2008/04/17

岡本 太郎



物まねは易く、創造は難し。

 先日,青山の岡本太郎記念館を訪れました。

岡本太郎は有名なコラム漫画家岡本一平と小説家岡本かの子の一人っ子で、
戦後、絵画、彫刻、評論活動で時代の寵児となりました。
 大阪の万国博覧会の太陽の塔は、多くの議論を呼び起こし、現在もその異形は残っています。

 美術界で岡本太郎の最も嫌ったのは,戦前からの伝統、形式主義です。盆栽にもみられる、繊細なひねり。洒落,創造する事なく、型を模倣しその世界にこもってしまっていること。これらに対して激しく反対しています。


 これは歴史的に日本の美術が室町時代から始まり日本の中世にかけてでき上がった過程で、ちんまりし気取った形式主義、趣味的繊細さに陥った結果です。

 この伝統主義、日本独自の芸術観は戦国時代から江戸時代にかけ確固としたものになり、明治、大正そして昭和の初期まで変わる事なく続いています。

 
 たとえば、雪舟の絵画が技法を極める事のみに集中し、絵の本質を失っている事。明治時代以降の洋画がヨーロッパとくにフランスの絵画を取り入れた物まねで、洋画アカデミズムに陥り、絵画の形式化や観念化してしまった事。また伝統芸術は些末さと技法に走り本来の
創造的エネルギーを無くしたことも同じ理由によります。
 
 岡本太郎はこの日本主義、伝統主義を単に否定したのではなく、逆にフランス生活でのヨロッパの芸術家との交流を通じ、抑圧された戦争時代を経て、日本の芸術の中にあるまっすぐで原始的なたくましさをもった縄文土器の再評価し、尾形光琳の紅白梅流水図や燕子花図屏風の絢爛と力強さの中に世界レヴェルの高い芸術的価値を見いだし評価をしています。


 また自らは、美術や彫刻は美しくあってはいけない,芸術はいやらしくなくてはいけない。その信念のもとに創作活動をし、現在毀誉褒貶の後、現在はその独創性は高く評価されています。

 一方、日本人に受け継がれてきた伝統的感情、価値観や道徳、世間体あるいは文化的伝統といったものは、昭和25から26年生まれ世代以降の家庭では、すでに消え去っています。団塊の世代の親が戦前より引き継いだ伝統的諸価値はその後の世代に受け継がれる事はなかったように思われます。

 

花いばら

春風や 堤長うして 家遠し

 春の日の、土手や堤防は江戸時代から、治水のためにつくられ、春になるとそれらの堤の斜面に,つくしが芽を出し,タンポポが咲き、豆科の植物の蔓がいっせいに伸び始めます。
 
 その堤防の土手沿いには桜が植えられ,4月の初旬、満開の花のあと、強風、青嵐が吹き、花が散り、一斉に若葉の季節になります。

 この時期,草がまだ密生する前の、虫の少ない季節で、この短い4月の初めは,草滑りの遊びが出来る一番いい季節です。

 蕪村のもうひとつの有名な句に

   愁ひつつ 丘にのぼれば 花いばら

があります。
そして,同じ心情は春風馬堤曲にみられます。

  堤下摘芳草
  荊与蕀塞路
  荊蕀何妬情
  裂裙旦傷股

そして、もうひとつ有名な茨の句

  路絶えて 香にせまり咲く 茨かな

があります。





2008/04/05

中皮腫

 
 戦後民主主義はアメリカのテレビドラマが教科書でした。ルーシーショウやパパ大好きなどのホームドラマからあこがれのアメリカの家庭を知り、西部劇からアメリかの開拓精神、歴史を学びました。

 その中に連続テレビドラマ拳銃無宿 Wannted Dead or Aliveが1958年から1961年まで放送され、賞金稼ぎのガンマン ジョッシュランダルをスティーブ マックイーンが演じ日本でも一躍有名になりました。

 彼はその後、1963年に大脱走 The great escape に出演。この映画は、第二次大戦のさなかドイツの捕虜収容所からの脱出を描いた映画で、監督はジョン スタージェス、音楽は
エルマーバーンスタインが担当しました。後に有名になる多くのハリウッドスターが共演しています。

トンネル堀のプロである,チャールズ ブロンソンやナポレオン ソロで活躍したデヴィットマッカラムなど懐かしい顔ぶれが出ています。

 最も印象的なシーンは、,アメリカ兵シュルツ役のスティーブ マックイーンが,ドイツの丘陵地帯をオートバイで駆け下り、駆け上り、スイスとの国境にある、2mの防御柵をジャンプして、飛び越え脱走をはかる場面です。

その当時から、ドイツ軍のバイクはBMW製で,性能には定評があり、
サイドカーつきや,多くの種類の車による、バイクのアクション シーンは大きな反響を呼び,その後のアクションスターとして不動の地位を獲得する第一歩となった作品です。

 スティーブ マックイーンはバイクや車の愛好家で,自分で車を解体し,整備して、レースにも出場していました。

 アクション スターとしての不敵な顏貌と憂いを含んだ瞳が魅力で、
ネバダ スミス、ブリット、パピヨン、タワーリングインフェルノ
など多くのヒット作品に主演しています。その絶頂期、1980年に50歳の若さで、アスベストによる胸膜中皮腫で亡くなりました。

 中皮腫は比較的まれな病気で、臓器を包む膜にできる悪性腫瘍です。
この腫瘍はお腹の腹膜,心臓の心膜、肺の胸膜などどこにでもできます。
スティーブ マックイーンはこのうち,胸膜にできた中皮腫で、
原因はバイクや車のブレーキのアスベストの被曝によるものでした。

 アスベストは天然に有る鉱石の一種で、繊維状に変形し、白石綿と
青石綿があります。

 耐熱性、耐久性にすぐれ、自動車のブレーキなどの部品、電化製品、
建築資材などに使われることが多く、一時期には、耐火性を高めるために,
建物の壁にわざわざアスベストを混ぜたり吹き付けて使っていました。

 この鉱物、アスベストは1970年代に最も多く輸入され使われましたアスベストが体内にはいると,20年から40年かかって、中皮腫という悪性腫瘍をおこしてきます。

 また,喫煙者は肺がんもおこします。中皮腫は肺から体内に吸い込んだ量よりも、体内の沈着期間が問題で、たとえ少量でもマックイーンのように若いときから,アスベストに暴露されていた人は発病の危険性が高く注意が必要です。

 
 

2008/03/11

無心



良寛和尚の春の短歌


霞立つ 長き春日を 子供らと 手まりつきつつ
今日もくらしつ
 
漢詩



花は無心に蝶を招き
蝶は無心に花を尋ね
花開くとき蝶来たり
蝶来るとき花開く
我も亦人を知らず
人も亦我を知らず
知らずとも帝則に従う

    
良寛の春の短歌と漢詩は
日本の四季を実感させる。
300年以上前の風土と感覚に共鳴。

日本の伝統、意識のひとつに清貧、無心といった、仏教の教えが、この江戸時代の
代表的心情であり、江戸時代の教養は、この良寛和尚のように、漢詩、俳句
和歌、書、などでした。明治時代の西欧化にもかかわらず、多くの教養人は共通の基礎
知識としてこれらが受けつがれていました。
 昭和になり、戦後民主主義の時代にも、生活の実感では、戦前の教育をうけた親の
世代が、この伝統を伝え生活に根付いていました。

 平成になり、江戸時代からの文化的教養を担う世代が途絶え、伝統は歴史になりつつ
あります。それは、仏教が生活に密着していた時代が終わったことを示しています。

 良寛の思想の根幹は

我が生何処より来たり 去りて何処にか之く
独蓬窓の下に座し ごつごつとして静かに尋思す
尋思するも始めを知らず 焉くんぞ能くその終わりを知らん
現在も亦復然り 展転総べて是空
空中我有る無し 況や是与非と有らんや
如かず些子を容れ 縁に随ってしばらく従容たるに

これらが、今後再認識される時代くるかもしれません。



Homage to Perfection of Wisdom

the Lovely,the Holy.

Avalokita,the Holy Lord and Bodhisattva,

was moving in the deep course of the Wisdom

which has gone beyond.

He looked down from on high,

He beheld but five heaps,

and He saw that in their own-being

they were empty

2008/02/24

日脚伸ぶ

 
 日脚伸ぶ どこかゆるみし こころあり

 今年の冬は,暖冬の予想がはずれ、久しぶりに冬らしいふゆになりました。
 気温にかかわらず、二月も終わりに近ずくと、日々、日照時間が長くなり、日脚も伸びてきます。
植物の中には、この日照時間に反応して,開花するものももみられます。外気温が高くても
低くても、一定の時期に開花するものです。トウモロコシはやはり生育に日照時間が影響し、年中暑いにも
かかわらず、日照時間の変わらない、赤道直下の地域ではうまく,生育しません。

 人の,睡眠も同様に,地球の自転と太陽が支配しています。REM睡眠とNONREM睡眠が交互に繰り返し、
もしREM睡眠の時に目覚めると、脳の中の記憶が再合成され、夢をみているときに起きることになります。
一方、体の中のホルモンは朝にむかって、おもにカテコールアミンが上昇し、目ざめの準備にはいります。
 睡眠の障害はこのリズムがうまく行かなくなり,こころも体も休息できない状態になります。

 睡眠の取り方にも、フクロウのような夜型の人と、朝早くから活動をし始める、ヒバリ型の人がいます。
”春眠暁を覚えず、”は夜型の作者であり、”春は曙は、”朝型の作者の感性です。

 睡眠時間についても、一日5時間で十分な人から。10時間は必要な人までさまざまですが、ビルクリントン
元大統領は,典型的な,短時間睡眠型で,アインシュタインは長時間型の典型です。

 いずれにしても、睡眠中には、活発な細胞の分裂活動、ホルモンの分泌、タンパクの合成が行われ、まさに、
寝る子は育つは医学的にも正しい認識です。

2008/01/04

時代と医療

 江戸時代は、漢医すなわち中国医学で、医師は幕府奥医師、大名お抱え医師、町医者にわけられていた。
疝気と疫病が、有名で、腹部に激しいいたみが襲う疝気は、主に,鍼灸治療がなされていた。
 疫病は定期的に流行し、漢方薬の治療がなされ、麻疹や痘瘡も流行した。
 小石川に40人収容の,養生所がつくられたくらいで入院施設はほとんどなく、各家庭に漢方薬が置き薬としてあった。
この時代の、精神は儒教で、幕府がその1つである朱子学を官学とした。儒学の慈仁を根本とする、儒者であり医師でもある
儒医も多く生まれた。

 一方、西洋医学は16世紀の南蛮医学に始まり、長崎の出島にオランダ人医師が常駐し徐々に
国内にも、広まって行った。1827年シーボルトが来日し、長崎に鳴滝塾を開き、西洋医学
教育を始めた。

 明治になると、政府は西欧医学による医療の近代化をめざし、東京大学にお雇い外国人医師のベルツを招き、その後、各地に
帝国大学の医学部をつくった。また、地方にも公立病院を建て医学校が併設され西洋医学の教育、普及がはかられ、私立
病院もつくられ、1882年頃全国に626の病院ができた。

 1874年に,文部省は医制を公布し、西洋医学基ずく医学教育と医師開業免許制度
、医薬分業や衛生行政制度の確立をはかった。そして、1875年文部省医務局は内務省衛生局に移管された。
これは、コレラなどの伝染病の蔓延と社会的混乱を防ぐためで、地方の公衆衛生委員制度も一度つくられたものの
全廃され、地方衛生は警察に移管された。その翌年、1893年日清戦争がはじまり、富国強兵のための衛生行政になった。

 そのころの、一般の人々は、売薬で病気の治療を行っていた。病院や医師とは無縁の生活を送っていた。
その後、上下水道はしだいに完備され、海港検疫体制も整備され、コレラ、ペストなどの防疫体制は海外でも高く評価され、
1926年日本では、コレラは完全に撃退したと、内務省衛生局の国際連盟主催各国衛生技術官交換視察会議報告に記されている。

 1930年の日中戦争までは、医療が漢方から、しだいに西欧医学に変換してきた時期といえる。すべての分野で西欧化
し、列強に追いつくことこそ目標になっていた。

 このころから、西欧化にむけて、走ってきた日本が西欧資本主義や社会主義に対抗する、東洋の理想を掲げ,超国家主義
が、力を持ち始めた。1931年、昭和6年に日中戦争がはじまり、1932年には、満州国が建国された。
医療は1938年に厚生省が出来て、国営医療を推進した。国民体力法で満20歳未満の国民すべてに、体力検査を行い、
この検査で、体力のないと認定されたものは、1週間の体力向上修練会に参加しなければならなかった。また同時期に
国民優生法も成立した。


 1945年、昭和20年、敗戦とともにアメリカをモデルとした、医療体制の改革がはじまり、戦後民主主義の時代となった。
しかし,医療もサムス准将の去った6年後、大学医局体制は残り、公的医療システムも完備せず、医薬分業は幻となり、
医師会主導の医療がはじまった。

 1970年代には、大衆化社会となり、高度経済成長で、経済の発展とともに医療器械、薬剤は急速に増え、病院も増えた。
医療システムはこの間、ほとんど変わることはなく,量的に日本全国に医療は充実していった。
 
 そして,1980年代より、医療費抑制の時代になり、パターナリズム医療から、インフォムド コンセントの必要なまたセカンドオピニオンを利用した医療。あるいは、エビデンスに基ずく、診療ガイドラインができ、医師の自由裁量の範囲は狭くなり、アメリカ型の
訴訟社会に似てきています。

2008/01/01

厚生省の公衆衛生路線

 20世紀、急性の伝染病の制圧は,近代国家共通の課題で、第一次大戦後は、これに加えて民族衛生という考えが、アメリカやヨーロッパで広がり始めた。日本でも健康であることは国家のためであり、民族のためであると考えが強くなり、統制主義の強まるなかで、厚生省が設立され、予防局、衛生局での公衆衛生行政だけでなく、体力局をつくり、国民の体力の向上をめざした。そして1938年昭和13年に厚生省は内務省から独立した。体力局、衛生局、予防局、社会局、労働局と臨時軍事援護局、それに外局として保険院が設置された。
 
 厚生省にとって、公衆衛生のモデルは、内務省から受け継いだ、家父長的伝統にもとずく、戦前からの伝染病対策が、
主な目的でした。,この目的を達成したのが、戦争中で、当時の医師のほぼ大半は大日本医師会の統制下におかれ、
また,主だった病院も昭和17年1942に設立された、日本医療団に統合された。

 戦後も、この発想のもとで、治療よりも予防や検診に重点をおき、国や地方自治体の定めた医療計画にもとずいて,公的
病院や、保健所を中心に医療が提供される形態を理想と考えた。


 1945年占領軍の1員としてサムス准将が来日。1952年までの7年間の占領時代,アメリカをモデルに多くの医療改革を断行
している。
 アメリカ医学の導入、当時の日本医事新報の記事に、“ペニシリン,ストレプトマイシン等を尖兵として,
光輝燦然たるアメリカ医学が出現した。日本の医学者の新しい任務はアメリカ医学を分解し、
摂取することにある。”と記された。
 そして、医薬分業制度を導入し、薬価の差益にたよらない医療技術料を高く評価しようとした。
1940年代アメリカで行われた医療政策をならって,800から1000ベッドの病院を国や州が建設し、
病院の周りにクリニックを配置し、ドクターズ フィーとして医師技術料を評価するというものであった.
これに対して、国内の医師会を中心に反対が強く、一部修正され、法案は出来たものの当時ほとんど実行されなかった。

 さらに、警察や区役所がもっていた衛生行政を保険所に移し,機能を拡張した。当時の日本の公衆衛生は中世的であり、
世界から30年遅れている、として以前の衛生警察から、保健婦を中心にした新しいモデル保健所を作り全国にひろめた。
感染症には、DDTや発疹チフスのワクチンを取り寄せ,種痘をおこない、災害時には大量の消毒用クレゾールや
サルファチアゾール,抗生剤を本国から取り寄せ防疫を行った。そして、なつかしい脱脂粉乳を使った給食をはじめ、
子供の栄養失調を改善した。

 1981年昭和56年老人保健法案で老人医療費に一部負担をもうけ,それと同時に検診の対象を40歳以上の国民
全員に拡大する処置が盛り込まれた。がん検診もその一部として行われ、そして,平成20年2008年4月からは、
特定健康診査、特定保険指導がはじまります。
健康日本21とともに、厚生省的公衆衛生路線が実行にうつされます。