸術文化の中心として輝き、世界中の人々を引きつけていた。


 しかし、1929年の世界大恐慌は瞬く間にユートピアの時代を過去のものとし、世界経済がブロック化し、世界貿易はスパイラル的に減少し、この影響はフランスにも及び,全労働者の60%が失業する事態となり、深刻な政治的抗争がおこった。ファッショ団体である火の十字架やアクション フランセーゼなどの右翼団体ができ,左翼もまた結束して人民戦線を形成した。

 

 ドイツは生存権獲得、旧秩序を破壊するナチスが台頭し、日本では、米英本位の平和主義を排すとした近衛内閣が誕生した。そして世界大戦へと世界は突き進んでいった。

 

  

2009/07/20

ノモンハンの夏



 村上 春樹の“ねじまき鳥クロニクル”の本田老人や間宮中尉の話にでてくるハルハ河近くの国境をめぐる激戦地ノモンハン事件は、モンゴルではハルハ河戦争と呼ばれ,当時日本国内では、この戦争についてあまり報道されていません。
 
  中国大陸では1931年(昭和6年)満州事変がおこり、1937年(昭和12年)盧溝橋事件から日中事変が始まる。
 日本陸軍は、中国一撃論を唱え、蒋介石は一ヶ月でかたずけ、その後ソ連軍にあたるという独断的計画をたてていました。しかし現実は一ヶ月どころか、宣戦布告もなく何年にもわたる泥沼の戦闘状態におちいっていきました。
 小林秀雄は日中事変の最中の1938年(昭和13年)満州から北京に旅行し、以下のように書いている。“事変はいよいよ拡大し,国民の一致団結は少しも乱れ無い。この団結を支えているのは一体どのような智慧なのか,この事変に日本国民は黙って処したのである。これが今度の事変の最大の特徴だ。”
 日中戦争の最中のこの時期、1939年(昭和14年)ソ連と満州の国境をめぐってノモンハン事件が勃発しました。このノモンハン事件は多くの小説家が題材にとりあげています。なぜ多くの歴史家や小説家がこのノモンハンを取り上げるのか、その理由は,日本的な精神や世界観、軍隊や官僚組織の典型がみられるからです。そして,戦後、平和で民主化された現在も状況によっては同じ対応がおこるではないかとの危惧を抱くからです。

 アメリカの研究者アルビン D.タックスが「ノモンハン上 下 草原の日ソ戦 1939」の本を書き上げ、半藤一利の「ノモンハンの夏」や五味川 純平の」「ノモンハン」,歴史小説家の津本 陽も「八月の砲声ノモンハンと辻 政信」でこの当時の作戦参謀の辻政信について描いています。辻作戦参謀自身もこの戦いの記録「ノモンハン」を残しています。
 入江徳郎の「ホロバイルの荒鷲」では当時の陸軍の戦闘機が表紙をかざり、草葉栄の「ノロ高地」では日本の戦車がやはり表紙に描かれています。
  当時の日本陸軍の装備は日露戦争時代とほとんど同じで,銃は三八式歩兵銃で近代化されず,ようやく昭和4年に89式中戦車をつくったものの、これは短い砲身の57ミリ砲の装甲の薄い戦車が主力でした。その後改良型の新型戦車もつくられたもののこの戦いには旧式戦車が出撃しました。写真でよく見る日本のズングリした戦車と、ソ連の戦車の違いは,ソ連型はアメリカBT戦車と同じように砲身が長く射程は長く高性能であったため、結局戦車と戦車では戦いにならず、火炎瓶による肉弾戦車攻撃が最大の日本の兵器でした。

 これは、ソ連がヨーロッパで新しく組み変えた戦争観によってジューコフ将軍のもとに近代戦でのぞんだのに対し,日露戦争を引き継いだ非近代的世界観で戦った日本はソ連機甲部隊に打ちのめされた戦争でした。

 日本の一般の兵士は勇敢で、戦車に肉弾で突撃炎上させ、捕虜になるより死を選ぶ散華の精神で戦ったこと。
 現場責任者の責任感からの自殺や、撤退の責任から自害に追い込まれ、この戦の真の教訓を得ることができなかったこと。
 辻政信作戦参謀は戦車など近代兵器の知識は乏しかったものの、官僚としては優秀だったと評価され、それほど責任をとらず、この戦争から何一つ教訓を得ることなく同じ戦争観で再び戦争の指揮者となったこと。
 
 この戦争は日本軍の戦争を支えた思想、日本精神が色濃く反映していました。「その特徴の第一に、動機主義的傾向がありました。行為者の心の潔白さや正直、無私の心根を重視し、結果はあまり問題にしない、あるいは理性より感性を重んじ感情的判断をすることです。結局、犠牲的精神は旺盛であるものの、動機主義は独善的となり,自信過剰となる。さらに感性重視は,一切の周到な用意や検討を欠き、異見を退け独善主義独りよがりが生ずる。客観性の蔑視や軽視から実証的、科学的判断にもとずく用意不足となる結果をうみました。」

 
  360度地平線が見渡せる、どこまでも緑の草原が続いているまったいらな無人の地帯で、国境線をめぐって双方に多くの犠牲者を出した紛争から2年後、同じような日本的感情論が軍という官僚組織を支配し、第2次大戦に突入し国家を破綻に追い込んだ苦い歴史は現在の日本にとってもおおいに教訓になることです。

参考 村岡著 日本思想史研究

2009/06/21

臓器移植法案

いざさらば 死にげいこせん 花の雨。一茶の時代、死ぬことは今よりずっと身近で自然なものでした。

 1960年代人工呼吸器ができて、息ができなくなったり、呼吸が止まると、そう管といって、気管にチューブを入れ、それをとおして、空気を器械的に肺に送り込む装置を使い延命可能となりました。

 原理は比較的簡単で呼吸を自分でする代わりに、器械をつかって外から酸素の混じった空気をふいごの原理で規則的に入れてやるわけです。 急性の肺の病気や呼吸障害の場合、効果は劇的でした。いままで助からなかった人が助かるようになり、救命医学の進歩に皆が感激していました。

 しかし、問題は、心臓や肺そのほかの臓器が回復しても、脳が回復不能の事態が起こったことです。これが脳死の状態です。細胞の死は、場所によって時間的にばらばらに起こります。自然の状態では、呼吸がとまればすぐに、心臓も止まり、数秒後に脳の細胞が死んで.その後ゆっくり全身の細胞が死んでいきます。

 

 レスピレーターを使うと、脳が死んでも心臓は生き、腎臓や肝やほかの臓器が生きている状態、脳死の状態がおこってきました。自然の状態での死が、人間の判断やコントロールによる死になり、生きている心臓などの臓器を他人に移植する治療もできるようになりました。そのためにはどの時点で死んだと判断するかの必要性が生まれてきました。

 今回の法案のA案は脳死は一般に人の死であり,本人が生前に拒否しなければ,家族の同意で臓器提供を可能にする。また,15歳未満の臓器提供を禁ずる現行法の年齢制限を撤廃するというもので、現在はアメリカなでの外国で臓器の提供を受け移植手術をしていたものが国内でも可能となります。

2009/06/15

鳥か豚か人間か

新型インフルエンザ

 

 

 一般の風邪もインフルエンザもヴィールスが体に侵入しておこる感染症です。

冬には毎年何万人もの人がインフルエンザにかかり,季節性インフルエンザと呼ばれています。今回世界中に蔓延した新型インフルエンザは抵抗力をもった人がいないため一気に世界的な大流行をおこしました。しかし,幸いなことに毒性は弱く、メキシコ以外では死亡者は多くありません。

 

 今回政府が新型インフルエンザに対するガイドラインを今年の2月つくっています。

前段階  (未発生期)国内では未発生の段階。

第一段階(海外発生期)

第二段階(国内発生期)

第三段階 国内で患者の接触歴が疫学調査で追えなくなった事例が生じた状態

     感染拡大期

     蔓延期

     回復期

第四段階(小康期)患者の発生が減少し低い水準でとどまっている状態。

 

これらを想定して、医療機関などの対応策が練られていました。

 

 しかし、これは高毒性の鳥インフルエンザを想定したものでした。 WHOは当初よりcontainment(封じ込め)は不可能、めざすべきはmitigation(被害の軽減)だとアナウンスしてきたにもかかわらず、日本では水際撃退作戦を機内での検疫を重装備の医官が毎日1万人に対して行いました。

 

 過去の新型インフルエンザは、最初の1、2年で人口の25%くらいは感染し、数年以内には大半の国民がかかり、季節性インフルエンザになっていくことがほとんどです。

 

今年の秋には第二波の流行がおこるのはほぼ確実です。今後の新型インフルエンザに向けてするべき対策は,今回の経験を科学的に検証し、検疫はどの程度有効であったのか、毒性によって医療体制や社会活動を今後どの程度制限するのか,感染症専門施設の充実か発熱外来の充実かワクチンの活用はどうするかなどの検討することが大切です。

 

2009/03/08

大正時代と芥川龍之介


  大正時代は1912年からはじまり、1926年までの15年間で,この時代日本は極東における大国になりつつありました。

 

 この大正時代の代表的作家は芥川龍之介で、1892年(明治25年)に生まれ、大正4年(1915年)に羅生門を発表し、事実上のデビュウ作となりました。文章のうまさ、冴えそして物語の見事な構成力で、人間心理を描き出しスマートな短篇小説を次々と生み出し、若くして国民的作家となりました。薮の中、鼻、蜘蛛の糸,地獄変は今昔物語など昔話を題材として創作したもので,中国を舞台にした物語、童話など多岐にわたる短篇を世にだしています。

 

 大正3年(1914年)ヨーロッパを主戦場として第一次世界大戦勃発。日本は参戦したものの,被害はほとんどなく,輸出で利益を得、つかの間の好景気と平和がおとずれ,大正モダンと呼ばれる都市化と,大衆化の時代でした。

 

 大正6年(1917年)人生劇場の作家尾崎士郎は、“最近世界各国の政治を支配する新たな時代精神は云うまでもなく政治の平民化であり,民衆化である。”と雑誌で論じ、 第一次大戦後の世界は、帝国列強の力の時代から、道義が大切であるという方向に政治学の趨勢は変わっていきました。

 

 それにあわせて,国内にも日本改造を合い言葉に様々な団体ができました。民主主義を目ざす黎明会や新人会、それと対極をなす興国同志会など国粋主義団体が次々と結成され、文学もプロレタリア文学や自然主義文学が台頭してきました。

 

 一方、中国では大正8年(1919年)には、講和会議に対する幻滅から,五−四運動が起こり、又,日本の21か条の要求など対中政策に対して、排日反日運動が高まっていました。

しかし、中国は統一されず中華民国政府、共産党、地方軍閥の間で内戦がおこり混乱を極めていました。

 

 この頃大正10年(1921年)、芥川龍之介は大阪毎日新聞の特派員として,3月から7月までの4ヶ月中国を旅行しその旅行記を“支那游記”として発表しました。

 

 ○支那の紀行となると,場所そのものが下等なのだから,時々は礼節を破らなければ溌溂たる描写は不可能である。

 

 ○現代の支那なるものは,詩文にあるような支那じゃない、

 

 ○上海同文書院の見学では一本の鯉幟を見て、“支那じゃない日本にいるのだと云う気になった、しかしその窓の側へ行ったら、すぐ目の下の麦畑に,支那の百姓が働いていた。それが何だか私には怪しからんやうな気をおこさせた。”

 

 ○あるいは天平山白雲寺の反日の落書きについては、“この使喉費は30万円内外ということだ。”と記している。

 

 毎日新聞の紀行文の随所に見られる、今では考えられないような表現や偏見に驚かされます。それが、当時の日本人の一般的な中国観そのものだったことが伺われます。

 

又短篇小説“馬の脚”で、北京の三菱につとめている主人公が、“わが金甌無欠の国体は家族主義の上に立つものなり。家族主義の上に立つものとせば,一家の主人たる責任の如何に重大なるは問うを待たず。”の文章は当時の日本の家庭に、国体思想が行き渡っていたことを示しています。

 

 大正時代の後期の作品は、大導寺信輔の半生、或る阿呆の一生や歯車など自分にまつわる物語を書きつつ,人生に対する漠然たる不安から、1927年(昭和2年)、35歳で自らの短い生涯の幕を閉じました。

 

芥川龍之介の死んだ翌年、1928年(昭和3年)張作霖爆殺事件がおこり、満州事変、支那事変から、太平洋戦争に時代は突入していきました。

2009/02/23

へルマンヘッセと第一次大戦

ドイツにおける魂の再生

 

 19世紀後半、ドイツは,まさに勃興する国、ヨーロッパの強国になる時代で、活力有る国民が近代的制度を充実させすみずみに青春の精気がみなぎっているといわれたときでした。

 

 その時代の代表的作家が 1877年南ドイツのガルフに生まれたヘルマン ヘッセです。ヘッセは4歳からはバーゼルにうつりました。プロイセンがこの地バーゼルなど南ドイツも併合し大ドイツ統一期を造り上げた時期にあたります。

 

 1870年ビスマルクのもとで普仏戦争に勝利しその後しばらくは,大規模な紛争はなく、工業や技術が急速に進歩した時代でした。

 

 後にウエルビー卿が1914年に“我々が覚えている1850年代のドイツはとるに足りない連邦の集まりで,とるに足りない君主が治めていた。だが,一人の人間の生涯の間にドイツはヨーロッパ有数の大国の一つとなりなお成長を続けている。これだけをとっても,1890年以降の半世紀にわたって“ドイツ問題”世界政治の悶着の種となったことは不思議ではない。

 

 と述べたごとく、第一次大戦前にはドイツの工業力はイギリスを追い越し,フランスやロシアの約2倍に達していた。そして,列強の力関係をくつがえすほどの物質的資源を手にしていました。

 

 ヘッセは、その後“郷愁“(1904年)”“車輪の下”(1906年)“春の嵐”

を発表。

 

 ヘッセ37歳の1914年夏第一次世界大戦勃発。軍務に志願するも、おお友人たちよ、その調子はやめよ“を出版し、ドイツの中央権力は自分たちの為でなく,ヨーロッパ文化全体のためにも未来に生き残る為の戦争を遂行せねばならない。としてドイツに対する愛国心と戦争に対する反対の共存する立場を表明し、フランスのロマンローランはそれに賛同をしました。

 その後、ドイツは破れ、大戦後には、ロシア皇帝は廃位し社会主義国ソヴィエト連邦になり,ドイツ皇帝も廃位しワイマール共和国に、オーストリア ハンガリー帝国は消滅しました。又イタリアの皇帝もムッソリーニの指導する国家社会主義にとって変わられました。

 

 大戦後のヨーロッパに対しては“友愛”の言葉を掲げヨーロッパ諸国

民の分裂修復を唱え、1919年“デーミアン”を発表。戦後ドイツ精神の魂の復活をデーミアの言葉に見いだし、多くの若者たちの賛同を得ました。

 1913年に旅行したアジアの印象をもとに、“シッダルタ”(1922年)を出版。もともと母親は宣教師としてインドに出かけた時,インドの地で生まれ、それを辿る旅行でもあった。その後も“ナルチスとゴルトムント”(1930年)などの小説でさらに人気を博した。堅実で社会に適合した人物と反社会的であるものの情熱的で奔放な生活を送る人物を対比して登場させ、複雑な人間の心の中を描きだしています。

 

 ナチス政権下では,スイスに居を移し,反戦を訴え、1946年ノーベル文学賞を受賞しています。

 


2009/02/22

藤村と第一次世界大戦

まだあげ初めし前髪の

林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花櫛の

花ある君と思ひけり

 

やさしく白き手をのべて

林檎をわれにあたへしは

薄紅の秋の実に

人こひ初めしはじめなり

 

     島崎 藤村   若菜集 1896年発表

 

その後“破戒”や“家”で自然主義作家として、有名になる。

1913年4月42歳のときフランスに留学。

 

 その時代のフランスは、1870年普仏戦争に敗北しその後,海外の植民地を巡ってイギリスと衝突をおこし、アフリカ、インドシナなどにイギリスに次ぐ広大な植民地を手に入れていました。その後、イギリスと和解しロシアとは同盟を結んでドイツに対抗していました。

 

 ヨーロッパは、20世紀初頭 ドイツの台頭があったものの、社会民主主義が主流で戦争は起こらないと思われていました。しかし、“チボー家の人々”に詳しく描かれているように、ジョレスが暗殺され、その後ドイツやオーストリアーハンガリー帝国との戦争第一次世界大戦に突入しました。

 

 1913年4月42歳のときフランスに留学した藤村は、第一次大戦中もフランスに残り,東京朝日にフランス便りを書いています。

 1914年8月3日ドイツがフランスに宣戦布告。このときの報告は“パリにみるべきものの少ない時は今です。あらゆるミューゼを始め、パンテオンの戸も閉ざされ,番人は去り,いっさいの美術庫に固く錠のおろしてある。”

 

 そして,篤志看護婦の題で、“アストリアのホテル、その石造の大建築物の屋上に高く旭日旗が翻って行来のひとのいきつつあるのは,フランスに派遣された わが日本赤十字社救護の働いている場所です。”パリのホテルアストリアを拠点に約1年半に亘り,日本赤十字社が負傷者の救護にあたったと報告しています。

 帰国後、父親をモデルにした歴史小説“夜明け前”を中央公論に連載。自然主義作家としての地位を確立し、1941年には、東條英樹陸軍大臣の戦陣訓の文案作成にも参画しています。