2020/02/29

縄文の森


大空は永遠に青く、
大地は長く揺るがず、春に花を咲かせる
だが人間よ、お前はいつまで生きるのか

                            李白

 3億年前地球は、シダ植物に覆われていた。この時期、氷河は縮小し、高温多湿の環境で、シダ植物の大森林が地球上に現れた。それが次の氷河期に土の中に埋もれていた。
 1万年前、最後の氷河期が終わった後、 オーストラリアのクイーンズランドの熱帯雨林は、この時からできはじめ、成長してきた。この熱帯の原生林では50メートル近い巨木がそびえ、その樹冠の下の湿気の多い低木の層では、シダやハンノキ、そしてキノコ類が茂っている。この森の地上には多くの堆積物、朽ちた枝、落ちた葉、多くのキノコ類や地衣類、虫や微生物を養い、多様な生物の住処をつくっている。フンボルトは、同じような南米の熱帯雨林について、「海岸まで続く広大な森林が眼下に広がっていた。樹木には、つる植物が絡みつき、びっしりと花を付けた樹冠部が絨毯のように連なり、その深い緑が光を受けて輝いていた。これが熱帯の植生とのすばらしい出会いだった。」

 ユーラシ大陸ではやはり一万年前、樺の木やハンノキは南の温暖な地帯から、しだいに北半球を北進し広大な樹林をつくりはじめた。
 日本でも縄文時代の初期、9000年前くらいから、氷河期が終わるとともに、気候はしだいに温暖化し、日本列島の南部、九州や南西諸島の暖かい地方にのがれ、生息していた照葉樹林と冬でも葉の茂る常緑広葉樹林が、寒冷地の針葉樹林を北に押しやり、日本列島全土を覆うようになる。 このシイの木、タブノキ、樫の木が、縄文時代以後、日本に自生し、自然植生をつくっていた。
 照葉樹林帯は、九州からしだいに関東地方に、そして縄文の晩期には仙台や新潟の海岸地帯まで回復してくる。縄文人は日本の全土に広がったこの森林の中で木の実を拾い、草を食べ、魚や、貝や、小動物を食べて生活していた、現在と異なり主食の炭水化物は米も麦もなく、塩も作れず、当然砂糖もとに入れることはできなない食生活を送っていた。現在の日本の食生活では、塩分平均10g以上取っているのにくらべ、当時は2g以下で、炭水化物は現在の60%以上に比較してわずか5%であった。

 縄文時代から弥生時代にかけて、大陸から熱帯産の米が、日本列島にも渡って稲作が始まる。そして日本人の食生活もしだいに変化する。弥生時代の後期3世紀ごろの日本について、「魏志倭人伝」には、「倭の地は、温暖、冬夏生菜を食す。」そして木については、タブノキ、トチ、クスノキ、樫などの照葉樹林であったと日本の植生を記している。

 
 縄文の森は、照葉樹林であった、しかし人々の生活により、樫の木、椎の木などの原生林が、焼かれたりあるいは苅られて、人の手が加わり落葉広葉樹のクヌギ、コナラ、エゴノキや山桜などの里山の雑木林になる。杉もまた、人々が照葉樹林を切り倒した後に広がり、弥生時代に発掘された板材は杉が多く、また杉花粉もすでに多く見られる。

さらに、時代を経て日本の景観を代表する松林風景は、人間の活動によって消滅した照葉樹林の後の二次林であるマツ林になる。このアカマツに下に、ツツジ、秋の七草のキキョウ、ナデシコ、オミナエシなどが生い茂る。

  日本は、主に農業をを行う里と、都、それとは別世界の山に分けられていた。普通の人々が足を踏み入れることのない、その異界の山と農耕地の里の間、を里山という。
 里山とは集落に近い山の端で、農業や果樹、あるいは林業などの行われている場所。神聖で修験者の住む山と違い、里山にある森林が「里山林」で、里の人々が手を入れ、古くから利用してきた雑木林や竹林、人工林などがある。 
 この雑木林では、スギやヒノキなどの建築資材になる。そして、人々が薪をとったり、炭焼をしたり、農業の材料として木を使ったり、木を小物の工芸品である、小箱ちやそろばん玉、器など工芸品に加工したりして里山の雑木林で行われ、 森林のきれいな水を利用した渓流魚の養殖をしたり、飲み水として使い、や田んぼや畑を潅水し、小枝や落ち葉は肥料として利用され、いわゆる里山がこうしてつくり出された。この里山は、伐採して芽吹きさせることによって再生し、手入れしてできた森林で、利用が遠のいた時、管理されないとすぐに荒れ果てた場所になってしまう。

  森林を伐採して家畜の放牧に使うと、草地になる、そこにはススキやササがその草地に群生する。一方放牧による家畜が、草を食んで、踏みつけると芝型の草地になる。ユーラシア大陸のゴビ砂漠につながる、牧草地帯は、森林の伐採、過放牧による草原の砂漠化がおこって黄砂の原因となっている。
 温帯の雨量の多い日本の広葉樹林帯も鉄や木材の利用で、伐採され、そこにマツ科の植物が代わりに進出し、明治時代には、そのアカマツも枯れてしまった。これによって山は緑のないはげ山になってしまった。

 昭和になると燃料革命によって、里山の炭作りや、芝刈りに変わって石油石炭、あるいはガスに変わる。何億年か地下に埋まっていた生物を掘り出して産業革命が起こり、日本の庶民の生活も一変した。里山は利用価値がなくなり、放置されることになった。

 一方戦後に行われた山林の緑地政策は、本来の日本の植生と異なる、杉やヒノキを植え、山を埋め尽くした。これらの木は根が浅い針葉樹であり、山の斜面に植えられても、土砂崩れを防ぐことはできない。さらに、杉林は50年から60年で、過熟林となり、花を咲かせ、膨大な量の花粉を飛散させ、春になると毎年花粉症を引き起こすことになった。

 イギリスもまた、工業化と農業や放牧で、イギリス本来の植生は破壊された。そのイギリス南部のクネップ城の持ち主貴族が、その土地の元来生息していた、野生動物や近隣種を戻し、生態系が復活した。

 人口の減少と、都市への人々の移動により、日本各地の、山間で生活する人は激減している、生活は変わり燃料や、材料としての木材はあまり使われなくなてきた。再び、この地域を里山として利用するのか、あるいは本来の日本の植生、潜在自然植生である照葉樹林縄文時代の森の復活とその新たな利用を生み出すのか。あるいは農業と林業が融合した、ハイテク技術よるアグロフォレスオリーが進化するのか。
 植生を含めた、新たな日本列島改造論が必要な時代になりました。

2020/01/26

新たな時代と心配性の脳、忘れられたパンデミック


 19世紀はイギリスのビクトリア王朝の時代で、安定した秩序と世界観が支配していた。多くの国は国王が君臨し、その下で強大な帝国をつくっていた。ヨーロッパを中心とてキリスト教が信仰され、そして世界はデカルトとニュートンの科学のもとに組み立てられ、地球は太陽系の周りを周り、規則正しく時を刻み、季節は変わり、時はめぐると理解されていた。
 
 20世紀になると、芸術の基準、その枠組みを壊す芸術が登場した。20世紀にピカソは割れた鏡のような像を絵にした。キュービスムという発想で、何かのものを見るのに、客観的で正しい視点や枠組みはないとする、鏡のように割れた像をキャンパスに描いた。もう一つの芸術もこの時代に流行した。ムンクの「叫び」で、私的な心の風景を表現した。物理の世界ではアインシュタインの相対性理論の正しいことが証明された。
 そしてモダニズムという新しい表現が芸術の世界に起こった。この時代は、同時に科学技術が生活を豊かにした。ラジオが発明され、自動車は普及し、電話で会話し、映画が娯楽の中心になりつつあった。
    
 日本でも新興芸術としてのモダニズムが小説、絵画、音楽あらゆる分野で流行した。その代表が横光利一や芥川龍之介のモダニズム小説だった。そして、芥川龍之介は未来に対するぼんやりした不安を理由に自殺した。時代を研ぎ澄まされた神経で感じ、不安の時代、未来を予兆する出来事だった。

 古典物理学が量子力学に変わり、芸術の世界で起こったモダニズムと時を同じくして、旧い世界秩序が崩壊した。イギリスのヴィクトリア王朝時代は、オスマン帝国が東欧から中東さらにアフリカまで支配し、ヨーロッパの中央はオーストリ ハンガリー帝国、そしてさらに北にはロシア帝国とドイツ帝国、そしてユーラシア大陸の東には清王朝、それらは第一次世界大戦前後、瞬く間に瓦解した。そしてイギリスと日本の皇室は第二次大戦後に政治権力としては無力な存在になった。

  技術の進歩は急速で、第一次大戦には機関銃が発明され、それが戦場で使われ、飛行機や戦車が活躍し、毒ガスも使われ、兵士は塹壕の中で、ほとんど耐え忍ぶ戦場となった。この時期運悪くスペインかぜと呼ばれる新型インフルエンザはこの塹壕の兵士たちにも襲いかかり、多くの病死者を出した。1918年から19年の新型インフルエンザの死者は2500万人以上に達した。

 「塹壕掘りの部隊が仕事にとりかかった時、あと平均どのくらいの寿命があるか知っているかい?」「たぶん、短いんでしょうね」「たったの9分さ」

 A.W クロスビーの「史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミックについて」に詳細な記録が分析されている。1918年アメリカで肺炎を伴うインフルエンザが流行し始め、兵員の輸送によりフランス軍そして、ヨーロッパの全域に広がりその夏には一般市民に蔓延した。四ヶ月で南極を除くすべての大陸や孤立した島々など、地球上のすべての国に広がった。この第一波に続いて、8月の後半にアフリカ、フランス、アメリカで同時にウィルスの変異から、強毒性のインフルエンザとなり爆発的流行、パンデミックとなって世界中で多くの死者を出した。そしてアメリカ大統領のウィルソンなどの政治家も重症となりその後の世界の政治も変えた。

 すぐに終わるはずの戦いは、誰も予想しない長期の悲惨な大戦となった。以前は帝国にとって、あるいは軍人にとって悲惨な戦いであっても、勇敢な戦士たちの戦闘は物語となり、ある程度の誇りと利益がもたらされた。しかし第一次世界大戦はかつての戦争と異なり、長期の塹壕戦になり、多くの病死者や戦闘ストレスの兵士を生み出した。そして利益は誰にももたらさなかった。技術が、戦争を変え、人々の予想を超えて世界を変えた。 

 第二次大戦後の日本は、安全で安定した民主主義の国として再生した。戦後民主主義と平和主義は夢と希望をもたらすものだった。戦後高度経済成長期は国内の経済と生活の再建に全力を注ぎ、日本列島を改造し、あるいは田園都市の構想で日本全土を豊かにすることを目的に人々は勤勉に働いた。その後バブル崩壊が起こり、世界やよその国を視野に入れないで、国内のみに目を向けて外の世界を見ないで生活できた時代が終わった。中国は経済大国、軍事大国になり、またアジアの国々は経済的に豊かになってきた。アジアもグローバル化の主役の一員になった。

 20世紀になると科学とテクノロジーは電話、自動車、ラジオを普及させ、第一次世界大戦には飛行機、戦車、化学兵器が戦争に使われた。現在はその時と同じくらいに急速に技術が進歩し、止まることのない時代になった。そして新しい技術は世界を、人々の生活を変えつつある。バイオ技術で病気を治し、人工知能があらゆる分野で進歩して、快適な生活ができるようになり、食料不足もなくなり、クリーンエネルギーで気候変動を抑えるのも技術の開発による。しかしそれと同じ技術は無人兵器、サイバー戦、宇宙戦を可能にしている。イラン革命防衛隊司令官ソレイマ二氏殺害はアメリカのリーバ型無人機にによるものであったことは、あらためて世界に衝撃を与えた。

 今の時代は、比較的安定した時代、第二次世界大戦後の冷戦とその後のアメリカによる平和が終り、資本主義と民主主義に対する信頼が揺らぎ、ちょうどイギリスのヴィクトリア時代が終わりの時代を思い出させる。そして今再び、心配性な脳は、不安を感じることになる。

  今までに、急性の反応として恐怖が脳内で起こるメカニズムはわかってきた。恐怖は感覚の刺激が、脳の原始的な器官である扁桃体に直接伝わる。これによって人々は危険を逃れ、地球上で生き残った。この生存に必要な脳のメカニズムが過剰でそれに耐えられなくなったのが戦場でのストレス症候群で、第一次大戦の時多くの兵士がこの状態になり、入院した。同じ症状は第二次大戦やその後の戦争で見られた。

 一方、将来への漠然とした不安はどこから起こってくるのかは未だわからない。しかし、生存のための必要性から生まれた機能で、人々は安定した世界、安定した日常、安定した生活が変化する時不安におののくことになる。不安は脳の全体が関わる現象で複雑な脳内の活動によって引き起こされる。最初は一部の感覚の鋭敏な芸術家がそれを感じ取り、表現しやがて多くの人々もそれに共振する。

 理性的な判断ではない感情が、理性を狂わせるメカニズムが働き、世界を変えてしまうこと。あるいは、人々の心に、不安がまん延する時代があること。技術の進歩に、人の心はついていけない時があることを歴史は証明している。
 

 安定した社会が失われる時、理性で理解していた世界観が崩れ去るとき、感情が人の判断のよりどころとなる。平静の心を保つのは、生存のために備わった不安がる脳にとって今は大変な時代かもしれません。

2019/12/31

切支丹とアジアの海 

神か天皇か将軍か、誰が支配者になるかの争いが、16世紀の日本で起きた。

われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂い鋭きあんじゃべいいる、
南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍酡の酒を。


いざさらばわれらに賜え、幻惑の伴天連尊者、
百年を刹那に縮め、血の磔脊に死すとも
惜しからじ、願うは極秘、かの奇しき紅の夢、
善主麿、今日を折に身も霊も薫り焦がるる。

                    邪宗門秘曲     北原白秋


 15世紀、世界の文明の中で最も進んでいたのが中国の明王朝で、人口は1億人を超えていた。明王朝は、技術も文化も優れていた。そして巨大な船舶を連ねた大艦隊を鄭和が率いて、南シナ海、ベンガル湾を通り、インド洋からアフリカまで 航海した。しかし明王朝は、強大な官僚体制と極端な保守主義により、その後海外には目を向けず、国内で閉塞していった。彼らの考えは、軍事力が必要になるのは野蛮人が攻撃してくる恐れがあるときと、内乱を収める時だけだとした。そして官僚たちは軍を嫌い、また商人を嫌い、私的な蓄財を嫌った。

 一方、当時の西欧には統一ヨーロッパはというものはなく、小さな王国や公国、領主国家、都市国家が乱立していた、スペイン、フランス、イギリスは君主国家の萌芽期であった。15世紀、そのヨーロッパの西の辺境の人口100数10万の小国のポルトガルが大航海時代を切り開いた。まず対岸のアフリカに拠点を築いた。やがて、アフリカ大陸西岸を南下し、バスコダガマが1497年アフリカの南端希望峰からインドのカリカットにたどり着いた。そして次第に、インド洋の要所に要塞を築き、ポルトガルの独占的交易の海にしようとした。インドのゴア、を占領し、マラッカを支配し、インド洋の海上帝国を作り上げた。
 その当時インドには、ムガル帝国を中心に多くの強国が存在した。それにもかかわらず、インドの王国がポルトガルの海上覇権をなぜ許したのか、これは当時インドの帝国にとって、海上の貿易は帝国にとって、商人の問題であり、王の威信とは何らか関係のないと考えていた。

 
 宗教的使命感と物質的利益を求め、集中的に国力を集中したポルトガルはやがてインド洋から南シナ海、東シナ海へ進出した。この海は15世紀、明の海禁政策をによって、琉球王国の船、倭寇と呼ばれる日本の海賊船の活躍の舞台だった。その後ポルトガルが南シナ海、東シナ海の支配者となる。当時ポルトガル国王はローマ教皇庁から、新領地住民のキリスト教徒化、カトリック教の布教を義務ずけられていた。そして、イエズス会がポルトガル植民地の宗教的指導権を握った。

 イグナチウス ロヨラによって創設されたイエズス会は、伝道活動を重視し、人間は神の望むことをこの世に実現する存在であり、あらゆる人々の民族に神の国をつくる。この使命に燃えて世界の各地に会の指導者を育て、派遣した。1529年スペインとポルトガルの間で世界領土を2国で分割支配するサラゴサ条約が結ばれ、アジアはポルトガル勢力圏とされた。

 フランシスコ ザビエルは最初、インドに向かい住民の教化を始めた。しかし、インドや東南アジアでの布教活動に苦闘していた時、薩摩から来ていた日本人に会い、彼とともに1549年8月15日フランシスコ ザビエルは鹿児島につき日本での布教活動の第一歩となった。日本で布教を始めた頃、日本の人々は、キリスト教は異端、あるいは邪宗というより初めは仏教の一派と思い、その教えをきいていた。

 永禄12年(1569年)4月3日織田信長はフロイスと会い、その後朱印状で宣教師が信長の領国に滞在することを認めた。信長は宣教師を厚遇した。時代の創造者としての信長の視線は時代常識を超えていた。信長の新しい日本は、国内だけではなく国際社会の文物や情報を取り入れ、異国の来朝を歓迎し、世界の中の日本にするいう枠組みで捉えていた。

 緋色の外套を身につけ、ビロードの帽子をかぶり、コルトヴァの皮革、日時計や砂時計など南蛮渡来の異国の品々を愛好した。信長は神仏や迷信を信じなかっった。酒は飲まず、食を節制し、合理的で、徹底した行動の人である信長はやがて京を制圧し、将軍義昭を追放した。そしてキリシタン大名高山右近や内藤ジョアンなどにより、京の街にキリスト教の教会が建てられた。

 本能寺の変で信長が、暗殺され、その後秀吉は天下を支配した。当時秀吉を含め、戦国武士達の世界観は、神は仏の化身でありこの神仏への信仰と、正直な行いにより、神明の加護があり天道に見放されることはない、この天の道が世界を決めるというものであった。そして、信長同様キリスト教の布教は許し、臣下にも多くのキリシタン大名を抱えていた。

 秀吉は、天正25年(1587年)九州の島津氏制圧の帰りに、九州の筑前でキリスト教擁護から一転して、禁教令、バテレン追放令を突然を出した。この時九州はキリスト教がかなり浸透し、力を持ち始めた、これを放置する危険を秀吉は実感した。
 第一条では、日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、はなはだ似て然るべからざる候事。第二条では、知行を受けた秀吉の家臣が、領民をキリシタンにして寺社を破壊することを禁じ、第三条では、司祭らが20日以内に日本を待機すべきことを告げ、第四条でポルトガル船が来航して交易することは一向構わぬとし、第五条は、仏法の妨げをせぬならば、商人以下、キリシタン国からの渡来は自由とするとした。
 

 
 1588年スペインは英国、オランダ連合に海戦で敗北。世界の覇権国は南蛮人(スペイン、ポルトガル)から紅毛人(オランダ、イギリス)に変わりつつあった。

  ヨーロッパの君主国家と同じように、秀吉は政権を握ると、フイリッピンではなく朝鮮半島に軍を送る。しかしすぐに撤退し、その後徳川家康が政権を握る。徳川政権はヨーロッパ諸国とは異なる道、しだいに国外には関心を向けず、国内の統治に専念し、キリスト教は禁教策で排除し、海外との貿易も長崎のみとする政策をとった。
 はじめは家康、秀忠ともにキリスト教をうけ入れ難いと思いつつも、貿易は促進したい考えであったためキリスト教の布教を認めた。
 家康は御朱印船という幕府認可の貿易船が東南アジアで貿易することを認め、江戸時代初期から鎖国するまで10万人以上の海外に出て、日本人町をつくった。シャムのアユタヤの日本人町以外にもプノンペンや、マニラの近郊にも日本人は定住していた。しかし、徳川政権は、1614年には「みだりに邪法を弘めて正宗を惑わし、もって城内の政号を改めて己が有となさんと欲す」とした、キリシタンの禁教令を出した。
 イエズス会のキリスト教徒は、邪宗を信ずる民族をキリスト教徒すなわち真の人間にすることであると信じ、世界に宗教戦士を送り出し、そして日本にたどり着き、30万人から40万人の信者を獲得していた。
 さらに、南方の航海に新型の船を造り、多くの日本人は、アジアで貿易を行っていたが、1936年には、遠洋航海用の船の建造が中止され、日本人の海外航海が禁止され、鎖国した。

 その後世界はヨーロッパの国々が支配し、インド洋から太平洋にかけても彼らの海になった。覇権国はポルトガル、スペイン、オランダからイギリス、アメリカと変化した。日本は260年後の幕末、キリスト教の布教ではない、アメリカの黒船、ペリー艦隊という近代化した国家、西欧と再び対面することになる。






2019/11/23

災害は予想できるのか


 家のつくりやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころ、わろき住まひは堪へがたきことなり。深き水は涼しげなし。浅くて流れたる、はるかに涼し。細かなる物を見るに、遣戸は蔀の間よりも明かし。天井の高きは、冬寒く、灯暗し。造作は、用なき所をつくりたる、見るも面白く、よろづの用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍り

                    徒然草       吉田兼好

 


 日本は古来から、夏の高温多湿な気候が、豊かな植生をもたらしていた。日本列島は、急峻な山岳地帯が複雑に入り組み、川は狭く急流が多い。火山活動や地震で急な斜面の地形が出来上がり、多量の降水によって、山が崩れ、今の日本の景観を作り出している。  それゆえ地震や火山活動だけでなく、古代から水害は日本の各地で頻発していた。治山治水は政治上の重要課題で、統治者は川を治め、植林し保水により洪水を防ぐべく多大の労力を注いだ。

 12世紀に入ると、樹木の年輪の解析から推定されるように、急激な寒冷化と温暖化が繰り返して起きた。鴨長明が暮らした、平安朝の末期には災害が頻発し、飢饉も繰り返し起こった。1212年(建暦2年)貴族社会が崩壊し、災害も頻発したこの時代の大火、地震、大嵐など多くの災害の事実を鴨長明は記録し、随筆に書き残した。14世紀はやはり、出家遁世した吉田兼好も日本の夏の暑さを記録している。
 
 江戸時代の初期から中期にかけて、森林の伐採や、新田の開発が進み、森林は荒廃した。岡山県では承応3年の備前大洪水に見舞われ、多くの死者を出した。その時の藩の執政をになったのが熊沢蕃山で、 蕃山は、山川は天下の源なり。山は川の本なりとして、100年の仁政によって、もとの山川に戻ると説いた。保水力の強い杉やヒノキを植林し、森林を再生し、雨水を涵養するように植林を実行した。そして寺社などの建築を制限して、森林の伐採をやめ、新田の開発も制限した。こうして山の保水力を回復し、河を改修して水害を防いだ。

 その頃、幕府も新田の乱開発を中止する「山川掟」を出した。そもそも幕府の中心、江戸の町は利根川の流れを変えた、治水工事の賜物であり、濃尾平野も江戸時代に薩摩藩が多大の犠牲者を出して、堤防をつくった。この輪中には敷地を高くして、倉や土蔵を作り、2階には水害時の船を据え付けるところもあった。日本全国の河川は、堤防を整備し洪水を防ぐことが地域の生存に必須の課題であった。水害に対して、昔から人々は、山を治め、河を治め、避難所をつくり、洪水用の船も用意した。

 明治時代に入り、オランダ人の土木建設技師などの新しい技術によって、多くの河川の改修工事が行われ、川の流れを直線化し堤防も強固にされた。戦後になると、山林の杉なとの人工植林は、大規模になされたものの山林の管理は不十分なままで、また住宅地の開発も過去の災害に関係なく、次々と広げられた。
  21世紀になると、以前に経験したことのないの熱帯の豪雨のような短時間の強い雨に遭遇するようになる。そして、土木工事の技術の進歩により、水害は防ぎうると安心していた時期に再び水害が日本の全土で起こった。気候はランダムに変わるものの、2000年以上の間、気候の変動はほんのわずかの変動の間で上下し、極端な振れ幅はなかったと言える。
21世紀に入り、異常事態が当たり前となった。この災害リスクは正規分布の中央に近いものであれば対応できる。しかし、正規分布の端の出来事、今まで起こったことのない気象の変化、100年に一度の異常気象が常態化すれば、国土計画を極端な災害に対応するように再編が必要になる

 今年の秋、規模の大きなカトリーナの台風が関東から東北地方を襲い、広範囲な地域、阿武隈川や千曲川の堤防決壊を多発させた。
 今後台風、ハリケーンそしてサイクロンともに海水温の上昇、地球温暖化によりますます巨大になることが予想され、ますます高頻度に世界の各地で水害が起こる確率は高まってきた。しかし、これが日本のどこにいつ、どのくらいの規模で起こるかは予想ができない。確実なことは、今後は、地球温暖化によって、気象災害は過去の歴史にはなかった 激烈さになることである。 
 1959年の伊勢湾台風や1959年の第二室戸台風は5000人以上の死者を出した。これらは、海上では猛烈な気圧の低下と暴風雨は上陸時には、勢力はかなり衰えていた。しかし、当時の防災能力では、気圧低下と暴風による高潮で多大な被害が出た。

 今年の台風による雨と風広範囲の持続する降水量の量は、現在より地球上の平均気温が4度上昇した時の台風によってもたらされる強度と一致することがコンピューターのシミレーションによってわかった
 21世紀になってから、過去の巨大な台風を上回るスーパー台風 中心気圧は890ヘクトパスカルを記録した2013年のフィリッピンに上陸した台風ハイエンがある。アメリカのハリケーンもカテゴリー5といわれる風速59メートル以上のカトリーナなどの巨大なものが多発している。 昨年の関西空港の水没や、今年の広範囲の長時間の豪雨をもたらしたのは、日本の近海の海水温が低下せず、台風のエネルギーが南海上と同じ強度のまま上陸し、今までの想定以上の災害となった。

 人は、未来は過去と同じようになると想像し、対応する。そのため未経験のことが起こる可能性を軽視する傾向がある。しかし、地球規模で起きている温暖化の影響で、今後、災害の規模は大きくなり、リスクが高まったことは確実になった。しかし、対応に困るのは、このリスク予想が完全にはできないことです。風速は最大何メートルになるのか、降雨はどのくらいまで激しくなるのか、その結果河川の増水がどの程度で、高波は最大何メートルになるのか。これがどこに、いつ起きるのかといったことの予想は今の所不可能です。
  今年の企業の成長に最も脅威をもたらすリスクとして、 サイバーセキュリティーや保護主義より、気候変動リスクをあげた企業が最も多かった。 異常気象がニューノーマルとなれば、屋外の作業を減らしたり、屋外スポーツも制限され、工場の立地や流通を変えたり、住居の移転や災害に強い都市を作ったりする必要が出てきます。しかし、最悪を予想して万全の対策をとるのには膨大な費用と労力が必要になります。

 今後は、最適な防災対策を実行するとともに、すべての国が地球温暖化を防ぐ低炭素社会に向かうことが重要になっています。

2019/10/14

「アンドロイドは電気じかけの羊の夢を見るのか」と「私を離さないで」

 「アンドロイドは電気じかけの羊の夢を見るのか」の物語は、主人公のリック デッカードが、気分を調整するムード オルガンを枕元に置いて、目覚める場面で始まる。リックは火星から逃亡し、人間の中に潜伏しているアンドロイドを破壊する仕事を請け負った賞金稼ぎで、この仕事でお金を貯め、昔のように本物の羊を飼う夢を持っていた。今は、死んだ羊の代わり電気じかけの羊を飼っている。
 
 核戦争により、地球上には、生きた動物も、生き残った人間も少数となり、さらに地球上に生き残った人間も適格者の人間と、生殖を許されない特殊者に分けられ、人間そっくりに作られたアンドロイドが地球の外でも働いていた。アンドロイドは、しだいに精巧さを増し、ほとんど人間との区別がつかなくなっていた。そのアンドロイドが火星から逃げ出し地球上に紛れ込んできた。

 このアンドロイドを破壊するためには、人間と識別することが必要になる。それは、人間の感情移入の能力、共感能力が試されるテストをして、感情と共感性の無いアンドロイドと人間を見分ける。アンドロイドは成長した過去を持たない、そのため過去の子供時代の記憶をつくり、それをセットする。アンドロイドはしだいに進化し、人間に近くなり、自分は人間だと思い込むアンドロイドもできる。
 

 人間とアンドロイドを峻別するのは、生物が50億年の進化の過程でつくりあげた子孫をつくり、生存するシステムで、遺伝子のAGCTの連鎖からたんぱく質をつくり、体をつくり、子孫を残す、この過程で感情が生まれた。ここが機械との根本的になる。この物語は、アンドロイドの性能が進化し、人間と外見上は区別がつかなくなり、どこかで、人間的な感情を持つようになれば人間と区別できないことになってしまい、そして、人造のレプリカが子孫をつくれるようになる世界を描いている。

 地球上で適応進化した動物が動物らしく見えるのにはいくつかの根本原理がある。すべての臓器は次第に成長し、協調して活動をする。 筋肉はしだいに強くなり、正確な運動で、手と足、さらには体全体を使って、相手を追いかけ、捕食し生きていく。地球上の荒れた地面でも走り回れなかったら、敵に捕食されてしまい生き残れない。
 機械は、ほとんどの場合平坦な面を進み、荒れた地面でもキャタピラー型の車輪が有効で、足は必要ではなく、車輪が目的にかなっている。ロボットが他のロボットに捕食される事はなく、進化の過程で得られた4足の歩行を真似たロボットは複雑になりコストが高くなってしまう。
 このように、ロボットと動物や人間は全くシステムが違い、目的が違って出来上がっている。 しかし、この全く異なるシステムが急速な機械の進歩で、動物や人間の動作そのもの、あるいは、話しかけたり、ほほ笑みかけたり、共感を示したり、歩き回ったりすることができるようになり、人間に近いアンドロイドとなり人間と共存する世界が近ずいてきました。

 人の声の機械による再生はすでに、完成に近くなり、世界中で、有名な歌手、台湾ではテレサ テン、アメリカではプレスリーの再現が試みられ、今年、日本で、美空ひばりが新しい曲を、AIで歌い、その姿も3次元画像で作り出され、かつての多くのファンや近親者は、その曲に感激した場面が放送されました。
 現在、AIによる声や歌は、もはや実在する人の声や歌との区別がつかないまでに進歩し、フェイクニュースを語らせる時代になっています。

 一方、未だ幾らかの気味の悪さを残しているものの、人間の姿形や動作を酷似させる技術もますます精巧になり、様々なヒューマノイドロボットがつくられています。人間の体を3Dカメラでスキャンし、それにそっくりの体を作り、個人の顔の筋肉を模倣して、感情、喜怒哀楽を表現させる技術で、顔で感情表現をすることが可能になってきました。
 現在、ロボットに感情を持たせたり非常に本物らしい表情をするロボットが香港で開発され、ソフィアとなずけられ、ファッション雑誌で紹介され、サウジアラビアで市民権が与えられる時代になりました。日本でも夏目漱石や実在する俳優のアンドロイドが作られました。技術の進歩はとどまることはありません。どこかでこの両者がかさなりあい生存への欲望、好奇心とか憧れを持つ心を持ったアンドロイドが開発され、ブレードランナーの世界は現実のものになるかも知れません。

 アンドロイド登場すれば、人間とは一体何者かが問われることになる。すべての人間は他者とは異なり特別な存在であり自分なりに考え、感情を持ち他者への共感力を持った存在であり、かけがいの無い存在として生まれてきたものなのか。この人間と非人間の境界はどこにあるのか、そして人間的感情を持った存在との違いは何か。来るべき、近未来はどんな世界になるのか。

 1996年、羊のドリーが遺伝子操作誕生により、技術的には人間でもこのクローン化の実現する未来が近いことが明らかになった。カズオ イシグロ はこれをもとに小説で、遺伝子操作によるもう一人の自分、クローンと共存する世界「私を離さないで」を描いた物語を2005年に出版した。

 物語はキャッシーの子供時代の回想、イギリスの田園の施設を舞台にどこにでもある少年少女のノスタルジーで始まる。やがて、彼らは臓器提供者として、人工的に世に産み出されたクローン人間であることがわかる。この人工的に生まれた人たちの、感情や揺れ動く心と過酷な未来をキャッシーが語る。この世界では、結局激流があまりに強すぎて、それに逆らうことが出来ず、握り合った手を放し、別々に流されてしまう運命の「人びと」を静かに描いている。

 現在クローン技術は、さらに進歩して、羊から始まり、ペット犬、そして、クローン猿までも生み出されている。


2019/09/01

芥川龍之介のアバター小説 Xと云う患者






   水洟や鼻の先だけ暮れ残る              
                               芥川龍之介


 散文は説明的で、文は外へ拡散する。そして、言葉をつらねて秩序だった物語を組み立てる。 絵画は様々な色彩の絵の具を使って額の中に世界を描く。詩は閉じた空間で、言葉がたがいに響きあう。
 この絵画的手法で短編の物語を彫んだのが芥川龍之介の小説で、  作品の額は西欧文学のアナトールフランスや、象徴詩人ボードレールなどで縁どられ、題材は平安時代の今昔物語、宇治拾遺物語、中国の古典、聖書など世界の古典で、これを使って、日本的タペストリーを近代的手法で織り上げた。そして多くの国で翻訳された。
 芥川小説を素材とした新しいコラージュ小説、英語で書かれた小説、「Xと云う患者」がデイヴィッド ピースによって作られ、黒沢敏行翻訳で日本語版が出された。


 「ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、その真ん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度明方なのでございましょう。」で始まる、芥川文学の代表作「蜘蛛の糸」の文章を原文でほとんどそのまま使って構成した「糸の後 糸の前」。

 芥川龍之介の生い立ちを、芥川龍之介自身を物語の中で描いた「地獄変の屏風」。「2度語られた物語」では自我の分裂を「文章」などに登場する主人公の堀川保吉という第二の自我、分身をつくり、その中で彷徨する芥川龍之介を描いた。
 さらにはキリストを題材とした「黄色い基督」は斉藤茂吉と芥川龍之介と菊地寛の長崎旅行中の物語で始まる。「奉教人の死」「おぎん」など長崎の浦上での基督教徒の迫害を素材にした、キリスト教の少年信者の物語。日本のキリスト教信仰の歴史は誤解の連続ではないかと語るイギリス文化的日本の基督物語となった。
 さらに毎日新聞特派員で訪れた上海を舞台にした「戦争の後、戦争の前」。「キリストの幽霊たち」では歯車を素材にして新たな物語を生み出した。随所に芥川龍之介の文章をそのまま残し、物語の人物や実在の作家たちを小説に登場させ、現実と虚構を取り混ぜた世界を生みだした。



  作家のように考え作家のように話をする、そんなタイプのロボットができるのか。現在、生きていた時の記録を読み込ませ故人のチャット ロボで、その人の分身をつくることができる。 言葉は人格であり思想である。そのためには文章の表層ではなく、の文章を組み立てる発想や物の見方、いわゆる思想を機械に学習させる必要がある。

 この人格を持ったロボットを芥川龍之介のアバターを創り出す発想で、小説家芥川龍之介自身とその作品を組み合わせた、新しいタイプの小説がイギリス人作家デイヴィット ピースの小説「Xと云う患者」だった。

 難しいのは、人の心は単純ではなく、分類し難く、また時代によって変化することである。文芸作品についてもその様式、言葉とそれから生まれる隠喩や、諧謔、皮肉をどのように解釈するかが問われることになる。

 ヨーロッパでは19世紀末に自然主義と浪漫主義を産んだ。明治時代の小説家が、この西欧文化に出会い、ヨーロッパの文化に憧れ、それを至上のものとした。日本でも形式主義の小説に飽き足りなくなった人々は事実を、人間社会の真実を小説に描いた。やがてこの写実が日本では心境小説、私小説になってしまった。一方理想主義の白樺派もまた日本の現実から離れた理想の世界にこもってしまった。

 この時代、都市は近代化し、文化もより自由なモダーンな時代になった。明治の日本文学の後の大正時代を代表する作家芥川龍之介は新思潮、モダニズム文学の旗手として登場した。 

 「或る日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男の外に誰もいない。唯、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、きりぎりすが一匹とまっている。」
 平安時代末期、ききんで都も餓死した死体に溢れていた。その間を盗賊や餓鬼が横行する代表的作品「羅生門」と「藪の中」そして、仁和寺の和尚の「鼻」や「芋粥」。
 そして中国を舞台にした「杜子春」あるいは江戸時代、あるいは長崎を舞台にしたキリシタン物語と時と時代を変えて、人間の心理を、善と悪を華麗な文体で、「芭蕉に及ばなかった、芭蕉に近いある詩人の慟哭」を俳句や和歌ではない短編の物語で小説化した。 その底流には、生きる本能、このエゴイズムのほかに真実を見いだせぬ厭世主義があった。


「茫然と桜の梢を見上げた。青い薄葉の翻った上には、もう風に吹かれた落花が点々と幾ひらもこぼれている。」

 文芸は文章に表現を託する芸術なりとした芥川龍之介の文章は緻密で細心であった。そして、文体はフランス文学の強い影響を受けたものの、西行や芭蕉の美意識の世界が底流にあった。その短編小説は、抒情詩や象徴詩に近いもので、その文体はむしろ日本の古典のしらべを近代化したとも言える。
 
「無数の眼はじっと瞬きもせず、三人の顔に注がれている。が、これは傷ましさの余り、息を呑んだのではない。見物はたいてい火のかかるのを、今か今かと待っていたのである。」その時おぎんのはっきりと意外な言葉を捉えた「わたしはおん教を捨てる事に致しました。」

 基督教のエキゾチックな側面にひかれていた芥川龍之介は、「奉教人の死」でイエスキリストの御血潮より赤い、火の光を一身に浴び、殉教したろおれんぞを描いた。「おぎん」では三人が棄教し、悪魔にさらわれ、堕落する情景、日本の殉教者の心の内と、民衆の心の酷薄さを浮き彫りにした。

  また「神々の微笑」で現実との激しい闘争から生まれた政治哲学の老子、や儒教の教えも、転生輪廻する世界と諦観の仏陀の教えも、また現実を拒否し永遠をめざすキリストの夢も、すべては二千年の歴史のうちに、美しい風景と温和な気候のうちに、静かにのみこまれてしまう宗教の日本化、土俗化の問題を取り上げている。

 ヨーロッパでは1920年代アヴァンギャルドが流行し、日本でもその影響が現れてきた。 芥川龍之介の作品は古典の換骨奪胎、コラージュの手法を用いた、新しいタイプの小説、モダニズム小説として受け入れられた。
 一方、プロレタリ文学が20世紀になって世界的流行となった。彼らは人生を、社会をそして生活し生産する立場の人々を描くことが文学であるとする潮流で、日本でもこれが文学作品で力を持ちはじめた。 

 しかしそれは脳の中の組み立てられた物語であり、一つの流行の商品であって、世界の現実や真実を、人間を描いたわけでは無かった。
 これは後の時代に、ようやくわかることであった。この重圧に対して、開き直ることをしないで、 芥川龍之介は、しだいに私小説の形を取り入れたフィクションを創作するようになる。大導寺信輔の半生、或阿呆の一生や歯車で、自分自身を題材とした物語を創作する。
 
 夏目漱石は「死ぬか、気が違うか、それでもなければ宗教に入るか。僕たちの前途にはこの三つのものしかない」と書いた。この文字通りの芥川龍之介の心の彷徨を「基督の幽霊たち」で物語にした。実の母親と同じ運命、狂気への恐れを、自らをキリストに重ね合わせ、天上への高みに向かう願いと、日常にある永遠に守ろうとするマリアの世界への憧れを、そして、書くことの価値を信じ、言葉の力を信じ、芸術を通じた救済を信じようとしたことを。


 最終章「事の後、事の前」は「高名な作家、芥川龍之介氏 田端の自宅で自殺す」で終わっている。一瞬の閃光を、紫色の火花を命と取り換えてもつかまえたかった芥川龍之介は、 或る阿呆の一生で「人生は一行のボードレールにも若かない。」と書き残し35歳で亡くなる。



   

                     

2019/08/01

たそがれの平安京と西行




 平安時代は藤原一族が、娘を天皇の妃とし、朝廷での権力を握った。そして政府の要職には貴族がついた。皇室は古来からの宗教的指導者としての権威を保ち、平安時代後期には、事実上の権力は、天皇を退位した上皇が握り、院政と呼ばれていた。


  若き北面の武士西行は藤原実能に仕えていた。その妹待賢門院璋子が鳥羽天皇の皇后になる。当時、白河法皇は日本を支配していた。自らは上皇となって院政を行い、堀川、鳥羽、崇徳天皇の43年間にわたり実権を握った。その力は絶大で、鴨川の水、すごろくの賽 、山法師以外は意のままに、世に君臨し、日本を動かしていた。白河法皇のもとで、幼い頃から育てられたスキャンダラスな待賢門院璋子がその後の時代を動かすことになる。鳥羽天皇のもとに嫁いで皇后となった璋子は第一皇子の崇徳天皇、第4皇子の後白河天皇をもうけた。この二人の間の確執がのちの保元の乱を起こす。

 当時の平安京は人口10数万人、日本の人口は600万人くらいであった。平安末期は、全国的に飢饉が起き、地方では海賊や山賊が跋扈し、京の都も餓死者があふれていた。しかしこの民人の困窮にかかわらず、都の貴族世界は退廃的で柔弱な内向きの世界に陥り、日々を送っていた。

 西行は鳥羽法皇に北面の武士として仕え、その法皇の妃となった17才年上の璋子と出会う。身分の違いからか、やがて二人は別れ、西行は憧れの人璋子を終生熱愛し、多くの歌を作っている。

 知らざりき雲居のよそに見し月の かげを袂に宿すべしとは

     (雲のかなた上の月に恋をして、その面影を袂に落とした涙に映すとは)

当時、家富み、年若く、心に愁いない西行が23才の若さで出家する。

 世中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我身なりけり

  鳥羽法皇の死により天皇家と藤原摂関家が分裂し相争い、陰謀渦巻く中、崇徳天皇派と後白河派の衝突、保元の乱が起こった。慈円の愚管抄に「鳥羽院うせたまひしのち、日本国の乱逆という言葉起こりてのち武者の世になりにけるなり」と書かれたように、 武力をともなう権力は次第に地方の名門武士、瀬戸内海地方に勢力を持っていた平氏一門に移っていく。平清盛は、多くの荘園を持ち、日宋貿易で経済力をつけ、さらに強大な武力を持っていた。
 保元の乱で平清盛は、功績を挙げ、国司の頂点である播磨守になり、敗れた崇徳天皇は讃岐に遠島となった。続いて起こった平治の乱以降、清盛が武力闘争の覇者となった。そして太政大臣まで官位を登りつめ、平安時代初期藤原氏が行ったのと同じ方法、すなわち娘を皇室の妃として、朝廷の支配権を握った。

 30代に高野山の草庵に住み、吉野に出かけた西行は、和歌を通して、空海の真言仏教の世界に没入する。この歌即ち是れ如来の真の形体なり。されば一首読み出ては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思い続けては秘密の真言を唱ふるに同じなり。

 初花のひらけはじむる梢より そばへて風のわたるなりけり

  (ひらきはじめた桜の花の梢に、すでに無常にも、花の散るときの風が吹き渡る)

 西行39才の時、保元の乱が勃発する。その乱で遠島になった崇徳院は46才で、恨みを抱いたまま讃岐の地で没する。江戸時代の小説雨月物語「白峰」に西行が崇徳院の墓をたずねる場面がある。墓の前に、異形の悪霊が現れ、恨みつらみを語り始める。「かの仇敵ことごとくこの前の海に尽くすべし」と呪詛の言葉を唱えた崇徳院に対して、これを諌めて金剛経を読み、院の霊を供養した物語であった。

 西行は崇徳院の死後、数年して四国行脚の旅に出た。白峰の崇徳院陵、弘法大師の生まれ育った足跡を辿った旅をした。その後、源氏と平家の戦乱を避け、63才にして伊勢二見浦の草庵に住む。平家は清盛の死により没落し、やがて壇ノ浦で滅亡する。日本全土に渡る平家追討の戦いに勝利した頼朝は、幕府を鎌倉に開く。
 この頼朝に、69才になった西行は鎌倉で拝謁した。その後、陸奥国平泉に向かう。当時平泉は独立王国で奥州藤原氏が支配し、後に、義経はその下で庇護された。鎌倉幕府はこの奥州平泉と対立し、義経を自害させ、その後頼朝は大軍で平泉を攻め藤原氏を滅亡させる。

  とりわきて心もしみてさえぞ渡る 衣河みにきたる今日しも

 40年余りの出家の間に、過去から今に渡る自らの選んだ道を思い、戦乱の世に儚く死にゆく同族の多くの人々の思いに心めぐらせ、万感の想いを込めた心情を歌にした。
 
 当時は和歌が文章であり思想であり感情の表現だった。さらに、西行にとっては仏道に入る仲だち、法門を悟る便りであった。
 
 晩年西行71才の時、明恵に出会う。明恵は16才の時出家し、西行に和歌の奥義をおそわる。「我が歌を読むは、遥かに尋常に異なり、華 郭公 月 雪 すべて万物の興にむかひても、凡そあらゆる相皆是れ虚空なること」「自分は花を詠んでも実は花と思うことなく、月を詠じても実は月とも思わず、ただ縁にしたがい興のおもむくままに歌っているにすぎない。美しい虹がたなびけば虚空は彩られ、日光が輝けば虚空が明るくなるのと同じである。自分はこの虚空のような心を持って、種々の風情を彩っているといっても、あとには何も残らない」
 明恵は18才より仏道に専念し、翌年には夢の記を書き始める。後に、高山寺の中興の祖となる。

 ながきよの夢をゆめぞとしる君や さめて迷へる人をたすけむ    
                                 明恵


 日本の美意識の源となると歌を詠み、桜を歌った西行は、後鳥羽上皇が、西行を生得の歌人と高く評価し、自ら編纂した新古今和歌集に多くの作品を取りあげた。 西行の一生は、戦乱の世に生まれ、多くの親しい人の死にめぐり合い、生涯旅を友とし、遁世者の栄華を極めた。その歌とその生活は後の世に大きな影響を与えた。


 ともすれば月すむ空にあくがるる 心のはてを知るよしもがな



願い通り、桜の花の下、きさらぎのもちづきのころに亡くなる。西行73才の時であった。