1853年、ロシアはオスマン帝国に軍隊を派遣し、それを支援したフランス、イギリスと衝突しました。 その後の19世紀後半は、帝政の下に改革を進めるも、混迷を深め、ロシア革命へと時代は動いていきます。この帝政末期に向かう1860年には農奴が解放され、1877年ロシアトルコ戦争、1881年アレキサンドル2世暗殺。そして、1904年日露戦争、この後、1917年の革命よって、皇帝ニコライ二世を最後に300年のロマノフ王朝は幕を閉じることになります。
1860年生まれのチエホフもまたこの帝政末期の代表的作家で、コナン
ドイルや森鴎外とほぼ同時代の生まれです。
1884年モスクワ大学医学部を卒業。同年モスクワに開業。その2年前にはアレクサンドル2世が暗殺され、ナロードニキ運動などの反政府活動は押さえ込まれ専制政治はより強化されていました。
この頃のロシアは工業化され軍事力は巨大なものの、階級社会で、地方の貴族階級も農民も没落し都会には浮浪者があふれ、識字率は30%にも達せず、文明国とはとても言えない状況でした。
1890年30歳のときに極東のサハリンを訪れ新聞紙上に“シベリアから”を連載する,それをもとに“サハリン島”を発表し、流刑囚の悲惨な生活を描きました。社会活動をおこないつつ作品を次々発表。
トルストイが散文におけるプーシキンと呼んだように、主人公は平凡な人で、思想を表に出さず,淡々とした日常を描き、芝居がかったドラマチックな作為性を排除し、短編小説の改革者となりました。
また有名な戯曲の“かもめ”(1896年)のなかで、
この不変性のなかに、ひとりひとりの生死にたいする全き無関心の中に、ひょっとすると、われわれの永遠の救いや地上の生活の絶え間のない動きや絶え間のない向上を約束するものがひそんでいるかもしれない。
“三人姉妹”(1900年)では、
すでに生きてしまった一つの生活はいわゆる下書きで、もう一つの分が清書だったらねえ。
桜の園(1904)では,貴族階級の没落とやがてくる新しい時代の登場を淡々とした日常場面の中で描いています。人間に対する洞察力の鋭さ、社会的不正義の批判を短い台詞に込めて、今でも世界中で、演じられています。
1904年日露戦争に健康が許せば、軍医として極東に行きたいと語っていました。しかしその願いはかなわず同年44歳の若さで帝政ロシアの崩壊をみること無く結核で死亡。
日露戦争に対し、皇帝に批判的なトルストイは非戦論、“なんじら、悔い改めよ”がロンドンタイムスに掲載されています。チエホフの活躍したのは,ナロードニキ運動が弾圧されたあとの時代で、無思想の思想のような劇や小説が生まれた背景もこの時代を反映しています。ロシア社会民主労働党が誕生したのは、1898年でした。