2023/04/09

人間の言葉の誕生 日本アニミズムと俳句

  爛々と 昼の星見え 菌(きのこ)生え           高浜虚子


 生物は地球上の環境から様々な雑音、情報を神経系が5感を通して時々刻々受け取って、その情報の意味を理解して、この混沌とした状態に適応するように進化してきた。アメーバーは快と不快に対して、知覚して刺激に近ずいたり離れたりする。蛙は世界はすばやく動く影からできていて、反射的に餌を捕まえたり、飛び跳ねたりする。哺乳類になると、世界は空間の中で存在する物体を認識し、それによって行動し餌を食べて、生活する。草食動物は、食料の植物、えさを求めて移動し、肉食動物はその草食動物を求めて、移動し、狩をする。


 人類の生まれる、アフリカのサバンナはゴリラなどと同じように人類の仲間は森の中で生活していた。そして空間認識は発達したものの時間は存在しなかった。アフリカのサバンナを出て新たな環境に適応するためホモ・サピエンス、人間に言葉が生まれた。


 言葉は世界を切り取って当てはめ、整理する。そして比喩を使って、無限に新しいものを作り出す。このシンボル操作によって空間と時間を持つ宇宙像が生まれた。 人間は時間を空間と同じようにして作り、過去を参考にして、未来を予想して、それに備えることができる能力を獲得した。起こったことのない出来事を、実際体験したことのある出来事と同じように思い起こす抽象化する能力が生まれ、未来を創造することを可能にした。

 それは、自分の生きていない世界にも、自分が生きているように考える。自分の死後に残される家族を考えたり、自分をどう評価するのか、誇りに思ってくれるのかなどを考える、死生観が生まれる。死とは、体から抜け出した魂が別の世界に転生する。それがやがて、 自分の体は、自分一人のものではない。死者と繋がり、残る人々と繋がり、お盆で迎え火を焚き、輪廻転生の物語が生まれてくる。

 そして、他人や他者を自分と同じように想像し、理解して思いやりを持つことができるようになる。

 

 人類にとって、最初の宇宙像は、時間は無限のつながりの循環と反復と捉えられていた。世界全体は小さな、閉ざされた空間で、そのなかの出来事が、リズム的に反復し繰り返すと捉えられていた。縄文時代、狩猟生活であり不安定で、孤独な生活で、多くの偶然に支配される生活から生まれる世界観に支配されていた。そして、解決できない問題に遭遇した時、それを理解可能で、解決する物語、呪術が生まれた。  

 その縄文時代の呪術的な世界では、すべてに、霊がありそれが世界を支配している。この霊によって、支配されている世界では、呪術によって獲物に魔力をかけ呼び寄せ、それを猟で捕らえ食糧に、獲物にありつける。狩猟の後には、殺した動物の精霊をなだめ、その復讐を避け、次の獲物が偉sれるように加護を祈る。

 これは、最近までアイヌの熊祭に残っていた。歌い踊って、クマをを射殺す踊りをして、実際にクマを絞め殺し、その霊に礼拝し、感謝を捧げ、なぐさめ、そして最後にその肉を食べる。イヨマンテと呼ばれ最近まで、神聖な儀式として残っていた。アイヌの社会ではクマは主神であり、また主食であり、さらには人を襲うことのある猛獣でもある。その神を殺し、その肉を食べ、その霊をなぐさめる、その矛盾を抱えた心に平穏をもたらすのが呪術であり儀式であった。

 

 言語が生まれ、言葉というシンボル機能が我々の住む世界をつくっている。本当の世界というのは、その集団の言語習慣にもとずいてつくられる。縄文時代、現在のパプアニューギニアに見られるように、言葉は土地土地によって様々で、日本語として統一されていなかった。そして言葉は、外の世界を表現し、言葉によってそれを伝達するだけでなく、本来の意味を、同じ言葉で違う概念に置き換える「メトニミー」という似た物を比喩として扱う役割がある。この人類における言語的能力から、人の心に呪術とともに芸術が生まれてきた。当時の芸術作品である縄文土器は、こじんまりした調和的な様式ではない、左右不均衡で、躍動する模様が描かれ、さらにその空間の構成は立体的で、平板ではなかった。描かれた土器の模様は呪術的な色彩を帯びた芸術となった。

 一万年以上続いた縄文の時代、人々は天空の星や月を仰ぎ、縄文の森の中で、植物に囲まれ、狩猟や海では、海の幸で生活を送り、自然のなかの月を信仰し、生き物を崇め、アミニズム的世界の理解のもとに生活していた。天空と地上の争いを抑える呪術やモニュメント建てる芸術は生活の中の役割を担っていた。


 日本列島では、縄文時代の呪術の体系の文化に、新たに大陸から弥生人が入り、漢字が入ってきた。そして日本列島に様々なルートを通って、大陸から人々は渡ってきた。その後、稲作が移入され、定住がはじまり、日本各地に散在していた人々がやがて、一つの国としてまとまってくる。その共同体を結びつける神話、宗教という物語が生まれる。

 文字が伝わるとそれが記録され、その共同体の伝統や文化を継承するための信仰の体系をつくりあげられる。仏教も伝来し、それまで列島の各地に、散りじり生活していた人々は、一つの国に統一された時、古代からのアミニズムや呪術からしだいに宗教が社会に取り入れられた。それらはやがて日本の風土の中で、神道と仏教は、習合し、儒教もまた神道などと混じり変容していった。

 その後の日本の宗教は芥川龍之介が「神々の微笑」で、「現実との激しい闘争から生まれた政治哲学の老子、や儒教の教えも、転生輪廻する世界と諦観の仏陀の教えも、また現実を拒否し永遠をめざすキリストの夢も、すべては二千年の歴史のうちに、美しい風景と温和な気候のうちに、静かにのみこまれてしまう。」と語った日本の精神世界の歴史が生まれた。


 人類は脳の発達で言葉を生み出し、比喩の力で、世界を認識し、変形して理解した。これによって、人と動物、植物、あるいは石や自然に対して人と同じように類推し、物語や詩を作る、アニミズムの世界が生まれた。世界を理解することは、アニミズム的世界観を持ち、呪術と芸術、詩の創造は言葉とともに生まれたわけで、現在にもこれが色濃く残っているのは、江戸時代の俳句かもしれない。

 万葉集の中に、雪は氷神の化身である龍の降らせたものであるといったものもある、その後の短歌はより現実的な心を詠むむものが多く、自然から離れていった。江戸時代になり、月並みではない芭蕉や蕪村の俳句は、擬人化ではなく、人間と同じように動物、植物あるいは石や海にも魂があるという日本的アニミズムの表現の復活と言える。


 蕪村の    春の海 ひねもす のたりのたりかな       は海が季節を感じ、

 

 芭蕉の  蛸壺やはかなき夢を夏の月      は蛸のみる夢をあらわしている。

 


2023/03/24

診断するロボット医師 chatGPT


  AIの進歩は急速で、chatGPTでを使うと、患者の症状から、今でも研修医以上の診断ができる。このchatGPTは、昨年11月から使われ、検索の機能を備えて、言葉を理解してそれに対して、文章で答えを返してくれる。たとえば、コロナにかかって、1ヶ月経って、全身の関節が痛いが、食欲はあって、食べることは困らないし、熱や喉の痛みといった風邪の症状はない。何が疑われますかと打ち込むと、直ちに、普通の医師並みの返事が返ってくる。


 このchatGPTは大規模言語モデルといって、膨大なデータをコンピューターが学習して、人間の使う言葉を、単語を、使う確率の多いものを着目し特定することによって、文章として組み立てる。覚えて、正しく組み合わせることによって、言葉、文章を作り出す仕組みで、当然、時には事実ではない妄想(Hallucination)を作ることもある。しかし今までの対話型ロボットとの違いは、質問に対して、言葉の成り立ちと同様に、比喩を積み重ねることによって、事実を理解しやすくする機能が優れているために、単純な質問には凡庸な答えしかしないのに、多くの比喩や形容によって限定を加えることによって、返事はより正確により深くなるところにある。


 今までAIの進歩で、画像解析は急速に進化し、肺などのレントゲン、CT、MRIなどの診断補助には使えるまでなった。そして聴く能力は、アマゾンのアレクサなどで、実用化し年々進歩している。筋肉などの運動は人型ロボットが走ったり、宙がえりしたり、二本足で走り回ることまで可能となった。今度の会話型のAIは話し言葉や、書いた文章を投げかけると、その返答がかなりの正確性を持って返ってくる。人間の言葉を理解するAIで、これを話しができる人型ロボットが備えれば、ロボットが診断するロボット医師誕生となる。


 脳の進化が次第に解明されてきた。脳には新皮質と旧皮質に分かれ、何十億年の進化で古い脳はより原始的な行動を生み出し子孫を作り生存してきた。新皮質のない動物、爬虫類も子供を育て周囲の状況を見てエサを確保できる。 はちゅう類でも哺乳類でも人間の知能のうち、走ったり、飛んだり、木に登ったり、泳いだりする技能運動する能力、あるいはものを見てそれを捉えたに逃げたりする能力、姿を見て敵と味方を鑑別し、ものを判別する認識する能力がある。新皮質は筋肉を直接コントロールしてはいないし、意識すればかえって暴投したり、脚がもつれたりする。人間でも古い脳は感情を生み出し、生存のための行動を行う。


 一方人類は、200万年前から脳の外側にある新皮質が急速に大きくなり、3倍にもなった。そのことによって、言葉は誕生した。 アフリカの大地を離れ、ユーラシア大陸に人類が脚を踏み入れ、暗く、寒い環境に適応し、ジェスチャーだけではなく、呼びかけのの言葉が、意味を持つ言葉へと進化していった人類は生存でき、生き残った。 大きくなった新しい脳の性能を使って、あるものを見てその画像をつなぎ合わせ、例えば星を見て、それをつなげて星座とし、それを比喩によって物語化し、言葉とし、文字として記録するようになった。そして、データを集めそのモデルにあてはめる。言語とはモデルとデーターをつなぐ比喩とも言える。そうして人々は世界を宇宙を理解する。結局理解したとは自分にとって、わかりやすい比喩にたどり着くことでもある。人間が言葉を使えることになって、集団で生活し、そして音楽、数学、科学技術を生み出し文化を作り始めた。




 chatGPTの機能も、この言葉の機能をコンピューター化して使い、再現できるようになったもので、2017年に出されたAttention is all you need の論文によって、人の言語に近ずいた。以前の画像の解析は多くの画像を記憶させ、顔のパターンを鑑別する。一方 言葉は、比喩を使った、その場のものから次第に、抽象的な世界を比喩を使って、作り上げた。言葉とは休みなく変化しつ続ける比喩の海で、言葉の語彙は限られているため、次々と無限の比喩を使って、新しい環境、状況に対応する。それに近い言葉のつながりを機械で選択し、新たな文を創造することにもなる。


 言葉が生まれる前、個人の世界モデルは本人の直接行った場所や出会った事柄に限られていた。言葉から行ったことのない土地を想像し、抽象的な概念を生み出し、世界を理解し始めた。科学的真理もまた、ニュートンの万有引力の法則でも、原子核の構造もまたモデルを組み立てそれとデータを比喩的に適合させることによって理解するようになって、天動説から地動説になり、ニュートン力学も打ち立てられた。



 カプグラ症候群といって目の前の母親にあっても、本物ではないと感じる、病気がある。これは感情を伴った体験、情動を伴った記憶と目の前の母親の姿とが、一致して感じ取れない脳の障害による症状で、脳外傷の後などで認められる。 この感情と現実の姿の不一致が起こらないように人間は進化してきた。この古い脳は生命の基本的な行動、感情や、生き延びて子孫を残す、あるいは、生き延びるための活動をする。そして新しい脳、新皮質の複雑なモデルを使った行動はこの古い脳の感情と分かちがたく結びついている。 人間の歴史は、理性ではなく感情、情念によって作られた記録にあふれている。それは人間の行動の原動力は古い脳に支配され、新しい脳で築いた文化を破壊することもあることを示している。


 この人間のような感情を持つ機械の設計は非常に難しい。古い脳は扁桃体や視床下部などの多くの器官から成り立ち、生存を保証している。古い脳の多様な機能を機械で再現することは現在ほとんどできていない。コンピューターの機械的知能は生物学的機能のうち新皮質の知的機能を代替できるようにようやくなってきた。


 人間は知的好奇心がある。人間は知りたがる、宇宙はどう始まってどう終わるのか、地球外生物入るのか、神は存在するのか。これは新皮質の役割で機械もさらに進歩し自ら学習し知識を獲得するようになれば意識を獲得したことになる。

 人の心は記憶された物事を、過去に辿って追憶とし、脳の中のモデルを使って未来を予想する。心の中にわき起こる過去の感情を伴った記憶、追憶。喜びや悲しみ、歓喜や恐怖、幸福や絶望の感情は将来機械で再現できるのか。崇高なものを崇拝する宗教心や、行動の目的を決める集団への忠誠とか愛国心やそれらの組み合わさった信念の体系が機械にもに生まれるのかは今のところわかっていない。

 

 今、起こっていることは、AIをつかった自然な言葉を使えるコンピューターが医療の診断にも大きな影響をおよぼしつつあり、ロボット医師の出現はもうすぐそこまで来ていることです。

  



2023/03/07

政治の季節 石原慎太郎と大江健三郎

 岬の彼方には何もありはしなかった。ただ無限の、狂おしいほどの量感の水の連なりだけがあった。


それこそ、僕らの願い至ったもの、僕らの目的の水の大平原だった。

僕らは遂に来た。今、たった今、僕らはそれに向かってまっしぐらに進んでいる。

体の奥深く、慄え戦くものがあった。それは安らぎ、幸せ、満足、それらを超えた、僕らがようやくぼくら自身の運命に向い合え、それを捉えようとしているような戦きだった。


      星と舵                       石原慎太郎



 第二次世界大戦に敗北し日本の価値観は根底から覆された。人々は平和へ素早く適応した。雑誌も「戦時女性」は「婦人画報」「兵器技術」は「平和産業」「戦時医学」は「総合医学」に衣替えした。 新日本文学の1946年号で、戦争責任を負う文学者として25人の名が挙げられた。横光利一、菊池寛、高村光太郎、西條八十、斎藤茂吉、亀井勝一郎、小林秀雄、火野葦平、保田与重郎、武者小路実篤、吉川英治、などで、かつての花形国粋主義文学は没落し、夏目漱石や永井荷風が読まれ、河上肇も復活し、1947年には宮本百合子の「播州平野」もベストセラーに名を連ねている。


 戦前に活躍した作家、谷崎潤一郎や川端康成も復活しその耽美主義が支持された。、その中から坂口安吾、田村泰次郎、太宰治の若手の作家が頽廃や個人主義を世間の常識を紊乱する方法で主張した。

  坂口安吾は堕落論で、敗戦の表情はただの堕落に過ぎない。ここにこそ真実のはじまり、真の人間性への回帰のはじまりがある。

 田村泰次郎は、肉体の門で抽象的思想を否定して、肉体の持つ信頼性を称える小説を出して、当時の流行となり映画化された。

 太宰治は、戦後時代の気分、失望感や没落の中の美や、ほのかな希望を作品に託した。戦後民主主義にも否定的で、実際に物語と同じように多摩川で入水自殺。

 その頽廃的な、暴力的な、人間の浅ましさを強調する作品に対して、「敗戦以来、日本では独創性のあるものや、価値のあるものは何も書かれなかった。」評された。


 芥川賞は興行価値の高い、新進の作家に贈られる。そして新進の作家は時の勢いに乗ると才能は膨れ上がり、そうでなければ才能はしぼんでしまう。 石原慎太郎の太陽の季節は、暗い、日陰での陰鬱な作家には無い、日本の停滞した状況を打ち破る新しい文学として日本の文学界、社会に登場した。1956年(昭和31年)に「太陽の季節」は芥川賞を受賞し、映画化される。

 当時、戦争で、日本の支配者層は一掃され、占領下に民主主義は導入された、しかし日本社会の一般的人々には戦前からの儒教的徳目は残っていた。キャッチコピーは「背徳か、新しいモラルか芥川賞が世に投じた一大波紋」。こうしてスター石原慎太郎は登場した。映画の脚本の「狂った果実」「俺は待ってるぜ」などを書いて、映画にも主演している。


 我々の世代が時代に持つ意味は、我々が共通して抱く、既成価値に対する不信とある面では生理的な嫌悪。それこそ我々の世代の新しさであり若さであるはずではないか。1958年「価値紊乱者の光栄」で語っている。この年江藤淳の呼びかけで「若い日本の会」に参加する。同世代の開高健、羽仁進、などによって作られ、それに大江健三郎や永六輔そして石原慎太郎も加わる。同じ世代の若者たちの集まりでやがて、日本の政治や文化の担い手になる。


 1959年4月の皇太子の結婚の儀で投石した男にあった「あれをした男」を文春に掲載し、1960年安保の最中、政治に直接関わることはなく小説の世界で活躍した。「狼いきろ豚は死ね」の戯曲を書き、その後長編小説「亀裂」を書き、「行為と死」はベストセラーとなる。1965年起きた拳銃事件を題材にした「嫌悪の狙撃者」でその犯人のこころの中に抱く嫌悪の情を小説化した。 石原慎太郎は多くの小説を書きつつも情熱の注ぐ方向は決めかねていた。文学に賭けるか、ヨットやスポーツなどの冒険にかける活動家になるか、あるいは政治に関わるか。


 1967年美濃部都知事が誕生。日本には革新の風に乗って、多くの知事が生まれた。これに対抗して自民党から1968年参議院に出馬し、「日本という祖国は羅針盤を欠き、海図を読むことの出来ぬ船頭たちによって操られているのだ。彼らにはもはやこの歴史の転換期に真の革新を行い、未来に備える国づくり行う能力も資格もない。我々の手で青年の国をつくろう。青年の歴史をつくり出そう。そのために、君の力をかしてくれ。」と訴えて300万票を獲得して初当選。


 その後、石原慎太郎は、1970年代には青年政治家として政治的タブーを壊し、自らの情念から発した理想について語った。そのタブーとは、日本人の起こした全ての戦争が侵略戦争とは言えないこと。安全保障は必要であること。核は積極的に開発されるべきである。といったこと。それらを実現するべく1973年「青嵐会」と名ずけた超党派の政策集団を立ち上げた。 当時、江藤淳は「小説家としても、政治家としても資質は恵まれ過ぎる程めぐまれていた、しかし自己訓練をする必要性は感じず、その危機感もなくプロになろうとはしなかった。」と評論した。



僕らは、粘液質の厚い壁の中に、おとなしく暮らしていた。僕らの生活は、外部から完全に遮断されており、不思議な監禁状態にいたのに、決して僕らは、脱走を企てたり、外部の情報を聞きこむことに熱中したりしなかった。僕らには外部がなかったのだといっていい。壁の中で、充実して、陽気に暮らしていた。


               他人の足          大江健三郎


 大江健三郎は石原慎太郎より3年後1935年に四国で生まれ、1957年「奇妙な仕事」を書いた。これは大学病院の裏の囲いに収容されている実験用の野犬たちが夕暮れに吠えつずける話や戦中の国民学校で飼い犬を殺して外套を作る少年時代の経験をもとにして初期作品を書き上げた。この作品で学生時代に認められ、姉妹作「死者の奢り」を出版し、1958年には四国の土着的な世界の黒人兵の運命の物語「飼育」で芥川賞を受賞する。そして石原慎太郎と同じく新世代の作家の代表になる。


 一方政治的には若い日本の会に参加し、60年安保反対の陣営に加わる。1961年「セブン ティーン」、「政治少年死す」で浅沼稲次郎社会党党首を暗殺し、「天皇陛下万歳、七生報国」の遺書を書いて自殺した右翼青年をモデルに小説を発表した。その性と政治の物語の延長に「われらの時代」を世に出した。


 セブンティーンのヒーローは、自由で不安な内部に存在する国民主権よりも、もっと絶対的に確実に感じられる主権を外部に求めた。その意図は反牧歌的な現実世界の20世紀後半タイプの平穏なうわずみをかきたて、なめらかな表層をうちくずすために、性的なるものがもっとも有効な攪拌器、あるいはドリルだと信じるからであると「厳粛な綱渡り」で解説している。

 同じ年1961年には三島由紀夫は「憂国」を中央公論に載せる。やはりバタイユ的な死に至るまでの生の称揚をモチーフに政治とエロスと死を小説化した。この中で天皇制を、憂国では肯定的に描き、セブーンティーンでは批判的に描き、政治問題を引き起こした。


 1960年代にはヒロシマ ノートなど戦後民主主義擁護の作家として活躍した。「修身の時間のかわりの、新しい憲法の時間、という実感のとおりに、戦争から帰ってきたばかりの若い教師たちは、いわば敬虔にそれを教え、ぼくら生徒は緊張してそれを学んだ。ぼくはいま、「主権在民」という思想や「戦争放棄」、という約束が、自分の日常生活のもっとも基本的なモラルであることを感じているが、そのそもそもの端緒は、新制中学の新しい憲法の時間にあったのだ。」この戦後民主主義にかける姿勢は変わらなかった。戦後の時代の都会の人間を描き、その神話的世界、難解な小説は知的な人の必携の書となり、その後も小説家としての努力を続け世界で評価された。


 1960年代政治の季節に石原慎太郎は自由主義と愛国を訴え大衆の支持を集め、大江健三郎は戦後民主主義の旗手となり、高橋和巳は「悲の器」や「孤立無援の思想」で全共闘支持派の学生たちの高い評価を受け、開高健は行動する作家として活躍していた。三島由紀夫自刃と浅間山荘事件で日本の政治の季節は終わりを迎えた。




2023/02/16

ユートピアの夢 横光利一と中野重治



 とうとう、春がやっ来た。


どこから来たの。

此の花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやってきたのさ。


妻は彼から花束を受け取ると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として目を閉じた。

  

              「春は馬車に乗って」            横光利一




 自然主義や白樺派を乗り越えようとして、新感覚派とプロレタリア文学が登場する。1924年(大正13年)6月「文芸戦線」が創刊され菊池旦や中野重治らが中心メンバーとなる。4ヶ月後の同じ年の10月「文藝時代」が創刊され、川端康成、横光利一、片岡鉄兵などが名を連ねる。横光利一は新感覚派の驍将と呼ばれ、小説の神様と言われ、川端康成より人気のあった流行作家だった。


  その年、横光26才の時「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された」の新たな感覚的表現で「頭ならびに腹」を書いて、文壇に登場した。新感覚派は文学の表現の問題で、象徴派の響き、言葉のテンポ、リズムを表現上の重大要素として取り入れた。この前には、1923年(大正12年)に「日輪」上代の美しい姫をめぐる3国の大路の物語を書き、「斬新、絢爛の感覚的な修飾、緊迫した高調子の文体、強烈な極彩色的物語の大胆な構成は、当時の驚異であった。」と高い評価を受け、馬の背中にとまった蠅の目で見た短編小説「蠅」を翌年に「御身」などの第一次大戦後のヨーロッパ小説影響を受けた初期作品を刊行。



 1926年(大正15年)若い妻の死を悼んだ作品。「春は馬車に乗って」や「花園の思想」を執筆。  この年、中野重治は堀辰雄などと驢馬を敢行し、叙情性の中に、硬質で激情を内包したプロレタリアート詩「機関車」や「夜明けの前のさよなら」を発刊。


お前は歌ふな 

お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌ふな


それらの歌々を

行く行く人びとの胸郭にたたきこめ


 機関車では


彼は巨大な図体を持ち、黒い千貫の重量を持つ、

彼の身体の各部は悉く測定されてあり、

彼の導管と車輪と無数のねじとは隈なく磨かれてある


 と機関車を集団指導する力強い党にたとえ詩にした。


 プロレタリア文学は、文芸の課題もその作品がどのような階級のイデオロギーを代表しているかを問題にすべきであるとして、新感覚派の文学をヨーロッパから輸入された小ブルジョアジーの個人的反逆に過ぎないと批判した。それに対して、文学をマルクスさえも一個の素材にして、宇宙の廻転さえも包摂することができるものと前提した上で、資本主義も社会主義も認め、世界の見方においては唯物論的立場に立つ。としてコンミニズム文学より新感覚派の文学が弁証法的発展段階の上に位置すると、横光利一は主張した。


 1929年(昭和3年)横光は上海に行き、1ヶ月滞在する。ここを舞台にプロレタリア文学を超える小説を意気込んで、「上海」を執筆した。中国人、異国人の日本人、ロシア人の人間を物自体として描く感覚主義の集大成とも言われる作品だった。僕は上海へ行って、「上海」を書きましたが、それは精神とか意識とかいうものよりも、できる限り物質を書こうと思った。と後に語っている。当時の上海は国際都市、租界地、阿片窟、や歓楽街があり、中国人苦力や地方の豪家の子女の裕福な中国人、流れ者の西洋人そして日本人も共同租界地に2万人住んでいた。


 この年、中野重治は「雨の降る品川駅」を改造にのせる。


 1930年(昭和5年)には横光利一は「機械」で人間と人間の組み合せや人間と事件の力関係によって変化する人間関係の中だけに、人間の実態はある。」私という存在の不安定さを小説に定着した。


中野重治は1935年転向した後、「村の家」などの小説を発表する。


 横光利一は1935年(昭和10年)純粋小説論で、通俗小説と純文学の融合を唱え、その思想を小説化した「家族会議」を新聞に連載した。東京兜町の株屋と大阪北浜の株屋の娘の恋愛劇で、軽井沢のホテルや六甲の別荘を舞台に、資産家階級の当時のモダーンガールやモダンボーイが主人公の作品で、翌年に映画化され、流行の先端をゆく作品だった。


 1936年(昭和11年)ヨーロッパに行く。2月に神戸港から船でパリに着く。ドイツやオーストリアなどなどをまわってフランスで滞在する。そのパリで若い岡本太郎の案内で生活して8月にベルリンオリンピック取材後シベリア鉄道で帰国する。

 横光利一の大作「旅愁」を執筆し始める。矢代と久慈、日本主義者とフランス崇拝者、そして若いヒロイン宇佐美千鶴子の宗教、愛、政治を網羅した全体小説を目指した。西欧文化に対する日本精神による文化戦争に次第に傾いていく。カソリックなどのキリスト教や日本精神をも包摂する古神道をその中心に据えた。その頃公演で、「日本もこの近代の毒に侵されてきたのです。だからこの厳しい時代を生きぬくために、われわれ文学者が召されていると思っている。その毒から日本を清める。これがみそぎということのほんとうの意味ですですよ。みそぎの精神は、民族の心だ。」その時代の波に乗って、皇国の民の心を捉えていく。



 中野重治は、戦後共産党に入党。同じ共産党に入党した杉浦明平は旅愁を批判し、「これはまさに痴呆の書というべきである」と攻撃「天皇に帰一し奉る東洋的無の発見は主として京洛の哲学者だましによってなされたが、横光ももその毒をひそかに小説に盛り込んで、読者を害おうと努めた。」戦後は政治的立場から激しい批判にさらされた。 

 フランスに暮らしていた岡本太郎は「氏は決して単なる日本主義者でもなければ西欧礼賛者でもなく、その反対でもなかったのだ。氏の魂にとって西洋東洋の問題は実は氏自身が考える程深刻な矛盾ではなく、二つのものは一本の透きとおった感性によって貫かれていたとしか私には思えないのである」と考えていた。 横光利一は、戦後「旅愁」の最終編「梅瓶」を書いて、昭和22年に病死した。



 中野重治は戦後共産党から出馬し、選挙に出て当選し、政治の世界で活躍し、また「甲乙丙丁」など多くの小説を出し、文芸の世界でも活躍した。


 怒涛のようの訪れた政治の変化、社会の激動に文学者として生真面目に対応し、日本主義に傾いた横光利一。一方、中野重治はプロレタリア文学で時代に挑み、、そして転向、入党、と政治的文学者の道を揺らぎながら歩いた。中野重治が1979年亡くなって10年後、ソ連は解体し、現在ロシアは新たな民族主義、反西欧のユーラシア主義思想に支配されている。



2023/02/11

1920年代 モダーン都市東京と大連のアヴァンギャルド

  林芙美子は1922年(大正11年)尾道から東京にやってきた。この20年代、復興景気にわく新宿の都市生活、下町の東京の放浪時代の小説「放浪記」を1930年(昭和5年)26才の時、出版し、多くの地方から上京した若者たちに支持され、作家として脚光を浴びた。この時代、都市では職業婦人が活躍し、地方からの多くの若い女性たちも店員、事務員、女工あるいは女給などの仕事についてモダーン都市、東京で生活をしている。


 1910年代は第一次大戦の時代で、戦火を免れた日本は、その結果もたらされた軍需による好景気で工場が次々と都市に建てられ、全国から若い労働者が集まり、東京の人口も急激に増加した。1920年(大正9年)から毎年10万人から20万人の人口が東京に向かい10年間で人口は2倍に増えた。こうして1920年代東京は新しい都市空間を作り出した。


 龍胆寺雄は1928年(昭和3年)「魔子達はデパートの明るいウインドウの前で盛んに活動していた。夜更けで女っ気の乏しくなった折でもあり、彼女らのきらびやかな娘姿はおおびらに周囲の視線を集めていた。」と「放浪時代」に書き、翌年1929年(昭和4年)「アパートの女達と僕」でその風景を「カフェM.の光の渦をはらしたドアへ足を入れかけて、ふと僕は店の向こうの化粧壁の一部を削ったベビーショップのつららのかけらのような小さなショーウインドーを見やった。」と当時東京の街には商業美術デザインが登場した様子を描き、アパートやデパートなど新しい都市の建物ができた東京の都市空間そのものを小説にした。


 「放浪時代」の主人公URと真子とその兄の都会生活は、1920年代の世界の中の都市生活を描いたニューヨーク、フィッツジェラルドのジャズエイジそしてヘミングウェイのパリの日々と同じようになりつつある大都市東京の記録である。

 関東大震災は東京を灰塵に帰したものの、震災後に東京再建計画で道路は拡張され、同潤会アパートなどのアパートが建てられた。同時にアメリカ文化、アメリカの資本主義の世界が、映画や小説をなどを通して、急速に流入し、銀座はこのアメリ文化を取り入れアメリカ化していった。ジャズエイジのフラッパーと呼ばれる、タバコを吸い、酒を飲み、ダンスをする新しいタイプの活動的女性が大都市東京に生まれた。


 林芙美子は1930年(昭和5年)9月から1ヶ月中国大陸を一人で旅行し、ハルピン、長春、奉天、大連、さらに、南京、杭州、蘇州などをまわっている。そしてあこがれのハルピン行きの列車の始発駅錦州で生まれて初めて洋服を買い、日本より幅の広い列車で紅茶を飲み、ハルピンに着く。街を散歩し「キタイスカヤの巴里的な街よりも、松花江の河床に発達したと云ふフウジャテンと云ふ中国人の街が大変好きでした。」と書いている。


 大連は遼東半島にある都市で、ロシアが租借権を得てパリと同じような港湾都市を19世紀末に建設した。これを日本がポーツマス条約で租借権を譲り受け、大連となずける。1925年(大正15年)には19万8000人の人口で、日本人も7万6000人住んでいた。 この地、大連にアヴァンギャルド文学が生まれる。詩人の北川冬彦や安西冬樹の「亜」の短詩運動である。


 関東大震災後、日本の国内では、ヨーロッパのダダイズムなどのアヴァンギャルドの芸術が日本のモダーン都市東京に流入した。大連でも北川冬彦や安西冬樹などが1924年(大正13年)に「亜」を創刊した。フランスの詩人ギョーム アポリネールやルナールの詩 「蛇」 長すぎる と共通の芸術、詩と絵画を目指した。


 てふてふが一匹間宮海峡を渡って行った   軍艦北門ノ砲塔ニテ


                        安西 冬衛


 軍港を内蔵している              馬


 落日が鏡のごとく平原に汎濫した。       砲撃


                        北川冬彦


 日本の平静さとは異なり1930年代に入るとヨーロッパでは政治の混乱が起き、アジアでもペナンやシンガポールでは満州事変に対する反日本帝国の運動が起こっていた。


 林芙美子の「シベリアの三等列車」は「長春へ着いたのが十一月十二日の夜でした。口から吐く息が白くみえるだけで、雪はまだ降っていません」の書き出しで始まる。この2ヶ月前の1931年(昭和6年)9月18日に満州事変は起きた。「なにごともなくハルピンに着きました。」と書いた一週後に関東軍は斉々哈爾(チチハル)入城をし北満に進駐した。その後林芙美子はシベリア鉄道でパリに着き、「下駄で歩いた巴里」や「巴里の小遣い帳」を発表している。、その小説ではロシアの風景を「いよいよロシアです。青い空に真っ赤な旗が新鮮でした。赤い貨物車がはしっている。杳々とした野がつづいて、まるで陸の海です。」と美しく描いている。


 1900年頃に生まれた人が、1920年代に若者となり、豊かになった日本の都市や外地で多くの文学作品を生み出し、新しい文化を流行させた。1898年横光利一、1899年に川端康成、1900年に北川冬彦、1901年に竜胆寺雄、1902年に小林秀雄や中野重治などが生まれ、1903年には林芙美子が生まれて、青春時代に新しい文学、詩や芸術の担い手になる。


 1920年代は技術の進歩によって車や列車、飛行機に乗って移動し、ラジオや映画で娯楽を楽しみ、アパートで暮らし、デパートで買い物する新しい生活は文学で新興芸術派やアヴァンギャルド派を産み出した。政治の世界で社会主義革命を実現することを目指すプロレタリア文学も広がった。1930年代に入ると、激変する世界の影響はしだいに国内にも波及し日本でも国民の意識や気分は次第に変わってくる。街は繁栄し、人は着飾り、文化も栄えていた。しかし人々は都市を享楽的すぎると捉えるようになり、農村の暮らしの中にこそ正しい在り方があるという農本主義の思想が若者たちに支持されつつあった。そして、プロレタリア文学と新興芸術、アヴァンギャルド文学はともに時代の表舞台から消えていった。


2023/01/25

1930年代 パンとサーカスの時代  



 1930年代 政党は目先の争いで国民の信頼を失い、軍と官僚はパンを求めて大陸に戦線を拡大し、大衆は技術革新に乗ってスリルとスピードを求めてサーカスに走った。センセーショナリズムに押され民主主義的文化や良識的報道はしだいに片隅に押しやられる。


 1930年(昭和5年)太宰治は帝大のフランス文科に入学し東京で生活を始めた。「いったい私たちの年代の者は、過去20年間、ひでえめにばかり遭ってきた。それこそ怒濤の葉っぱだった。めちゃ苦茶だった。はたちになるやならずの頃に,既に私たちの殆ど全部が、れいの階級戦争に参加し、或る者は投獄され、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した。東京に出てみると、ネオンの森である。曰くフネノフネ。曰くクロネコ、曰く美人座。何が何やら、あの頃の銀座、新宿のまあ賑わい。絶望の乱舞である。遊ばなければ損だとばかりに眼つきをかえて酒をくらっている。」と戦後に書き残している。


 翌1931年(昭和6年)満州事変勃発。日露戦争で手にした南満州鉄道は満鉄が経営した。鉄道の経営とともに大連港などの港湾を管理し、撫順の石炭や製鉄所を持ち、重工業の産業の役割を果たしていた。さらに満鉄調査部をというシンクタンクも持っていた。関東軍はこの権益を守り、さらに拡大するために、日本政府の外交努力を認めず、奉天郊外の柳条湖の南満州鉄線路を爆発させ、独断で中国軍を攻め、満州全域を占領下に置いた。

 この時、大手新聞社は、地方での発行部数を増やし、購読者を惹きつけるために、この満州での軍事行動を称賛し、軍人の犠牲を悼み、国民の愛国心に訴えた記事を競って載せた。


「続いて満州事変。5.15だの2.26だの、何の面白くもないようなことばかりが起こって、いよいよ支那事変になり、私たちの年頃の者はみな戦争に行かなければならなくなった。」太宰治は続ける。


 1932年(昭和7年)犬養首相暗殺の5.15事件で海軍軍人に民間人の橘孝三郎も加わった。橘は愛郷塾は農民組合活動を行い、その後日本の国家を変える運動に参画し、軍人たちとともにを行動を起こし無期懲役となる。 この事件に対して、行為は悪いが動機は正しいと世論は同情し、全国から百万通を超える減刑嘆願書が寄せられた。



  1935年(昭和10年)第一回芥川賞の候補に太宰治の「道化の華」がなるも結局選ばれず、ブラジル移民を題材とした石川達三の蒼氓に決まり翌年も、小田嶽雄の杭州を舞台にした外交官の物語が受賞した。その後も中国の奉天や上海あるいは樺太を舞台とした小説が芥川賞を受賞している。湿った、閉塞した内地日本と異なる乾いて、広がる外地が憧れの地となりつつあった。


この年保田與重郎と亀井勝一郎などと国学的民族主義の「日本浪漫派」が刊行される。


 1936年(昭和11年)夏に大宅壮一は「現代スリル論」を書いた。「近代社会は、モダンライフのストレスからの逃げ場を求めるスリルハンターにあふれている。なぜなら現代人は次第に空気が腐敗していく大衆社会のなかで息苦しさを感じているからだ。スリルには、スリルを求める以外の目的はない。スリルの質を評価する普遍的な基準も存在しない。なぜなら、すべては個人の好みや環境次第だからだ。となれば、重要な意味をもつのは、その量と、認識された危険率のみということになる。殺人事件や最近の2.26事件など、センセーショナルに報じられた暴力沙汰はスリルハンターに、平素のスリル欲を満足させる絶好のチャンスをあたえる。」この年に2.26事件は起きた。



 満州事変から6年後、1937年(昭和12年)7月支那事変勃発。新聞社や出版社は特派員を派遣して、センセーショナルに戦場を記事にして、売れ行きを伸ばしていった。 日中軍事衝突は、盧溝橋事件のあと、上海で海軍が軍事作戦を決行。そして陸海軍合同で首都南京を目指した。1937年8月の上海事変から南京攻略に従軍記者は1000人以上にのぼり、各社競争で戦争熱をあおり、文字によってお祭り騒ぎを起こし、東日の百人斬りの記事はこの時書かれ話題になり、他社もそれに加わった。むしろ軍部や政府はこの行き過ぎた報道に対して抑制する立場をとった。


 当時のことを、大宅壮一は「実感なき戦争」で、「停車場のプラットフォームでの兵士の歓送は、野球の応援そっくりのリズミカルな拍手がよく見られる。都会に限られてはいるが、日清、日露の頃には、まさかあんな送りかたはしなかったろう。」「国内にいる一般民衆の頭には、身辺に出征者を持つものを除いて、戦争といふものが実感となって沁みこんでいないようだ。」


 全国の戦勝記念の提灯行列で、人々は街々で通りに繰り出し、深夜まで騒いだ。東京の銀座では「銀座通りは百花繚乱。おなじみのミリタリーマーチが流れてきた、彼は戦場のスリルを感じる。」「戦争とダンス。地球のどこかのすみで砲声殷々と轟く時、泉の如く湧き起こるのはこれ、ダンス熱」と小野佐世男は描いている。


 新聞各社はスリル、スピードをきそって、センセーショナルな記事を書き、戦争を売り物として従軍記者や従軍作家は時代の寵児となった。「事ここに至るとニュースはその本質を脱して、もはや創作以外の何物でもない。   気まま放題なニューススピーディズムから軍機漏洩的行動に及んでは、それこそ国策を誤らせる。」


  1938年(昭和13年)近衛内閣になると、国家総動員法がだされ、内閣情報部から日本文芸家協会会長の菊池寛に対して、作家を動員して従軍するように求められた。そして陸軍班と海軍班に分かれて、武漢攻略戦に従軍しその状況を描くように求められ、これらに菊池寛、佐藤春夫、林芙美子たちも加わり、ペン部隊とよばれた。そして漢口一番乗りで、林芙美子は一躍文芸界の寵児となる。


その後政府は次第に統制を強め、国策に沿わない作品の発行を禁止し、その期間は、小説家にとって「愛情の問題だの、信仰だの、芸術だのと言って、自分の旗を守り通すのは、実に至難の事業であった。」

 

 1930年代、国策を進める国とそれを煽ったジャーナリズムとそれに乗った国民大衆の行動は、文学の世界でも国粋主義の台頭を支え、アカデミズムもそれに屈した。



2023/01/02

技術(テクノロジー)と宇宙船地球号の未来



 バックミンスター フラーはアメリカにおける偉大なクリエーター、発明家である。

 1933年フラーによって、ダイマクションカーが作られた。飛行機の形態で空気抵抗を抑え、11人乗りの3輪の車でドーム型の今でも斬新さを失わない、新しい車を作りだした。

 ダイマクションとは、ダイナミック(動的)とマキシム(最大)とテンション(張力)の組み合わせた、フラーの造語。

 1946年飛行機から材料を集め、中央に一本のマストを立て、そこから張りめぐらした引っ張るワイヤーによって軽いさまざまな素材の床や屋根を吊る構造の、組み立て式のダイマクション住宅を考案した。ダイマクション移動型共同住宅は、第二次大戦の最中に、移動可能な将校の住宅や兵舎、緊急の医療施設として設計された。戦後ウィチタ ハウスとして、エネルギー効率の良い、耐久性のあるハイテク住宅として建てられ、家の上に、フィンのついた丸い帽子が載っていてキャデラックのベアリングが入っているので風が吹くと、くるくると回り通気する構造になっている。この家屋は全部がアルミの合金で出来ているためたたみ込んでシリンダーに入れて飛行機に積んでどこにでも運ぶことができた。


 1970年代ローマクラブが「成長の限界」で、このままの生活を続けたのでは地球の資源は枯渇すると警鐘を鳴らした。それに対して、フラーは資源の再循環やメタボリックな再生力、そして人間の学習と改良の能力を無視していると反論した。科学に基づいて適切にデザインされた技術があれば、環境を改良することによって、兵器やエネルギー効率の悪いデザインあるいは、生存に寄与しない装飾品などの製造で浪費しなければ、地球には十分な資源があると考えた。サイエンス、科学的デザインによって環境は悪化しないし資源は枯渇しないと唱えた。

 1964年モントリオール万博のアメリカのパビリオンは、フラーの設計による正三角形の組み合わせの構造材を組み合わされて作られた球形の建物であった。球形のドームは支える素材に対して最も強度が高い。この巨大なドームは直径76.2メートルの建物で遠くからは光り輝く巨大な宝石にたとえられた。その後ジオティックドームは世界中で、様々な建物に応用された。日本では富士山レーダーやテントあるいは世界中で様々な住居で使われている。


 1968年にホールアースカタログが刊行され、1971年の最終号で終わる伝説の書物は、地球上のすべてのものが乗っているツールへのアクセスと副題が付けられ、バックミンスターフラーの「確実に動作する計器や機構に私は神を見る」とより良い地球を創り出すのは科学技術であるという哲学、最小の資源で最大の効果を得るという思想を反映していた。


 スティーブン ジョブズはシリコンバレーで生活し、この雑誌を気に入り、いつも持って歩いていた。雑誌は、役に立ち、自立教育に関係のある高品質で低価格な製品のカタログで、「それはまるで、グーグルが出る35年前に出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使える道具と偉大な概念が、それこそページの端から溢れている、そんな印刷物でした。」とジョブスは語っている。この雑誌はコンピューーター教育を専門とする財団ポートラ協会の支援を受け、発行されていた。この組織から1975年にパーソナルコンピューターキット 「アルテア」が紹介された。


 これを見てマイクロソフトのビルゲイツがコンピュータューソフトの開発を始め、ジョブスとウオッズはガレージでアップル コンピューターを作り1977年にはアップルIIが誕生した。こうしてパーソナルコンピューター時代は始まった。1980年代はインテルを使ったマイクロソフトのウィンドウズマシーンが処理速度などの機能が優れ、しかも安価で、世界中に広がった。それに対してジョブズは「マイクロソフトが抱えている問題はただ一つ、美的感覚がないことだ。足りなないんじゃない。ないんだ。オリジナルなアイデアは生み出さないし、製品に文化の香りがしない。」

 その後アップルはi phone、i Pad、i watchを次々と創り出し、技術による感情に訴える道具、ブランドを確立し世界一の企業となった。


 スティーブン ジョブズはスタンフォード大学の卒業式で、新しい人生を踏み出す若い学生たちにこう語った。 「ホール アース カタログ 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎町の写真がありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。


 Stay hungry. Stay foolish」


 21世紀に入り、このコンピュータを使った情報通信革命はさらに進化していった。情報は大きな価値があり、適正な情報は人々の人生を変える。それを入手するためのコストがどんどん安くなって、簡単に誰でも手に入れられるようになった。この情報革命で世界中の人々を豊かにし、便利な生活が実現した。それと同時にこの技術は使い方によっては、人々の安全や自由を脅かす、ダークサイドもまた現実のものとなった。 


  2014年にロシアのゲラシモフ将軍は演説した。「戦争のルール自体が変わっている。政治的及び戦略的目的を達成する非軍事的手段の役割が増大し、多くの場合その効果において兵器の威力を凌駕している。」「我々が実際に話をしているのは新しい戦争理論です。その理論は情報戦と言う概念を拡大した。以前は敵の通信ネットワークと送信網を支えるコンピュータに対する攻撃であった。それが、21世紀になると敵の政府や軍文官を標的とする政治戦の形態へと発展していった。」 

 2014年にウクライナの光ファイバーケーブルが切断され大手電機通信会社が攻撃され固定電話やインターネットのアクセスは全て障害された。そしてウクライナの政府メディアの主要なウェブサイトは攻撃でダウンしウクライナの国会議員の携帯電話をハッキングされた。そしてほとんど無血で瞬く間に、クリミア半島はロシアの領土となった。



 技術は進歩し、技術(テクノロジー)の勝者か敗者で、個人の生活は決まり、国の盛衰が決まる。宇宙船地球号の未来も、テクノロジーの使い方で決まる世界になっている。