2023/05/29

AI革命と三島由紀夫の文化防衛論

  



「われわれは、護るべき日本の文化、歴史、伝統の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその精華であることを以って自ら任ずる。よりよき未来社会を暗示するあらゆる思想とわれわれは尖鋭に対立する。」

                    文化防衛論     三島由紀夫



日本の著名な小説家三島由紀夫は、その多くの小説を残し、劇的な自刃の行為のため、今でも、多くの人がその思想や行動の謎の解明を試みている。

 三島由紀夫など戦中派世代は戦争の只中にあり、戦争に対して冷静な距離を取りようがなかった、戦後は、自分は本来戦死するべきであったという罪悪感、survivor guiltを抱えていた。

  三島由紀夫は語る、 「このフィクションを十代に経験し、抑圧された下層(戦中)から内圧が上層(戦後)を破壊し、構造自体を崩壊させて一元化した。私は生来、どうしても根治しがたいところの、ロマンチックの病を病んでいるのかもしれない。このロマンチックとは死への誘惑であり、十代のノスタルジアであった。」


 そのノスタルジアとは「戦争のことは、あるやましい浄福の感情なしには想いおこせないものである。それは異教的な秘宴の記憶、聖別された犯罪の陶酔感をともなう回想である。およそ地上においてありえないほどの自由、奇蹟的な放恣と純潔、アコスミックな美と倫理の合致がその時代の様式であり、透明な無為と無垢の凶行との一体感が全地をおおっていた。

 それは永遠につづく休日の印象であり、悠久な夏の季節を思わせる日々であった。神々は部族の神々としてそれぞれに地上に降りて闘い、人間の深淵、あの内面的苦悩は、この精妙な政治的シャーマニズムの下では、単純に存在しえなかった。第一次大戦のの体験者マックス ウェーバーの言葉でいえば、そのような陶酔を担保したものこそ、実存する「死の共同体」に他ならない。夭折は自明であった。「すべては許されていた。」


 そして、次第に神的天皇との一体化に突き進んでいく。共に死すべき朋友たちとの死の共同体はすでになく、何らかの絶対者に命を捧げることも不可能である戦後を、「私の中の25年を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど生きたとはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。」

「道すがら考うれば、何とよくからくった人形ではなきや。糸を附けてもなきに、歩いたり、飛んだり、はねたり、言語迄言うは上手の細工なり。されど、明年の盆祭に客にぞなるべき。さてもあだな世界かな。忘れてばかり居るぞ。」天下泰平の葉隠の武士に自らを重ね合わせて見ている。


「憂国」での、昭和テロ事件を題材とした自死から、「英霊の声」で、戦中のイデオロギー、天皇の戦争、散華の思想が非合理だとしても絶望的状況では、それを信じ、行動するしかなかった若者を描いた。そして戦後、このイデオロギーを推進した人々が、自分たちはそんな思想は信じていなかったとして天皇制を変更した。では、特攻隊員の死は一体何だったのかと問いかけた。そして戦後再び、天皇という神を創り出す努力の結果を「文化防衛論」で論評した。

  そこでは、理想の天皇制を、神や自然より、日本の精神、日本の文化に力点を置いて、日本の共同体のありようを定義し、創り出そうと訴えた。


  アメリカは世界各国の異なる文化的背景から、人々が集まり、個人の人権や自由を重視したリベラリズムと選挙と法の支配による民主主義を柱にして国を作った。日本は、第二次世界大戦の敗北の後、このシステムを取り入れた。戦前の国体神話はフィクションとなった。そして国家もそのフィクションに支えられていた。明治政府は、世界の強国と対等に渡り合うために立憲君主制の憲法のもとに、天皇を神格化して、宗教化した。昭和時代もこの信念の体系の下で人々は生活し、行動した。敗戦によりこの国家神話は廃棄された。


 言葉は、人類文化におけるコンピューターのオペレイティング システムにあたるもので、宗教もことばによって支えられている。。宗教は言葉に始まる神々の物語を記録して聖典となり、これらから、芸術や政治も造られ、何千年もかけて人類の文化を築き上げてきた。

人々はその文化のもとで生まれ育ち。価値観を身につけ、世界を理解してきた。人間が言葉を使い、それぞれの言語でそれぞれの民族は世界を表現し世界観を作ってきた。世界の多くの国は民族の神話などの宗教に似た、民族の物語によってあるいは強固な思想に基づいて造られてきた。


 小説や詩などの文学は、言葉を並べて、類比し、比喩として使い、つなぎ合わせ組み合わせることによって詩を創り、物語をうみ出す。 江戸時代上田秋成は、雨月物語の初めに、小説とはありもしない嘘物語で、作者はそのため業の報いを受けたと書き、 寺山修司は、「俳句にのめりこむにつれて、寺山はなりふりかまわわず他人の作品から言葉やイメージを盗ることに汲々し出した。自分の存在を誇示することに賭けていた寺山は、少しも臆することなく、他人の作品の言葉やイメージを素手で鷲掴みにしては、自分の言葉とイメージに育て上げ、ひたすら書きつ続けたものである。他人の作品の原型をとどめていようが、いまいが。」とまるで現在、AIのしていることを思わせる創作方法をとって数々の傑出した短歌を創り出した。演劇でも様々な芸術からイメージをコラージュして新たな作品を上演した。また デヴィット ピースという作家は、芥川龍之介の作品を、コラージュ風に使い、龍之介幻想という小説を試みた。さらに、アメリカのハリウッドでAIがシナリオを書く行為の排除を求めるストライキが脚本家達から起こった。


 人は妄想の物語を、自ら作り出す。ラカンはエメという症例の中で「作家志望であった彼女は、同僚たちの話から、ある女優が自分の息子を殺そうとしている妄想を構築し、彼女を短刀で刺そうとして傷つける事件を起こす。そしてその行為を自ら自己処罰だと認識した後、妄想は消える。」人は妄想や、思想に従って行動を起こす。


 AIを使った、小説や脚本はすでにかけるレヴェルまで達している。小説家も詩や俳句の作家も多くの作品を理解することによって新たな物語を創作する。人工知能も同じように膨大なデーター知識をコラージュして作品を創作する。もし人工知能が宗教や政治的信念の体系をうまく作り上げてしまったら、信じやすい人の心にどのような影響が及ぶのか。この能力をAIが獲得するのではないかといった危惧は今でも指摘されている。そして、宗教や信念の体系もすべて言語によって形成されたもので、人を行動に駆り立てる。この人間の文化をAIが作り出したら、今の社会は防衛できるのか、現在は新たな文化防衛論が必要な時代なのかもしれません。

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