2009/09/06

南方へ 金子光晴の放浪記




金子光晴の放浪記




古靴店

赤、青、黄の強い原色の郷愁(ノスタルジヤ)
濡れた燕がツイツイと走る5月の雨空、
狭い港町の、ペンキの板囲した貧しい古靴店がある。
店一ぱい、軒先にも、店にも、はげすすけた古靴、破れ靴、
大きな泥のままの長靴や、戯けた子供靴迄
すべて、この人の生に歩み疲れ、捨てられたものらの
朽壊れた廃船舶が聚っている。
 おお、悲しい哀傷的な港景だ。
人情よ、零落の甘さ、悔もなさ、慕しさよ。
俺は、只俺の人生が泣きたくなった。

 金子光晴 1895年(明治28年)に生まれる。
半年あまりの最初のヨーロッパ旅行の後、「こがね蟲」を出版し、象徴派の詩人として、出発する、関東大震災のあと、「こがね蟲」でうたったヨーロッパの美意識の世界は崩れ去る。1928年(昭和3年)から1934年(昭和9年)あしかけ5年におよぶ東南アジアからパリにかけての放浪の旅に出る。

 その時の旅行記「マレー蘭印紀行」は1940年(昭和15年)に出版された。その後、「どくろ杯」で婦人の森三千代の小説を下敷きにして、中国放浪紀を書いた。続編の「眠れ巴里」がフランスでの2人の貧乏生活と巴里の日本人を描き、最後に「西ひがし」で3部作を完成させ昭和60年代から70年代に出版した。これらの紀行文は戦前の中国、アジア、ヨーロッパ、西と東の放浪記だった。

 
 最初に上海、シンガポールをおとずれる。戦前の国際都市上海の当時の混乱と猥雑ぶりを「上海は1つのかくはん機だ。ひきずりこまれた人間どもは混血となる。」
 マレーでは、日本の夏よりも高温多湿の植物、動物の生命のあふれるゴム園に滞在し マレーシアのバトパハにしばらく滞在した。
「パンジヤル マシンをのぼり
 バトパハ河をくだる
 両岸のニッパ椰子よ。
 ながれる水のうへ
 静思よ。
 はてない伴侶よ。
 文明のない、さびしい明るさが
 文明の一漂流物、私をながめる。
 胡椒や,ゴムの
 プランター達をながめたやうに。」

                       ニッパ椰子の唄



また、スマトラ島のメダンでは
「ジャワの風景は、鋤きかえされた陸田、ひび割れた土塊の骸ろである。馬来半島は、明るい雲雲の変化にみち、人間は軽薄な文化に憧れている。ここ、スマトラにわたってみると、老樹はいたるところに陰影をつくり、じぶんの室のなかにいても、くろぐろと繁茂するものの、ひそまりかえったしずかさが徹えてくる。
 おなじ植物でも、ここの植物は、すべて,そのうまれそだちが粗暴で、強力で、みのたけがずぬけてのっぽで、縦横無尽、おもいのままないきかたで、密生している。スマトラの自然は、いつも樹木の下陰になって、ひるでもまるで、夜のようだ。
 阿蘭風な低屋根がならんでいるメダン全市も猶、森林の延長であるのにほかならない。」

 放浪の旅から得たものは、みずからの古い日本を否定し、エトランゼとしての見方を身につけた人間になったこと。そして多くの文学者のように、日本を、昔を思い出し回帰することなく、たったひとり、うしろむきのおっとせいとなった。


   フランスをおとずれた人たちの中にはそれで箔ををつけて日本での生活の糧にする人がいた一方、金子光晴と三千代は底辺の生活を経験し、貧しい社会の底辺に暮すフランス人や外国人の生活を見て人間のあり方そのものを見出した。人種や国籍が違ってもその中に、日本人との差異より人間の中の同一性を見いだした。

 
珊瑚島

 「うつくしいなどと言う言葉では言い足りない。悲しいと言えばよいのだろうか。
 あんまりきよらかすぎるので、非人情の世界に見える。」
「人間生活や意識に何のかかわりもないこんな島が、ひとりで明けはなれてゆくことを、暮れてゆくことを。人類世界の現実から、はるかかなたある島々を、人々は、意想イディアとよび無何有郷ユートピアとなづけているのではあるまいか。」

 

2009/08/23

ポルポト,赤軍、文化大革命


 村上 春樹の小説1Q84に、エリの父親が当時、毛沢東の革命思想を信奉しており、中国の文化大革命を支持していた。その後大学をやめ自給自足のコミューン「さきがけ」をつくる話から物語は展開していきます。
 この中国の文化大革命とよばれる時代は1966年から1976年の10年間で、日本では小説の中に描かれた通り、「中国の文化大革命はどれほど醜い、非人間的な側面をもっていたか、そんな情報は当時ほとんど我々の耳には入ってこなかった。毛沢東語録をかかげることは一部のインテリにとって、一種の知的ファッションにさえなっていた。」
 日本でもその影響下の党派ができ、後に連合赤軍という閉鎖集団をつくり、悲惨な結末を迎えることになりました。

 世界に目を向けると、ほとんど同じ時期にカンボジアでは、毛沢東思想の影響を色濃く受けたポルポトらの急進共産主義者がアメリカの支援をうけたロンノル派の政権を1975年4月にあっさりうちやぶり政権につきました。
 カンボジアはベトナム、ラオスとともにフランスの植民地として長い間支配されていましたが、第二次大戦後1954年のシアヌーク国王のもとに独立し、カンボジア王国をつくりました。ところが、1970年にアメリカに近いロンノルらのクーデターがおこり海外滞在中政権をうばわれてしまい、その後ホーチミンルートを断つという名目でアメリカ軍のカンボジア侵攻をゆるし、これがポルポト政権誕生のひきがねとなりました。

 アメリカのアカデミー賞受賞映画‘killing field’に描かれたように、名前を表に出さないオンカーが国家を支配し、人民はそのもとに身も心も捧げるものであり、オンカーの指令をうけ実行するのはクメール ルージュの兵士、村の指導者,共産党の幹部でした。ほとんどが貧農出身の若者で、10代も多く見られ、教育程度も低く粗野で,彼らの命令に従わないものは、逮捕や処刑が待っていました。そして字も読めない子供が医師や看護婦になり、中国の裸足の医者をまねていました。国家全体が強制労働キャンプと化し、700万人人口のうち150万以上の人が犠牲になりました。
 
 紅衛兵という、多くの10代の若者が動員され、逆らえば大衆の面縁で自己批判させられ、多くの死者も出した後、1976年4人組の逮捕により中国の文化大革命は終わりを向かえました。

 中国の文化大革命、カンボジアのポルポト政権、日本の赤軍派は同時代に多くの若い人たちにも影響を及ぼし、多くの犠牲者を出した共通点があり、最近当時の記録が数多く出版されています。社会条件によっては、夢物語が現実となり国家までも支配してしまう魔力を持ち、個人の夢見た理想主義が現実の政治では、逆に非人間的な組織になってしまうことをこの歴史は物語っています。


  

 

2009/08/14

ロイカトーン祭り

11月初めにタイのドンムアン空港に降り立つと、日本の晩秋の気候になれた体には、雨期末期のムンとする熱気がとりわけ強烈で南国の光と香りを感じさせます。

 

 昔行ったカンボジア国境の小さなアランヤプラテートの町,バンコクから車で3時間あまりで到着、宿舎の近くでロイカトーン祭り行われていました。仏教国タイでは毎年,11月の満月の日、この頃,タイは雨期が終わり乾気になり満月が美しい気候になります。

 クラトンというバナナの葉の上にいろんな花をかたどり灯籠をたて、そしてこれを河に浮かべます。 これは,日本と同様にタイ全土で行われる灯籠流しで,タイではロイカトーン祭りと呼ばれています。祭りは同時に舞台での演技大会が行われ、観客から選ばれた人がミスロイカトーンになります。そして所によっては花火大会がおこなわれます。

 

 日本でも灯籠流しは,お盆の行事として、各地で行われる送り火のことで,お盆に亡くなった人の精霊を向かえ、灯籠の中に入れてあるろうそくに火をつけ,それを河や海に流す,送り火の仏教の行事です。

 

 仏教の教えは,インドからおこり次第に周辺の国に,伝わり中心地で有るインドはヒンズー教にパキスタンやバングラディシュはイスラム教に取って代わられたものの現在中国や日本には約1億人の仏教徒がタイ、ヴェトナム、ミャンマーが約6000万人から、4000万人、スリランカとカンボジアが1200から1400万人の信者がいます。またチベットやモンゴルにも多くの仏教徒が住んでいます。

 この季節になると、アジアの多くの国と共通の仏教国日本であることを思い起こします。

2009/07/29

大転換の時代

1930年代、大変換期とフランス

 

 第一次世界大戦後は,国際法や国際道義を重視し,国際連盟などの国際組織によって平和を維持し続けるべきだとの考えが強くなった。そして,戦勝国のフランス、イギリスそしてアメリカは平和と繁栄を謳歌していた。日本もまたつかの間の好景気を満喫していた。

  

 とりわけ、1920年代のパリは美術、音楽、文学、演劇などの中心で世界中から人々が集まり、この芸術都市に暮らし作品を生み出していた。小説家をはじめ、芸術家を目ざすアメリカ人にとってもまたパリは憧れの都市であり、スコット フィッツ ジェラルドや、カートルード スタイン、エズラ バンドやヘミングウエーなどもフランスに移り住んでいた。ヘミングウエーは“もしきみが幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこですごそうとも、パリはついてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ。”と書いている。

 

 日本からは、岡本太郎や藤田つぐ治など400人以上の画家や彫刻家が留学などの目的で滞在し。堀口大学や藤原義江、また小説家の林芙美子も放浪記で有名になった後,パリで生活していた。その頃岡本太郎もバタイユと親好を結び,人間性を圧殺する全体主義、革命を裏切る官僚制対する憤りを主張する文化運動を彼らとともに行っていた。

 

 1920年(大正9年)から1940年(昭和15年)への20年間は、前半の10年に夢みられた平和と繁栄と国際協調の期待、主にイギリスおよびアメリカの覇権によって世界の治安が保たれた時代であり、また西欧文明の最盛期であった。経済的に繁栄を謳歌し、世界平和は保たれていた。共和国フランスは文字通り世界の芸術文化の中心として輝き、世界中の人々を引きつけていた。


 しかし、1929年の世界大恐慌は瞬く間にユートピアの時代を過去のものとし、世界経済がブロック化し、世界貿易はスパイラル的に減少し、この影響はフランスにも及び,全労働者の60%が失業する事態となり、深刻な政治的抗争がおこった。ファッショ団体である火の十字架やアクション フランセーゼなどの右翼団体ができ,左翼もまた結束して人民戦線を形成した。

 

 ドイツは生存権獲得、旧秩序を破壊するナチスが台頭し、日本では、米英本位の平和主義を排すとした近衛内閣が誕生した。そして世界大戦へと世界は突き進んでいった。

 

  

2009/07/20

ノモンハンの夏



 村上 春樹の“ねじまき鳥クロニクル”の本田老人や間宮中尉の話にでてくるハルハ河近くの国境をめぐる激戦地ノモンハン事件は、モンゴルではハルハ河戦争と呼ばれ,当時日本国内では、この戦争についてあまり報道されていません。
 
  中国大陸では1931年(昭和6年)満州事変がおこり、1937年(昭和12年)盧溝橋事件から日中事変が始まる。
 日本陸軍は、中国一撃論を唱え、蒋介石は一ヶ月でかたずけ、その後ソ連軍にあたるという独断的計画をたてていました。しかし現実は一ヶ月どころか、宣戦布告もなく何年にもわたる泥沼の戦闘状態におちいっていきました。
 小林秀雄は日中事変の最中の1938年(昭和13年)満州から北京に旅行し、以下のように書いている。“事変はいよいよ拡大し,国民の一致団結は少しも乱れ無い。この団結を支えているのは一体どのような智慧なのか,この事変に日本国民は黙って処したのである。これが今度の事変の最大の特徴だ。”
 日中戦争の最中のこの時期、1939年(昭和14年)ソ連と満州の国境をめぐってノモンハン事件が勃発しました。このノモンハン事件は多くの小説家が題材にとりあげています。なぜ多くの歴史家や小説家がこのノモンハンを取り上げるのか、その理由は,日本的な精神や世界観、軍隊や官僚組織の典型がみられるからです。そして,戦後、平和で民主化された現在も状況によっては同じ対応がおこるではないかとの危惧を抱くからです。

 アメリカの研究者アルビン D.タックスが「ノモンハン上 下 草原の日ソ戦 1939」の本を書き上げ、半藤一利の「ノモンハンの夏」や五味川 純平の」「ノモンハン」,歴史小説家の津本 陽も「八月の砲声ノモンハンと辻 政信」でこの当時の作戦参謀の辻政信について描いています。辻作戦参謀自身もこの戦いの記録「ノモンハン」を残しています。
 入江徳郎の「ホロバイルの荒鷲」では当時の陸軍の戦闘機が表紙をかざり、草葉栄の「ノロ高地」では日本の戦車がやはり表紙に描かれています。
  当時の日本陸軍の装備は日露戦争時代とほとんど同じで,銃は三八式歩兵銃で近代化されず,ようやく昭和4年に89式中戦車をつくったものの、これは短い砲身の57ミリ砲の装甲の薄い戦車が主力でした。その後改良型の新型戦車もつくられたもののこの戦いには旧式戦車が出撃しました。写真でよく見る日本のズングリした戦車と、ソ連の戦車の違いは,ソ連型はアメリカBT戦車と同じように砲身が長く射程は長く高性能であったため、結局戦車と戦車では戦いにならず、火炎瓶による肉弾戦車攻撃が最大の日本の兵器でした。

 これは、ソ連がヨーロッパで新しく組み変えた戦争観によってジューコフ将軍のもとに近代戦でのぞんだのに対し,日露戦争を引き継いだ非近代的世界観で戦った日本はソ連機甲部隊に打ちのめされた戦争でした。

 日本の一般の兵士は勇敢で、戦車に肉弾で突撃炎上させ、捕虜になるより死を選ぶ散華の精神で戦ったこと。
 現場責任者の責任感からの自殺や、撤退の責任から自害に追い込まれ、この戦の真の教訓を得ることができなかったこと。
 辻政信作戦参謀は戦車など近代兵器の知識は乏しかったものの、官僚としては優秀だったと評価され、それほど責任をとらず、この戦争から何一つ教訓を得ることなく同じ戦争観で再び戦争の指揮者となったこと。
 
 この戦争は日本軍の戦争を支えた思想、日本精神が色濃く反映していました。「その特徴の第一に、動機主義的傾向がありました。行為者の心の潔白さや正直、無私の心根を重視し、結果はあまり問題にしない、あるいは理性より感性を重んじ感情的判断をすることです。結局、犠牲的精神は旺盛であるものの、動機主義は独善的となり,自信過剰となる。さらに感性重視は,一切の周到な用意や検討を欠き、異見を退け独善主義独りよがりが生ずる。客観性の蔑視や軽視から実証的、科学的判断にもとずく用意不足となる結果をうみました。」

 
  360度地平線が見渡せる、どこまでも緑の草原が続いているまったいらな無人の地帯で、国境線をめぐって双方に多くの犠牲者を出した紛争から2年後、同じような日本的感情論が軍という官僚組織を支配し、第2次大戦に突入し国家を破綻に追い込んだ苦い歴史は現在の日本にとってもおおいに教訓になることです。

参考 村岡著 日本思想史研究

2009/06/21

臓器移植法案

いざさらば 死にげいこせん 花の雨。一茶の時代、死ぬことは今よりずっと身近で自然なものでした。

 1960年代人工呼吸器ができて、息ができなくなったり、呼吸が止まると、そう管といって、気管にチューブを入れ、それをとおして、空気を器械的に肺に送り込む装置を使い延命可能となりました。

 原理は比較的簡単で呼吸を自分でする代わりに、器械をつかって外から酸素の混じった空気をふいごの原理で規則的に入れてやるわけです。 急性の肺の病気や呼吸障害の場合、効果は劇的でした。いままで助からなかった人が助かるようになり、救命医学の進歩に皆が感激していました。

 しかし、問題は、心臓や肺そのほかの臓器が回復しても、脳が回復不能の事態が起こったことです。これが脳死の状態です。細胞の死は、場所によって時間的にばらばらに起こります。自然の状態では、呼吸がとまればすぐに、心臓も止まり、数秒後に脳の細胞が死んで.その後ゆっくり全身の細胞が死んでいきます。

 

 レスピレーターを使うと、脳が死んでも心臓は生き、腎臓や肝やほかの臓器が生きている状態、脳死の状態がおこってきました。自然の状態での死が、人間の判断やコントロールによる死になり、生きている心臓などの臓器を他人に移植する治療もできるようになりました。そのためにはどの時点で死んだと判断するかの必要性が生まれてきました。

 今回の法案のA案は脳死は一般に人の死であり,本人が生前に拒否しなければ,家族の同意で臓器提供を可能にする。また,15歳未満の臓器提供を禁ずる現行法の年齢制限を撤廃するというもので、現在はアメリカなでの外国で臓器の提供を受け移植手術をしていたものが国内でも可能となります。

2009/06/15

鳥か豚か人間か

新型インフルエンザ

 

 

 一般の風邪もインフルエンザもヴィールスが体に侵入しておこる感染症です。

冬には毎年何万人もの人がインフルエンザにかかり,季節性インフルエンザと呼ばれています。今回世界中に蔓延した新型インフルエンザは抵抗力をもった人がいないため一気に世界的な大流行をおこしました。しかし,幸いなことに毒性は弱く、メキシコ以外では死亡者は多くありません。

 

 今回政府が新型インフルエンザに対するガイドラインを今年の2月つくっています。

前段階  (未発生期)国内では未発生の段階。

第一段階(海外発生期)

第二段階(国内発生期)

第三段階 国内で患者の接触歴が疫学調査で追えなくなった事例が生じた状態

     感染拡大期

     蔓延期

     回復期

第四段階(小康期)患者の発生が減少し低い水準でとどまっている状態。

 

これらを想定して、医療機関などの対応策が練られていました。

 

 しかし、これは高毒性の鳥インフルエンザを想定したものでした。 WHOは当初よりcontainment(封じ込め)は不可能、めざすべきはmitigation(被害の軽減)だとアナウンスしてきたにもかかわらず、日本では水際撃退作戦を機内での検疫を重装備の医官が毎日1万人に対して行いました。

 

 過去の新型インフルエンザは、最初の1、2年で人口の25%くらいは感染し、数年以内には大半の国民がかかり、季節性インフルエンザになっていくことがほとんどです。

 

今年の秋には第二波の流行がおこるのはほぼ確実です。今後の新型インフルエンザに向けてするべき対策は,今回の経験を科学的に検証し、検疫はどの程度有効であったのか、毒性によって医療体制や社会活動を今後どの程度制限するのか,感染症専門施設の充実か発熱外来の充実かワクチンの活用はどうするかなどの検討することが大切です。