ドイツのバウハウス運動
アール ヌーボーの装飾主義、曲線を多用したと自然主義の生きものの描写の時代、世紀末に輝きの絶頂をむかえたベル エッポックはドイツにも広がりユーゲン シュティール(青春様式)と呼ばれる新たな絵画、建築が流行しました。
それらの流行は20世紀にはいると急速におわりをむかえています.かわって装飾を排した幾何学的造形のドイツのバウハウスの教育やロシア構成主義に流行は移り、とりわけドイツにおけるバウハウスの運動は、1919年から1933年のきわめて短い期間であったにもかかわらず、建築、工芸,絵画あらゆる分野に大きな影響をあたえました。
バウハウスとはドイツ語で建築と建物を組み合わせた言葉で、「あらゆる造形芸術が目ざすべき目標は建築にある。」と宣言した初代の校長グロビウスは芸術家とマイスター(職人)が共同して,それに産業界が加わって、絵画,彫刻、建築の統合したものの教育を開始しました.
ブルーノ タウトもその宣言のなかで大衆のための建築をはじめて唱え、生活と遊離した芸術ではなく、芸術と生活を融合させるためまず工芸から活動ははじめられています。
その後,絵画の教授に、パウル クレーやヴァシリーガンジンスキーが加わり、多くの優秀な人材を教授陣に加え、時代の先端をいく活動を開始し人びとの注目を浴びることとなります。絵画、陶磁器、織物、金属工芸品、家具ガラス工芸品、製本,舞台芸術あらゆる分野でこの時代の流行をつくりだしました。
そして1926年にグロビウスははじめて、産学共同で、テルテン団地工場での生産のモデル開発をおこない、工場であらかじめ資材を規格化し製造しその製品を現地で組み立てるシステムをつくりだしています。
1932年には,ユンカース工業の労働者団地も設計されました。2万人規模の住宅団地で、中心部には共同のスポーツ施設や保育施設また病院も併設され、車道は街の外周を走り、現在みられるニュータウン構想の先駆けともいえます。
その時代の校長は世界の3大建築家のひとりに名をあげられ有名なミースファンデル ローエで、バウハウスの最後の校長を務めていました。
1933年、ヒトラーのナチス政権によって社会主義的学校として目をつけられバウハウスの学校が閉鎖。
ミースは後アメリカのシカゴに渡り建築家として活躍し、有名なLess is more の言葉を残しています。この「より少ないものは、より豊かである 」で表される20世紀のモダニズム建築は装飾を排除した、その無色透明さにあり、究極には壁や柱を極力取り除いた,20世紀の時代の象徴である鉄とガラスを材料にきわめてシンプルな建築をめざしました。


