2011/10/10

デジャヴュ

 西欧の世界支配がアジアに及んだとき、日本は明治維新で国内の革命を行い、西欧技術を取り入れ対応し、一方中国の清朝は衰退し混乱し西欧の植民地とされつつあった。

 この時期、中国では清朝末期で、多くの中国の反政府の人びとは東京に亡命し清朝打倒の『中国革命同盟会』を結成した。そして清朝は1911年(明治44年)の辛亥革命で滅亡し、孫文を中心として今から100年前、1912年(大正1年)中華民国が建国された。

 日本と中国が協力し清朝を倒し、西欧に対抗するというアジア主義の夢は実現するかに見えたのは一瞬であった。日本は中国に権益を求め,中国は排日に向かった。すなわち、第一次大戦の翌年1915年(大正4年)大隈内閣のとき,袁世凱に対中21か条の要求を突きつけ,革命派を武力で押さえ,日本の権益を拡張しようとし、それに対してして中国国内で広範な西欧排日運動がおこる。  

 その頃、日本も大正デモクラシーと呼ばれる時代で、第一次大戦中に戦場とならず経済は急拡大し,国家規範は喪失し、いわゆる成金が多数生まれ,一方労働運動もさかんになっていた。

 また政友会と民政党の2大政党制が普通選挙法のもとで行われていたものの、利益誘導の競い合いとなり腐敗政治が蔓延する結果となり、世論の政党排撃論が広がっていった。

 その後の日本の経済は1920年には戦後恐慌をおこし、1923年(大正12年)関東大震災などでさらなる打撃をうけ、政府は多くの財政赤字をかかえ、インフレ的不況対策と為替相場の維持、介入というデフレ的対策とその場の応急対策におわれていた。

 一方、アメリカの1920年代は最も幸福な時代と呼ばれ、土地の次に株式の天井知らずの上昇時代で国民すべてが投資家となった。 ヨーロッパでは、1925年までにハンガリー、ポーランド、ソ連がハイパーインフレをおこし経済は壊滅状態となった。

 次の1930年代はアメリカの金融恐慌から世界大恐慌を来たし、世界同時不況となり、グローバル化した自由な経済活動と繁栄の時代から、一転し、国家による経済統制、アメリカやイギリスによる経済ブロックが形成され自由経済体制は崩壊した。1931年イギリスは金本位制度をやめ、猛烈にポンドを切り下げ、これに対抗してアメリカも金本位制度をやめ為替を切り下げた。そのためフランスは猛烈なデフレになりみまわれた。日本でも、不況が続き、政党内閣制、国際協調体制、国際金本位制ともに崩れ去った。

 永井 荷風は日記に、「日本の現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚無きことの三事なり」と書き記しています。

 指導的な国の不在が1930年代の世界恐慌につながった(キンドルバーガー)そし て,通貨下げ競争や貿易戦争が勃発し、資本の国家統制が行われ、社会と政治は混乱にみまわれた。  現在、世界はしだいにこの時代に似た様相を呈してきています。                                                                  

 

 

 

2011/10/09

原子力発電と人体


 原子力の恐怖はいつの間にか風化しつつあった。
人の心は移ろいやすく、広島と長崎の原爆投下でさえ歴史の中の出来事になりつつあった。
 原子力の開発がアインシュタインの予言からロスアラモスで原子爆弾は開発され完成し投下された。人は原子力を使って巨大なエネルギーを生み出すことはできた。しかしその結果生みだされた世界は、想像力をもって想定できる範囲をはるかに超えるものであった。
 原子力から生み出される放射性物質は生物にどのような影響を与えるかは、広島、長崎、チェルノブイリで一部明らかにされたものの、確かなことはほんの少しで、現在まで不明なことが多かった。
 2011年311日の震災、津波により、福島における原子力発電所の事故は起きた。震災の翌日12日のベントと1号機の水素爆発、続いて14日の3号機の水素爆発は、原子炉から漏れだした大量の放射性物質を広範囲に飛散させ周囲を高濃度放射性物質で汚染することになります。
 その爆発物の中には、放射性ヨウ素、放射性セシウム、プルトニウム、ストロンチウムなどが含まれ、80キロ圏内ではストロンチウムが、45キロ圏内ではプルトニウムが土壌中から検出されました。プルトニウムやストロンチウムなどの重い物質までが遠方まで飛散したことはあらためて今回の爆発力の巨大さを証明しています。
  軽い物質である放射性ヨウ素はさらに遠くまで飛散しました。この半減期はおよそ8日と短いものの、体内に取り込まれると甲状腺に集積して甲状腺がんをひきおこします。
 甲状腺は、とくに成長に重要なホルモンである甲状腺ホルモンを分泌し全身の活動力を調整し、成長をうながす役割の臓器です。放射性ヨードはこの甲状腺に大部分取り込まれ放射線を出し続け、5年以上の期間たってから若い人たちに甲状腺がんをおこします。
 チェルノブイリの爆発による放射性ヨウ素は甲状腺がんを7000人以上の人に発症させています。このがんの進行は比較的ゆっくりで、早期に発見し手術で完治することは可能です。
 放射性セシウムは、80キロ圏内で高濃度の土壌集積をみとめ、更に遠方でも多くのホットスポットをつくっています。 この放射性セシウムは,カリウムに似ているため、体内似取り込まれると、全身に蓄積します。セシウム134の半減期は2年、セシウム137の半減期は30年です。この物質もまた甲状腺などの内分泌器官に多く蓄積 し、体内で放射線を出し続けます。その結果遺伝子に働きかけ、発がん性を高めることはわかってっいます。
 プルトニウムはウラン燃料が核分裂してできる物質で、一度体内に取り込まれると排出されることなくアルファ線による内部被爆は続き、半減期はプルトニウム23887年、2392万4000年かかります。その結果、肺がんや白血病を引き起こすことになります。
 今後、放射線の被曝を防ぎ、安全な生活を送るためにはフクシマ原発からどの核種がどのくらいの濃度で飛散し、現在もどのくらいの濃度で存在するのか正確に知る必要があります。
 近代科学の生み出した様々な科学物質はあるものは自然に浄化されあるものは、毒性を残すもののしだいに生態系に取り込まれて行きます。
 一方,原子力の爆発で生みだされた放射性物質は広範囲に拡散し、東日本の水田,森、土壌を汚染しました。放射性物質は環境にとっての異物であり、地球上の生態系に同化することなく、人の力では完全に浄化することは不可能で、何万年にもわたって放射線を出し続けるやっかいな存在です。

2011/07/18

団地の歴史

 戦後日本は、空襲によってほとんどの都市はやけ野原となり住む家は極端に不足していました。1951年、この住居を確保するため市営、県営の住宅である公団住宅が建てられました。コンクリート性で耐久性の高い建物が設計されましたが当時の財政の状況から最低限度の生活可能な狭小住宅が最初に普及していきました。

 その後、都市は復興し、産業がおこり、若い人々はその仕事のために都市に住居を求めることになります。そして高度成長期が始まり1956年に日本住宅公団が設立されました。

 戦後の生活の理想のモデルとしてのアメリカがあり、それに習って設計された西洋風の台所や居間を備えた住宅団地が出来上がり、当時『文化のあるところは、団地と駅周辺』といわれ、4人家族の標準世帯、両親と子供向けの住居が大量に供給されました。

 

 団地の歴史はブルーノ タウトから始まります。勤労者のための住宅団地を設計し、後にはソ連で住宅団地の建設を行います。その住宅は機能主義的で生活重視の、しかも安価なものとなりました。日本でもこのソ連型に似た住宅団地が建てられることになりました。

 その頃、原子力発電所の建設も始まり、水上 勉は『都市生活の二男三男よ。長男の国、辺境の寒村は、放射能まみれになっても、きみたちが、健康で,優雅な文明生活を味わえて,せめて2DKのマンションで暮らせるように、ひとのいやがる原発を抱えてがんばっているのだ,という声を,私は若狭の地平からきく思いがする。』と書いています。

 その後、庭つき一戸建て住宅が多く建てられました。狭いながらも自然が庭に残り、人気の住まいとなり、郊外へとしだいに広がって行き、都心部ではマンションに人気が移って行きます。団地や個建住宅のさらに進化したものがニュータウン構想で、1971年多摩ニュータウンが出来、これに似た形のニュータウンが日本各地の都市郊外につくられました。

 21世紀の現在、日本の社会は変貌をとげ、住宅不足から、充足へ。標準的家族構成から、様々な家族の構成へと変化していきます。地方から目立ち始めた高齢化が、都市部にもはじまり、2010年から2025年までの15年間で、65歳以上の高齢者人口が694万人増加すると推定されています。

 都市でも場所によっては、団地の限界集落化がはじまりました。持ち家を持つことが人生の目的だった時代は過去のものとなりました。今後流行する新たな住まい方は、コンパクトシティーやエコタウン、いずれにしても人口構成に合ったものにならざるを得ません。

 

2011/07/10

自然を乱すべきか


 新たな詩人よ

 嵐から雲から光から

 新たな透明なエネルギーを得て

 人と地球にとるべき形を暗示せよ



 20世紀の初頭、神秘主義や宗教と科学が「宇宙の生命エネルギー」という考えで融合し、また「生態学」すなわち「エコロジー」がドイツの生物学者ヘットルによってはじめて提唱されました。宮沢 賢治は東北の花巻で、農民として田畑を耕し、農芸を広める社会活動家で、芸術活動を実践し、園芸家としても有名な日本のエコロジストの先駆者でした。



 六月の雲の圧力に対して

 地平線の歪みが

 視界50度を超えぬやう

 濃い群青をとらねばならぬ



 日本の国土は自然に恵まれ豊かなものの、自然災害が毎年のように起こりそれを克服することが生活の一部になります。戦前の昭和時代は不況の中、関東大震災や東北地方を中心に冷害や干ばつに毎年のように襲われています。その時代に広がった農本主義は、西欧化する都市型の文明に対する反発と、農家の疲弊を救済する方法として多くの人びとの支持を得、彼の描いた世界もしだいにその農本主義思想にのみこまれていきます。


 明治三陸地震に続いて、第二次大戦の前1933年にふたたび昭和三陸地震がおこり、その半年後に有名な『雨ニモマケズ』を手帖に書き残し37歳で死亡。 



Strong in the rain

Strong in the wind

Strong against the summer heat and snow

He is healthy and robust

Free from all desire



 この英訳の宮沢賢治の詩が今年4月11日ワシントンのナショナル大聖堂で東日本大震災の犠牲者の追悼式で朗読されました。


 戦前から、戦後の昭和30年頃まで,日本の多くの地域で,自然に囲まれ、日々の暮らしが営まれていました。田園と里山とが人々の生活の場所であり,これ等の生活はアジアの 稲作地帯と多くの共通点が認められます。

 戦後日本は、家庭の近代化、民主化や農地解放を受け入れ産業は全国あげて、工業化に突き進みました。急速な工業化、都市化がすすめられた結果、この江戸時代から続いてきた自然の中の村落共同体はしだいに衰退していきます。


 世界的にも、工業化と都市化は進み、石油をエネルギー源にさらには原子力も加わり、豊かな生活を享受するようになりました。

 1970年代になるとこの急速な都市化近代に対して、脱石油環境保護の観点から、太陽光や風力、廃棄物を新たな電子工学の知識を用いて統合する運動が起こり、地球生命圏の思想がうまれてきました。アメリカではヒッピーが生まれ、ドイツ、オーストリアでは緑の党が結成され、アメリカから発信されたsmall is beautifulが潮流となり世界に広がりました。2度目の

エコロジーの時代でした


 しかし、その後20世紀末の冷戦の終了から21世紀にかけ、世界大競争時代になり、再び環境保護の運動は資源とエネルギー争奪戦にとってかわられ、地球上にくまなく資本主義が広がり、石油や原子力エネルギーをふんだんに使った技術革新が生活の豊かさをもたらし浸透していきました。

 その最中、今回の地震と津波とともにおこったフクシマ原発事故は、放射能汚染が広範な土地、大気、海洋を一瞬のうち回復不能にすることをみせつけています。

 日本も、再び自然を大切にした自然と折り合う社会、自然エネルギーを利用した社会に舵をとる必要に迫られています。

 

2011/05/30

20世紀都市構想

 20世紀の都市はル コルビジェ、ミース ファンデルローエなどの都市構想から生み出されたものです。その思想は、住居は住むための機械であるとして、装飾を排し、合理的、機能的な高層建築を建て、広い空間をつくりそれらをハイウエーでつなぐものでした。

 

 1926年にドイツのバウハウスの創始者グロビウスは近代建築による都市計画で、はじめて産学共同で、テルテン団地工場での生産のモデル開発をおこない、1932年には,ユンカース工業の2万人規模の労働者団地を創りました。その後、ドイツをはなれたグロビウスは第二次大戦後アメリカに渡り、ハーバード大学建築学部の教授になり、アメリカの大都市における近代建築の主導者として活躍します。



 またミース ファンデルローエは、バウハウスの最後の校長を務めていました。1933年、社会主義的学校としてヒトラーのナチス政権によってドイツにおけるバウハウスの学校が閉鎖されると、アメリカのシカゴに渡り、建築家として活躍し、20世紀の時代の象徴である鉄とガラスを材料にきわめてシンプルな建築をめざしました。



 さらに20世紀のモダニズム建築の代表であるワールド トレードセンターはこの時期 ル コルビジェの信奉者ミノル ヤマサキによって設計されたものでした。



 ル コルビジェの「輝く都市」の中の近代都市構想は、1950年代にアメリカの大都市において実現されていきます。 ニューヨークにおいてこの近代都市の実行役にあったったのはロバート モーゼスで,1939年の万国博覧会に、ゼネラルモータースにハイウエーで網の目のように結ばれた20世紀の都市モデルを提示させ、その後これを次々と実行に移してニューヨークのインフラを整備していきました。

 モダニズム建築思想に従って超過密のスラム化した都市の街並は撤去して、地域を整然とした区域ごとにまとめ、高層建築を建て、ニューヨーク市を空中に浮かぶ高速道路でつなぎ、ハドソン川には世界一高いアーチ式の橋梁ヘンリーハドソンブリッジをつくりその周辺には緑地帯の空間にプールや運動場、海岸に沿った公園や動物園もつくっていきました。




 この計画が最初に反対に合ったのが、ワシントン スクエアパークを横断する道路の計画を進めた時でした。この公園はジョーンバエズ、ボブ デュラン ピーター ポールアンドマリーらがギターをならして反戦を訴えた公園として有名であり、芸術家や近くの子供たちの憩いの場所でもあり、ジェイコブスの生活の一部でもある公園でした。多くの市民の反対運動の結果、高速道路計画は中止に追い込まれモーゼスの近代都市化計画の最初の躓きになります。

 


 1961年再びジェイコブスの住んでいたウエストビッレジ、グリニッジビッレジが荒廃地域に選定され、取り壊され都市再生の対象にされようとしました。この時ジェイコブスたちが中心となった住民の反対運動でこの再生計画は再び中止に追い込まれました。

 近代都市化理論を打ち破ったのが、このジェイコブスによるまったく新しい都市機能に関する考えでした。有名な著作「アメリカ大都市の死と生」の中で描かれた都市は、生き生きとした人びとの生活の場にするための4つの基本的条件として、まず第一に街路や地域はいくつかの重要な機能を果たすこと、二つめはブロックは短くて歩行者が心地よく感じられること、第三に建物は多様であること、最後は人口が密集していること。

 そして、理想の公園は、大人も子供も実際に使用できる庭園や施設が整っていて、都市の街路にかこまれたもの。といった20世紀型近代都市構想と真っ向から対立するもので、その後の都市計画のバイブルとなったものでした。



 超高層の建物と広大な空間が高速道路で結ばれるモダン建築思想は20世紀後半には、変更を余儀なくされ、公共交通による利便性の高い、歩行者にとって楽しい、活気あふれる街になるように都市は建築され、大きく時代が変化していきました。現在、ジェイコブスの思想は都市構想の原点となっています。



 参考 ジェイコブス対モーゼス    鹿島出版会

 

 

2011/05/04

チェルノブイリ


 1986年4月26日ソ連のチェルノブイリ原発4号炉で爆発事故発生。

 ゴルバチョフ政権下にあったソ連では、その30分後、ゲンナジー ベルドフ将軍が現地に到着。ただちに消火活動を開始するとともに、近隣の警官、民兵を動員して原子炉の施設を封鎖して、交通を遮断し,立ち入り禁止区域をもうけた。翌日原子炉に近いプリピャチ市の住民4万5000人が全員1000台以上のバスを連ねて避難。10キロメートル以内に住む住民は全員この区域の外に避難した。その後避難対象区域が30キロまでひろげられ合計13万5000人が他の場所に移住させられ、さらに,1万9000頭以上の家畜の移動も軍用トラックでおこなわれた。


 これらは、当初国内にも海外にも公表されることはなかった。事故の2日後スウエーデンでセシウム134が異常値を示し,世界中で報道された.モスクワ放送がこの事故をはじめて簡単に報道したのはチェルノブイリ事故から2日後の4月28日の夕方で、その後5月6日になって,重大な原子炉事故がおこったことが発表された。

 8月になって,ウイーンで国際原子力機関(IAEA)の会議が開かれその席で詳細な事故の報告がなされた。チェルノブイリには4基の原子炉があり、そのうち4号基が爆発をおこし大量の放射性物質が空中に放出され、それが風向きによって遠くの地上に落下した。原子炉の火災を鎮火させるのに12日かかり,ヘリコプターによる鉛、粘土、ホウ素,砂が大量に投下され、放射能漏れを防ぐのに5月初旬までかかった。


 また原子炉の水槽の水を排泄するための作業、炉心の下にコンクリート製の厚板と窒素冷却系の設置,そしてコンクリート30万トンを使った石棺造りがなされた。さらに汚染水が近くのドニエプル河排出されるのを防ぐためにコンクリート製の防御壁がつくられた。


 この原子炉の事故によって、一瞬にして,現在のウクライナ、ベラルーシロシアの一部の広範な大地が高濃度放射性物質に汚染され居住不能地域となった。そして,ソ連の科学力と国家の権威は傷つき,連邦解体の一因にもなった。


 チェルノブイリの原子力発電所の事故によって、約1万8000人の人々が入院、そのうち203人が放射線による骨髄不全のための骨髄移植などの包括的医療を必要とする障害をおこしていた。重篤な放射線疾患で治療をうけた203人のうち、生存者は174人で、死亡者は29人であった、爆発直後の死亡者がその他に2人いるので、直接の被曝による死亡者の合計は31人に達した。

 大量の放射線の被曝はいかなる治療でも救命できない一方、以前考えられていたよりはるかに多量の放射線に被爆しても人間が生存できることもわかった。



 この直接の被曝の他に、体内被曝による長期的影響が放射線にはある。生物は進化の過程でこの原子核反応の結果出来る物質の存在を想定していないため、臭覚,色覚、味覚などの5感で感知できないものは認識できません。そのため、たとえ放射線に汚染された食物の摂取、とりわけ牛乳などを飲んでもまったく自覚症状はありません。


 その結果、後になって明らかなことは、こどもたちが放射線ヨードをかなりの量摂取し、5年から10年以上たってから、甲状腺がんが多発したことです。これに関してはベラルーシの国立甲状腺がんセンターで5年間にわたり甲状腺がん治療に当たった当時の信州大学の外科医菅野ドクターの詳細な報告があります。



 2003年から2005年にかけ国際原子力機関や世界保健機構などが集まってチェルノブイリフォーラムが行われ、この事故による死者は合計数千人であったと報告しています。長期的健康被害についてはいまだ十分解明されているとはいえません。

 参考 :岩波新書 チェルノブイリ 著者R.P.ゲイル


 

2011/04/24

リスボン大震災

 15世紀の後半、夢と宗教的情熱にかられポルトガルから多くの若者が海外に向かった.1494年にはバスコダ ガマが3隻の帆船と150人の船員で喜望峰をまわりインドに達し、翌年リズボンに還った。

 その後、アフリカ、インド、東アシア、ブラジルの貿易を独占し、首都リスボンに世界の富を集め、ポルトガルは強大な商業国家となり、世界をスペインと分け合い支配した。

 16世紀にはハプスブルグ家のスペインに併合され、この間にポルトガルの海外植民地は大部分オランダとイギリスに奪われることになります。


 17世紀になると、スペインから独立し、再び植民地国家として、発展します。その源泉は植民地とりわけ重要な国がブラジルで、17世紀の末には金鉱が発見され、続いてダイアモンドも発見され、再びポルトガルは黄金時代をむかえることになります。

 その後、1755年リスボン大震災で首都は一度壊滅し、すぐに復興はされたものの、1760年代のブラジルの金の生産激減と次の19世紀におきたブラジルの独立によって、富の源泉を失い、ポルトガルは衰退をしはじめ、しだいにヨーロッパの一小国になっていきました。


 この1755年におこったリスボンの大震災はイベリア半島の南西部の大西洋のプレートの沈み込みによる海洋型の地震で、これによりリスボンは多くの建物が崩壊しその数十分後、巨大な津波におそわれ港と川沿いの市街地を中心に多くの建物が破壊され、その後さらに火災も発生し、市街地は焼きつくされた。その結果、リスボンの人口27万5000人のうち9万人が死亡し,宮殿や図書館、大聖堂もすべて破壊されました。

 幸い国王一家は生き残り、後のポンパル公爵である宰相の力で救命,消火活動がおこなわれ、社会的混乱は防がれ、震災1年後には廃墟は消え壮大な構想のもとにリスボンの新たな街の再建がなされました。


 日本では,ポルトガルから1543年に種子島に鉄砲が伝来し,フランシスコザビエルがキリスト教を布教し,織田信長のもとで南蛮貿易が盛んになりました。徳川政権になると日本は鎖国され,貿易はオランダに独占され長崎の出島でわずかに続けられることになります。


 リスボン大震災と同じ頃、江戸時代には多くの地震がおこり、特に1707年の宝永地震では2万人の死者を出し、東海,東南海、南海地震が連動しプレートの移動による巨大な海溝型地震で津波による被害が大きかったことが記録されています。1854年には安政東海地震と安政南海地震がたて続きにおこり津波による死者は数千人に達し,これらの記録が今後おこりうる地震の研究のモデルとされています。


 巨大地震は、人びとの営み、文化は地表の自然の上に築き上げられたものであり,地球規模の造山活動やプレートの動きの影響を免れることが出来ないことをあらためて我々は思い知らさせることになりました。