2010/09/23

レオナール フジタ 


 
 藤田嗣治は東京美術大学卒業すると,パリに旅立ち,画家としての第一歩を踏み出しました。その翌年1914年(大正3年)フランスはドイツやオーストリアーハンガリー帝国との戦争第一次世界大戦に突入しました。この間貧しいながらも自由で多くの芸術家の仲間に囲まれフランス生活を送りました。

 第一次大戦後の1921年藤田の乳白色の肌で知られる,繊細な画法を用いた独特の風貌の人物画がパリで認められ,エコール ド パリの代表的画家の1人となり、レジオン ド ヌール勲章を受賞していました。 

 1920年代のパリは世界中から芸術家が集まり、画家ではピカソやマティス、モジリアニなども活躍していました。そして日本からも多くの芸術家の卵が生活していました。この黄金の20年代の最後,1929年に17年ぶりに日本に帰国し展覧会を開くも、日本の画壇ではあまり高い評価はされていません。

 その頃の日本は、戦後の好景気に湧き、大正デモクラシー時代でしたが1920年代からしだいに戦後不景気となり、政府が1930年に金本位制を採用し、緊縮財政をうちだし、デフレは急速に進行し、金が国外に流出、経済は失速し、街には失業者が街にあふれていました。翌年犬養毅内閣になり、蔵相高橋是清が金本位制度をやめ、積極財政で経済の立て直しをはかり経済はようやく持ち直しました。

 1930年代になると、ウオール街の株価暴落に始まる世界の経済混乱は、世界の通貨戦争を引き起こしました。

 イギリスでは、1931年金本位制度を放棄して、対外的には猛烈にポンドを切り下げました。これに対抗しアメリカは1933年金本位制度を停止して、為替切り下げ競争に走り、これに追いつめられフランスは猛烈なデフレに見舞われ、輸出は伸びず、輸入のみ増え対外収支は大きな赤字になり、デフレの押し付けあい、為替切り下げ戦争に巻き込まれて行きました。

  ドイツは、戦後インフレに苦しめられ、世界大恐慌で、経済は完全に機能不全に陥り、1933年にヒトラーが政権をにぎり債務返済を放棄、統制経済に切り替えたその後結局、世界経済はブロック化し、世界大戦に突入していきました。

 

 このころ藤田は一度パリに戻って生活をはじめるも1940年には第二次大戦のため日本に再び戻り,アッツ島玉砕などの多くの戦争画を残しました。

 戦後、この戦争画に対する日本の国内での対応から,再びフランスに居を移しフランス国籍をとってレオナール フジタと日本名をやめました。フランスに永住する事を決めたこの時期、多くのこどもたちの無邪気なかわいさの中に虚無をたたえた表情を独特に描き多くの作品を残しています。晩年にはフランスの教会、ノートルダム ド ラ ぺのフラスコ画を描き残し81才で生涯を閉じました。

 

2010/09/20

薬剤耐性菌



 晩夏の海岸に来ると、いつもルキノヴィスコンテの映画『ベニスに死す』の最も印象的なラストシーンを思い出します。アッシェンバッハ教授が夏の終わりの浜辺で、いすにもたれ,芸術に行きづまり、化粧がくずれコレラに感染し死にゆくことを暗示するシーンです。

 アッシェンバッハがヴェニスに出かけると、街中の掲示板に「伝染病に注意!運河の水の使用を控え、貝類の摂取はしない」と書かれている。運河からは消毒のためか薬品の臭いが漂っている。

 アッシェンバッハは集まっている人々に「何の病気か?」と尋ねるが、誰からもまともな答えが返って来ないので、彼はドイツ語の新聞を買って読んでみた。新聞には「ヴェニスでコレラ汚染の恐れ!ドイツ国民は直ちに帰国せよ!」とある。インドからコレラの流行がヴェニスに広がってきたことをはじめて知りました。


 コレラ、赤痢、腸チフスなどの下痢をおこす腸管感染症は汚染された飲料水が原因でおこり,かつては世界中で流行をくり返し、公衆衛生上大問題でした、20世紀にはいり、下水道の整備や清潔な飲み水になったことなど衛生状態の改善とともに激減してきました。しかし、現在もこの飲み水が少なく,上水道の不十分な国々では依然これらの細菌による感染症で多くの命がうしなわれています。


 2009年になり、インドで美容整形をうけたイギリス人に薬剤耐性の高い細菌NDM-1に感染していることがわかりイギリスの医学雑誌に発表されました。この細菌はどんな抗生物質にも耐性を持ち、治療が出来ないため警戒が必要と書かれていました。現在世界各地に感染者が広がり、アメリカやカナダでも同様の感染者がみつかっています。

日本でも、今年に入りインドから帰国した一人の患者がこの菌に感染していることがわかりました。


 さらに今問題となっているのは、大学病院で多くの死者をだした多剤耐性アシネトバクター・バウマニがあります。多剤耐性アシネトバクター・バウマニは院内感染防止にとって重大な脅威で、この菌への感染防止対策は極めて困難であることが知られています。

   アシネトバクター・バウマニは栄養要求性が低く、どんな環境でも生き延びることが可能であるためにきわめて厳密な環境対策が必要となります。たとえば緑膿菌は乾燥に弱く、いわゆる水周りを清潔にすれば対応できるのに対して、アシネトバクター・バウマニは乾燥に強く、カーテンや診療端末のキーボードやマウスのような通常の環境表面でも数週間以上にわたり生存します。

 抗生物質の効かない多剤耐性菌は、多くは弱毒で健康な人は、免疫力があるため発病する事はありません。しかし、病気になったり、手術で抵抗力の落ちた時感染すると、薬が効かず感染が広がり死に至るため大問題となっています。

今のところ,手洗いなどの清潔に心がけ,環境を清潔にする以外の良い対策はわかっていません。

2010/08/01

臓器医療の光と影



 「ベンケーシー」は1961年から1966年に放映されたアメリカのテレビドラマで、青年脳外科医の物語です。主人公のビンセント エドワードが半袖ハイネックのそのころ日本では見なかった外科医の白衣を着て活躍していました。
 1967年に南アフリカのクリスチャンバーナードが世界最初の心臓移植を成功させ,翌年1968年に札幌医大の和田教授のもとで18才の重症弁膜症の青年患者に、20才の脳死の患者の心臓が移植され、3日間生存できたのが日本の心臓移植の1例目でした。日本の外科医では今では当たり前のケーシー型白衣を最初に取り入れたのもこの和田教授でした。

 移植による治療は、死亡した人、いわゆる脳死状態でも個々の臓器は生きているので、その臓器を他の人の機能の無くなった心臓や、腎臓、肺あるいは膵臓や腸の代わりに移植するものです。 心臓移植に関しても技術的にはすでに1960年代には完成していたものの、その適応に関して議論となりました。本当に心臓の移植が必要だったのか、ドナーの脳死は確実だったのかという点につい多くの反対意見があり、移植医療にとって後々まで尾を引く問題になりました。
 今でも脳死の判定と、本人の了解を廻って完全には意見の一致をみていません。特に小児の臓器提供に関して今年法案がようやく成立したところです。そのため、多くのこどもたちは臓器移植を海外でうけ、日本においては、現在までに行われた死体からの移植は心臓、肝臓など成人の合計86例にすぎません。
 また、国外からアメリカやドイツで先進医療としての移植の治療を受ける人は数多く、ドナー待ちの状態が続き、一方、腎臓移植は、中国やフィリピンで国外患者に多数行われ,一部の移植は提供者に問題があるのではないかと言われています。
 現在日本では一年間に腎移植1200例、肝臓移植が500例でほとんどが生体移殖といって、健康な人の体の一部を切り取り移殖する方法で行われています。生体移植は健康な人の片方の腎臓、一部の肝臓、一部の肺などを切除して他の患者に移植する手術で、この移植もまた問題をはらんでいます。
 
 本来なら,死体よりの移植が最適であっても移植の必要な人に比べ提供する数が圧倒的に少ないため、腎臓、肝臓、肺など健康な生きた人の臓器の一部を切除し移植臓器として提供することに関する問題があるためです。
 
 いずれにしても臓器移植が救命治療として確立し、現在までに世界中で数十万人の生命を救い、生活の質を改善してきています。しかし、ドナーにまつわる影の部分が数多く報告され、2008年5月2日イスタンブール宣言で、臓器取引、移植商業主義、移植ツーリズムを防止する提言がなされました。

2010/07/11

医療観光


 20年以上前,中東、インド、東南アジアとりわけネパールやバングラディシュ、パキスタンなど医療設備の不十分な国で、在留邦人など外国の人びとは病気になったら,安全で清潔で医療レベルの高いシンガポールかバンコクを目ざし治療に行っていました。

 また、世界各国とりわけ中東から富裕層を中心に、ドイツやアメリカの高度医療を受けに海を渡っていました。日本人も多くの移植希望患者がアメリカに渡航していました。

 最近では、その流れが変化し,欧米並みの先進的で高度な医療サービスが自国よりはるかに安くうけられるアジア地域に、医療目的の観光旅行者が増えてきました。かつての先進医療を先進国で受ける目的から,逆に先進国から安価で良質な医療を観光をかねてアジアの都市で受けるのが現在いわれているメディカル ツーリズムです。

 その背景にはアメリカでは,コスト削減を目的にマネジドケアがこのメディカルトラベルを推奨し、9.11以降にアメリカの入国が困難になった中東の富裕な人びとの医療の受け皿になってからです。

 バンコクでは2004年には私立病院で治療を受けた外国人は100万人を超え、タイ最大のバムルンラート病院は2006年、40万人の国外患者を引き受け、53%が国外からの患者がしめています。

 これらの病院では主にアメリカでトレーニングし医療技術を見に付けた医師が治療にあたり,アメリカの外科系専門医資格を持つ医師は200人以上にのぼります。今年、タイ全国で国外の患者数は200万人以上になり、アラブ人の富裕層が最大の顧客で、以前より性転換手術を目的とした日本人の間ではタイの医療は有名でしたが、現在はそれ以外の医療が主で年間25万人以上の人が治療を受けています。

 シンガポールは2003年にSingapore Medicine構想を建て,政府が海外からの外国人患者受け入れを拡大すべく医療拠点つくりをすすめ2012年には100万人の受け入れ計画を建てています。

 7年前,作家の石川好氏がインド医療の水準が高い事や海外からの患者の多いことを文章にしていました。日本の国内では、インドの医療が日本や欧米並みなどとは想像さえされない時代で、あまり多くの反響はありませんでした。その後経済の急速な発展に伴いインドでも国外患者を多く診る政策を打ち出し2006年には年間約15万人の外国の患者を診ています。

 さらに,韓国は美容整形と整形外科が有名で,昨年は4万人以上の国外患者を受け入れています。

 日本では、癌研有明病院でガン患者の治療を、冠動脈疾患を小倉記念病院で、また亀田メディカルセンターがJCIを取得し、海外の患者治療をしています。その他に検診ツアーをしている病院が全国で数カ所ありますが、今後この医療観光をどうするか議論中で今後の動向は?です。

2010/06/04

Bangladesh



タゴール
 
 バングラディッシュの首都ダッカの空港は、雨期には滑走路はほとんど海の中に浮かんでいる。このあたりはベンガル湾に注ぐガンジス河とプラマプトラ河が多くの支流となって、デルタ地帯に豊かな水をもたらし、肥沃な土穣をつくっている。水田と緑の土地はかつて「黄金のベンガル」といわれ、この国の稲作を支え豊穣をもたらすものの、水害の元にもなっています。
 牛を使って田を耕し、満々と水をたたえた水田には緑の稲穂の間をアヒルが泳ぎ、田舎の道にはバスを待つ人があふれ、懐かしい日本の田園風景、気候も湿潤な日本の盛夏を思わせるものです。6月から9月にはモンスーンが毎年猛威をふるい、この災害のためか世界の最貧国の一つでした。
 このバングラディシュで有名なのは、ルイス カーンの設計による、国会議事堂と国歌の作詞者であるタゴールです。タゴールは植民地下のインドで1861年に生まれ、詩人であり思想家であり、また音楽、絵画にも多くの業績を残し、ノーベル賞を受賞しています。
 1902年岡倉天心がタゴールの家に10ヶ月滞在し,互いに共鳴し、岡倉天心は「東洋の理想」と「東洋の目覚め」を執筆し、アジアは一つを唱え、タゴールもまた、西欧列強に対するアジアの連合、アジア主義を唱えた。タイ、支那、インド、日本は共通の宗教、芸術、哲学がありそれらアジアの国が連合し西欧列強に対抗しようとするものでした。
 タゴールは1916年、1917年と1924年の3度日本を訪問し戦前の日本にも多大の影響を与えました。しかし、しだいに愛国主義、国家主義に傾く日本に対し、同じアジア主義思想であったタゴールは、反ナショナリズムの立場から日本とはしだいに相反するものとなっていきました。
 タゴールの思想は偏狭なナショナリズムではなく、人間ひとりひとりの魂に宇宙の真実、ブラフマンがやどり、世界の人びとは一人として異邦人はなく、一つとして閉ざされた扉はないとするもので、終世、民族、国境を越えた人間愛,時空を超えた永遠、大いなるものの合一を求め続け実践しました。
『この世は味わい深く
大地の塵までが美しい
こんな大いなる賛歌を私は心に唱えてきた
これこそは心に満たされたものの生のメッセージ
日ごと私はなにがしかの真理の贈り物を
受け取ってきたが
その味わいは色あせることはない
そのために黄泉の国への別れの岸辺に立って
なおかのこう歌がこだまする』
『百年後
いまから百年後
わたしの詩の言葉を 心をこめて読んでくれる人
 君はだれか
          』
 
 その百年後の今、世界は変わり、バングラディッシュに世界の縫製場として日本やヨーロッパなど世界中の多くの国の企業が進出し、繊維製品の一大生産地となりました。最近流行の日本の安いジーンズの多くはmade in Bangladeshとなっています。

2010/04/11

水木しげるの昭和


 この春、ゲゲゲの鬼太郎で有名な妖怪作家のふるさと、境港市の水木しげるロードに行きました。神戸から高速道路の中国縦貫道を経由して、米子道を一路北に向かい右手に大山を見、2時間で米子市に到着します。そこからさらに北に20分で日本海につながる境水道の岸壁に到着、漁船や、海上保安庁の船の停泊する岸壁の駐車場に車を置いて、一歩入ったところが水木しげるロードです。1996年にできた人口3万人の街のレトロな商店街がそのまま妖怪のオブジェが立ち並ぶ妖怪ロードとなっていて、ネズミ男の銅像にこども達が手をつないで記念写真をとっていました。

 水木しげるの年代記は昭和史そのものです。大正11年(1922年)生まれ、少年期はのんのんばあに地獄や妖怪の話を聞き育てられ、昭和初期の比較的平和な時代をすごしました。

 その後、日本は国内の混乱から戦争に突入、昭和18年(1943年)召集されラバウルに出兵、戦場の爆撃で左腕を失うも無事に昭和21年(1946年)に帰国。

 戦後の混乱期は、紙芝居作家や貸本漫画家の貧乏な生活を送る。その後、連載漫画がカムイ外伝で有名な『ガロ』や『別冊少年マガジン』に掲載されるようになりました。

 昭和43年(1968年)日本はしだいに豊かになり、学園紛争の年を迎え、ちょうどこの年にはじめて『ゲゲゲの鬼太郎』のテレビアニメが放送され、テレビが家庭の娯楽の中心になり、日本経済が発展するにつれ、5回にわたりこのシリーズは放送され、有名漫画家の1人となりました。

 昭和45年(1970年)『水木しげる妖怪画集』を出版し、マイナーな妖怪世界をしだいに奥深い水木ワールドとして発展させてきました。1980年以降は合理主義、近代化の高度成長路線が陰りを見せ、明るい世界から追いやられた妖怪が再認識され、「なまけものになりなさい」の水木精神が時代に受け入れられ、しだいにおおくの人たちの興味をひくように時代は変化してきました。

 その後アフリカのドゴン族、マレーシアのセノイ族、オーストラリアのアポリジニ、メキシコのインディォ、アメリカのホビ族などの文化を聞き妖怪世界を広げて行き世界妖怪会議まで開いています。

 今では、境港市は最も有名な観光地として、水木しげるロードが定着し、米子駅の霊番ホームからは、鬼太郎列車が漫画キャラクターで彩色され、JR境線も妖怪鉄道となっていました。

 漫画の威力恐るべし。

2010/03/29

満州事変後の日本と小林秀雄


 第一次世界大戦のあと、1920年代は大戦の反省から、世界的に平和の時代であり、日本も大正デモクラシーと呼ばれる時代でした。共産主義と民主主義が世界にひろまり、そして,次の1930年代は世界的な大転換がおこり,革命の時代に入ります。

 その頃日本国内でもプロレタリア文学が流行し、学会でも社会主義や無政府主義の紹介がなされるようになってきました。

 小林秀雄は昭和初期の1929年(昭和4年)改造に“様々なる意匠”を発表。そこでのプロレタリア文学批判、その観念性と政治の為の文学に対する批判は、時代の先駆けでした。

 

 一世を風靡したプロレタリア文学も、1930年代前半には共産党員の大量の検挙や、幹部の転向宣言などで人心がはなれ、しだいに日本全体が民族主義的になってきました。右翼の運動はさらに過激な行動主義,テロリズムに走り出します。

 1930年には、後に外務大臣になった松岡洋右が国会で幣原外交の国際協調路線を批判し、経済上、国防上満蒙はわが国の生命線(life line)であると演説し、その頃東京帝国大学での調査でも、学生達の88%が満蒙に対する武力行使は正統であると回答しています。

 1931年に満州事変がおこされ,国内での一般国民の世論は陸軍の主張を圧倒的に支持しました。この背景には、1931年から翌年にかけて、政争に明け暮れる政党ではなく陸軍が“国防思想普及運動”を全国で展開し、その中で、「この生命線を守るため、国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労民の生活保障、農山漁村の救済は最も重要。」とし農民救済,国民保健、労働政策を各地で訴えた結果でした。

  また小林秀雄は日中事変の最中の1938年(昭和13年)満州から北京に旅行し、満州の印象で以下のように書いています。

  この年から国策で16から19才の少年達の移民政策が始まり、この満蒙開拓青少年義勇隊孫呉訓練所の一カ所を見学し、寒さの中、計画が、うまくいっていない様子も描いています,「満州にわたった少年開拓団の子供達について、その表情は奇妙なものであった。まさしく困難な境遇におかれた時の子供の心そのままの顔なのだ。」書いていました。 そして“欠陥は満拓公社という官僚的組織と何をおいても先ず臨機応変の手腕を要するこの新しい仕事の実際との決定的齟齬にあるのではあるまいか”と

 当時日本の政府は国内の閉塞状況を打ち破るため壮大な夢と熱狂のもとで500万人の満州移民計画をたて、その為に、特別助成金や、別途助成金を村や町に出し、道路整備や産業振興に使う政策をすすめ多くの国民を満州へと向かわせさました。

 小林秀雄は亦1939年(昭和14年)“疑惑Ⅱ”では、「国民の大部分が行った事も見た事も無い国で,宣戦もしないで大戦争をやり,新政権の樹立、文化工作、資源開発を同時に行ひ,国内では精神動員をやり経済統制をやり,といふ様な事態は、歴史始まって以来何処の国民も経験した事などありはしない。」と記しています。

 その当時陸軍は、中国の脅威を最初は反日運動、次第に平和を攪乱するする匪賊、最後には、満州を奪おうとする国民党の陰謀と喧伝しました。そして、上海事変、盧溝橋の発砲から、北支事変、南京占領へと突き進んでいき、1941年(昭和16年)の真珠湾攻撃から対米英蘭に宣戦布告に至ります。

 この事変から戦争にいたる日本の正当性を意義付けるため、昭和17年(1942年)座談会「近代の超克」が13人の学者知識人によって催され、このメンバーの一人として小林秀雄も参加しています。「この戦いは世界史的に見れば、行き詰まった西欧的近代を再定義し、それを超克するものである。」とした内容で、その年の雑誌『文学界』に掲載されました。

 その後の小林秀雄は政治的発言をほとんどせず、西行や実朝の世界を描き戦後、“無常という事”モオツアルト“などを発表することになります。