西欧の世界支配がアジアに及んだとき、日本は明治維新で国内の革命を行い、西欧技術を取り入れ対応し、一方中国の清朝は衰退し混乱し西欧の植民地とされつつあった。
この時期、中国では清朝末期で、多くの中国の反政府の人びとは東京に亡命し清朝打倒の『中国革命同盟会』を結成した。そして清朝は1911年(明治44年)の辛亥革命で滅亡し、孫文を中心として今から100年前、1912年(大正1年)中華民国が建国された。
日本と中国が協力し清朝を倒し、西欧に対抗するというアジア主義の夢は実現するかに見えたのは一瞬であった。日本は中国に権益を求め,中国は排日に向かった。すなわち、第一次大戦の翌年1915年(大正4年)大隈内閣のとき,袁世凱に対中21か条の要求を突きつけ,革命派を武力で押さえ,日本の権益を拡張しようとし、それに対してして中国国内で広範な西欧排日運動がおこる。
その頃、日本も大正デモクラシーと呼ばれる時代で、第一次大戦中に戦場とならず経済は急拡大し,国家規範は喪失し、いわゆる成金が多数生まれ,一方労働運動もさかんになっていた。
また政友会と民政党の2大政党制が普通選挙法のもとで行われていたものの、利益誘導の競い合いとなり腐敗政治が蔓延する結果となり、世論の政党排撃論が広がっていった。
その後の日本の経済は1920年には戦後恐慌をおこし、1923年(大正12年)関東大震災などでさらなる打撃をうけ、政府は多くの財政赤字をかかえ、インフレ的不況対策と為替相場の維持、介入というデフレ的対策とその場の応急対策におわれていた。
一方、アメリカの1920年代は最も幸福な時代と呼ばれ、土地の次に株式の天井知らずの上昇時代で国民すべてが投資家となった。 ヨーロッパでは、1925年までにハンガリー、ポーランド、ソ連がハイパーインフレをおこし経済は壊滅状態となった。
次の1930年代はアメリカの金融恐慌から世界大恐慌を来たし、世界同時不況となり、グローバル化した自由な経済活動と繁栄の時代から、一転し、国家による経済統制、アメリカやイギリスによる経済ブロックが形成され自由経済体制は崩壊した。1931年イギリスは金本位制度をやめ、猛烈にポンドを切り下げ、これに対抗してアメリカも金本位制度をやめ為替を切り下げた。そのためフランスは猛烈なデフレになりみまわれた。日本でも、不況が続き、政党内閣制、国際協調体制、国際金本位制ともに崩れ去った。
永井 荷風は日記に、「日本の現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚無きことの三事なり」と書き記しています。
指導的な国の不在が1930年代の世界恐慌につながった(キンドルバーガー)そし て,通貨下げ競争や貿易戦争が勃発し、資本の国家統制が行われ、社会と政治は混乱にみまわれた。 現在、世界はしだいにこの時代に似た様相を呈してきています。