2025/07/21

戦後物語の終焉 その2 パラダイムシフト

  1962年、トーマス クーンは 科学革命について、「古い理論を置き換えるために新しい理論が選ばれたのは、それが正しいからではなく、世界観が変わったからだ。」と述べた。バラバラな問題に類似性を見とる力を持った科学者が、それを説明する科学発見を発表する。その後さまざまな実験によってそれを証明する。そしてニュートン力学のような理論が生まれる。その法則に合わない事実が、出てくる時、新しい別のパラダイムが生まれる。そしてさまざまな研究がなされ、相対性理論などの新しい理論が生まれる。しかし現実の世界はただひとつしかなく、過去にあった世界と同じ世界が今もある。変わったのはものの見方だけである。古い理論を置き換えるために新しい理論が選ばれたのは、それが正しいからではなく、世界観が変わったからであると唱えた。その後、パラダイムシフトは論争のまととなり、流行語にもなった。クーンは科学の世界においても、科学の進歩は究極の真理に向かって進んでいき、自然に関する完全で客観的で真実である理論に到達することに、疑問を投げかけた。


 


 科学 宗教 政治 経済学理論はそれぞれ共通の似たような要素を持っている。どの文化を持った国家もそれぞれの宗教、それぞれの政治、それぞれの宗教的倫理体系、それぞれの経済、そしてそれぞれの科学的世界観を持っている。それによって多くの人々を集めて共同体として成り立っている。それは、人間の能力、人間の脳の仕組み、人間の本性の由来するからで、人間の脳は地球上の環境に適応し、進化して、遺伝子的に形成されたからである。人の住む周りの世界、環境を、まず気分と瞬間的直感で捉える。その後に、ゆっくりと合理的判断を前頭葉が行う。感情に結びついた第一の回路は目先のことに素早く反応して決断を下す。好きか嫌いか、敵か味方か、その後にゆっくりと前頭葉が働いて、過去の知識や記憶、パラダイムなどさまざまなことを材料にして、思いを巡らせ、思考し、今後を予想したり、事実が偽物かを吟味して行動に移す。


 人間の歴史はこの合理的精神のみではなく、感情に動かされた結果つくられることもある。 人間はどれだけ技術が進歩しても、恐れや嫌い 魅惑や好きといった原状感覚から逃れることはできません。 人々は生存のために発達してきた感情、感覚、印象による即断と過去の記憶や知識による合理的思考の両方をうまく使って生きてきました。そして環境が変わると既存の物の見方を変えて、すなわちパラダイムチェンジをすることで対応してきました。


 第二次世界大戦の後 世界ではアメリカとソ連が対立し、その影響で日本も1960年の安保紛争や1970年まで続く政治の時代になりました。その後も、宗教と同じようにそれぞれが多くのセクトにわかれ、対立や紛争が続きました。その後、経済が豊かになると、多くの人は、心の中で、改革の気持ちを持ちつつ、革新政党に投票し、生活は豊かさを求めて、より多くの物を買い、会社や組織での出世を目指すようになり、経済の時代に変わっていきます。世界は、レーガン大統領やサッチャー首相の主導する新自由主義と呼ばれる新しい自由主義が、東側の社会主義、平等社会に勝利し、世界を制覇しました。


 ソ連は崩壊し、宗教は復活したものの、まざまなカルト集団は日本ではオーム真理教 アメリカでも新興カルト集団が生まれ、消滅していきました。イスラム教はビンラディンのテロやイラン革命などの宗教的過激主義は事件を起こしたものの、世界を動かすことはなく、その時代、世界を動かしたのは、宗教でも政治的イデオロギーでも民族主義でもない経済合理性が何よりも重要とする新自由主義と呼ばれる経済理論でした。


 ”Its the economy ,stubid”を掲げてブッシュ政権に勝ったクリントン政権は、新自由主義経済を世界に押し広げていった。FRB議長のグリンスパーン、 ルービン財務長官、経済学者サマーズの経済三銃士が世界経済を支配する構図が出来上がっていった。その政策のもとで、世界は動き出し、世界はフラット化し、大いなる安定の30年間が続いた。その結果、アメリカでは貧富の差が極端に広がり、移民は急速に増え、LBGTの権利は急速に拡大し、キリスト教の文化は衰え、中産階級は没落し、プアーホワイトが激増した。そのため、今の政策に不満もつ人々に支持されて、トランプ政権が登場した。そして経済至上主義の新自由主義のシステムを終焉させようとしてさまざまな政策を打ち出した。自由な移民など人の移動を制限し、国際協調主義をやめ、国連のWHOからの脱退し、パリ協定から離脱し、自由貿易体制を再検討し、関税をかけるなどさまざまな政策を推進した。


 それはヨーロッパの民主主義国にも波及した。2025年、今年NATOのルッテ事務総長はアメリカのイラン爆撃に対して「イランに対する断固たる行動に感謝します。あれだけ思い切ったことは誰にもできません。」そしてNATO軍事費増大に対して「あなたはこの数十年でどの米大統領も成し遂げなかったことを達成するでしょう。欧州は大金を払うことになる。そうすべきだし、それはあなたの勝利です。」と述べた。


そして、やがて日本でもそのパラダイムシフトの波がやってくるのかもしれません。


2025/06/29

医療をどうするのか その2

 




 日本の人口は2007年をピークに減少し、少子高齢化が急速に進み始めた。先日、地方の中核病院の現状がNHKの番組で取り上げられていた。30年前には3万5000人の人口があり、地域の総合病院として、24時間体制でいつでも救急患者に対応していた。常勤の医師は20名いた。その後、市の人口は2万2000人に減少し、常勤の医師は10人に減少した。医師は減り、看護師も次第に減っていき、24時間体制の救急医療は限界に達して、中止せざるを得なくなった。

 一方都心部でも高齢者が増え、風邪から肺炎になったり、転倒し怪我をする、熱中症で倒れるといった救急の患者が増え、その半数は高齢者であり、大病院での治療は必要のない軽症の患者が多く地域の救急患者は地域の私立病院が担っていた。その病院は赤字になり、それにインフレによる物価高と賃金上昇がが追い打ちをかけた。40年以上経って老朽化した病院の建て替えができないため、閉院に追い込まれている。

 もう一つの例は中国地方の、山間地で農業や林業の町で、30年前には人口は7000人で、街の中に病院があり、CT,MRIなどの設備も整い、入院施設もあった。現在人口は3000人となり、ほとんどの人が80歳代になった。この病院を今後どうするかが問題になっている。



 1990年代日本の皆保険制度と効率的で乳児死亡率も低い日本の医療を参考にしようとしたアメリカ側の視察団(特にヒラリー・クリントン氏の医療改革タスクフォース)は、日本の医師の働き方を「医療制度の成果として一部は参考になるが、再現するのは非現実的」と報告した。医師個人の過労と献身によって成立している面が大きく、米国ではその働き方は社会的に受け入れられないと結論づけた。


 2000年(平成12年)公的介護保険制度ができる。その後医療費も介護費用も右肩上がりで増えてきた。2004年(平成16年)医局体制を大学病院の独占から、市中病院も加わった研修医制度ができた。それにより医局支配の体制は弱くなった。 その頃から失われた30年のデフレ時代が続き、国が定める医院の収入を決める、診療報酬はあまり変わることはなかった。そして医療界もあまり変わることがなかった。令和6年4月から「医師の働き方改革」が施行された。


 最近になって、これらのことが遠因となって、病院からの医療者の立ち去りや、診療科の外科医離れが起きて、形成外科やリハビリテーション科や麻酔科や心療内科は増えてきた。そして、労働条件の厳しくない、より高収入の得られる美容整形に研修医の2年終了後に直接美容整形外科医になる直美が話題となる。 病院は赤字の施設が70%を超え、建て替えや設備の更新ができず閉院するところが過疎地だけでなく都心部でも増えてきた。

 

 少子高齢化は進み、2025年には年間出生数が70万人以下となり、年間200万人いた団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になる。後期高齢者は風邪などから肺炎になって重症化する、ちょっとしたことで転倒し怪我をしやすくなる。2030年代にはその世代は85歳以上になり、ますます高齢化する。実際現在でも死亡する人の最も多い年齢すなわち最多死亡年齢の平均は男性88歳、女性91歳で、認知症の人は増え、独居者も増え、一人で生活できない人はますます増えていく。一方財政的にも労動力としても医療を支える人は減っていく。


 85歳以上の高齢人口が増えると、病気や怪我や、一人で生活できない人が増え、それらの人々に対応する介護や医療は必要で、行き場所の確保が必要になる。 そのためには病院数は減っても、それぞれの地域に必要な役割を果たす病院がそれぞれの地域にあることは必要で、それぞれの地域で人口減少と高齢化に対応する医療システムをつくって、10年から20年間を乗り切るプランが重要となる。それほど大きな変革ではなく、人材を確保し、財源を確保し、限られた財源を無駄をなくして配分する。それがうまくいけば乗り切ることができる

2025/05/19

AIと芸術、医術、宗教

 


 5月の連休中、六本木の森美術館で「マシンラブ ビデオゲーム、AIと現代アート」を観に行きました。ピープルのビデオ彫刻「ヒューマンワン」では、立方体の仮想空間で生まれた人間が、永遠に変化する動物や、虹、のデジタル世界を歩き旅する。時事刻々と変化する新しい彫刻で、人生をデジタル化した。

 ルー ヤンの独生独死 人は一人で生まれ、一人で死ぬ 自我 では作者のアバターが、六道の仏教世界を彷徨する映像で、美しく刺激的な画像が次々にスクリーンで展開される。六道とは、仏教の教義でいう地獄道(じごく)・餓鬼道(がき)・畜生道(ちくしょう)・修羅(阿修羅)道(しゅら)・人道(人間)・天道の六種の冥界をいい、人は因果応報により、死後はこの六道を輪廻転生する。この世界を映像化し芸術とした。AIの技術によって色彩と形は、眩いばかりの映像を生み出し、人に働きかける。一方鑑賞者はその新しい芸術に対して、光の反乱に対して、感情は戸惑い、解釈する脳も混乱する。 宗教の世界、地獄極楽や天国地獄は人の想像力のよる世界で、古くからそれらの絵は描かれ流布してきた。映像の進歩は当然この世界をより鮮明により魅力的により精神の奥深くに働きかけるようになる。感情や宗教心は人間の未解明の本性であり、論理的思考とは別のシステムが関与している。それゆえに画像は言葉より直接的に人の心に働きかける。技術は急速に進化しても、人はほとんど変わらない。

 AI時代の宗教はどうなるのかは、芸術や宗教の起源を知ることにつながっている。現在、日本の京都の高台寺で、観音菩薩のようなアンドロイド「マインダー」が般若心経に基づく説法を行っている。スイス・ルツェルンの聖ペーター教会では、機械の中の神(デウス)名付けられたAIホログラムのイエスが、信者の告白を受け、聖書に基づいた助言を提供している。またGoogleエンジニアのアンソニー・レヴァンドウスキー氏が2017年に設立した宗教団体があり、AIを神として崇拝することを目的として、AIとの「霊的なつながり」を求める人々が集まっている。もしAIが人の心を動かし、トランス状態にさせ、信仰と同じ感覚を生み出す事ができればAIがシャーマンとなる新たなカルト集団ができることになる。

 ディムート シュトレーベの、AI言語モデルを使った、AIと直接対話出来る《エル・トゥルコ》という作品を見ました。これはAIと観客のアバターが対話するという観客参加型のもので、マイクに喋ると音声認識してAIと対話できる。実際に試してみると、まるで普通の人と対話をしているような感じで、しかも内容は結構複雑で、深い返事が返ってきました。同じ作者の、アバター同士の様々な会話をする「エリスのリンゴ」もあり、本物の人とアバターとロボットと、AIの進化はその間の境界を融合し、進化する。一方人の認識能力は進化しない、不気味の壁は、人間の能力はこれが働いて本物の人間と偽物の人間を判別する。しかしAIが進歩すればこの壁は、乗り越えられる。その時代はすぐにやって来そうです。このアバターとの会話で、今後、AIは人間の医師に代わることができるか聞いてみました。その返事は、かなり長く、結局、結論としては代わることはなく協業するであろうと答えました。

 昨年、G7ヘルスサミットで、RAVATAR社のリアルな医師のアバターがステージに映し出され、観客からの病状と質問にリアルタイムで対話し、仮想患者の診断やアドヴァイスを行っている。この医師のアバターは大規模言語モデルと合成音声を組み合わせたシステムを使い、他言語に対応している。   AIのチャットGPTを使った心理療法は、心理療法として人間の心理療法士の代わりに使われてきた。現在、AIの進歩は心理療法や精神科の治療を変えつつある。音声と映像を使って難治性幻覚治療をしたり、AIの方が人に話すより相手を気にしないで、悩みを話せるとい言う人もある。また人間の療法士の前に最初の問診やつなぎの役割をAIに任せたり、人間の心理を理解する能力や、治療計画の能力はますます進歩して、複雑な診断や投薬能力は人間の能力を上回る可能性が高いと考えられています。

 文章による診断、アバターよる診断、ロボットによる診断の進歩は加速し、数年後には、これらAI技術が人間の能力を上回る可能性があります。AIドクターは数年後に現実化するかもしれません。

2025/05/01

権威、権力、仏の歴史 


「仏法も神道も朝儀も嘗て無世に成りにけり」。  太平記

 

 国家は、人間が集団をつくり共同目的で活動するための物語によって創り出される。最初は、人々の声の届く範囲の集団部族であり、それが次第に各地方に豪族の集団ができる。日本で大和国が形成される以前から、シャーマン的権威による族長の長が天皇で、天皇の権威は呪術的支配者であった。

 日本の神話は、やがて書物あるいは文字による記録である古事記や日本書紀に書かれ、多くの人々の間に広まり、範囲を広げ、定着していった。この神話は、国土の誕生と統治者の誕生の物語(国生み、国譲り、天孫降臨の天地開闢神話)を生み出した。


 3世紀頃、多くの地方豪族を統合して邪馬台国から、日本全土を支配する大和国家を作る過程で、次第に天皇による支配は確立していった。その時、カリスマの対象として皇室の家、豪族の蘇我家などという氏が特殊な呪術的恩寵を受けているという観念、天皇のカリスマの世襲制、血統カリスマが生まれる。そしてがその天皇を支える世襲官僚制度が生まれ、4世紀頃には古代天皇制のヤマト国家という氏姓国家ができていた。


 6世紀、、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が対立し、蘇我馬子が戦いで勝利する。そして邪魔になった崇峻天皇を暗殺し、権力を握った蘇我馬子は女性天皇推古天皇を誕生させ、厩戸の皇子が皇太子として摂政に任命される。聖徳太子(厩戸の皇子)は、官僚制度の改革を行い世襲制の氏姓制度から、個人の能力によって官僚を登用する冠位12階を定め、その後大宝律令で位階制度にして、官僚組織を確立した。そして役人の守るべきことが書かれた17条の憲法がつくられた。こうして、書面に書かれ統一した国のかたちの日本ができ上がった。


 奈良時代に仏教は日本の集団、共通の君主として天皇を認めさせ、人々を結びつける物語となった。国家宗教となった仏教は、聖武天皇の時代に僧寺である国分寺、尼寺である国分尼寺を全国に建立し、752年には奈良の東大寺に大仏を建てた。奈良時代と平安時代は、仏教は権力者と同じ物語、理念に基づく国家仏教であった。氏や家、国家の安泰を通じて、人々の幸福を求め、災厄から逃れるという古くからの呪術信仰から、舶来の煌びやかな黄金の仏像と、巨大な伽藍の中での読経の世界を受け入れ、全国に広まっていった。


 平安の世界は、武士の台頭によって崩壊する。頼朝によって鎌倉時代には武士による政権が作られた。承久の乱では、天皇、上皇といえども天道に反すれば統治者の資格を失いうとして、北条軍は勝利し、上皇は隠岐に配流された。鎌倉幕府は朝廷から独立し、北条家は執権となり関東御成敗式目を定め、法の支配を行なった。


 宗教は鎌倉時代、国家宗教から離れ日蓮宗や親鸞の浄土真宗、道元の禅宗などの新仏教がおこった。国家と離れた魂の救済の傾向を持っていたが、浄土真宗は平民の宗教として戦国時代に戦国大名と対立した。日蓮宗や禅宗は武士階級に浸透していった。そして再び武家の幕府や御家人、守護大名や戦国大名に取り入れられていった。


 1333年建武の中興で、後醍醐天皇が武士の政権鎌倉幕府を倒し、天皇親政政治を行うも、すぐに崩壊し、足利尊氏が再び政権を武士の手に取り戻し、幕府を開く。その後 1392年までの60年間2人の天皇が併立する南北朝時代が続く。足利尊氏は政権の中枢に高兄弟を置いた。執事として高師直が将軍の命令を下したり申請を取り継ぎ、師泰が論功行賞を行なった。当時皇室、院の権威は完全に失墜していた。「師直は吉野に攻め入り、皇居に火を放ち、北野天神、蔵王権現を焼き払い、皇族。関白、公卿の子女を次々妾とする。師泰は河内で聖徳太子廟を焼き、廟内を略奪し、太子像の衣まで剥いだ。」と当時の高師直、師泰兄弟の傍若無人ぶりが、太平記に詳述されている。


 室町幕府は三代将軍義満の時代、王朝趣味と異国趣味に染まっていく。幕府の公家的儀礼を武家の世界で打ち出し、武家の権力を王朝的権威で飾り、さらに中国の明の皇帝から日本国王の称号をもらい権力の正当性を築こうとした。こうして鎌倉末期、室町時代にかけて、秩序の源泉が崩壊し、むき出しの武力の衝突する時代が始まり、やがて応仁の乱、戦国時代になって統治の権威も社会規範も解体の一途を辿り、悪党の時代、下剋上の世界が訪れた。


 16世紀には、どんな権威も法も武力の前には無力であった。織田信長は、全国を平定し、新たな秩序を作る必要に直面した。信長は天皇と将軍の権威に迫るため、1568年京都に入りする。足利義昭を将軍にたて、その権威、公儀のもとに、将軍の命令として、信長が政務を行なった。1573年幕府が無用のものとなると、義昭を追放した。そして自らが将軍職に就くことはなかった。当時イエズス会に対して、自分は王であり、内裏であり、神であると語っていた。天皇は信長を引き止めるために次々と官位を与えた。1578年に正二位に上った後、官位を辞退した。安土城を作り、天道の思想で宗教の領域の支配権を握った。安土城を神的な専制政治の儀式の場としようとした。安土城の城下には、イエスズ会のセミナリオや多くの寺を建てさせた。しかしその夢は、明智光秀によって絶たれた。

2025/04/17

戦後物語の終焉

 

                古代都市ウルにある、女王の墓で発見

                された、黄金とラピスラズリで作られた

                牡牛の頭。紀元前2600−2300年


 1962年ヨルダンの砂漠で撮影されたアメリカ映画「アラビアのロレンス」が世界中でヒットした。複雑な性格のロレンスをピーター オトールが主演し、アリ役でオマーシャリフが登場する。この映画で描かれたように、アラブは第一次大戦中ドイツと同盟し参戦したオスマン トルコの支配下にあった。トマス エドワード ロレンスは、英国陸軍の情報将校で、トルコに対するに対するアラブの反乱を支えた。ロレンスはオックスフォード大学で、有名な考古学者であたホーガース博士の元でアラビア語と中東について学んだ。ファイサルと出会い、アラブのベドウィン族とともに、鉄道爆破などのゲリラ活動を行う。そしてトルコの要衝アカバを奪取し、1918年にはパレスチナのトルコ軍を打ち破って、ダマスカス、ベイルート、アレッポを占領した。


 大戦後イギリスはトルコの支配下にあったイラクをアラブのファイサル国王に統治させた。そのイラクにレオナード ウーリーを中心とした発掘調査団がイギリスから訪れ、4000年以上前の古代都市ウルの王家の墓を発見した。当時の模様を発掘調査団の一員であったマックスは、「死者のためのこの大きな竪穴式墳墓に入ったのは、不思議な瞬間でした。地面全体が黄金の絨毯で埋め尽くされていた。それは王が死んだ時に殺された女性を飾る黄金でできたブナの葉であった。」と語っていた。

墓には死んだ王族の遺骨とともに、大勢の従者や兵士が殉死させられ、埋葬されていた。それらは黄金と宝石で飾られ、その女性たちはそれぞれ楽器を抱え、美しい竪琴を手にしたいくつかの遺骨もあった、その竪琴には黄金とラピスラズリで作られた牡牛の頭の像があった。この王家の墓は世界最古の物語「ギルガメッシュ叙事詩」を残した古代シュメール人によって作られた。


 さらに、この発掘調査団によって紀元前2000年前後のウル第3王朝時代に建てられたジックラトが発見された。これは、メソポタミア人の神殿で階段ピラミッっドの形をしていて、この階段を登った所で神官が儀式を行った。


 このメソポタミアの地に紀元前1776年ごろにハムラビ法典が制定された。そして法典はバビロニアの社会秩序が普遍的で、永遠の正義の原理に根ざした、神々によって定められた物である。当時バビロンは世界最大の都市で、人口は100万人を超えていた。そしてメソポタミアの大半を支配していた。この法典により都市の秩序は保たれていた。その内容は、バビロンの法律と裁判の判決を集めたもので、「この地に正義を行き渡らせ、悪きものや邪なるものを廃し、強者が弱者を迫害するのを防ぐ」として300の判例が定型として示された。 眼には眼をの内容で、もし別の上層自由人の骨を折ったなら、そのものの骨も折られるものとする。など細かく規定されていた。


 そして、シユメール人は、紀元前300年から3500年の間に、記号を使って粘土板に大麦やその数を記録した。それから楔形文字に進化し、王は命令を出し、神官は神のお告げを記録し、人々は手紙を書いた。


 ハラリによれば、人類が文明をつくり、世界を征服したのは言葉を使って、大勢の人を結びつける才能があるからで、真実か否かではなく言葉による物語によって共同体がつくられ、神殿を作ったり、法制度を作り維持し、生活の規則、祝祭日を定めたりする。そのことによって共同体が小さな部族社会から、大きな豪族の支配する社会に、やがてそれらは統一されて帝国となる。


 これは、法律、貨幣、神々、国民といった人間社会のシステムに共通の共同の主観現象で、虚構や空想や集団の妄想によって大勢の人が協力し、これらが使われ歴史を動かす大きな要因となる。ハムラビ法典が作られた同じ古代バビロニアで紀元前3000年紀半ばに銀のシェケルという銀が貨幣として使われた。その後世界中で金は貨幣として使われ、物々交換に代わる流通の制度の中心になった。


 その後世界は貨幣を使った貿易を通じて、相互に繋がり、経済活動を行い、さまざまな経済学の理論が生まれた。アダムスミスの古典派経済、デビットリカードあるいは、その後のマルクス主義経済学、ケインズ経済学、ミルトン フリードマンの新自由主義などの経済学理論が次々と登場した。これらもやはりその時代の産物であり、共同主観によって成立している。



 神々の世界、宗教にも共同主観による人々の結びつきが見られ、小さなカルト集団は、物語を作り、それが次第に広がる。人間の脳の発達による言葉の発明、物語の想像は人々を結びつけ、それを信じ、話し言葉から、書くことによって記録され伝播しさらに広く遠く影響を及ぼし、信者を獲得し、やがてあるものは世界宗教になる。

実際のイエスは典型的なユダヤ教の伝道者で、説教をしたり病人を癒したりして少数の信奉者を獲得した。地方在住のほぼ無名の宗教指導者は死後に、天地を創造した宇宙の神が人間の姿をした物として偶像化され、世界中で信者を獲得し、世界中で25億人の人々にキリスト教は信じられている。同じようにイスラム教やヒンズー教、仏教も生まれ、信じられ、信者を獲得した。


 歴史上世界中でエジプトでもローマでも、中国、南アメリカなどでも国は生まれ、やがて神の国や帝国となり、栄枯盛衰を繰り返していた。20世紀には帝国間戦争が起こった。そして国家社会主義国や共産主義国家が誕生し消滅した。そして、先日まで、グローバル主義、自由な民主主義が世界史の勝者のように見えていた。今その秩序は崩壊しつつある。


2025/03/20

名探偵ポアロの大英帝国


  1890年アガサ ミラーはブナやニレ、セコイヤなど大きな木々の生い茂る庭を持つ、海辺のリゾート地アッシュフィールドの邸宅で生まれた。ビクトリア朝のイギリスは産業革命によって、生活は次第に変わり、都会の生活者は増え、かつての田園生活のような顔見知りでない隣人と生活する日々が始まった。



 1923年「スタイルズ荘の怪事件」初めてポアロを登場させる。第一次大戦時ドイツの攻撃から避難してきたベルギー人で、卵形の頭をした、おかしな口ひげを生やした小柄でおしゃれな、シャーロックホームズとは全く違った探偵であった。 その相棒へイスチングス大尉は第一次大戦で負傷した退役軍人で、旧友のジョンに招かれてスタイルズ荘を訪れた。ジョンの継母で館の主人のイングルソープ夫人が急死する。ポアロは彼の依頼を受け難事件を解決する。大邸宅の中で起こったストリキニーネによる殺人、邸宅に住む人々の見かけの印象と本当の姿、重大な手紙の発見。アガサは、怪奇なミステリーや冒険物語ではない、証拠と心理分析を論理的に分析する新しい推理小説をつくった。


  当時のイギリスの人にとって、第一次大戦は、ある朝突然起こった出来事だった。そして、多くのイギリスの若者は戦場に行き、30%の若者は戦死した。ドイツに占領されたベルギーからは100万人以上のベルギー人がイギリスに亡命してきた。イギリス国内でも上中流階級の若い女性たちも従軍看護婦として病院で戦病兵を看護し、アガサもこれに加わり、やがて薬剤部に配属されて薬の知識を学び、小説を書き始めた。スタイルズ荘の怪事件では、この薬剤知識が殺害の手段として大きな鍵を握っている。

 1923年に発売した第2作目の「ゴルフ場殺人事件」では、フランスのリゾート地ドービルで滞在中に、南米で事業を起こし、大成功を収めたポールルノーが殺害される。10年前の殺人事件に関係していた家族が近くに住んでいた。そして登場人物の様々な思いが絡み合い、真相は隠され、謎は深まる。ヘイスチングスの感情がらみの印象による推理や、フランス人警部の推測は外れ、、ポアロの感情や印象に惑わされない、、前頭葉の脳の働き、灰色の脳細胞による推理によって事実の糸のもつれを解きほぐし、事件は解明される。


 1926年「アクロイド殺し」を発表。ロンドンの郊外の田園、キングス アボットで引退したポアロはカボチャや野菜を育て、引退生活を楽しんでいた。その村で殺人事件が起きる。その街の有名な資産家アクロイドが殺された。疑われたのは義理の息子ラルフだった。アクロイド氏の姪でラルフの婚約者フローラに事件の解決を依頼される。アクロイドを殺した犯人は身近にいる意外な人物であった。


 アクロイド殺しの舞台となったキングスアボット村は、若者は都会に出て、未婚の女性や退役軍人はたくさんいる。村人たちの趣味と娯楽は、噂話である。イギリスのどこにでもあるような、ありふれた村、平穏な昔ながらの田園を舞台にしていた。イギリスの郊外は1902年ハワードが「明日の田園都市」で提案した都市と田園がよく調和したユートピア構想で、都市の近郊にありながら、近郊の美しい田園が残り自然が残る地域で、この都市がロンドン郊外に建設され始めた。当時、自然や歴史的環境を守る運動ナショナルトラスト運動が同時に起こっていた。


 1920年代は大戦後のマスコミ時代で、都市生活者や裕福になった大衆が大衆小説を求め、新聞の有名人のゴシップ記事を楽しんだ。そしてアガサクリスティーもまたそのゴシップ記事の対象になる。1926年アガサクリスティーは失踪し、記憶喪失状態で10日後ホテルに滞在しているところを発見される。


 回復したクリスティーは1928年にアーチーと離婚が成立し、一人娘のロザリンドは寄宿学校にいかせた。その年の秋、イラクのバグダッドに向かった。イスタンブールへオリエント急行に乗り、そこからシリアのダマスカスへ、そのダマスカスからバグダッドへは砂漠用のマイクロバスに乗って砂漠を横断して到着した。 1930年に再びこのメソポタミアの発掘調査の旅に加わった。そこで知り合った考古学者のマックスと再婚し、小説家としてクリスティーは黄金の30年代を迎える。その10年間で20の小説と3冊の短編集を出版し、世界中に読者を広げ、今でも人気の代表作を残した。

 1934年『オリエント急行殺人事件」1936年「メソポタミア殺人事件」1937年「ナイル殺人事件」などの代表作はアガサ クリスティーが中東旅行の時泊まった実在するホテルや実際乗った列車や、訪れた遺跡や街を物語の舞台とした。豪華列車オリエント急行、エジプトやメソポタミアといった中東のエキゾチックな情景の中での殺人事件。初期の作品のボアロが物理的な手がかりから事件を解決する物語から、殺人犯の複雑な性格と、心の奥の秘密、より真実に近い手がかりである心の動き、犯罪心理を描くようになった。


 イギリスは、第一次大戦後オスマントルコの支配下にあったアラブ世界、パレスチナとイラクを国際連盟から委任統治領として手に入れた。1932年にイラク王国となるも軍事や石油の採掘権はイギリスが担っていた。その統治下のイラクのユーフラテス川沿いの古代都市の遺跡ウルの発掘調査団がイギリスから訪れる。イラクでの遺跡発掘と油田の探索はイギリスの国策として進められた。そして中東の土地は旅行先として人気が出てきた。ドーバー海峡を超えて、オリエント急行に乗りトルコのイスタンブールに着く。バグダットへの道は砂漠の中を飛行機を誘導するために切り開かれた道路を使った。


 アガサクリスティーの小説が今でも読み続けられているのと同じように、第一次大戦中のイギリスの外交が現在まで続く中東混迷の原因になっている。パレスチナにユダヤ人国家をつくる、アラブ人国家を旧トルコ領につくる、旧トルコ領を英、仏、ロシアの3カ国で分割するという3つの秘密協定であった。









2025/02/24

田中角栄の列島改造と美濃部都政

  日本は第二次世界大戦後、1950年代に、荒廃した後進国として出発し、1960年代に中進国となり、1970年代に先進国の仲間入りした。 戦後世界はソ連とアメリカの二大陣営に分かれ対立していた。 1960年代後半から1970年にかけて、日本もその影響下、革新陣営に支持され、美濃部都政が始まり、学生運動も盛り上がった。美濃部都政は1967年(昭和42年)から始まり12年間続いた。


 美濃部亮吉氏は1904年美濃部達吉の長男として生まれ東京大学を卒業後、ナチス政権誕生前の1932年(昭和7年)5月にベルリンに到着、2年間のドイツ滞在中に「独裁制下のドイツ経済」を学会で発表した。「ナチスはあくまでも大資本の味方であるのだ。しかし中小商工業者の憤懣を何とかしてやらねばならない。そこでナチスは、ユダヤ人の官吏、弁護士、医者、芸術家のごとき最も弱いものをいじめることにした。ゲルマニアの文化をユダヤ人の手から奪ってゲルマニア人の手に委ねなければならないというのがそのための口実であった。」と書き、1938年(昭和13年)人民戦線事件で逮捕されるも終戦で、無罪となった。

 戦後、大学教授などを務め、1967年(昭和42年)に東京都知事選で初当選した。はじめての 革新都政となり、さまざまな政策を実行した。当時経済は成長し、公害は全国に広がり、社会の大問題となっていた。平均寿命は伸びてきたものの、いまだ高齢化社会ではなかった。医療費の無料化、高齢者の都営交通の無料化、公営ギャンブル廃止、歩行者天国の実施などその後の日本の自治体の政策を先取りし、当時は多くの支持を集めた。

 その後この美濃部都政に対して、高評価はあったものの、のちの東京都知事石原慎太郎は、「増税なきバラマキ政策を行うことで、東京都また日本に無償福祉ポピュリズムという悪しき影響を与えた。」と批判している。

 田中角栄氏は、1966年(昭和41年)2月から日経新聞で30回連載の私の履歴書を書いた。「齢いまだ50にもたらず、人生経験も浅い私は、自分の履歴を世に公表することが、何かしらはばかれて面映く、逡巡されるものがあった」で始まる生い立ちの記録で、雪深い新潟の貧しい生活、その後の東京での企業した生活、そして自らの関心のあることを綴った。そこには、人生の基本として、理念や理想は腹の足しにならぬという徹底したリアリズムの姿勢が貫かれている。そしてこの世代は第二次大戦で戦場で最も多くの戦死者を出している世代であった。

 田中角栄氏は1918年(大正7年)新潟県の現在の柏崎市で生まれる。15歳の時上京し20歳まで東京でくらし、19歳で独立して共栄建築事務所を開く。1938年(昭和13年)の暮れに盛岡24連隊に入隊する。中国大陸に出征し病気で療養後昭和16年除隊する。1943年(昭和18年)田中土建工業株式会社を起こす。戦後1947年(昭和22年)初当選し政治家となり、若くして頭角を表し、多くの大臣を経験する。

 田中角栄政権の誕生は、1972年(昭和47年)7月5日。その前任の佐藤栄作内閣は8年間の長期政権で、政権交代後に、三角大福と言われた、三木、田中、大平、福田の4人で争われ、田中角栄首相が誕生した。

 その年に発売された日本列島改造論は空前の売れ行きを示した。当時日本は、公害問題と、都市への人口一極集中が進み、過密過疎問題が政治課題であった。田中角栄はその序文で「昭和30年代にはじまった日本経済の高度成長によって東京、大阪など太平洋ベルト地帯へ産業、人口が過度集中し、わが国は世界に類例をみない高度社会を形成するにいたった」が、「明治100年(1968年)をひとつのフシ目にして、都市集中のメリットは、今明らかにデメリットへ変わった」。「過密と過疎の弊害の同時解消」のためには「都市集中の奔流を大胆に転換して、民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開することである。工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速道路自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテコにして、都市と農村、表日本と裏日本の格差は必ずなくすることができる。」

 当時の自民党は経済成長を進め、その果実を弱者にも政治的に配分する、地方の農業保護、公共事業に予算を配分して政権を維持していた。田中内閣はその政権下で美濃部都政と同じように老人医療費無料化を行い、福祉元年として評価は高かった。

 しかし、1974年(昭和49年)第4次中東戦争が起こり、原油価格は5倍になり狂乱物価と呼ばれる物価の上昇で、日本の高度成長は終焉した。同じ年、文藝春秋で田中金脈が追及され、首相を辞任した。理念より利益、文化より生活利便性の向上を信条にして首相の座を金と人心掌握の力で手に入れたことに対して当時から批判はあった。

 1970年、右派の論客三島由紀夫は「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ・・・ 」「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と警告した。

 50年経った、今の日本は、政治だけでなく、経済もまた、大国から脱落しつつあるように見える。